能登半島地震のあとの、金沢市にある私のマンションの中の様子です。


棚や食器が散乱したり、テレビが倒れて壊れてしまったり、と家財が色々と被害にあいました。




1月1日の地震発生の瞬間、わたしの奥さんと2人の子どもたちは、金沢のマンションではなく、七尾市の奥さんの実家にいました。


もし金沢のマンションにいたら、棚やテレビの下敷きになっていたかも知れませんが、幸いにも家族全員が怪我もありませんでした。


地震が発生した時、71歳になるわたしの母は、能登の宝達志水町にある実家にいました。




地震発生から20分ほど経った16時34分に、母から電話がかかってきて、病院にいるわたしが無事かどうかを確かめたかったらしく連絡してきました。


わたしは、病院のほうは大丈夫だよ、と言うと、母は安堵していました。


母のほうは、地震の直後、津波を恐れて、なんとか家の外に出て、車で高台まで避難して無事だよ、と声を震わせ泣きながら話してくれました。


死を覚悟するような、あんな凄まじい大地震の直後に、母が真っ先に、病気のわたしの身を案じて連絡してきたことに、今振り返ると、母親の深い愛情を感じずにはいられません。


お母さんは、宝達志水町の実家で、小さな食堂をひとりで切り盛りしています。




地震発生から余震が続いていたので、わたしは母に、金沢のマンションで1か月ほど避難しに来て、妻や子どもたちとしばらく能登を離れたら?と提案しましたが、


母は、「こんな状況だからこそ、お店を開けて、地域の人たちが集える場所を提供したい」と言って、結局、わたしの反対を押し切って、1月9日頃から営業を再開しました。


深刻な状況にもかかわらず、自分にできる範囲で、地域の人たちのことを第一に考える母の純粋な郷土愛。


能登の被災者たちの中には、頑なに避難したくない人もいます。


一見、合理的、とは言えないような考えですが、住み慣れた土地や同じコミュニティ仲間たち、と言った、都会にはない価値観が能登にはあります。


こうした思いに寄り添って、わたしも病気が治ったら故郷の復興に貢献したいと思っています。