☆    1189年   〜    十字軍に、
   大河兼任の乱     : 
 鎌倉時代の、エドワード一世や、ルイ9世   :
    歴史拾遺   ヒロイ  ;

             源平合戦ってあるけど、
    大体は、 源氏員ら、と、
  平氏員ら、との戦いみたいになるけど、
    源氏 ✖   平氏 ✖    奥州藤原氏 、の、
   三つ巴だった、 と、 思うんだよね。 

     ちょっと、三国志っぽいと思うんだけど。
    平氏と藤原氏が、組んだりする、
  可能性って、 なかったのかな?   ;


     2: 日本@名無史さん  2019/5/1  ( 水 )  ; 
   15:51:5.27    ;
      源義経氏を匿っていたりしたから、
  源氏に擦り寄る事は、 考えていたんだろう、
   けど。 
   平家に近づこうとは、 
   思わなかったのかね。

     @       藤原秀衡氏が、  はじめに、
  義経氏を匿わなくて、  平氏へ、
  差し出していたら、  源氏は、
   天下を取れたかな?。

     @      義経氏が死んだあとの、
  鎌倉幕府   ✖   奥州って、
   鎌倉の圧勝だったの?。

     @       奥州藤原氏は、
   天下は、 狙っていなかっただろうね。 
  将軍として、 奥州での覇権を、
   というのが、 基本で、 
   将軍としての権威性は、
   朝廷が、 根拠として、 重要でもあり。

     @     奥州藤原氏は、  奥六郡の、
   安倍氏の系譜員ら、で、 全国への指向性は、 
  無かった、  と思う。
     東北モンロー主義。 

    @     いっそ、 北海道方面を開拓して、
  王国を作っちゃえば、良かったのにね。

     @      丁度で、  鎌倉に入ったあたりから、
   全国的に寒冷化する❗ 、
   ので、 厳しいね。

    @    そもそも、 義経氏を差し出したのに、
   奥州が、 鎌倉軍に攻め込まれたのは、
   なんでなの?。 

     @      将来に、 鎌倉幕府に逆らう、
   謀反人を、 奥州藤原氏がかくまう、
  かもしれんな。 
   予防のために、 潰しておくか 
     by     源頼朝氏。

     @     奥州合戦も、  9月で終わった、
  みたいだけど、  雪が降るまで、
  耐えられていたら、  また、
  違った展開になっていたかもな。

    @     なんか、  平家って、
  あっけなさすぎない?、   もっと、
   粘れなかったんだろうか? 

    奥州藤原氏も、 源氏と平家が、
   削りあって、勢力が落ちるのを、
  狙っていたんじゃないかな。

    @      平氏は、  天下を取ってからは、
  都に君臨するのみで、 支持基盤の、
   西国への施案   セア   ;    ケア    ;     、
   を、 なおざりにしていた。 

    平氏が、都を追われて、西国へ逃れたら、
  西国の武士らに、、そっぽを向かれた。 
  それをみていたから、 頼朝氏は、
  京都に住まず、 鎌倉を本拠地とし続けた、
   度合いも、あるのだろう。

   @      平家方は、  倶利伽羅峠で、
  その侍大将位案   クラン   ;     クラス    ;
  、が、 吹き飛んだにしては、 粘った方。

    @     奥州藤原氏の目的は、
  東北地方の自治で、 それ以上でも、
  それ以下でも、ない。

    @      だったら、  源氏が、天下を取った、
  時点で、  義経氏を、 即座に、
  鎌倉方へ、差し出すべきだろう。

    @      今から考えれば、本当は、
  そうすべきだった、 と思う。 

    しかし、  藤原秀衡氏は、  義経氏を、
  かわいがって育てた、 第二の父親だ。 
    窮鳥、 懐   フトコロ   に(  略   、  という、
   ことわざもあるが、  義経氏を斬って、
  鎌倉へ首を送るのが、
   忍びなかったのだろう。 

