111610分、わたしは石川県内灘町にある大学病院6階の病室で能登半島地震に遭遇した。


左右に大きく揺れたり、地面から突き上げるように揺れたり12分ほど続いただろうか?


天井が落ちてくるか、建物が倒壊して、わたしはここで死んでしまうと本気で覚悟した数分だった。


地震発生から2週間が経ち、能登から受け入れた患者さんがどんどん増えて、今や空き病床はなくなってしまったし、現場の看護師さんたちもバタバタする状況が続いている。


わたしは、自分の故郷が被災している状況を病院のテレビで見るだけでなく、何らか復旧復興支援に貢献したい気持ちが日に日に強くなってきているが、現状は手の握力ゼロ、足もまだ立ち上がったり歩いたりできず車椅子生活で、逆に被災地の石川県では何の戦力にもならず、むしろ足手纏いの存在となっているのがとてももどかしい気持ちです。


わたしは前職は石川県庁職員でした。いま、かつての上司、同僚たちが全力で仕事しています。わたしも、生まれ故郷に何らかの貢献ができるよう、まずは社会復帰に向けて、焦らず諦めずリハビリに励みます。


そして、地震発生の瞬間に、奥さんと6歳の娘と3歳の息子のそばに居てあげられなかったことが本当に父親として情けない気持ちです。


地震から1週間は余震が続いて、子どもたちは揺れるたびに恐怖が呼び覚まされる状態でした。


歩くこともできないわたしには、家族を守ってあげることもできず、一時期は本当に無力感に苛まれましたが、守るべき家族の元に帰れるよう、今は闘病に向き合う気持ちを強くしています。


わたしは必ず故郷と家族のために復活します。