☆ 道義公方 クボウ ❗ ✖ 鎌倉公方ら ;
主君でなく、 単なる、 公での上司、な、 室町将軍ら❗ ;
19/ 7/29 5:36 ;
【 室町幕府の、 足利将軍家は、
一部を除いて、 一般に、
守護大名ら、 に対する、
『 主君 』、 ではなく、 単なる、
『 上司 』、 でしかなかった。
江戸幕府の、
徳川将軍家は、 大名らに対する、
主君であり
、
大名らは、
直参旗本と同じく、
徳川将軍家への直臣であり
、
大名らの各々への家来らは、
徳川将軍家への、 直臣ではなく、
陪臣であり、
主従関係の宛て付けられてある、
立場を占めていた、
が、
室町幕府に参加して、
管領 カンレイ 、 を務めた、
斯波氏員らや、 畠山氏員ら
、 などは、 足利将軍家に対する、
家来ではなくて
、
それへの親戚で、 幕府において、
部下、な、役職を務めもする
、 というだけの立場にあり、
その一方で、
細川氏員らのように、
足利将軍家への親戚でありながら
、
累代の家来としての契約性を成して、
足利将軍家に仕えるべくある、
人々もあった。
室町幕府の、 第6代の征夷大将軍である、
足利義教氏は
、
守護大名の、 畠山氏らと共に、
連歌をたくみに詠む
、 という、
農家の娘さんと同席し
、
共に、連歌を作り合い、
その娘さんの才能を愛でている❗
、
が、
この娘さんは、
『 主持ちでは、ない 』、
『 主 アルジ 』
、 格の人であり
、
足利将軍と同じく、
『 主 』 、格の人、として、
足利将軍ら、と、同席し得もした、
のであり、
幕府の要職にあろうが、
どんなに羽振りの良い、
武家員であろうが
、
『 主持ち 』 、 な、
『 家来 』 、格な人々は
、
『 主 』、格な人々とは
、
公式には、 同席などは、 できない、
立場にあり、
大名であっても、
足利将軍家、などを、
主君とする、 契約性を成した人々は
、
この、 農家の娘さんのように、
将軍家と同席する事、 などは、
公には、 より、 できない、
立場を占めており、
そうした、 主格の人々と、
家来格の人々とへの、
交信系などでの、 独特な区別性、や、
主格な人々同士の、 交信系などでの、
対等性、 といった物らは
、
足利時代の、 日本人たちの精神性なり、
その精神性らを規定する、
価値序列の観念性なり、として、
特徴性のある物らであり、
義教将軍が、
守護大名らの身内員らを、
自らの、そば近くに仕えさせ、
その大名らの身内員らを、
大名らへの跡継ぎにする事で
、
守護大名らを、 段々に、
足利将軍家への累代型の家来に、
入れ替えてゆく、 度合いを、
増さしめてもあった道次で、
暗殺された❗
、事への、
あり得る、要因性らの中にも
、
この、時代の特徴的の精神性らの存在
、と、
足利将軍家へ対して、
守護大名ら、などが、 一般に、
累代型の家来ではなく、
主従関係を成して居らず、
単に、共通な、幕府の体制の中で、
それへ参加した場合に、
上司と部下との、役職な上での、
関係性を公に成す、 だけの、
間柄しか成して居らず、
例えば、
守護代の、 家系員である、
織田信長氏は
、
その先祖らの契約性により
、
織田氏を、 守護代に取り立てた、
斯波氏である、 足利氏員らは、
自らへの主家員なり、
主君なり、として、盛り立てる、
宛てとすべき、筋合いには、
あり得ては、居たが
、
将軍家の方の足利氏員らは、
織田氏員ら、などにとって、 単に、
同じ体制での、上司の家系員らに過ぎず
、
自らが、家来として、盛り立ててやるべき、
筋合いには、無い、 宛ての、
人々であり、
江戸幕府における、
大名らへの、家老らや、
その家系員ら 、とは、