    また、 頼朝氏が、 もし、
  奥州へ攻めてきたら、 義経氏を大将にして、
  迎え撃つ、という、   貨兌   カダ    ;
  カード   ;     、   を残しておくことで、
  頼朝氏らの、 奥州への征伐を、
  思いとどまらせたい、  という、
   気持ちもあったり   ;
  (    もとは、  義経氏を、 秀衡氏が、
  かくまった時は、  平家の天下だが、
   万が一にも、  平家が、  奥州、への、
   征伐を起こしたら、 義経氏を旗頭にして、
   源氏の蜂起を狙っていたのでは、
  とも、考えられる   ) 。

     ☆     誰が、 鎌倉方の総帥に成っても、
    京都の朝廷側、 と、 奥州の勢力とからの、
  自らへの挟み撃ち、の、 あり得る度合いを、
   減らし去る上では、
    奥州への征伐を成すべき、
   必要性がある、 からには、
     朝廷側への、
  足止めをして置いてから、ならば、
   奥州への征伐をする事は、
     時間の問題な事であって、
     義経氏を、 奥州側が、
   軍司令官に据えるべき、 必要性が、
    奥州側には、あった。
    
     @      藤原秀衡氏って、
  平清盛氏や、 源頼朝氏と比べても、
  遜色がないぐらいの政治家だよね?。

     @     奥州藤原氏は、
   広大な土地を支配していたが、
  兵士の動員力は、  2~3万程度に、
  過ぎなかった。 
   当時の東北地方は、  米の生産量は、低く、
  人口が少なかった❗ 、 ためだ。 

    辺境地帯の有力者ではあるが、
   中央の貴族の平家や、 
   関東の穀倉地帯の覇者である、   
  源頼朝氏とは、 比較にならなかった、
   と、思う。
   また、軍事貴族の地位と勢力を持ち、
   公卿に上った平家や、
    源頼朝氏らとは、 格が違った。

    @     平家みたいに、
  貿易とかは、してなかったの?。

     @     やってるぞ❗。 
    日本海での交易に噛んでて、
  『  渤海  』、 とも、交易していた。

       @      そういえば、  奥州藤原氏には、
  黄金が、 沢山にあったわけでしょ。
  金の力で、 何とかならんかったのかな。

   @     公家員ら、が、 天下を掌握していた、
  頃は、  奥州の金を献上して、うまく、
  付き合いが、できていた。 
    頼朝氏に、 その手は、通用しなかった。 
    平清盛氏の場合は、 もとからの、
  勢力基盤の西国とか、 貿易の相手の、
  海外には、 関心が高くても、
  関東より先へは、 関心性が低かった。

       @      奥州藤原氏が、  東北に、
    君臨できたのは、   朝廷     ;   
  (   院・摂関家   )  、
  平家が、 京都にいて、  遠方であったから、
  中央に、ある程度は、  従順な、
   辺境の有力者として振舞えたからだろう。 
    中央貴族とも、友好な関係性を、
   築いていた。 
   関東という、 至近距離に、
   強大な軍事力を持った、
  武家政権ができたことが、
  奥州藤原氏にとって、 命取りになった。

    @      奥州藤原氏が滅びた後って、
  誰が、 東北を支配したの? 。
   鎌倉幕府から、 誰か、
  派遣されたわけでしょ? 。

   @     奥州への征伐の後に、
  頼朝将軍が、  奥州を、
   関東の御家人らに分け与えた❗ 。 

    蘆名氏は、 三浦氏の分家。 
   相馬氏は、 千葉氏の分家。
   伊達氏  ➕   葛西氏 、は、
   豊島氏の分家。

    @     幕府の宿老、な、大江広元氏の子孫も、
   東北に所領をもらっているね。 
   長井荘とか、 寒河江荘を拝領して、
  室町時代まで続いている。

    @     たとえば、  頼朝氏は、
   平家を倒すときに、 裏から、
   藤原氏が攻めて来るかも❗ 、
  って、警戒してたりは、したんだろうか?。

     @     朝廷から、  木曽義仲氏、への、
  追討のために、  頼朝氏の上洛を求められた、
   時には、  留守を、
   奥州藤原氏に狙われるから、  という、
  理由で、 断ったりしている❗ 。 

