☆       道義公方    クボウ  ❗     ✖      鎌倉公方ら    ;

       主君でなく、 単なる、 公での上司、な、 室町将軍ら❗    ;
       19/   7/29    5:36     ;

    【      室町幕府の、 足利将軍家は、
一部を除いて、 一般に、
守護大名ら、 に対する、
『   主君   』、 ではなく、 単なる、
  『   上司   』、 でしかなかった。

       江戸幕府の、
    徳川将軍家は、 大名らに対する、
     主君であり
       、
     大名らは、
   直参旗本と同じく、
    徳川将軍家への直臣であり
    、
    大名らの各々への家来らは、
  徳川将軍家への、 直臣ではなく、
   陪臣であり、
   主従関係の宛て付けられてある、
   立場を占めていた、
     が、
 
      室町幕府に参加して、
    管領   カンレイ   、 を務めた、
   斯波氏員らや、 畠山氏員ら
   、 などは、 足利将軍家に対する、
     家来ではなくて
      、
   それへの親戚で、 幕府において、
  部下、な、役職を務めもする
  、 というだけの立場にあり、

       その一方で、 
   細川氏員らのように、
   足利将軍家への親戚でありながら
     、
  累代の家来としての契約性を成して、
   足利将軍家に仕えるべくある、
   人々もあった。

  室町幕府の、 第6代の征夷大将軍である、
   足利義教氏は
    、
  守護大名の、 畠山氏らと共に、
   連歌をたくみに詠む
    、 という、
  農家の娘さんと同席し
    、
  共に、連歌を作り合い、
 その娘さんの才能を愛でている❗
   、
    が、
   この娘さんは、
『   主持ちでは、ない   』、
『   主  アルジ   』
    、 格の人であり
  、
   足利将軍と同じく、
  『   主   』 、格の人、として、
  足利将軍ら、と、同席し得もした、
    のであり、

     幕府の要職にあろうが、
  どんなに羽振りの良い、
  武家員であろうが
   、
  『   主持ち   』 、 な、 
  『   家来   』  、格な人々は
   、
   『   主   』、格な人々とは
    、
  公式には、 同席などは、 できない、
    立場にあり、

     大名であっても、 
   足利将軍家、などを、
  主君とする、 契約性を成した人々は
    、
  この、 農家の娘さんのように、
  将軍家と同席する事、 などは、
  公には、 より、 できない、 
   立場を占めており、

     そうした、 主格の人々と、
   家来格の人々とへの、
  交信系などでの、 独特な区別性、や、
  主格な人々同士の、 交信系などでの、
    対等性、 といった物らは
     、
  足利時代の、 日本人たちの精神性なり、
  その精神性らを規定する、
  価値序列の観念性なり、として、
   特徴性のある物らであり、

      義教将軍が、
   守護大名らの身内員らを、
  自らの、そば近くに仕えさせ、
  その大名らの身内員らを、
 大名らへの跡継ぎにする事で
    、
    守護大名らを、 段々に、
 足利将軍家への累代型の家来に、
入れ替えてゆく、 度合いを、
増さしめてもあった道次で、
  暗殺された❗
   、事への、
  あり得る、要因性らの中にも
    、
  この、時代の特徴的の精神性らの存在
   、と、 
     足利将軍家へ対して、
    守護大名ら、などが、 一般に、
   累代型の家来ではなく、
  主従関係を成して居らず、
  単に、共通な、幕府の体制の中で、
     それへ参加した場合に、
  上司と部下との、役職な上での、
  関係性を公に成す、 だけの、
   間柄しか成して居らず、

       例えば、
   守護代の、 家系員である、
   織田信長氏は
   、
  その先祖らの契約性により
   、
   織田氏を、 守護代に取り立てた、
  斯波氏である、 足利氏員らは、
  自らへの主家員なり、
  主君なり、として、盛り立てる、
  宛てとすべき、筋合いには、
    あり得ては、居たが
     、
   将軍家の方の足利氏員らは、 
  織田氏員ら、などにとって、 単に、
  同じ体制での、上司の家系員らに過ぎず
   、
    自らが、家来として、盛り立ててやるべき、 
  筋合いには、無い、 宛ての、
    人々であり、