幕府の長 オサ 、な、 家系員らへ対する、
関係性については、 著しく、 異なる、
関係性を成していた。
戦国時代は、 下剋上の時代
、 としても、 語られるが
、
それは、 より、武力の行使性
、 などを欠いた立場にあった、
主格な人々が
、
必ずしも、 主格な存在ではなかった、
武家員ら、などから
、
ありもしなかった、 身分制めいた、
秩序性を、 無理にも宛て付けられ
、
より、 元から、 武力の行使性による、
身分性なり、 序列性なり、が、 より、
一定の人々に限定される、
事を、 無しに
、 より、
一般の、 主格な人々へまでも、
宛て付けられるべき、 正統な物としても、
あり得て来たかのように、
匂わされる、 度合いら、を、
各地で、余計に、成し増していきもした、
時代でもあり、
神々のどれ彼の格を、
その子孫員としてある、
日本人の誰彼らの子孫員として、
生まれ付きに、 受け継いである、
日本人たちの、 自らへの主である、
格性は
、
『 主持ち 』、になる、
契約性を成して、 何らかの意味で、
公の事らにおいては、
『 主 』 、格な人々のとは、
区別される、 作為型や、
不作為型の、 振る舞いようを、
成すべき、 立場へ、
特定の先祖員らへの子孫員として、
その何彼らを引き継ぐと共に、
自らを据えたり
、
自らを、 初代として、
そうした契約性を成したり、した、
特殊な、人々においては
、
より、 公には、表立てられない、
筋合いなものとしての度合い、
を、 成し、 増し得もするべく、
あった、 宛てなものであった、
としても
、
より、一般な、 主格の人々においてまで、
『 主持ち 』、としての、
観念性らが、 その精神性を、
規定すべき、 いわれ、などは、
本来は、 より、 無かった❗ 】 。
☆ 足利時代、と、イタリアの都市国家ら、 に、 傭兵ら❗ 03 ;
1429年、の、 正長2年3月12日に、 将軍宣下をうけたのは、
足利義満氏の3男の、 足利義教氏だった。 :
二度目の将軍職を務めていた、 その兄な、 足利義持氏は、
籤引きが行われた、 1428年、の、
応永35年の正月の、 翌 アク る、
18日に没した。
義教氏が家督を継いだ為に、
征夷大将軍への就任の夢が破れた、
関東公方の足利持氏殿は、再び、
不穏な動きを始めた。
籤引きにより、征夷大将軍に選ばれた、
天台座主の義円師は、 還俗して、
義宣 、と称し
≒ 後に、 義教 ヨシノリ
、 と、 改名し 、
征夷大将軍に就任した。
この経緯から、義教氏は、
世に、 「 籤引き将軍 」、と、呼ばれる。
足利義教将軍は、 当初は、
有力な守護大名らによる、
衆議により、 政治を行っていたが
、
長老格の、 三宝院満済氏や、
山名時熙氏が死んでからは、 次第に、
指導性を成す様になり
、
物忌みや、
好き勝手に暮らす、 が為に、
公益や、 公務を省みない、
武家員らや、公家員らによる、
横暴な行為や、 手抜きな事ら、 等から
、
世間の一般の人々が、
泣きを見させられる度合の、
より少ない、 天下を成すべく
、
公方の下に、 秩序を成す事らが、
厳格に成し行われる事を目指し
、
斯波氏に、畠山氏や、山名氏と、
京極氏や、富樫氏の、
家督の相続へも強引に介入し
、
その各々の氏の家臣らからも、
より、支持を得られる、
徳性の、より高い、
意中の者を家督に据えさせ
、
1439年、の、 永享11年の、
『 永享の乱 』 、 では
、
長年を対立していた、
鎌倉公方の足利持氏殿を滅ぼし
、
比叡山延暦寺とも対立し、
これを屈服させたが、
僧侶らが、
根本中堂を焼き払い、自殺する、
騒ぎを成した。
足利将軍らの中では、 その父の、
