☆ 1189年 〜 十字軍に、
大河兼任の乱 :
鎌倉時代の、エドワード一世や、ルイ9世 :
歴史拾遺 ヒロイ ;
源平合戦ってあるけど、
大体は、 源氏員ら、と、
平氏員ら、との戦いみたいになるけど、
源氏 ✖ 平氏 ✖ 奥州藤原氏 、の、
三つ巴だった、 と、 思うんだよね。
ちょっと、三国志っぽいと思うんだけど。
平氏と藤原氏が、組んだりする、
可能性って、 なかったのかな? ;
2: 日本@名無史さん 2019/5/1 ( 水 ) ;
15:51:5.27 ;
源義経氏を匿っていたりしたから、
源氏に擦り寄る事は、 考えていたんだろう、
けど。
平家に近づこうとは、
思わなかったのかね。
@ 藤原秀衡氏が、 はじめに、
義経氏を匿わなくて、 平氏へ、
差し出していたら、 源氏は、
天下を取れたかな?。
@ 義経氏が死んだあとの、
鎌倉幕府 ✖ 奥州って、
鎌倉の圧勝だったの?。
@ 奥州藤原氏は、
天下は、 狙っていなかっただろうね。
将軍として、 奥州での覇権を、
というのが、 基本で、
将軍としての権威性は、
朝廷が、 根拠として、 重要でもあり。
@ 奥州藤原氏は、 奥六郡の、
安倍氏の系譜員ら、で、 全国への指向性は、
無かった、 と思う。
東北モンロー主義。
@ いっそ、 北海道方面を開拓して、
王国を作っちゃえば、良かったのにね。
@ 丁度で、 鎌倉に入ったあたりから、
全国的に寒冷化する❗ 、
ので、 厳しいね。
@ そもそも、 義経氏を差し出したのに、
奥州が、 鎌倉軍に攻め込まれたのは、
なんでなの?。
@ 将来に、 鎌倉幕府に逆らう、
謀反人を、 奥州藤原氏がかくまう、
かもしれんな。
予防のために、 潰しておくか
by 源頼朝氏。
@ 奥州合戦も、 9月で終わった、
みたいだけど、 雪が降るまで、
耐えられていたら、 また、
違った展開になっていたかもな。
@ なんか、 平家って、
あっけなさすぎない?、 もっと、
粘れなかったんだろうか?
奥州藤原氏も、 源氏と平家が、
削りあって、勢力が落ちるのを、
狙っていたんじゃないかな。
@ 平氏は、 天下を取ってからは、
都に君臨するのみで、 支持基盤の、
西国への施案 セア ; ケア ; 、
を、 なおざりにしていた。
平氏が、都を追われて、西国へ逃れたら、
西国の武士らに、、そっぽを向かれた。
それをみていたから、 頼朝氏は、
京都に住まず、 鎌倉を本拠地とし続けた、
度合いも、あるのだろう。
@ 平家方は、 倶利伽羅峠で、
その侍大将位案 クラン ; クラス ;
、が、 吹き飛んだにしては、 粘った方。
@ 奥州藤原氏の目的は、
東北地方の自治で、 それ以上でも、
それ以下でも、ない。
@ だったら、 源氏が、天下を取った、
時点で、 義経氏を、 即座に、
鎌倉方へ、差し出すべきだろう。
@ 今から考えれば、本当は、
そうすべきだった、 と思う。
しかし、 藤原秀衡氏は、 義経氏を、
かわいがって育てた、 第二の父親だ。
窮鳥、 懐 フトコロ に( 略 、 という、
ことわざもあるが、 義経氏を斬って、
鎌倉へ首を送るのが、
忍びなかったのだろう。
また、 頼朝氏が、 もし、
奥州へ攻めてきたら、 義経氏を大将にして、
迎え撃つ、という、 貨兌 カダ ;
カード ; 、 を残しておくことで、
頼朝氏らの、 奥州への征伐を、
思いとどまらせたい、 という、
気持ちもあったり ;
( もとは、 義経氏を、 秀衡氏が、
かくまった時は、 平家の天下だが、
万が一にも、 平家が、 奥州、への、
征伐を起こしたら、 義経氏を旗頭にして、
源氏の蜂起を狙っていたのでは、
とも、考えられる ) 。
☆ 誰が、 鎌倉方の総帥に成っても、
京都の朝廷側、 と、 奥州の勢力とからの、
自らへの挟み撃ち、の、 あり得る度合いを、
減らし去る上では、
奥州への征伐を成すべき、
必要性がある、 からには、
朝廷側への、
足止めをして置いてから、ならば、
奥州への征伐をする事は、
時間の問題な事であって、
義経氏を、 奥州側が、
軍司令官に据えるべき、 必要性が、
