◇楠が            知恵の程こそ               底深し
           水の張り澄む           舟に赤土・・❗     

    ☆      本能寺の変後、  明智軍と織田軍が、
    船戦❗    ;   伝説生んだ戦いか ;
   滋賀は、石山寺で、古文書を発見    ;
   2020/    6/8    ;

      天正➕年   (  1582年  )、  6月2日、
    本能寺の変で、 織田信長氏が、
   家臣の明智光秀氏に討たれた。
   その直後に、  明智軍と信長軍が、
   琵琶湖で、 船戦  (  ふないくさ  )
  、 をしたことを記す、 古文書が、
   石山寺  (  大津市  )、 で見つかった。

     明智軍を率いたのは、 明智秀満氏    ;
 (    左馬助  (   さまのすけ   )。

    愛馬に乗って、 琵琶湖を渡った、
  「  湖水渡り  」、 の伝説で知られるが、
   関連資料は、少なく、 貴重な発見
   、 という。 
https://www.asahi.com/articles/ASN666Q81N62PTJB00B.html      ID:S1I4zNvl0    ;
   NHK   ;    「   マジで?、 
   脚本を変えなきゃ   」 。

     ID:dvCkSl1q0     ;       左馬之助の話なら、
   本能寺の変の後の山崎の合戦の、
  さらにあとで、   明智軍が、ほぼ、
   負けが確定になった後で、  安土城から、
   坂本城を救援しようと向かった
  、 っていう話の時の奴かな。

 ID:VeKsCKBS0     ;       琵琶湖水軍って、
  あったの?  。

 ID:k5Tgey5F0    >>12     ;        北方衆だか、
  何だか言って、     琵琶湖を経由で、
  物流に携わっていた人らがおったやろ。
   あの辺の人らちゃう?  。

    ID:k5Tgey5F0 >>18      ;      あ、堅田衆やな、 
   何か、思い違いしとったw 。

    ID:VeKsCKBS0    ;       今、ググった、 
   堅田衆と菅浦水軍とやらが居て、 時々に、
  争っていたらしい。

 ID:3MLR4Tza0  >>1    ;      なぜか、
  古文書って、  大河ドラマに合わせて、
  発見されるよな。

 ID:uYCgwD9k0  >>33      ;      そうだよ。
  みんな、 大河に乗っかって、
  街おこしをするから。 
  資料らを一生懸命にあさって、
 そのまちお越しの材料にするんだよ。

     ID:X63Y4XEV0     ;        2万にも満たない、
   軍勢で、 琵琶湖まで戦線を広げる明智勢   ;
   そりゃ、 羽柴勢に負けるわ。

 ID:SplalwWh0  >>37     ;        明智の領地は、
  琵琶湖の西側だけ。      本能寺の後から、
   織田の琵琶湖の南から東までを、
  一気に攻めて、 城を接収している。 
 同時に、 長曾我部・細川・筒井・高山まで、
   書状を送って、 万全の態勢を敷いた
   (  失敗  ) 。

    ID:/vPqRGS90     ;       と言う、
  小説だったって事は、  ...ないか。
     探せば、 有るもんだね。
   全国各地の寺社は、蔵を掃除するべき。

          ◇    それまでの流れ   ;

     ・・  
     ◇   『   楠公飯 なんこうめし   』  ;
   ☆    産経新聞 ❗    ;

 3年前にヒットした、 アニメ映画な、
  『  この世界の片隅に  』 、 に、
  こう名付けられた、ご飯が登場する。

第二次大戦下の広島・呉に嫁いだ少女が、
食糧事情が悪くなる中で、 作るのが、
『  楠公飯  』 、 だ。

 楠木正成   くすのき・まさしげ   氏が、
  考案したとされ、 炒  イ  った、 玄米 、を、
3倍の水に、 一晩を浸   ツ   けて、 炊く。
   玄米が膨らんで、 量は増えるが、
  味は、 不評だったようだ。