第3代の征夷大将軍の、
足利義満氏に並び得る、主導性を成した。
@ 6代目の義教将軍は、
些細な不正も、決して、許さない、
厳罰主義者だったし、
専制的と捉えられる程に、
幕政に積極的だったが
、
それは、
管領や大名らを排除し、
将軍の意が、 絶対の、世界に、
酔いしれたいが為だったのでは、無い❗ 。
幕府の私物化や、私曲を交えた政治とは、
正反対の理想を持っていた事が、
近年の、詳細で、中立的な研究らにより、
明らかにされている。
@ 「 室町殿 ≒ 足利義教将軍 ;
、 の政道のお蔭で、
天下が無事に治まっている 」 、と、
諸大名から、書状で、
賞賛の意を伝えられた、 室町幕府の、
6代目の征夷大将軍の、足利義教氏は
、
その懇意に痛く喜び、
大名らへの返答では、
「 各々、分国の政道に、
精を出すように 」 、 と、
期待の言葉をかけた。
義教将軍の時代は、
「 鎌倉府との確執 」 、や、
「 延暦寺の騒動 」 、 に、
九州や、伊勢と、大和での紛争など、
色々と大変な事が立て続いたが
、
その都度に、 大名らに諮問し、
幕府の役職にある、皆で支える、
幕府体制、の、 基本の姿勢は、
保たれていた。
大名家が、家督を決める際は、
それが、 器量の仁 ≒ 人 ;
、 である事や、
家臣らの一定数以上からの、
支持を得ている事を、
何より、重視した❗ 。
※ 器量の仁 ;
≒ その地位や役目にふさわしい、
才能や、人徳を備えた主 。
:
この様な、 義教将軍の言動の、
背景に、 貫かれている物は、何か? 、
それは― 、 " 正しさ " 、 すなわち、 " 正義 " 、だ。
裁許の基準は、
自らの好悪の感情ではなく、
客観的な、理非の正しさ、で、
大名らの意見が一致しない時には、
熱心に、 その調整に努めようとする、
姿勢には、
最も正しい、 一つの、 " 答え " 、 を目指しつつも、
各々の意向へ、最大限に、
配慮しようとする、 誠意が感じられる。
:
義教将軍の意見だけで、
全てが決定された事は、なく
、
進んで、大名らの意見を徴し
、
大名らも又、 反対意見も含め、
自らの考えようを主張する、
自由性を持っていた。
義教将軍は、 諸大名に対する、
直接的な、 " 諮問 " 、という、
形式を取る事で、
将軍と大名らの主従関係を強化する
、 と共に、 この時期に、
各地で多発する紛争らへ、 迅速 、
かつ、 慎重に対処し得ていた。
遊興や酒色に耽ったり、 重税をかけて、
蓄財に走ったりした形跡が無い、
事からも、 その、
社会一般の人々の福利らへ、
目配りのできる、
人格性が観て取られ得る。
その、俗世離れした、
厳密なまでの道理主義は、 いつ、
どこで形成されたか? 、
それは、彼が、成人まで僧籍にあった 、
" 還俗 公方 " ゲンゾク・クボウ
、 だったからです。
上杉謙信氏の神がかりさにも通ずる。
@ 俗世と乖離した世界で、
修行を続けていた義教さんは、
人の大半が、 " 結構と、 適当で、
なあなあな存在だ " 、という、
現実を受け入れる事が出来なかった。
「 万人恐怖、 言う莫 ナカ れ、
言う莫れ 」
、
「 薄氷を踏む時節、 恐怖、
極まりなし 」、 等、
これらは、
当時の日記の記述にある言葉らで、
全て、 伏見宮・貞成親王 ;
≒ 後花園天皇への実父 、の、
『 看聞日記 』、 にある言葉らです。
公平公正を目指す 、正義の公方の様らは、
幕政に関わった、 満済師の、
『 満済 准后 日記 』
、や、
公家の万里小路時房氏の、
『 建内記 』 、 の記録らにある。
:
一例を挙げると
、
「 御沙汰を正直に… ≒
訴訟の公正さを標榜した ; 、
義教将軍の言葉
