☆ 大名一騎討ち❗ ➕ 山門成敗❗ ; 道義公方❗ ;
道義公方; 山門使節❗。
報道されない ❗ 事からも、後押しを得て来てある、
日本人の数千人以上を、すでに、監禁中な、シナ❗ ;
19/ 8/1 2:43 ;
@ 余りに、悪行が過ぎると、
天下の秩序の維持を使命とする、
幕府としては、 いつまでも、
ビビり上がった振りをしている、
訳には、 行かない。
身勝手に、
社会の一般の人々へ、 より能 ヨ く、
福利らをもたらす、 前提となる、
秩序性を乱す者に対しては
、
室町幕府の征夷大将軍として、
足利義教氏が、断固たる態度で、
臨もうとした事は
、真っ当な事で
、
1433年、の、永享5年は、
7月から、 永享7年の、2月まで、
延暦寺の僧兵らの蜂起が、
断続的に続いた状況に対して
、
大名らと評議を重ねながら、
対策が立てられていくが、 やはり、
みなは、 余り、刺激したくない…、
出来れば、 「 無為の御裁許 」、 を、
って論調になる。
※ 無為 ブイ … ;
自然に任せて ;
≒
【 神仏の思い成す通りに任せて 】
、
作為を施さない事 。 か、
平穏無事な事 。
ここでは、 「 もう、妥協しおうぞ。
とりあえず、荒法師らの言う事らを、
神仏の望む事らとして、聞き入れようぞ。
神仏の成す、祟りは、怖い❗ 」 、って事。 :
そんな訳で、 初めは、 ある程度は、
寛容な対処をしていたのが…
、
そうすると、 荒法師らは、 ますます、
付け上がる。
公方への調伏 ;
≒ 呪詛 ジュソ ;
、などを始めたり、
土一揆 ツチイッキ 、 を煽ったり、
方々の通路らを塞いだりした。
「 わ主らは、 合力 ゴウリキ
しなかっただろ❗ 」ら、 と、
園城寺 オンジョウジ ;
≒
【 滋賀県は、 三井寺 ミイデラ 】
、
を襲ったりもした。 :
※ 延暦寺の事を、
「 山門 」 、 とも呼ぶが、 これは、
園城寺を、
「 寺門 」 、と呼ぶ事に対応している。
「 山門 」、と、 「 寺門 」 、とは、
元は、一つ。
分裂してからは、 事ある毎に、
ハチャメチャに、やり合っていた。
流石に、やり過ぎって事で、
比叡山の麓 フモト ;
≒ 山頂ではない ;
、へ、 義教将軍は、
幕府軍を出動させた → 鎮圧 →
ひとまず、和談 → でも、また、蜂起❗
、 を繰り返し、
最後は、
山門使節 ;
≒ 山門僧徒らの代表で 、 今回の首謀者 ;
、の、 4人が、
義教将軍に謁見して、宥免され ;
≒ なだめられて、処罰をまぬかれ ;
、
2年以上も続いた、
山門僧徒らの暴動が、今度こそ、
本当に沈静化し、 万事解決❗…、と、
思いきや、
山門使節の一人に、
" 不審な自害 " 、 を遂げた者がいて、
義教さんの心に影を落とした。
「 なぜ、死ぬ必要がある?。
あ奴らは、 何かを、隠している…? 」――
山門使節の3人への処刑が行われたのは、
世の中が平穏を取り戻した、
1ヶ月半後で、 翌日の、
1435年、の、 永享7年 、の、
2月5日の正午に、
山門僧徒らの放った火により、
延暦寺の根本中堂は、灰燼に帰した。 :
それに加え、抗議の自害者が、
20人 〜 30人も出た。
「 自滅終 ジメツイ か、
義教将軍の大勝利じゃw 」 、と、
思うかも知れないが、 これは、
その逆で、 為政者にとっては、
これ以上の、 " 負け " 、 は、無い。
延暦寺は、 元は、
平安京の鬼門を守るべく創建された、
寺院で、 鎮護国家の象徴だ。
それが、 灰燼に帰す、 という事は、
国家の滅亡を意味する、にも等しい。
天下に、 あらゆる災いを、
もたらし兼ねない事態を招く事は、
公方としては、 成しても、 成させても、
成らない事だ。
『 満済准后日記 』 、 の、
永享7年 2月6日より、 満済師の言葉 ;
≒ 「 天下、凶事、重事、
何事過ぐるべからんか、驚歎周章の他、 事無し 」 ;