     江戸幕府における、 
  大名らへの、家老らや、
  その家系員ら 、とは、
  幕府の長   オサ   、な、 家系員らへ対する、
  関係性については、  著しく、 異なる、
    関係性を成していた。

     戦国時代は、 下剋上の時代
    、 としても、 語られるが
   、
      それは、   より、武力の行使性
   、 などを欠いた立場にあった、
     主格な人々が
    、
  必ずしも、 主格な存在ではなかった、
 武家員ら、などから
   、
  ありもしなかった、 身分制めいた、
  秩序性を、 無理にも宛て付けられ
    、
   より、 元から、 武力の行使性による、
   身分性なり、 序列性なり、が、 より、
  一定の人々に限定される、
   事を、 無しに
     、 より、
  一般の、 主格な人々へまでも、
 宛て付けられるべき、 正統な物としても、
 あり得て来たかのように、
  匂わされる、 度合いら、を、
  各地で、余計に、成し増していきもした、
    時代でもあり、

     神々のどれ彼の格を、
    その子孫員としてある、
  日本人の誰彼らの子孫員として、
  生まれ付きに、 受け継いである、
  日本人たちの、 自らへの主である、
   格性は
    、
『   主持ち   』、になる、
  契約性を成して、 何らかの意味で、
  公の事らにおいては、
    『   主   』 、格な人々のとは、
  区別される、 作為型や、
   不作為型の、 振る舞いようを、
    成すべき、 立場へ、
   特定の先祖員らへの子孫員として、
   その何彼らを引き継ぐと共に、
   自らを据えたり
    、
   自らを、 初代として、
  そうした契約性を成したり、した、
     特殊な、人々においては
     、
  より、 公には、表立てられない、
  筋合いなものとしての度合い、
  を、 成し、 増し得もするべく、
  あった、 宛てなものであった、
    としても
      、
 より、一般な、 主格の人々においてまで、
  『   主持ち   』、としての、
  観念性らが、 その精神性を、
 規定すべき、 いわれ、などは、
   本来は、 より、 無かった❗      】  。 


    ☆      足利時代、と、イタリアの都市国家ら、 に、 傭兵ら❗  03   ;

     1429年、の、 正長2年3月12日に、 将軍宣下をうけたのは、 
     足利義満氏の3男の、  足利義教氏だった。 :

        二度目の将軍職を務めていた、  その兄な、 足利義持氏は、 
   籤引きが行われた、 1428年、の、
  応永35年の正月の、 翌   アク   る、
  18日に没した。 

   義教氏が家督を継いだ為に、 
  征夷大将軍への就任の夢が破れた、
  関東公方の足利持氏殿は、再び、
   不穏な動きを始めた。

      籤引きにより、征夷大将軍に選ばれた、 
    天台座主の義円師は、 還俗して、 
   義宣   、と称し 
≒      後に、 義教   ヨシノリ 
   、 と、 改名し 、 
  征夷大将軍に就任した。 