。
「 尊卑・親疎によらず、
次第に任せて、 伺い申すべし ;
≒
訴訟は、 身分や縁故によらず、
公正な手続き事によるべし ;
、 という、
義教将軍の意向。
「 政道、 好悪無く、裁許せらるは、
最も、天心に叶うべし、 珍重珍重 ;
≒
私曲の無い政道こそ、
天皇の御心に添う物だ、 喜ばしい ;
≒
義教将軍の志す、 正しい政道への、
万里小路時房氏の感想 。
「 誓言をもって、 此の如し、
面々申す条、 真実、懇志の至り、
御悦喜、殊に、御本意極まり無し 」 ;
≒
上述の、大名らからの、
義教将軍の政道への、心からの賛辞に、
めちゃめちゃ喜ぶ、義教将軍。
これらが、 政務において、直に、
義教将軍と接していた、
幕臣らの記録です。
満済准后 ジュゴウ 、は、
『 看聞日記 』で、
「 天下の義者 」、と、賞賛される程、
人々から信頼を集めた、高徳の僧であり、
万里小路 マデノコウジ 時房氏は、
朝廷と幕府の双方で活躍していた、
公家で、 政務を律儀に記した、
『 建内記 』 、 からは、 その、謙虚で、
誠実な人柄が読み取れます。
それに対して、
『 看聞日記 』
、の、 筆者の、貞成親王は、
皇族員で、 後花園天皇への実父でもある、
方だから、 当然に、 幕政には、
関わっていない。
その大部分は、
人から伝え聞いた話らで、
他の同時代の人々の日記らの記述により、
事実では、ない❗
、 事が確認される、
義教将軍にまつわる噂話らも、
記述されている。
@ 私曲 しきょく ;
≒ 自らの利益だけをはかり、
不正で、 邪 ヨコシマ な 、事 :
@ 後花園天皇と、義教将軍は、
非常に厚い信頼関係にあった、
歴史的にも、 希有な君臣で、
この事からも、 義教将軍は、
" 天子の意に沿う " 、
正しい政道を志していた事が、判る。
当時の日記 、 というのは、
" 公的な記録 " 、 としての意味合いが、
強い物で、
今の様に、 私的な物ではなく、
後の世に、 朝儀 ;
≒ 朝廷での儀式な事ら ;
、や、
政務の実態を伝える為に、
代々に、家業として成された物であり、
人に読まれる事を前提に書かれている。
朝廷では、 とにかく、
「 先例 」 、 が重んじられたが
、
この日記により、 遥か昔の、
「 先例 」 、 を知り得た。
書き手により、 それぞれに特徴があり、
淡々とした事務的な物から、
当時の、 政治、世相、事件、文化、
噂 ウワサ ら、 等が満載の、
めくるめく物まで、色々だ。
書き手の性格も、 おおらかだったり、
正義感が強かったり、 愚痴が多かったり
、 と、 色々とあるw。
『 看聞日記 』 、 は、
どういった類だったか、 というと、
かなり、めくるめく系です。
義務的な家業、というより、
もっと、自由に、 とにかく、
見聞きした話らを、 熱心に、
書き記していった物で
、
上級の貴族員の遊興の様から、
庶民の噂らまで、 その内容は、多彩です。
そんな、政治の一線からは、距離を置き、
社会を見つめていた、貞成親王には、
将軍な義教氏は、 どの様に映ったのか。
諸大名との衆議も尊重しながら、
正しき政道に邁進する、
義教将軍だったが、
一方で、
理想の天下を夢見る、彼の完璧主義は、
やがて、 ほんの少しの不正も許さない、
厳罰主義、という、一面をも見せ始める。
僧侶であった、公方として、
正しき天下を成す事への使命感が、
半端では、無い、
義教さんは、 当然に、 監視の目も厳しい。
コネや、 口入 クニュウ ;
≒ 口利きのこと ;
、
緩怠 ≒ サボる事 ;
、
密通 ≒ 姦通
、
一族による利権の独占、 等々、
" 不義な事 " 、 が、 とにかく、大嫌い。