     奥州藤原氏は、  義経氏を匿うなどし、
   源氏に、 好意的だった一方で、
   平氏政権からは、  陸奥守に任じられる、
  などし、  平氏とも、付き合いはあった。 
   
     奥州藤原氏とすれば、
   源氏と平氏のどっちが勝っても、
  上手に立ち回れるように、
  外交したんだろうが、  頼朝氏らからは、
  潜在的脅威と認識されるようになった、
  と、 思われる。

     @      頼朝氏は、  挙兵したころは、
  いったんは、   奥州へ逃れる、
  案も、あったらしいから、
   奥州藤原氏は、 友好的な勢力、
  と、 考えていた可能性が、 高い❗ 。 
  奥州で、かくまわれていた義経氏が、
  頼朝氏の陣に加わる為に、出征する時も、
   藤原秀衡氏は、  義経氏へ、
   従者をつけてくれた❗ 。

    @     ってことは、 味方だった、 
  藤原氏を滅ぼしたってわけか。 
  やっぱ、天下を取る人は、 非情だね。

     @       よく、 漫画やドラマだと、
  義経氏が、 逃避行の末に、
  奥州の平泉へ、いきなり、 押しかけて、
  秀衡氏が、 情にほだされて、
  義経氏を保護した、  という、
  お話になっているけど、 実際は、
  奥州藤原氏の家来か、 御用商人    ;
 (   金売り吉次氏?   )  、  が、
   秀衡氏の密命を受けて、  畿内で、
  行き場を失った義経氏を、
   奥州平泉へ、 密かに案内したのではないか、
  と思う。

    @      義経氏は、  異母兄な、
  頼朝氏との戦いを決意して、
  後白河法皇から、 頼朝氏、への、
  追討の院宣を得た際に、 畿内や、
  九州の兵力を当てにしていたようだ。

    義経氏が都落ちする時も、
  奥州へは、 向かわず、  正反対の、
  九州へ向かおうとした❗ 。 

    これは、  豊後     ;   (  大分県  )、の、
  緒方氏を、 味方と頼んだからだ。 

   しかし、  船が難破して、
   九州行きは、 失敗❗ 、   京都は、
   鎌倉軍に占領され、
    緒方氏も、 鎌倉に降伏❗ 。 

    義経氏は、  畿内の、公家や、
  寺社に密かに匿われて、転々としていた、
   が、  その間に、
   義経氏、への、 合力者で、
  和泉に勢力を持っていた、  源行家氏、や、
  大和に勢力を持っていた、 源有綱氏、とか、
   義経氏への家臣で、 伊勢の山賊の出の、
  伊勢三郎氏が、 鎌倉軍に、 相次いで、
  見つかって、 討ち取られ、
   義経氏は、 再起の道筋が見えず、   
  途方に暮れていた、 と、 思われる。 

    そんな中で、  頼朝将軍は、
   奥州藤原氏に、圧力をかけていた❗ 。 
   
   それまで、 奥州藤原氏は、京都の朝廷へ、
  直に、 献金していた、
  が、  それを、  頼朝氏が仲介して、
  献金すること、と、 一方的に、
  言い渡してきたからだ❗ 。

   頼朝氏の事実な上での挑発、  とみた、
   奥州藤原上は、  「  有事  」、 に備えて、
   義経氏を、 平泉で、  密かに匿う❗ 、
  こと、と、 決めて、  迎えの者を、
    畿内の義経氏の潜伏先へ派遣した、
  のではないか、 と思う。 

    なぜなら、  はるばる、 畿内から、
   奥州平泉まで行って、秀衡氏から、
  「   いきなり来られても、匿えません   」、
 と、 断られたら、 義経氏としては、
   行き場を失うわけで、  そんな、
  行き当たりばったりな、
   ハイリスクはしない、 と、思うからだ。

    @       もし、 藤原泰衡氏が、
  義経氏と手を組み、 頼朝氏方の、
  奥州への征伐軍と戦い、  義経氏が、
  鵯越の逆落としのように、
   頼朝氏の本陣を奇襲して、
  頼朝氏を討ち取ったら、
   どうなったのかな?。 