    この経緯から、義教氏は、
世に、 「  籤引き将軍  」、と、呼ばれる。 

     足利義教将軍は、 当初は、
   有力な守護大名らによる、
衆議により、 政治を行っていたが
   、
  長老格の、 三宝院満済氏や、
  山名時熙氏が死んでからは、 次第に、
   指導性を成す様になり
  、 
     物忌みや、
   好き勝手に暮らす、 が為に、 
  公益や、 公務を省みない、 
  武家員らや、公家員らによる、
  横暴な行為や、 手抜きな事ら、 等から
   、
       世間の一般の人々が、
   泣きを見させられる度合の、
   より少ない、 天下を成すべく
    、 
   公方の下に、 秩序を成す事らが、
  厳格に成し行われる事を目指し
    、
  斯波氏に、畠山氏や、山名氏と、
  京極氏や、富樫氏の、
  家督の相続へも強引に介入し
     、 
  その各々の氏の家臣らからも、
 より、支持を得られる、
  徳性の、より高い、
   意中の者を家督に据えさせ
     、 
1439年、の、 永享11年の、 
  『   永享の乱   』 、 では
     、 
    長年を対立していた、
  鎌倉公方の足利持氏殿を滅ぼし
     、
   比叡山延暦寺とも対立し、
    これを屈服させたが、 
     僧侶らが、
 根本中堂を焼き払い、自殺する、
  騒ぎを成した。 

    足利将軍らの中では、 その父の、
    第3代の征夷大将軍の、 
  足利義満氏に並び得る、主導性を成した。 

    @     6代目の義教将軍は、 
   些細な不正も、決して、許さない、
  厳罰主義者だったし、 
  専制的と捉えられる程に、
   幕政に積極的だったが
     、
        それは、 
     管領や大名らを排除し、 
 将軍の意が、 絶対の、世界に、
  酔いしれたいが為だったのでは、無い❗ 。 

     幕府の私物化や、私曲を交えた政治とは、 
    正反対の理想を持っていた事が、 
  近年の、詳細で、中立的な研究らにより、 
    明らかにされている。

    @     「     室町殿    ≒    足利義教将軍     ;
    、  の政道のお蔭で、
  天下が無事に治まっている     」 、と、 
    諸大名から、書状で、
   賞賛の意を伝えられた、 室町幕府の、
  6代目の征夷大将軍の、足利義教氏は
    、 
    その懇意に痛く喜び、 
    大名らへの返答では、 
  「    各々、分国の政道に、
    精を出すように    」 、 と、
   期待の言葉をかけた。

     義教将軍の時代は、 
  「   鎌倉府との確執   」 、や、
  「   延暦寺の騒動   」 、 に、 
  九州や、伊勢と、大和での紛争など、
   色々と大変な事が立て続いたが
    、
    その都度に、 大名らに諮問し、
  幕府の役職にある、皆で支える、
  幕府体制、の、 基本の姿勢は、
    保たれていた。 

     大名家が、家督を決める際は、 
   それが、   器量の仁    ≒    人     ; 
  、 である事や、
   家臣らの一定数以上からの、
  支持を得ている事を、
   何より、重視した❗  。  

    ※  器量の仁    ; 
≒      その地位や役目にふさわしい、
   才能や、人徳を備えた主  。  
      この様な、 義教将軍の言動の、
  背景に、 貫かれている物は、何か? 、
  それは― 、 "  正しさ  "  、  すなわち、    "  正義  "  、だ。 

      裁許の基準は、 
   自らの好悪の感情ではなく、 
   客観的な、理非の正しさ、で、 
  大名らの意見が一致しない時には、 
  熱心に、 その調整に努めようとする、
   姿勢には、
     最も正しい、  一つの、   "  答え  " 、  を目指しつつも、
    各々の意向へ、最大限に、
   配慮しようとする、 誠意が感じられる。 
      義教将軍の意見だけで、
   全てが決定された事は、なく
   、 
   進んで、大名らの意見を徴し
   、
  大名らも又、 反対意見も含め、 
  自らの考えようを主張する、
   自由性を持っていた。 

     義教将軍は、 諸大名に対する、
   直接的な、   "  諮問  "   、という、
   形式を取る事で、 
  将軍と大名らの主従関係を強化する
   、 と共に、  この時期に、
   各地で多発する紛争らへ、 迅速 、
   かつ、 慎重に対処し得ていた。 

   遊興や酒色に耽ったり、 重税をかけて、
  蓄財に走ったりした形跡が無い、
   事からも、 その、
  社会一般の人々の福利らへ、
  目配りのできる、 
  人格性が観て取られ得る。 