≒
天下にとって、 これ以上の、
重大な凶事があるだろうか。 ひたすら、
歎き、うろたえるばかりだ 。
:
「 天魔所行天下凶事、 ただ
愁涙押さえるばかりなり 」 ;
≒
( 数々の霊宝・経典の焼失に… ) 、
悪魔の所業、 天下の凶事、
ただ、 悲しみの涙を押さえるしかない 。
義教将軍の言葉 :
「 当時の儀御周章、さりながら、
又時刻到来か、 無力云々 」 ;
≒
このような事態に周章している。
しかしながら、 これもまた、運命か。
自分の力では、どうしようもない 。
:
※ 時刻到来… ;
ここでは、悪い意味。
人の力の及ばぬ天命により、
「 その時が来てしまった 」
、 という意味。
:
※ 無力 ( 力無し )… ;
為す術がない、仕方がない、
という意味。 :
『 力のない、自分に対して、 落胆 』
、 するのではなく、
「 不可抗力 ;
≒ 天命や自然の前に、 人の力では、
どうする事も出来ない 」
、 といった、 意味合いだ。
焼け跡から、 御本尊を探し出し
≒
中堂御本尊以下被召寄 :
『 満済准后日記 』 、 早々に、
根本中堂 ( 総本堂 )、への、
再建をすること ;
≒
簡要中堂早々御建立珍重存云々 。
今や、出来る事は、それ位だ。
天下を預かる為政者として、
京都の鬼門を守る延暦寺を失う事は、
神罰が下された、にも等しい。
山門僧徒らも、それが判っていた、
からこそ、 強気に出ていたのであり
、
最後の抵抗として、 最も、
征夷大将軍としての、
足利義教氏が苦しむ方法を取った。
この延暦寺での御本尊らの焼失❗
、 という、結末は、 決して、勝利でも、
喜ばしい事もなくて、 突然に訪れた、
" 望まない形での、終わり "
、 でしかなかった。
この事件に関しては、 あれこれと、
口に出してはならない、 という、
命が出され、 それを破った一人が、
斬首される。
『 看聞日記 』 、の、 有名な一節の、
「 万人恐怖、 言う莫 ナカ れ、
言う莫れ 」 、とは、この時の言葉だ。
軽々しく語る事が、決して、許されない、
天下の重大事へついての、
この、過剰なまでの警戒の成しようも、
延暦寺 、という、寺院の、
国家的な重みと、 人心の動揺❗
、 という物が、 天下に、
兵禍なり、戦乱なり、 を呼び起こす、
最大の、 " 火元 " 、 である事を知る者なら、
一概に、 非難すべきでない事も、
理解され得よう。
※ ただし、 " 延暦寺の焼失 " 、 と言っても、
この時に、火が放たれたのは、
総本堂である、 根本中堂、と、
子院らの一つだけで、 中世の寺院は、
本堂の他にも、 無数のお堂や子院に、 宿坊ら、 などを構えた、
極めて、 大規模な物で、
それらを含めた、広大な延暦寺の全域が、
焼失した訳では、無い。
嗷訴に対して、 大名らが、
神輿や御神木の祟りを、 非常に恐れていた❗
、 と、上に述べたが、
それは、 彼らが、 自分へ、不幸が降りかかる事へ、
怖じ気ていた訳ではなく
、
祟りの対象が、 彼らの、 " 個人 " 、ではなく、
" 天下国家 " 、であるが為に、
極端に、慎重になっていた。
※ 参照… ;
「 於有神輿入洛者、 天下重事大儀、
不可如之歟 」 ;
≒ 神輿が入洛したら、
天下の一大事だよ❗。
『 満済准后日記 』 、の、
永享5年は、閏7月5日。
「 私 」、 ではなく、
「 公 」、 の立場に立つ、
幕府の幹部らには
、
神輿の動座 ( 入洛 ) 、 も、
延暦寺の焼失も、
天下全般の問題事であり、
「 山門僧徒ら、 むかつく、ぶっ潰せ❗ 」 、等と、
私的な都合や、 感情で、
短絡的に、対処していた訳では、ない。
「 非拠 」 ;
≒ 『 非道 』 ;
、 を許せぬ義教将軍が、
「 無為の御成敗 」 、 を求める、
大名らを前に、
妥協案を模索し続けてもいたのは、
その為だ。
※ 参照… ;