    義経氏には、 幕府を開く構想は、
  ないから、  京都に住んで、
   朝廷や院に仕えるだろう。 
   それこそ、  義経氏が、
  権大納言、の、 右近衛大将となる。 
   泰衡氏は、 陸奥守、の、
  鎮守府将軍となって、 奥州の自治を、
  名実ともに、 実現かな。

    @      幕府を開く構想は、なくとも、
   その頃には、  頼朝氏が、
  幕府みたいなものを開いている訳だから、
  幕府への構想を乗っ取るんじゃないかな。
  東北に、幕府ができてたかも。

    @     鎌倉軍が、 相当な兵力を動員できた、
  のに対して、  奥州は、兵力が少なく、
  兵力差が、 あまりに、 大きいので、
   たとえ、 義経氏を加えたとしても、
  奥州側に、 勝ち目は、ない。 
おそらく、  義経氏は、 泰衡氏とともに、
  平泉を捨てて、  奥地へ退却して、
  鎌倉軍を引き込み、
   遊撃    ユゲキ   戦    ;      ゲリラ戦     ;
   、 に持ち込むだろう。 

   津軽あたりまで、 引き込み得た所で、
  季節が、 冬になり、大雪が降れば、
   鎌倉側の騎馬隊は、 立ち往生する❗ 。

     恐らく、 その頃合いで、  義経氏は、
    頼朝氏の本陣を奇襲する、 と思う。

     @      木曾義仲氏の残党員ら、って、
  どうなったの?、
   頼朝氏側に吸収されたの?。

    @      頼朝氏側に吸収❗ 。
   北陸系は、  比企氏じゃねえかな。

    @       平家 ✖    頼朝氏    ✖ 木曾義仲氏
  ✖ 奥州藤原氏    ✖ 朝廷 。 

   この5勢力って、感じだったのかな?。 
   平家の中では、  
  勢力争いみたいのは、なかったの?。

    @      ざっくりで、
   宗盛氏派   ✖    池殿派    ✖    小松殿派 。

     清盛氏の跡は、 宗盛氏が継ぎ、
  同母弟の知盛・重衡氏が、 
   宗盛氏を支えた。 

    これに対して、  宗盛氏の長兄な、
  重盛氏の子である維盛・資盛氏らな、
  小松家、   
   清盛氏への異母弟な、 平頼盛氏らな、
   池家とは、 微妙な関係であった。

     @      摂関家も、 松殿   ✖    近衛
   ✖    九条   、で、   それぞれが、
  独自な路線を歩んでて、
   朝廷は、もう、 むちゃくちゃ。

       @       後付けだが、奥州藤原氏が、
  生き残るために、やるべきだったことは、
  源平合戦が、 長期化・泥沼化するよう、
   工作すべきだった。 
  都落ちして衰退した、 平氏に、
  奥州藤原氏が、 黄金や軍船、に、
  軍馬を用立てても、よかった。

    @      頼朝は、 激怒するだろう。 
でも、  頼朝氏が、  東国と京を維持しつつ、
   西国の平家と、 奥州藤原氏の両面を、
   同時に、 相手にして戦うのは、
   無理だから、   奥州藤原氏の、
  「  勝手な  」、  振る舞いにも、
   ある程度は、 我慢して、
   交渉するほかにない。

     @      当時は、  奥州の藤原氏、以外にも、
   関東には、  志太先生義広氏、
  上総介広常氏、などの、
   独立勢力があった。 
  これらな、独立勢力らは、
  源頼朝氏に対しても、  強い自尊心、
  独立心で、 接しており、やがて、
   頼朝氏に 危険視されて、滅ぼされていく。 

    頼朝氏の鎌倉幕府は、
  東国での独立勢力を許さない体制だった。 
   平家や摂関家のそれのような、
   緩やかな支配のほうが、 まだ、
  奥州藤原氏には、 都合が、よかった。

     @      反頼朝勢力は、基本的に、
  古利根川の東側が、 本拠地なんだよな。 
    今でも、 そうだが、   茨城  ➕  栃木  ➕
  千葉の、  東関東    ;   (  方言学用語   ) 、
  は、  文化的に、 東北に通じるものがある。 