    その、俗世離れした、 
  厳密なまでの道理主義は、 いつ、 
   どこで形成されたか? 、
  それは、彼が、成人まで僧籍にあった 、
   "  還俗  公方  "   ゲンゾク・クボウ 
   、 だったからです。

    上杉謙信氏の神がかりさにも通ずる。

      @     俗世と乖離した世界で、
    修行を続けていた義教さんは、 
   人の大半が、   "   結構と、 適当で、
  なあなあな存在だ   "   、という、 
   現実を受け入れる事が出来なかった。 

  「     万人恐怖、 言う莫 ナカ れ、
言う莫れ     」
  、 
「     薄氷を踏む時節、 恐怖、
極まりなし     」、 等、
    これらは、
当時の日記の記述にある言葉らで、 
  全て、 伏見宮・貞成親王     ;
≒      後花園天皇への実父   、の、
  『   看聞日記   』、 にある言葉らです。 

       公平公正を目指す 、正義の公方の様らは、 
    幕政に関わった、 満済師の、
  『   満済 准后 日記   』
    、や、 
  公家の万里小路時房氏の、
 『   建内記   』 、 の記録らにある。 
       一例を挙げると
    、 
「     御沙汰を正直に…     ≒ 
     訴訟の公正さを標榜した      ;      、
     義教将軍の言葉 
      。 
「     尊卑・親疎によらず、
次第に任せて、 伺い申すべし     ;
     ≒ 
     訴訟は、 身分や縁故によらず、 
   公正な手続き事によるべし     ;
    、 という、
    義教将軍の意向。 

「     政道、 好悪無く、裁許せらるは、
    最も、天心に叶うべし、 珍重珍重    ;
     ≒ 
     私曲の無い政道こそ、
    天皇の御心に添う物だ、 喜ばしい     ;
     ≒ 
     義教将軍の志す、 正しい政道への、
    万里小路時房氏の感想 。 

   「     誓言をもって、 此の如し、
   面々申す条、 真実、懇志の至り、
  御悦喜、殊に、御本意極まり無し     」   ; 
     ≒   
    上述の、大名らからの、
   義教将軍の政道への、心からの賛辞に、
    めちゃめちゃ喜ぶ、義教将軍。 

     これらが、 政務において、直に、
  義教将軍と接していた、
    幕臣らの記録です。

    満済准后   ジュゴウ   、は、 
   『   看聞日記   』で、 
  「   天下の義者   」、と、賞賛される程、
   人々から信頼を集めた、高徳の僧であり、 
   万里小路   マデノコウジ   時房氏は、
   朝廷と幕府の双方で活躍していた、
   公家で、 政務を律儀に記した、 
  『   建内記   』  、 からは、  その、謙虚で、
      誠実な人柄が読み取れます。 

        それに対して、
   『   看聞日記  』
  、の、 筆者の、貞成親王は、 
  皇族員で、 後花園天皇への実父でもある、
   方だから、 当然に、 幕政には、
    関わっていない。 

      その大部分は、 
   人から伝え聞いた話らで、 
   他の同時代の人々の日記らの記述により、 
   事実では、ない❗ 
  、 事が確認される、 
 義教将軍にまつわる噂話らも、
    記述されている。

   @     私曲   しきょく     ;
  ≒      自らの利益だけをはかり、 
  不正で、 邪 ヨコシマ な 、事   : 

  @      後花園天皇と、義教将軍は、 
   非常に厚い信頼関係にあった、
歴史的にも、 希有な君臣で、 
この事からも、 義教将軍は、 
  "  天子の意に沿う  "  、
  正しい政道を志していた事が、判る。 
 