『 満載准后日記 』 :
極力に、 衝突を回避したい大名らは、
山門使節らに帰順を促し、 応じる者は、
義教将軍に、謁見し、赦免を受けていた。
義教将軍から、
所領と身の安全を保証されながら、
山門使節らの一人が、
" 不審の自害 " 、 を遂げた件に対しても、
制裁な行為を、即座に決行した訳ではなく、
それまでに、1か月半の空白がある。
その間には、 新年の御礼で訪れた、
山門使節と、平和の裡 ウチ 、 に対面もしている。
:
「 山門使節、懸御目云々、今日、 無為、珍重珍重 」 ;
≒
『 満載准后日記 』 、の、
永享7年、は、 正月20日 。
それから、半月の間に、
どんな心境の変化があったのかは…、
今となっては、 知るすべもない。
:
【 何重もの、 安全弁の様な、
管理の仕組みらにより、
責任者らの加担を得る形での、
人らの意図が、無い、 場合には、
御本尊らを燃やし得ない状況があり
、
その事を、幕府の幹部らが、
知り得ていたのであれば
、
この論者が、 述べている様に、
人々へ、 疫病などをもたらし等する、
祟りの効力が、
その当時の社会通念において実在し
、
その観念な上での、 実在性らに応じた、
社会的な影響性らを、
一定な度合い以上に、 持ち得ており、
それに乗じた、 反幕府性の動乱に類する事らを、
起こし得る、 可能性が、
大いに、 在り得ていたのであれば
、
無法な荒法師らが、 意図して、
天下へ祟りを成し得る、
御本尊らへの行為を成した事は
、
現代の世界の事に置き換えて観ると
、
疫病 、 などを多発させて、
大勢の人々を殺し得る、生物兵器らを、
テロリストらが作動させる、
事にも類し得る事だろうから
、
義教将軍が、 そうした、
実質のテロリストらを処刑した事は
、
天下万民を安んずるべき、
征夷大将軍として、 当然に、
成すべき事だし
、
何かの工作員の如く、
わざと、人々の不安性を煽る発言をした、
人を、 厳罰に処さなければ
、
野心家ら、 等が、その手の流言飛語を、
乱破 ラッパ 、 らに成さしめて、
人々を、 特定の事らへ誘導する機会らを、
反幕府な者ら、 等へ与えたであろう。
義教将軍は、 より早くに、
その芽を摘んだ❗ 。
大火災に成り得る、 小火 ボヤ 、への、
種火に成り得た、 流言飛語の、
最初期の段階で、 それを封じる事へ、
力を入れ、その成果を得た❗
、 という事なのであれば、
それは、
天下万民の安寧性を、減らさない為に、
必要な事だった、 という事にも成り得る。
人々の不安な思いらをかき立てる、
噂話らを、 バンバンと、
乱破らにやらせて、
幕府や将軍への、反対運動ら、などを、
人々へ起こさせたり、
人々の中から、 自発的に、
そうした運動らを成す事、 などに、
より、適した属性らのある、
者らを探し出す様な事らが、
より、多く、 成り立ち得る状況が、
起ち現れる前に、 義教将軍は、 能く、
その出現を防ぎ得た、のかも知れない 】
。
義教将軍は、 還俗する前は、
延暦寺の天台座主 てんだいザス ;
≒ 延暦寺で、一番に、
主導する権限のある人 ;
、 を務めていた事があり、
期待もされていたそうです
≒ 天台宗が始まって以来の逸材 。
『 大日本史料 』、 の、
応永24年の12月13日 :
山門僧徒たちも、 天台座主から出た、
公方だったから、 少々は、
強引な要求も通る、 と、 思った、
可能性もあるが、 義教将軍は、
縁故より、理非の正しさを選んだ。
※ 天台座主を始めとした、 高僧らと、
嗷訴を起こす、 僧兵らの行動とは、
" 別物 " 、 です。
天台座主を、裏長 うらおさ 、とか、
思わないように❗ 。
この山門僧徒らの、幕府への要求行為は、
義教将軍の時代に始まった事ではなく、
先代から引き続く、 一連の、
継承された課題事です。
4代目の義持将軍の時も、 特に、
前半は、大変だった様で、 時に、
