蔡焜燦著『台湾人と日本精神』(2000年、日本教文社)ISBN 453106349X
昭和20年8月15日、終戦の詔勅下る。 
 山奥での作業中に年輩の応召兵が『敗けた!』と隊からの伝令を口にしたまま、

呆然と立ちすくんでいた。
 我々は何が起こったのかさっぱりつかめない。
 無理もない、玉音放送があることすら知らされていなかったのである。 
ただ中隊長の青ざめた表情は自体の深刻さを物語っていた。
しばらくして、敗戦の事実が我々台湾出身生徒にも正式に伝達されたとき、
 悔しさと無念の気持でいっぱいになり、
とめどなく込み上げる涙で頬を濡らしたことはいまでも鮮明に覚えている。
 無性に悔しかった。それは他の台湾出身生徒も同じ心境だった。

 

 他方、朝鮮出身の生徒達は、その日から食糧倉庫、被服倉庫を集団で強奪するなど、
したい放題のありさまで、我々は複雑な心境でただそれを眺めていた。
 日本人を殴って、『戦勝国になったんだ』と威張りちらす者もいれば、

『独立だ!』と気勢を上げる輩もいる。
 敗戦の報は、それまで一つだった”国民”を三つの国民に分けてしまったのである。
 「敗戦の詔勅」が発せられた翌日の8月16日、 水平射撃用に改修を終えた対空機関砲で
上陸してくる米兵を迎え撃つべく和歌山に移動するとの伝達があり、
 四門あった砲の射手の一人を私が務めることになった。
だが、このときは正直いって心が揺れた。『また行くのか… 』、
 祖国のために殉ずる気持ちで出征したのだが、いまとなっては”生”への執着が顔を覗かせる。
この日の夜も朝鮮人生徒達が独立を叫ぶ傍らで、
40名の台湾人生徒も小さな単位でひそひそと今後を話し合う光景が見られた。
 『俺達はいったいどうなるのか… 』 『我々は“中国”へ帰るみたいだ』
 『それなら俺達も一等国の国民じゃないか… 』がっくりと肩を落とした日本人を気遣いながら、
そんな会話が小声で交わされるのだった。
そして8月17日の夕方、連合軍の命令で我が隊の武装解除がはじまり、
 日本人は復員することが決定した。もちろんこれで例の”本土決戦”の計画も自動的についえた。
しかし残務整理は日本人事務官でこなせるものの、
 兵隊がいなくなってしまっては武器庫や飛行機などの警備ができない。
そこで進駐軍がやって来るまでのおよそ二ヶ月間、学校、練兵場、格納庫、武器庫など、
あらゆる軍の施設を我々40名の台湾人生徒が守ることになったのである。
 『朝鮮人は信用できない。だから君たち台湾人が守ってほしい』そう言い残して去っていった
上官の言葉を、これまで経験してきたもろもろに照らし合わせて了解した。 
 昭和20年10月、奈良教育隊に米軍が進駐してくると、
 我々もようやく施設警備の任を解かれることになった。
(中略)
昭和20年12月、連合軍の命令で台湾への帰還を命ぜられる。
 苦しいこともあったが、離れて久しい故郷台湾の地を踏める。
そんな喜びに胸を膨らませ、私は引き揚げ列車に揺られた。
 新聞は、近衛文麿元首相の自決を報じ、
列車の中では戦勝国民となった朝鮮の連中が威張り散らしている。
ああ、日本は本当に負けたんだ……目にするそんな光景が私に日本の敗戦を教えていた。
 私は終戦の日をもって"戦勝国民"になったはずだが、
やはり心の底でまだ自分は日本国民だという意識があり、複雑な心境で"敗戦"を思った。
 少なくとも、私は戦勝国民になったことを手放しで喜ぶことなどできなかったのだ。
 心の切り替えができない私は、誰から見ても敗戦で肩を落とした日本人に見えたのだろう。
また日本兵の軍服で汽車に乗り込んでいた私は、
8月15日をもって急に威張りはじめた連中の嫌がらせを受けた。
座席の中に置いた新品の飯盒を朝鮮人に盗まれ、
それを奪い返そうとすると、『なんだお前、朝鮮人をバカにするな!降りて来い!』と、
たちまち数人に取り囲まれてしまった。多勢に無勢、勝ち目はない。
こうなっては『すみません、私の記憶違いでした』と謝り、難を逃れるしか術はなかった。 
それから佐世保に到着するまでの30時間、
 連中は執拗に私を含め多くの日本人乗客をいびり続けた。
 若い女性がトイレに行こうとすると通路を塞ぎ、次の駅で窓から降りるよう指示するなど、
この連中のあまりにも情けない行状を、私ははらわたが煮え繰り返る思いで眺めていた。
ただ黙って見ているしかなかったのである。 
 (中略) 
 佐世保キャンプで私は面白い場面にも遭遇した。 
あの引き揚げ列車の中で、私を含め敗戦で意気消沈する日本人をいびり続け、
 肩をいからせていた朝鮮人たちが、「中華民国台湾青年隊」の腕章をつけた我々に
 おべっかを使って擦り寄ってきたのである。それは中華民国が

連合軍の一員であったからに他ならない。
弱い者には威張りちらし、強い者には媚びへつらう、
そんな彼らの極端な習性を目の当たりにした思いがした。
なんとなくいい気がしない。とはいうものの、大国の狭間で生活してゆかねばならなかった

地政学的な環境が、そうした一個の民族性を育んだのだから、

いまさらそれを責めても仕方なかろう。