         当時の日記 、 というのは、
   "  公的な記録  "  、  としての意味合いが、
    強い物で、 
   今の様に、 私的な物ではなく、 
    後の世に、  朝儀     ; 
   ≒       朝廷での儀式な事ら     ;
     、や、 
    政務の実態を伝える為に、 
  代々に、家業として成された物であり、
   人に読まれる事を前提に書かれている。 

        朝廷では、   とにかく、
  「  先例  」  、  が重んじられたが
    、 
    この日記により、  遥か昔の、
  「  先例  」  、 を知り得た。 

     書き手により、 それぞれに特徴があり、 
   淡々とした事務的な物から、 
  当時の、 政治、世相、事件、文化、
   噂   ウワサ  ら、 等が満載の、 
    めくるめく物まで、色々だ。 

     書き手の性格も、 おおらかだったり、 
   正義感が強かったり、 愚痴が多かったり
   、 と、 色々とあるw。

  『   看聞日記   』 、 は、 
  どういった類だったか、 というと、 
   かなり、めくるめく系です。 

    義務的な家業、というより、 
  もっと、自由に、 とにかく、
   見聞きした話らを、 熱心に、
   書き記していった物で
    、
   上級の貴族員の遊興の様から、 
    庶民の噂らまで、 その内容は、多彩です。 

     そんな、政治の一線からは、距離を置き、
    社会を見つめていた、貞成親王には、
    将軍な義教氏は、 どの様に映ったのか。 

     諸大名との衆議も尊重しながら、 
   正しき政道に邁進する、
      義教将軍だったが、 
     一方で、 
   理想の天下を夢見る、彼の完璧主義は、
 やがて、 ほんの少しの不正も許さない、
  厳罰主義、という、一面をも見せ始める。 

      僧侶であった、公方として、 
  正しき天下を成す事への使命感が、
   半端では、無い、
  義教さんは、 当然に、 監視の目も厳しい。

     コネや、   口入    クニュウ     ; 
   ≒       口利きのこと     ;   
     、
  緩怠   ≒     サボる事      ;
    、
   密通    ≒    姦通 
     、
    一族による利権の独占、 等々、
   "  不義な事  " 、  が、  とにかく、大嫌い。
     見つかろうものなら、 即、お叱りです。

     ※一例;      …丹波守護代と、伊賀守護は、
    緩怠がばれて、 改替 。

     √     出仕への停止     チョウジ   
   、 や、
    所領への没収 、 などの、 処分を受けた公家も、
     数知れず❗ 。  

    それまでの、 室町幕府ならぬ、
    ゆる町幕府の、
   ぬるい処遇で来てしまった、
   彼らの心へ、 大変な衝撃を与えたろう。

   『   看聞日記   』  、 には、 
    年貢の未進の事を、 
  義教将軍の耳に入れない様に、
   懇願する声が見られたりする。 

   「   薄氷を踏む時節   」、なる記述は、
   厳正な将軍の前に、 背筋を伸ばして、
  シャキっとせざるを得ない人々へ宛てての、
   気の毒さを表現した言葉です。 

    上流階級にある公家員らにとっては、 
   それまで、叱られる経験が、
     殆ど、 無かったろうし
    、
    貴族員らにも、  『   道理   』 、が、
  適用されるなんて、驚愕の事態だった❗
   、 と、 思われる。 

     ゆるい事に対しては、  他の時代も、
   割と、 厳しかったし、  特に、
   義満将軍や、義持将軍の代でも、
   厳しかったが、 規律を守る為に、
  厳しさが必要な事は、 
  義教将軍期に限った事ではない、 
     当然の常識です。 

  「     訴訟は    ) 、  尊卑・親疎によらず…    」
    、  というのは、
     より、 利権を持った、
  身分の高い者らにとっては、
   超絶に、  不都合だが、
   縁故の無い、身分の低い人々にとっては、 
     非常に有難い方針だ
     、と、思われる。 

     中世において、 地位や、
   権力を差し置いて、
 「    公平公正に優る物なし❗    」、 とし、
    道理を第一とする、
  訴訟制度を成し行われる様にした。 