見つかろうものなら、 即、お叱りです。
※一例; …丹波守護代と、伊賀守護は、
緩怠がばれて、 改替 。
√ 出仕への停止 チョウジ
、 や、
所領への没収 、 などの、 処分を受けた公家も、
数知れず❗ 。
それまでの、 室町幕府ならぬ、
ゆる町幕府の、
ぬるい処遇で来てしまった、
彼らの心へ、 大変な衝撃を与えたろう。
『 看聞日記 』 、 には、
年貢の未進の事を、
義教将軍の耳に入れない様に、
懇願する声が見られたりする。
「 薄氷を踏む時節 」、なる記述は、
厳正な将軍の前に、 背筋を伸ばして、
シャキっとせざるを得ない人々へ宛てての、
気の毒さを表現した言葉です。
上流階級にある公家員らにとっては、
それまで、叱られる経験が、
殆ど、 無かったろうし
、
貴族員らにも、 『 道理 』 、が、
適用されるなんて、驚愕の事態だった❗
、 と、 思われる。
ゆるい事に対しては、 他の時代も、
割と、 厳しかったし、 特に、
義満将軍や、義持将軍の代でも、
厳しかったが、 規律を守る為に、
厳しさが必要な事は、
義教将軍期に限った事ではない、
当然の常識です。
「 訴訟は ) 、 尊卑・親疎によらず… 」
、 というのは、
より、 利権を持った、
身分の高い者らにとっては、
超絶に、 不都合だが、
縁故の無い、身分の低い人々にとっては、
非常に有難い方針だ
、と、思われる。
中世において、 地位や、
権力を差し置いて、
「 公平公正に優る物なし❗ 」、 とし、
道理を第一とする、
訴訟制度を成し行われる様にした。
鎌倉時代から、
武家政権の標榜した事らを、
理想で終わらせず、
制度への改革を推し進め、
積極的に、実現しようとした所が
、
義教将軍期の特徴で、
それに加えて、
義教将軍は、 公正な手続きを重視する、
観点から、 正規の手続きを踏まない ;
≒ 縁故による ; 、
" 直訴 " 、 を禁ずる、 一方で
、
縁故がない為に、
訴訟を受理して貰えずにいる、
人々への救済な措置として、
一部では、
直訴 ジキソ 、を認めた❗ 。
義教将軍の、
" 正しさや、理想に対する、追求ぶり "
、 は、
終始、一貫しており、
" 厳密さ "
、 は、
後半に近付く程に、 増していく、
様にも観られ得る。
室町幕府では、 満済准后のごとく、
直に、政務に関わる僧の他に、
政道への指南者として、
初代の尊氏氏や直義氏にとっての、
夢窓疎石師、や、
3代目の義満将軍 、とか、
鎌倉公方の初代の、足利基氏殿 、に、
2代目の、足利氏満氏にとっての、
義堂周信師、の様に、
教養の高い、高僧の助言や助力により、
広く、万民に資する、
公正な政治を実現せんとしていた。
義堂周信師が、義満将軍に説いた、
為政者の心構えは、
「 国家を治むる者、 先づ、
明徳・正心・誠意・修身、
是れ、最も緊要なり 」 ;
≒
政治家には、 まず第一に、
「 非常に高い人間性 ;
≒ 共感構築型の知的な創造性 」 ;
、 を要求した。
@ 夢窓国師に絡む物に、
『 夢中問答集 』 、 という、
世俗に向けて、 解り易く、
仏教の本質や、禅の在り方を解いた、
書があり、 その中に、
政治についても言及した部分らがある。
これは、 夢窓国師 、と、
足利直義氏 、 との、
" 問答形式 " になっており
、
夢窓国師 の " 答え " の方が、
圧倒的に、 長いが
、
" 答え " を理解出来ないと
、
" 問い " も出来ない 、と言う、
意味を踏まえると
、
高僧と互角に問答し得ている、
足利直義氏の凄さにも圧倒される。
この書の原型は、 夢窓国師の、
" 答え " らを、 直義氏が、暗記し、
書き貯めたものw :
@ 関東の事は、