    他方で、   神奈川  ➕  東京  ➕  埼玉
  ➕  群馬   、の、   西関東は、
 中部地方との、つながりが、強い。 

    地理的な関東地方は、  実は、古利根川    ;
  (   正確には、 古渡良瀬川    ) 、  で、
  人文的には、 東西に分断されている。 

    頼朝政権は、関東政権と言われるけれど、
  実際には、  箱根以西を、  辺主   ベス    ;
   ベース    ;    、  とする、
   東海政権としての、 雰囲気が、 強い。 

   この、「  東海→西関東→東国政権  」、
  という流れは、   北条執権の政権、
  堀越公方、後北条氏、徳川氏と、
  断続的では、あるが、 ずっと続く。 

   この話、  昔に、 この板でやったら、
  なぜか、 「   関東は、 一つだ❗  」 、
  と、 激怒して、 猛反論する奴がいて、
   大荒れになったんだよなw。

    後の古河公方、な、 足利成氏氏による、
  享徳の乱にしても、
   中央室町側の西関東   ➕   山梨伊豆     ;
 (    上野、武蔵、相模、甲斐、伊豆    )
    ✖       在野の、 成氏氏への支援の、
   土着な武士らの、  東関東     ;   
 (   下野、常陸、下総、上総、安房    ) 、
  との、  争いになっている❗ 。 

    むしろ、  関東は、   南北よりも、
  東西での争いが、  割と多いのは、
  歴史的にも、 結構と、 有るし、
   千葉は、  首都圏となっているとしても、
  栃木と茨城は、  言語学者によっては、
   関東よりも、 東北方言に含める人もいる   ;
 (   勿論な事に、 異論や反論も多いが   ) 。

    @     鎌倉幕府にとっては、
   頼朝氏が健在で、 勢いがあるうちに、
  奥州政権を潰せて、    楽機    ラッキ   ;
  ラッキー    ;     、 だったよね。
下手に、 大勢力として臣従されちゃうと、
  揉め事の種が、増えるだけだし。

    @      あれだけ、 黄金を持って、
   大陸とも交易してるんだから、
  大陸から、  数万人を、 お金で雇って、
  奥州に連れてきて、 
   奥州藤原軍の兵力を水増しして、
  頼朝氏側と、戦えば、 よかった。

     @     黄金は、食えないからね。

     @      秀衡氏は、  自分の死後に、
  その長男な、 国衡氏、と、 次男で、
  跡継ぎの泰衡氏が争うことを恐れて、
  泰衡氏の母を、 国衡氏に嫁がせる❗ 、
  という、 ミラクルをやって、
  争いを防ごうとした。

    その結果にて、  国衡氏と、
  泰衡氏の争いは、 起きなかったが、
  代わりに、  泰衡氏は、 自分の弟な、
  4人の中の、 3人を斬って、
  粛清してしまった❗ 。 
  そして、 父な、 秀衡氏の遺言を破って、
  義経氏も斬ってしまった❗ 。 

    とてもではないが、  頼朝氏と、
  太刀打ちする器は、ない。

    @       頼朝氏方が、 攻めてきたら、
  義経氏を大将、国衡氏を副将にして、
  迎え撃たせる。 
   泰衡氏は、 平泉の留守を守る、と称して、
   平泉に残り、密かに、 奥州の砂金を、
  大船に満載し、 シナ語がわかる、
  僧侶や商人たちを、 船に乗せておく。
    義経氏方が、 大敗し、   
   奥州藤原軍の壊滅の知らせが聞いたら、
   泰衡氏は、 すぐに、 船に乗って、
   シナへ逃げる❗ 。

     @      大陸へ渡るよりも、
  蝦夷地へ渡る方が、 安全ではないか?。 
   奥州藤原氏は、  蝦夷地、への、
  航路を知っていた可能性がある。 
  また、  家臣団とともに、
  武器を持って行けば、
   蝦夷地への支配者として、
  存続することもできる。 
  函館あたりを拠点にすれば、いいだろう。