      鎌倉時代から、 
  武家政権の標榜した事らを、
    理想で終わらせず、 
  制度への改革を推し進め、 
積極的に、実現しようとした所が
    、 
   義教将軍期の特徴で、 
   それに加えて、
  義教将軍は、 公正な手続きを重視する、
  観点から、  正規の手続きを踏まない      ;
    ≒      縁故による      ;       、
    "  直訴  "  、 を禁ずる、  一方で
    、 
      縁故がない為に、
   訴訟を受理して貰えずにいる、
  人々への救済な措置として、
     一部では、 
   直訴   ジキソ  、を認めた❗ 。 

      義教将軍の、
  "  正しさや、理想に対する、追求ぶり  "
   、 は、
  終始、一貫しており、
      "  厳密さ  " 
   、 は、
  後半に近付く程に、 増していく、
  様にも観られ得る。 

      室町幕府では、 満済准后のごとく、
    直に、政務に関わる僧の他に、 
    政道への指南者として、 
  初代の尊氏氏や直義氏にとっての、
    夢窓疎石師、や、 
  3代目の義満将軍 、とか、
   鎌倉公方の初代の、足利基氏殿 、に、
2代目の、足利氏満氏にとっての、
   義堂周信師、の様に、 
   教養の高い、高僧の助言や助力により、
   広く、万民に資する、
  公正な政治を実現せんとしていた。

    義堂周信師が、義満将軍に説いた、
  為政者の心構えは、 
 「     国家を治むる者、 先づ、
   明徳・正心・誠意・修身、
是れ、最も緊要なり     」   ;
  ≒ 
    政治家には、  まず第一に、 
「     非常に高い人間性     ;
 ≒     共感構築型の知的な創造性     」   ;
  、 を要求した。

     @      夢窓国師に絡む物に、 
  『   夢中問答集   』 、 という、
    世俗に向けて、 解り易く、
  仏教の本質や、禅の在り方を解いた、
   書があり、 その中に、 
  政治についても言及した部分らがある。

     これは、 夢窓国師 、と、
     足利直義氏 、 との、 
  "  問答形式  "  になっており
    、 
    夢窓国師 の  "  答え  "  の方が、
    圧倒的に、 長いが
    、
  "  答え  "   を理解出来ないと
    、
   "  問い  "   も出来ない 、と言う、
    意味を踏まえると
     、 
     高僧と互角に問答し得ている、
   足利直義氏の凄さにも圧倒される。

     この書の原型は、 夢窓国師の、
  "  答え  "   らを、 直義氏が、暗記し、
  書き貯めたものw    : 

        @        関東の事は、
     鎌倉府を置いて、 『   鎌倉公方   』 、と、
それを補佐する、 『 関東管領 』 
≒ 上杉氏 、に任せていたが、 
この鎌倉勢は、 時折、
厄介な事をしでかす、
荒くれ魂の持ち主らだった。 

「 鎌倉公方が、悪役… 」、 という、
単純な話ではなく、 
京都の将軍に、 問題があって…、
という様な例もあった。 

『 鎌倉公方 』、 は、 
尊氏どんの子の、 足利基氏どん
≒ 2代目の足利義詮将軍の弟 、
に始まり、 : 
足利基氏 → 足利氏満 → 足利満兼 → 足利持氏 → 足利成氏 …、 
と、続いていく。 
6代目の、義教将軍の時代には、
『 鎌倉公方 』、 が、 
足利持氏 もちうじ 、氏で、 
『 関東管領 』 、 が、 
上杉憲実 のりざね 、氏だった。 

この足利持氏殿は、 義教氏が、
6代目の将軍にされる前に、 
嫡男のいない、4代目の、
義持将軍の後継ぎとして、 自分が、
京の将軍の座に就きたい、
と、考えていたが、 僧籍にあった、
義持将軍の弟の、 義教氏に、
将軍職が行く事が決定したので、
納得がいかず、 鎌倉にありながら、 
京都の義教将軍へ、色々と対抗した。 