厳しい対応も見られます。
その点で、 3代目の義満将軍は、
非常に、上手くやっていた❗ 。
対立が激化しつつあった、禅宗と、
顕密仏教、 との、 融和路線を築き、
見事に、 延暦寺を懐柔した。
嗷訴の激減です。
" 南朝と北朝 " 、も、 " 朝廷と武家 " 、 も、
" 禅宗と顕密 " 、 の融和も、みんな、
義満将軍の業績❗ 。
延暦寺の嗷訴への対策として、
『 山門使節 』 、の制度を創設したのも、
第3代の征夷大将軍の、義満将軍です。
√ 『 山門使節 』 、 は、 本来は、
幕府の意向に従うべき、
立場の者達だった。 ← ここ、重要❗ 。
:
『 山門使節 』
、 は、
僧徒らの代表者である、 と同時に、
幕府と、僧徒らとの間を、
" 取り持つこと " 、 が、仕事ですから、
これまでの嗷訴では、
ヒャッハーする僧徒らを " 宥 ナダ める、 側 " にいた
≒
【 当初は、 透破 スパ : スパイ ;
、 としても、機能し得ていたのだろう 】
。
義満将軍に、義持将軍と来て、
義教将軍の時代も、 当初は、
幕府との関係は、良好でした。
が、
『 山門使節 』、 らが、
傲訴の先頭に立ったとなれば、
それへの制裁もまた、 当然の事ながら、
幕府の仕事です。
今回の騒動は、
「 幕府 VS 延暦寺の勢力争い 」
、 などという、 次元の話ではない、
延暦寺は、 決して、
「 幕府から、 完全に、
独立した反対勢力 」 、 等ではない❗、
と言う点に、注意しましょう。 :
:
※ 顕密 ケンミツ 、とは、
顕教 ケンギョウ 、 と、
密教 ミッキョウ 、の事。
:
日本では、 鎌倉時代に、
「 禅宗 」 、 を始めとする、
" 仏教の新しい潮流 "
≒ 鎌倉仏教 、とも言う ;
、が起るが、
それ以前の、 「 天台宗 」、 や、
「 真言宗 」、 に、 「 南都 六宗 」
、 の事を、 顕密仏教 、 と言う。
※ 南都北嶺 ;
≒ 興福寺 & 延暦寺 、は、
代表的な顕密寺院。
室町幕府と言えば、 イコール ;
「 禅宗 」 、 という、印象ですが、
初代の尊氏将軍と、直義氏の時代から、
特に、真言密教との関係は、深く、
幕府における、仏事では、
重要な役割を担っていた。
3代目の義満将軍以降では、
天台宗の総本山の、『 延暦寺 』 、
との関係も改善し
、
『 延暦寺 』 、 の門跡である、
『 青蓮院 』 、 で、 僧の時代を過ごしていた、義教将軍も、
相当の密教好きですw :
山門僧徒らが、理不尽に、
嗷訴を繰返していたのも、
室町幕府の前半戦 ;
≒ 応仁の乱 、位まで、です。
延暦寺が、寺社権門な事から、
こんな事も言われるが、
「 宗教者なのに、武器を持ってる何て、
おかしい❗ 」 、…事は、 ありません。
それは、 所領を守る為の自衛手段。
中世では、 寺院も、神社も、
在地の民も、土地は、
自分らで守る物でした。
" 守る力 " 、 を持つのが、
本来の日本人の姿なのです。
延暦寺は、 室町時代が始まる、
遥か昔から、 「 公 」、 的な役割を、
強く持つ、 " 歴史に裏付けられた、国家的な寺院 "
、 だったのであり
、
従って、 それが、破壊される事は、
単なる、一宗教勢力への制圧ではなく、
天下の全般への災厄をもたらす、
惨事に、 文化への破壊を意味した。
「 公 」、 としての存在である、幕府が、
延暦寺の破滅を自ら望む事などは、
ある筈はなく、 逆に、
「 公 」、 としての意識が薄く、
「 私 」 、 の利益を優先出来る、
戦国大名らの一部の者ら、 等なら、
延暦寺への破却行為を成す事は、
訳も無い事だ。
※ 義教将軍の目的は、 あくまで、
公への奉仕の精神に反する、
山門僧徒らの 、 " 行為への処罰 "
であり、
" 僧徒らへの根絶やし、や、
宗教権門への弾圧 "
、 などではない❗ 。
たまに、そう書いてある物もあるが、