     @      奥州藤原氏は、 平家側について、
  頼朝氏の勢力が、 まだ小さいうちに、
   攻め滅ぼしておけば、
  よかったのではないか?。 
   石橋山の合戦の当時なら、
  奥州藤原氏が、 本格的に、
  平家側に加勢すれば、  頼朝氏側は、
  かなりに、 不利になる❗ 。 
   関東が、 割拠状態にあるほうが、
  奥州は、 安泰になる。

    @     奥州が、 京都から遠すぎるんだよな。
   せめて、 日本海あたりに進出して、  
  もっと、 勢力をふやせなかったのかな?。 

     初期に、 頼朝氏側と組んで、
  日本海側から、 京都に攻め入ってたら、
  いい感じで、 天下を三分できたんじゃ、
  ないだろうか?。

     @      奥州藤原氏側は、
   日本海には、 進出している❗ 。 
   渤海国とも交易している❗ 。

    この時期に、  飢饉の京都に入ったら、
   木曽義仲氏の二の舞は、避けられないよ。

    @       奥州藤原氏には、
  血統による正統性がなかったからな。
  所詮は、 俘囚の長ってだけだし。

     @      奥州藤原氏は、  中央貴族の、
  藤原氏の一族か、縁者であることは、
   間違いないのではないか?。 
   東北に土着して、独立した、
  生活圏を作ろうとした。 
  その点においては、  他の関東の武士らに、
   似ている、 とも思う。 

   異なるのは、 その支配の領域が、
   広大であること、 突出した、
  経済力・文化力を持っていたこと、
   俘囚と呼ばれた、  化外の人々の住む、    
   僻地にあり、どこか、
  異質性を感じさせることだ。

     @      奥州藤原氏が、 号令をかけても、
  奥州、 以外からは、 兵は集まらない、
  と、 思うけどな。  なぜか?、  それは、
   俘囚だからとしか言いようがない。


   ☆     大河兼任  オオカワ・カネトウ の乱  :    は、  1189年でもある、 文治  5年、
  の、12月から、 翌る年の3月にかけて、
    鎌倉政権と、奥州藤原氏の残党員な、
   大河兼任氏ら、 との間で、
   東北地方にて行われた戦いだ。 

   1189年な、 文治  5年に、 
   奥州合戦に勝った、 源頼朝 
  ミナモトのヨリトモ 氏は、 9月22日に、
    葛西清重氏を、奥州総奉行に任じ、
   28日に、 奥州から、鎌倉へ帰った。

    陸奥  ムツ  の国内では、 
  奥州藤原氏に従属していた武士団が、   
  土地を没収されて、 清重氏を始め、
   多くの東国武士らが、地頭職を与えられた。 
   
     一方で、  多賀城国府では、 
 在庁官人らによる、国務の運営が継続し、
   戦場にならなかった、今の秋田県などの、
  出羽国の内陸部では、
 旧来の在地の豪族らが、
  勢力を保持しており、    
  東国武士勢と在地勢らとの間に、
  軋轢が生じる様になる。

     1189年の12月になると、 
   死んだ筈の、源義経氏や、
  木曾義仲氏の子息や、 藤原秀衡氏の子息が、
  同心して、鎌倉へ進軍する、
  という、風説が流れた❗ 。 

    翌年の正月になると、 反乱の首謀者は、
    藤原泰衡 フジワラのヤスヒラ 、氏、
  への、 郎従で、   八郎潟の東岸      ;
   ≒       今の、秋田県は、 五城目町の付近    ;
   、を本拠とする、 大河兼任氏❗ 、
   と、判明する。 

    兼任氏は、 前年の12月から、 
  義経、と称して、 
   出羽国は、海辺庄に現れ、 
  源の木曽義仲氏の嫡男の、 朝日冠者    ;
   ≒    源義高氏    ;       、と称して、
    出羽の山北郡で、挙兵する、などして、
   鎌倉方を撹乱していた、
    が、 
  「    親類・夫婦への仇を討つのは、 
   通常の事であるが、 未だ、 
  主人への仇を討った例  タメシ  はなく、 
  その例を始める❗    」  、 として、 
   七千余騎の軍勢を率いて、
   鎌倉へ向けて、進んだ。 