       
    ◇    解放を急ぐべき、 シナによる、 桜木琢磨市議ら 実質 拉致事件ら❗   ;
    
   ☆     道義の公方  ;      足利義教将軍❗     ;
1441年の、  嘉吉元年の前後 :      傭兵らから常備軍の都市国家ら。 
     2015  /   8/19   12:6:1  ;
根途記事➕論評群 http://www.worldtimes.co.jp/col/siten2/kp111018.html : 

     @       京の幕府は、
   鎌倉公方派に攻められた、
   上杉憲実氏らを救う為に、
  大規模な援軍を送り、 この、
     永享の乱     ; 
 ≒     1438年   ~  1439年      ;
    、は、
   足利持氏どの、と、その嫡男の、
  自刃によって、一旦は、幕を閉じるが
    、
    それも、つかの間、 鎌倉公方派の、
  結城   ユウキ  氏が、 足利持氏どのの、
  2人の遺子らを擁して、挙兵し
    、
    京の幕府は、 再び、軍勢を派遣し、
    鎮圧した。 

     この、 『   結城 合戦   』     ; 
  ≒      1440年   ~  1441年       ;
     、 は、 
  京都の人々へ、大きな衝撃を与えた様だ。 

      落居      ; 
≒     落着      ;   
   、した時の、 喜びの声は…     : 

   「     悉   コトゴト   く、  落居、 天下静謐 
   惣別大慶也     」   :     『   看聞日記   』、 の、
     嘉吉元年は、4月25日 。 

  「     先以、 此如し、
    承悦之萬民含笑のところ也     ;
    ≒ 
   まずは、 この通り、 万民は、
  喜んで、笑みを含んでいる所だ     」
     、 
  『   建内記   』、  嘉吉元年は、 4月23日。 

      『    永享の乱    』  、 で、
   京への謀反を起こした者らの全員が、
    罰せられた訳ではなく
    、 それが、 
  次の、 「   結城合戦   」  、 を引き起こす、
   原因となった事に対して、 
   義教将軍は、 
  自分のゆるさを悔いたのでしょう。

    『   結城合戦   』 、 で捕らえられた、 
   まだ、12歳前後の持氏どのの、
     2人の息子ら     ;
  ≒      安王丸君と春王丸君      ;
   、 が、  誅  チュウ  殺され、 京に届けられた、
   その首を見て、 涙を流した事は、
    誅殺 、 などへの初断が、 
  社会の一般の人々の安寧を保証する、
  幕府による、秩序を維持すべき、
   公方としての使命感に基づく、
   苦渋の判断だった事を物語り得てもいる。

     「     見人誰も、拭涙、 室町殿    ;
  ≒    義教将軍    、も、御落涙云々    」
   、 『 看聞日記 』 、 の、 嘉吉元年は、 
    5月19日      ;
  ≒      将軍への暗殺行為がなされる、
    6月24日の、 1ヶ月ちょっと前 。    

        基本的に、 「   鎌倉公方派   」 、と、
   「   関東管領上杉派   」  、とが、
     対立した場合には、   京の幕府は、
     上杉側を支援する、構造がある。 

         @     『   嘉吉   』 、に、事を、欠きつ、の、
      意味を掛け合わせた、当時の狂歌     : 

      ◆   いなかにも           京にも御所の            絶え果てて 
               公方に、ことを             嘉吉元年   カキツ・ガンネン  。

         √      いなかは、  鎌倉 、で、 
    この事件の数年前に、 義教将軍が、 
   自らに反抗的な態度を取り続けた、
   関東公方の足利持氏どのを攻め滅ぼした     ;
   ≒        永享の乱         ;
      、で、 
   鎌倉も、京も、御所が絶え果てて、 
   『   公方  クボウ   』     ;
  ≒     『    征夷大将軍    』     ;
    に、ことを欠く始末だ 
    、 との大意だ。 : 