これも、史実に基づいた、
理論的な考察では、ない。
【 この論者の記述な事らも踏まえて、
事を観直すと、
足利幕府側は、
山門僧徒らが、御神木を持ち出して、
傲訴した行為については、
処罰をして居らず
、
荒法師らの誰彼らが、
天下の万民への災厄の現実化の、
一定な度合を防いでくれている、
設定性の、 御本尊らを焼失させて、
天下万民へ災厄らが現前する、
可能性を高める❗ 、 という、
凶悪なテロ行為について、
犯人らを厳罰に処している❗ 。
傲訴については、 天下万民への、
災厄らの現実化を防ぐ、
神仏的な存在の意向の影の様なものを、
その傲訴における、 要求な事らの内に、
足利幕府側は、 認めてやる、
形を取って観せ得たが
、
御本尊らへの焼き払い、な、行為については、
誰の目にも、 神仏的な存在の、
祟る力や、天下万民への、
災厄らの現前化、 などを防ぐ、
力の存在への、 不信に基づく行為であり、
その手の不信性を広め兼ねない、
行為である事からも、
極刑に処さざるを得ない、
理由としての成分らがあった、
という事だろう 】
。
義教将軍は、 弾圧どころか、
半還俗公方か? 、 って位に、
仏教を保護しています。
※ 熱心な、寺院への参詣と加持祈祷に、
護持僧の増員 ;
≒ 6人→ 12人 …、 などなど。
:
@ で、あれば、
御本尊らを焼けない様にし続ける
、 という、 基本的な公務 ;
≒
比叡山 、 などは、 国家的祈祷を担う、
中世の寺社として、 当時の人々の、
精神面・文化面を支える存在でもあり
、
天下万民へ災厄らが見舞う事を、
でき得る限り、防いで居てくれる、
存在なのだから、 その機能を妨げず、
十分に発揮し得る様に、管理し、
維持する、日々の務め事らを成す事は
、
その目的な事の内容からして、
公務であり
、
この場合の、 中世の山門僧らは、
天下万民からの、税の分配を、
得ていなかったにしても
、
公務員 、であるから、
その公務を成す義務に違反して、
天下万民へ災厄らを成す、
テロ行為を成した事について、
将軍が、 見逃さずに、極刑に処した行為は、
極めて、最もな行為だ。 :
√ 最初に、幕府が折れて、
彼らの要求な事を呑んだ時点で、
山門側が妥協していたら
、
2年も、 抗争が続く事も、
根本中堂が炎上する事も、
恐らく無かった訳で、 しかも、
幕府軍が出動したのは、 あくまで、
比叡山の 、 " 麓 " 、 であり ;
≒
根本中堂があるのは、 " 山頂 " ;
、
さらに、事件が起きたのは、
「 幕府軍が撤退した、約2か月後 」
、 です。
← ここ、重要❗ 。
事件の後に、
新たな、山門使節らへの任命、
根本中堂への再建が、
" 幕府により " 、 進められた、
事からも、 自明なように、
室町幕府の、 宗教権門への基本方針は、
「 協調・保護 」 、 であり、
「 弾圧 」 、 ではない。
つまり、
「 義教将軍が、
宗教への弾圧を目的とし、
軍事力で迫り、焼き払った 」 、なんて、
解釈は、 史実をガン無視の、
荒唐無稽なファンタジーなのです。
軍隊なんて、すっかり撤退して、
どこにもいないのですよw。
とにかく、 この辺は、
一次史料を漁れば、 矛盾が、
ザクザクと、出てきます。
とんでもないにも、程があります。
➖回目の延暦寺の炎上は、 あくまで、
山門僧徒らな、 自身が、
根本中堂に、 火を放った❗ ;
≒
しかも、 義教将軍にも、
厄災を降りかける目的で 。
◇ 道義公方❗ ; 大名一騎打ち❗ 。
解放を急ぐべき、 シナによる、 桜木琢磨市議ら 実質 拉致事件ら❗ ;
19/ 8/1 19:7 ;
@ 比叡山の、 『 頂 オベ 』 ;
≒ 山上 ;
、 を、
大名軍が、 " 直撃 " して、
広域を焼き払った、二回目と、
三回目の、焼き討ちによる、
延暦寺の炎上とは、 根本的に、