    映画では、
「   あれを喜んで召し上がる、 楠木公、
  という人は、ほんまの
   豪傑なんじゃろうねぇ    」 、 と、 
  主人公の家族も、 ぽつりと言う。

 「   忠臣・正成氏の精神にあやかろう、
   としたのでしょう。    民間で、
推奨されはしましたが、
  栄養価、や、 カロリー、 が、
変わるわけではなく、
あまり、 普及しませんでした   」。

 戦時下の暮らしに詳しい、
埼玉大の一ノ瀬俊也教授は、
  そう指摘する。

 楠公飯を考案したのが、 正成氏か、
  それを裏付ける史料は、 無い。
とはいえ、 千早城
(   大阪府は、 千早赤阪村   ) 、 で、
  約  百日に及ぶ、 籠城戦に耐え抜いた、
  正成氏に、 後世の人が、 意目侍    イメジ
  ≒    イメージ     、 を重ねて、
  楠公飯 、 と、 名付けたとしても、
  不思議では、ない。

 正成氏は、 千早城で、
   巨石や材木を落とす。
  ▽ 藁   ワラ   、 の人形を兵に仕立てる。
   ▽   翻封     ホンプ     ;
   ≒    ポンプ     ;       、で、 
   油を撒   マ   いて、   応戦−と、 
    独創的な戦法を繰り広げた。

 <    わづかに千人に足らぬ小勢   コゼイ
  にて、 誰   タレ   を憑   タノ   み、
  何を待つとしもなく、 城中にこらへて、
   防き戦ひける、 楠    クスノキ 
   が心の程こそ、 不思議なれ   >     ;

 援軍もなく、 先の見えない中で、
千人足らずで、 鎌倉幕府の大軍を相手に、
持ちこたえた正成氏は、 大胆不敵だ、と、
  『   太平記   』 、は、 書く。

   ◇    下赤坂城   (  同  )  、で、
   自害を装って、 行方をくらませた、
   正成氏が、 再び、 
  歴史の表舞台に姿を現すのは、
    鎌倉幕府が滅ぼされる、前の年、な、
   1332年でもある、
  元弘   ゲンコウ   2年、の、 11月ごろ。

   共に、 姿を隠した、 盟友の、大塔宮
  オオトウのミヤ   護良   モリヨシ  
   親王は、 一足早く、 同年の6月に、
   倒幕運動に再び参戦している。

    それに比べると、 5カ月をば、 遅い。
    千早城の完成を待つ事に加え、
  籠城に備えて、 米、への、
  収穫期を待っていた、のではないか、
   とも、 推測できる。
  
 <    米粟   三万石、   大豆    二千余石、
   塩   五百石、 その他、 干し魚、
  海藻の類、 数知れず、 貯蔵    >   ;

 昭和10年に出版された、
  『  古戦場物語  』 、 という本に、
千早城の備蓄に関する記述が出てくる。

  数字への信憑 シンピョウ  性は、ともかく、
  正成氏が、 籠城の準備に万全を期していた、
ことは、 確かだろう。

 翌 アク  る、 元弘3年の2月に、
  正成氏は、 天険の地・千早城に籠もる。

   山間部で、 戦うことで、
関東の騎馬武者の力をそごうとしたのだ。

    楠木軍に、てこずれば、
  幕府の威信は、 地に落ち、 逆に、
一蹴しても、 当然で、
 幕府の威信は、 上がりはしない。

恩賞の問題が残るだけ。 ここにこそ、
正成氏の狙いがある、 と、 いえよう。

「   籠城中、 領民が、兵糧を運び入れていた、
とも、伝わっています。
強い信頼関係、 と、 考えられます。
また、 籠城の開始は、 今の暦で、
4月末から、5月の初旬。
ウサギや鳥、植物、 などの、
 調達が可能になる季節です   」。