      この、 『   永享の乱   』 、 の、
    一方の当事者である、 関東管領の、
     上杉憲実氏は、  山内家の人で
       、 
      彼は、  主君の足利持氏どのの為に、
   必死に、 諫言を続け、 挙句に、
    主君から、追討の対象にされるも、 
   持氏どのが敗れて、  自らが、出家してからは、
     京の幕府に対して、
    主君の助命を嘆願する。 
      が、 
    京の幕府の評定で、 却下され
     、 
    上杉憲実氏は、 主君を討つべく、
   出兵させられ、主君の持氏どのは、
  自刃して果て、 主君を討った事に、
    絶望し、  30歳位で、隠居する。 
   「   結城合戦  」  、 の後も、  京の幕府から、
  再三に、政界へ復帰する事を求めらるが、
   固辞し、  最後は、 放浪の旅に出て、
    果てた。 

      結城氏朝 
    ユウキ・ウジトモ  氏が、 
   永享の乱に敗れて、 自害した、
    鎌倉公方の幼子らを擁し、 彼らを頂く、
    鎌倉府の樹立を目指して、
    兵を挙げてから、  4ヶ月後の、
    1440年の7月に、 
     結城城を幕府軍に包囲され
     、 
     翌る、1441年、の、
  永享  13年の、 4月16日に、
     氏朝氏は、降伏を決意し、 
      幕府に降伏するに当たり
    、 氏朝氏は、
   城内にいる女子らの命乞いを願い出て、
    足利幕府は、 その条件を、
   すんなりと、 呑むが、 
  幼い春王君と安王君を女装させて、 
    女子に紛れさせて、 逃がそう❗
   、 との、計略が、  結城氏にはあった。

       春王君が、13歳で、 安王君が、 11歳だったので、 
   女子の格好をすれば、 様に成る、と、 結城氏らは、
    踏んだのだろうが、 
    幕府の将兵らに、 2人は、
   あっさり、見つかってしまう。 

     捕えられて、京へ護送される途中の、
  5月16日に、 美濃の、垂井   タルイ   
    、 に差し掛かった時に、
    護送役の、 長尾実景氏へ、
   飛脚から、 手紙が届けられる。

       いつもは、  夜遅くまで歩き続けるのに、
    垂井で、 まだ、日の高い内に、
    宿の手配がされる。 

      いつもと違う、その雰囲気に、 
  手紙の内容を 悟  サト  る、 幼い兄弟。 

      手紙の主は、  義教将軍で、
    その内容は、「    即刻、2人を斬れ❗    」 、 だ。

      再び、 輿に乗せられて、
  亡き父との縁のある道場へ連れて行かれ、 
    道場に入ると、 上人と対面した。 

     上人曰く、  「     鎌倉殿からの恩を、
   若君達へ返したい、 何か、
   思し召す事があれば、お聞きしたい     」 。

      この言葉を聴いて、 兄弟は、
    自らの末期   マツゴ   、が迫っている、
    事を確信した様だ。 

    2人は、  風呂を所望し、その身を清める。 

    その夜は、 酒宴が開かれたが、
    警護の将兵らは、 春王ぎみ達の、
   末期を察して、沈みがちだった。 

     春王君は、周りの空気を察して、
    舞を舞い、  安王君も、一緒に舞った。

      彼らの姿を見て、長尾氏の将兵らは、
   涙を袖でぬぐった。 
      夜が更けて、
  長尾兵らから、用意された、
  布団で寝る様に促されると、 健気にも、 
    「     けして、泣いたり、
    騒いだりせぬゆえ、 殺す時は、
   起こしてたもれ     」  、と、
      兄弟は、 頼んだ。 
  
          ・・ 続きは、 務録    ブロク    ;
 『    夜桜や    夢に紛れて    降る、寝酒    』
 、で❗