鎌倉府を置いて、 『 鎌倉公方 』 、と、
それを補佐する、 『 関東管領 』
≒ 上杉氏 、に任せていたが、
この鎌倉勢は、 時折、
厄介な事をしでかす、
荒くれ魂の持ち主らだった。
「 鎌倉公方が、悪役… 」、 という、
単純な話ではなく、
京都の将軍に、 問題があって…、
という様な例もあった。
『 鎌倉公方 』、 は、
尊氏どんの子の、 足利基氏どん
≒ 2代目の足利義詮将軍の弟 、
に始まり、 :
足利基氏 → 足利氏満 → 足利満兼 → 足利持氏 → 足利成氏 …、
と、続いていく。
:
6代目の、義教将軍の時代には、
『 鎌倉公方 』、 が、
足利持氏 もちうじ 、氏で、
『 関東管領 』 、 が、
上杉憲実 のりざね 、氏だった。
この足利持氏殿は、 義教氏が、
6代目の将軍にされる前に、
嫡男のいない、4代目の、
義持将軍の後継ぎとして、 自分が、
京の将軍の座に就きたい、
と、考えていたが、 僧籍にあった、
義持将軍の弟の、 義教氏に、
将軍職が行く事が決定したので、
納得がいかず、 鎌倉にありながら、
京都の義教将軍へ、色々と対抗した。
◇ 解放を急ぐべき、 シナによる、 桜木琢磨市議ら 実質 拉致事件ら❗ ;
☆ 道義の公方 ; 足利義教将軍❗ ;
1441年の、 嘉吉元年の前後 : 傭兵らから常備軍の都市国家ら。
2015 / 8/19 12:6:1 ;
根途記事➕論評群 http://www.worldtimes.co.jp/col/siten2/kp111018.html :
@ 京の幕府は、
鎌倉公方派に攻められた、
上杉憲実氏らを救う為に、
大規模な援軍を送り、 この、
永享の乱 ;
≒ 1438年 ~ 1439年 ;
、は、
足利持氏どの、と、その嫡男の、
自刃によって、一旦は、幕を閉じるが
、
それも、つかの間、 鎌倉公方派の、
結城 ユウキ 氏が、 足利持氏どのの、
2人の遺子らを擁して、挙兵し
、
京の幕府は、 再び、軍勢を派遣し、
鎮圧した。
この、 『 結城 合戦 』 ;
≒ 1440年 ~ 1441年 ;
、 は、
京都の人々へ、大きな衝撃を与えた様だ。
落居 ;
≒ 落着 ;
、した時の、 喜びの声は… :
「 悉 コトゴト く、 落居、 天下静謐
惣別大慶也 」 : 『 看聞日記 』、 の、
嘉吉元年は、4月25日 。
「 先以、 此如し、
承悦之萬民含笑のところ也 ;
≒
まずは、 この通り、 万民は、
喜んで、笑みを含んでいる所だ 」
、
『 建内記 』、 嘉吉元年は、 4月23日。
『 永享の乱 』 、 で、
京への謀反を起こした者らの全員が、
罰せられた訳ではなく
、 それが、
次の、 「 結城合戦 」 、 を引き起こす、
原因となった事に対して、
義教将軍は、
自分のゆるさを悔いたのでしょう。
『 結城合戦 』 、 で捕らえられた、
まだ、12歳前後の持氏どのの、
2人の息子ら ;
≒ 安王丸君と春王丸君 ;
、 が、 誅 チュウ 殺され、 京に届けられた、
その首を見て、 涙を流した事は、
誅殺 、 などへの初断が、
社会の一般の人々の安寧を保証する、
幕府による、秩序を維持すべき、
公方としての使命感に基づく、
苦渋の判断だった事を物語り得てもいる。
「 見人誰も、拭涙、 室町殿 ;
≒ 義教将軍 、も、御落涙云々 」
、 『 看聞日記 』 、 の、 嘉吉元年は、
5月19日 ;
≒ 将軍への暗殺行為がなされる、
6月24日の、 1ヶ月ちょっと前 。
基本的に、 「 鎌倉公方派 」 、と、
「 関東管領上杉派 」 、とが、
対立した場合には、 京の幕府は、
上杉側を支援する、構造がある。
@ 『 嘉吉 』 、に、事を、欠きつ、の、