 千早赤阪村教育課の原田沙由未   サユミ
 主事は、兵糧事情について、こう解説する。

 補給という点では、阪南大の、
 和泉大樹准教授の指摘も、興味深い。

 「    正成氏は、 常に、 
逃走流途を確保した上で、築城しています。
  千早城も、金剛山を経由し、
奈良方面へ抜けられる。 それは、
裏を返せば、 兵糧の補給路にもなります   」。

 実際に、 そうした道を使って、
  紀州は、  中辺路 ナカヘチ  の武士、な、 
  野長瀬六郎盛忠氏が、
米、の、 5百石を、 3回を運び込んだ、
と、 原田主事は、話す。

その縁で、 千早赤阪村は、 昭和57年、に、
和歌山県は、 中辺路町  (   現、 田辺市   ) 、
  と、 友好提携。
   平成6年には、 恩返しにと、
村民らが、 当時の流途を、 中辺路まで、
4日がかりで、 歩いた、 という。

   ◇    兵糧と同様、籠城に重要な、
水は、 どう確保したか     ;

 「   正成氏は、 水源も熟知して、
千早城を造ったのでしょう。  もとから、
  この地域の水を管理していた、
と、 考えられます   」。
 和泉准教授は、そう話す。

 『  太平記  』 、 によると、
  千早城の辺りには、 山伏のみが知る、
水源、が、 5カ所が、あり、   一夜に、
    9百 立樽   リッタル     ;
≒     リットル    、 が、 湧く、 という。

  また、   水桶   ミズオケ    、を、 城内に、
   2百   〜   3百個   、 を設置。
   樋   トイ   、 を巡らせ、 雨水も、
  残らず、 貯   タクワ   えた。

 <    舟の底に、 赤土を沈めて、 水の性
ショウ 、を損ぜぬやうにして、
  拵   コシラ  へたり    >     ;

 水質への管理にも、 工夫を凝らし、
桶の底に、 赤土を沈めて、
水質の劣化を抑えた。

   こうした点を、 『  太平記  』 、は、
  <   楠が    智恵の程こそ、  浅からね    > 
   、 と、 絶賛する。

 「    長期戦を見越していたのでしょう。
千早城には、 “野戦病院”があった、
とも、いわれ、 修験者 スゲンザ
、らから、 漢方を調達していた、
可能性もあります   」 、
 原田主事は、そう話す。

 後方支援   (   ロジスティクス   )
   体制が整っていたことが、
   籠城戦での勝因の一つになった、
  ことは、 間違いが、無い。

    対照的に、 鎌倉幕府軍は、
  護良親王の配下の野伏   ノブシ    、
    ノブセリ (   武装民兵   ) 、に、
  補給路を断たれ、 次々に、
    退却していった。

   食料や水の確保、 治療の態勢といった、
  正成氏の戦略、着眼は、 十分に、
  今日から見ても、 有用なのだ。

   ◇■   正成氏の陣中食    ;

 戦前の陸軍糧秣本廠
(   りょうまつほんしょう   ) 、が、
昭和9年に刊行した、 『 日本兵食史 』 、
に、 「 楠氏兵利丸 」 、 
  というものが、 紹介されている。

   携帯しやすいように、
『   丸薬状にした   』 、 保存食で、
諸説があるが、
楠木正成氏が、 陣中で、部下に与えた、
とも、される。

  原料は、 蝮   マムシ   、
茯苓   ブクリョウ     ;
(   サルノコシカケ科の菌類   ) 、 など。

 食文化史研究家で、 NHK、の、
   大河堵覧    ドラン    ;     ドラマ    ;
 、 の食膳への再現にも協力した、
永山久夫さんは、 この、 楠氏兵利丸、を、
「   楠木軍のエネルギー源だったのでは   」 、
  と話す。
  また、 永山さんは、 籠城中の楠木軍は、
大豆を使って、   タンパク質に富む、
  モヤシ 、を大量に作り、
栄養を補給していたのではないか、
  と、 推測する。

          ・・ 続きは、  務録     ブロク      ;
 『    夜桜や    夢に紛れて    降る、寝酒    』
 、 で❗ 。