性質が異なるのです。
この両焼き討ちは、 今から、
約 510年前 ;
≒
2回目 ;
、と、
440年前 ;
≒
3回目 ;
、の事件らであり
、
現在からすれば、 似た様な時期だが、
70年もの、 間隔があるので、
それなりに、復興するには、
十分な時間があった。
これ程の、 しかも、2度に渡る、
凄惨な攻撃に遭ってなお、
「 蘇った 」、という事実が、
意味する事は…、
この2度の殲滅行為が、
「 国家と、万民の思いを、
度外に置いた、 大名、の、
私的事情による物だった 」
、 という事です。
明応年間の焼き討ち ;
≒ 前者 、の時は、
仏像の再造が、 『 勅命 』 ;
≒ 『 天皇の命令 』 、により、
進められています。
延暦寺とは、 そういう存在 ;
≒ 国家鎮護の働きを成し続ける事を、
本来の公務として、成すべき存在 ;
、 なのです。
:
@ であれば、 私的事情で、
焼き討ちをした大名らは、
国家鎮護を公務とする、
山門僧らが堕落して、
公務を疎 オロソ かにし、 あまつさえ、
自分らにも、 将軍らにも、
天下万民にも、災厄らを与える事になる、
御本尊らへの焼き討ちな行為、 といった、
自滅型のテロな行為を成した、山門僧らは、
極刑に処されても、
倫理的に妥当で在り得るし
、
それに類する、
不作為型と作為型の、
悪事を成す、 行為を成し過ぎたせいで、
国家の全体な状況を、
戦国乱世に変えた罪は、甚だしく大きい
、 と、言わねば成らないし
、
公の福利を成すべく、足利幕府が、
懲罰を致せない状態に陥っていたのなら、
大名らが、懲罰を成すのも、
致し方が無いし、 その懲罰な行為が、
私的事情だけによる、とも、
言い切れない面がある。
√ 足利将軍家 、
というのは、 嫡子 ;
≒ 『 将軍の後継者 』 ;
、 以外の、子女を、原則として、
全てを、 入寺させる。
例外もあるが、 男子だけではなく、
女の子も、みんな、幼少時から、
出家です。
子孫を残さない。
それは、 一つには、 後日に、
親族間の争いを惹起する、
禍根を残さない為ではあるが、
それにしても、
「 嫡流以外を全て絶つ 」 、 って、
徹底しています。
普通に考えたら
、
√ ≒ 公の福利らを、
自らの成すべき物事らとして観る所が、
精神系において、 より、
構築され得てはいない方の人々の、
自然に、思い構えて観る様な場合の ;
、
「 将軍家 」、 っていうと、
家の繁栄を第一に考えて、
息子には、 領地を与えたり、
大名家への養子にさせたり、
娘らは、 他家に嫁がせて ;
≒
つまり、 政略結婚を成す事により ;
、
自らの勢力の拡大を目指し、
親族員らで、
富と権力を独占して行きそうな物ですが。
人には、 私欲という物がありますから、
権力を手にしたら、それが、普通かも知れません。
しかし、 そうすると、
「 将軍の座には就いた❗ 、 でも、
天下への私的な独占には、
興味は、無し❗ 」 、 っていう、
足利家って、やっぱり、ちょっと特殊… :
※ 幕府を構成する、 大名家らには、
足利一門も多いが、 血縁的には、
だいぶ遠く、 既に、
独立した一族らであり、 あくまで、
将軍家と主従関係にある、
一大名家らです。
≒
【 必ずしも、 主従関係は、
無く、
単に、同じ幕府の体制において、
上司と部下として、 公職を務め合う、
だけの、 間柄な、 大名らがあり
、
義教将軍が、 大名らの子弟らを、
自らへの側において、 自らな、 将軍家への、 家来とし
、
家来とした者らを、 その出身の、
大名家の当主へ据える事を通して
、
大名らを、 足利将軍家への、
累代型の、 家来にする、
段取りな事らを成している内に
、
多分、 それにも、反発したであろう、
赤松の主従に、 暗殺されてしまった❗ 】
。
・・続きは、 務録 ブロク ;
『 夜桜や 夢に紛れて 降る、寝酒 』
、で❗ 。