意味を掛け合わせた、当時の狂歌 :
◆ いなかにも 京にも御所の 絶え果てて
公方に、ことを 嘉吉元年 カキツ・ガンネン 。
√ いなかは、 鎌倉 、で、
この事件の数年前に、 義教将軍が、
自らに反抗的な態度を取り続けた、
関東公方の足利持氏どのを攻め滅ぼした ;
≒ 永享の乱 ;
、で、
鎌倉も、京も、御所が絶え果てて、
『 公方 クボウ 』 ;
≒ 『 征夷大将軍 』 ;
に、ことを欠く始末だ
、 との大意だ。 :
この、 『 永享の乱 』 、 の、
一方の当事者である、 関東管領の、
上杉憲実氏は、 山内家の人で
、
彼は、 主君の足利持氏どのの為に、
必死に、 諫言を続け、 挙句に、
主君から、追討の対象にされるも、
持氏どのが敗れて、 自らが、出家してからは、
京の幕府に対して、
主君の助命を嘆願する。
が、
京の幕府の評定で、 却下され
、
上杉憲実氏は、 主君を討つべく、
出兵させられ、主君の持氏どのは、
自刃して果て、 主君を討った事に、
絶望し、 30歳位で、隠居する。
:
「 結城合戦 」 、 の後も、 京の幕府から、
再三に、政界へ復帰する事を求めらるが、
固辞し、 最後は、 放浪の旅に出て、
果てた。
結城氏朝
ユウキ・ウジトモ 氏が、
永享の乱に敗れて、 自害した、
鎌倉公方の幼子らを擁し、 彼らを頂く、
鎌倉府の樹立を目指して、
兵を挙げてから、 4ヶ月後の、
1440年の7月に、
結城城を幕府軍に包囲され
、
翌る、1441年、の、
永享 13年の、 4月16日に、
氏朝氏は、降伏を決意し、
幕府に降伏するに当たり
、 氏朝氏は、
城内にいる女子らの命乞いを願い出て、
足利幕府は、 その条件を、
すんなりと、 呑むが、
幼い春王君と安王君を女装させて、
女子に紛れさせて、 逃がそう❗
、 との、計略が、 結城氏にはあった。
春王君が、13歳で、 安王君が、 11歳だったので、
女子の格好をすれば、 様に成る、と、 結城氏らは、
踏んだのだろうが、
幕府の将兵らに、 2人は、
あっさり、見つかってしまう。
捕えられて、京へ護送される途中の、
5月16日に、 美濃の、垂井 タルイ
、 に差し掛かった時に、
護送役の、 長尾実景氏へ、
飛脚から、 手紙が届けられる。
いつもは、 夜遅くまで歩き続けるのに、
垂井で、 まだ、日の高い内に、
宿の手配がされる。
いつもと違う、その雰囲気に、
手紙の内容を 悟 サト る、 幼い兄弟。
手紙の主は、 義教将軍で、
その内容は、「 即刻、2人を斬れ❗ 」 、 だ。
再び、 輿に乗せられて、
亡き父との縁のある道場へ連れて行かれ、
道場に入ると、 上人と対面した。
上人曰く、 「 鎌倉殿からの恩を、
若君達へ返したい、 何か、
思し召す事があれば、お聞きしたい 」 。
この言葉を聴いて、 兄弟は、
自らの末期 マツゴ 、が迫っている、
事を確信した様だ。
2人は、 風呂を所望し、その身を清める。
その夜は、 酒宴が開かれたが、
警護の将兵らは、 春王ぎみ達の、
末期を察して、沈みがちだった。
春王君は、周りの空気を察して、
舞を舞い、 安王君も、一緒に舞った。
彼らの姿を見て、長尾氏の将兵らは、
涙を袖でぬぐった。
夜が更けて、
長尾兵らから、用意された、
布団で寝る様に促されると、 健気にも、
「 けして、泣いたり、
騒いだりせぬゆえ、 殺す時は、
起こしてたもれ 」 、と、
兄弟は、 頼んだ。
・・ 続きは、 務録 ブロク ;
『 夜桜や 夢に紛れて 降る、寝酒 』
、で❗
平山 陽夏@mutuhaya
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