   その経路は、 河北の、秋田城を経由して、
    大関山      ;     
   ≒     笹谷峠     ;       、 を 越えて、 
   多賀城、 という、国府へ出ようとする、
   物であった、  
   が、   八郎潟を渡る際に、
  氷が、いきなり、 割れて、
   五千人余りが溺れ死んだ❗ 、 という。

    兼任氏は、 進路を変えて、 
  小鹿島や、津軽の方面に向かい、
   鎌倉方の、 由利維平氏や、
  宇佐美実政氏を討ち取った❗ 。 

    正月の7日に、 兼任氏の弟で、
   源頼朝氏の御家人となっていた、   
   忠季氏や、 
   新田三郎入道らから、 報告を受けた、
   頼朝氏は、軍勢を遣る事を決断し、
   相模から西の、 御家人らに、 
   動員令が下された❗ 。 

   正月の8日に、 千葉常胤氏が率いる、
   東海道軍や、
   比企能員 ヨシカズ 氏が率いる、
  東山道軍が、  奥州に向けて、 発ち、
   正月の13日には、 追討使として、
  足利義兼氏が出陣し、 
  大将軍として、千葉胤正氏も出陣する。

    奥州に所領を持つ御家人らと、 
  上野や信濃の御家人らも、次々に下向した。 

     頼朝将軍は、   個々の御家人が、
  手柄を競って、  寡兵       ;
  ≒     少ない兵      ;          、で、 
  敵に挑む行為を戒め、 兵力を結集して、 
  十分に、 準備を進めてから、
   事に当たる様に、指示をした❗ 。

     大河兼任軍は、 津軽から、
  陸奥の中央部に進んで、 平泉に達し、 
  奥州藤原氏の残党員ら、を配下に加えて、
  一万騎に膨れ上がった❗ 。

    この形勢を見て、 
   多賀城の国府の留守所も、
   兼任氏側に同調した。

      大河兼任氏らが、
   鎌倉幕府軍と戦っていた頃に、 
   西の一神教徒らは、 
 1192     良い国  、 奪おう、 な、
   『  第3回の十字軍  』、  を成した側と、
  受けて立った側とが、
   1189年  ~    1192年を、
  戦い合っていた❗ 。 

    アイユーブ朝の始祖で、 
 「   イスラムへの擁護者   」、 と目された、 
   サラーフッディーン氏       ;
   ≒     サラディン氏     ;        、に征服された、
  聖地のエルサレムを奪還すべく、 
   ヨーロッパのキリスト教国らの者らが、
   第3回の十字軍を成す。 

    神聖ローマ皇帝の、フリードリヒ1世     ;
   ≒     赤髭王     ;          、も、 
  ローマ教皇の、 アルバヌス8世、 からの、
   呼びかけに応え、 
   十字軍の第一陣として、 
    1189年に、  本国を出発した。 

     フリードリヒ1世は、  その途上で、
   サラーフッディーン氏、と、
  秘密の協定を結んでいた、
   東ローマ帝国の皇帝の、 
   イサキオス2世アンゲロス、 による、
  敵対的な行為に直面したので、 
    十字軍の将兵らは、
  東ローマ領を急いで通過した。

     その後の、1189年5月18日に、 
   クルチ・アルスラーン2世が治める 、
   ルーム・セルジューク朝の首都の、   
   イコニウムを占領し、 
    1190年の6月10日に、    
  フリードリヒ1世が、 キリキアの、
  サレフ川で、 溺れ死んだ。 

    彼らは、   数の上では、
  サラーフッディーン氏側より多かったが、 
   フリードリヒ1世を失った事から、 
    十字軍を解散した❗ 。

    一部の者らは、向かった先のシリアで、
   戦いに敗れた。 

    英国の、リチャード1世と、 
  フランスの、フィリップ2世による、
  アッコンへの征服があったりした。 

      ・・続きは、  ブログ  ;
 『    夜桜や    夢に紛れて    降る、寝酒    』
 、で❗。