奥州側には、あった。
@ 藤原秀衡氏って、
平清盛氏や、 源頼朝氏と比べても、
遜色がないぐらいの政治家だよね?。
@ 奥州藤原氏は、
広大な土地を支配していたが、
兵士の動員力は、 2~3万程度に、
過ぎなかった。
当時の東北地方は、 米の生産量は、低く、
人口が少なかった❗ 、 ためだ。
辺境地帯の有力者ではあるが、
中央の貴族の平家や、
関東の穀倉地帯の覇者である、
源頼朝氏とは、 比較にならなかった、
と、思う。
また、軍事貴族の地位と勢力を持ち、
公卿に上った平家や、
源頼朝氏らとは、 格が違った。
@ 平家みたいに、
貿易とかは、してなかったの?。
@ やってるぞ❗。
日本海での交易に噛んでて、
『 渤海 』、 とも、交易していた。
@ そういえば、 奥州藤原氏には、
黄金が、 沢山にあったわけでしょ。
金の力で、 何とかならんかったのかな。
@ 公家員ら、が、 天下を掌握していた、
頃は、 奥州の金を献上して、うまく、
付き合いが、できていた。
頼朝氏に、 その手は、通用しなかった。
平清盛氏の場合は、 もとからの、
勢力基盤の西国とか、 貿易の相手の、
海外には、 関心が高くても、
関東より先へは、 関心性が低かった。
@ 奥州藤原氏が、 東北に、
君臨できたのは、 朝廷 ;
( 院・摂関家 ) 、
平家が、 京都にいて、 遠方であったから、
中央に、ある程度は、 従順な、
辺境の有力者として振舞えたからだろう。
中央貴族とも、友好な関係性を、
築いていた。
関東という、 至近距離に、
強大な軍事力を持った、
武家政権ができたことが、
奥州藤原氏にとって、 命取りになった。
@ 奥州藤原氏が滅びた後って、
誰が、 東北を支配したの? 。
鎌倉幕府から、 誰か、
派遣されたわけでしょ? 。
@ 奥州への征伐の後に、
頼朝将軍が、 奥州を、
関東の御家人らに分け与えた❗ 。
蘆名氏は、 三浦氏の分家。
相馬氏は、 千葉氏の分家。
伊達氏 ➕ 葛西氏 、は、
豊島氏の分家。
@ 幕府の宿老、な、大江広元氏の子孫も、
東北に所領をもらっているね。
長井荘とか、 寒河江荘を拝領して、
室町時代まで続いている。
@ たとえば、 頼朝氏は、
平家を倒すときに、 裏から、
藤原氏が攻めて来るかも❗ 、
って、警戒してたりは、したんだろうか?。
@ 朝廷から、 木曽義仲氏、への、
追討のために、 頼朝氏の上洛を求められた、
時には、 留守を、
奥州藤原氏に狙われるから、 という、
理由で、 断ったりしている❗ 。
奥州藤原氏は、 義経氏を匿うなどし、
源氏に、 好意的だった一方で、
平氏政権からは、 陸奥守に任じられる、
などし、 平氏とも、付き合いはあった。
奥州藤原氏とすれば、
源氏と平氏のどっちが勝っても、
上手に立ち回れるように、
外交したんだろうが、 頼朝氏らからは、
潜在的脅威と認識されるようになった、
と、 思われる。
@ 頼朝氏は、 挙兵したころは、
いったんは、 奥州へ逃れる、
案も、あったらしいから、
奥州藤原氏は、 友好的な勢力、
と、 考えていた可能性が、 高い❗ 。
奥州で、かくまわれていた義経氏が、
頼朝氏の陣に加わる為に、出征する時も、
藤原秀衡氏は、 義経氏へ、
従者をつけてくれた❗ 。
@ ってことは、 味方だった、
藤原氏を滅ぼしたってわけか。
やっぱ、天下を取る人は、 非情だね。
@ よく、 漫画やドラマだと、
義経氏が、 逃避行の末に、
奥州の平泉へ、いきなり、 押しかけて、
秀衡氏が、 情にほだされて、
義経氏を保護した、 という、
お話になっているけど、 実際は、
奥州藤原氏の家来か、 御用商人 ;
( 金売り吉次氏? ) 、 が、
秀衡氏の密命を受けて、 畿内で、
行き場を失った義経氏を、
奥州平泉へ、 密かに案内したのではないか、
と思う。
@ 義経氏は、 異母兄な、
頼朝氏との戦いを決意して、
後白河法皇から、 頼朝氏、への、
追討の院宣を得た際に、 畿内や、
九州の兵力を当てにしていたようだ。
義経氏が都落ちする時も、
奥州へは、 向かわず、 正反対の、
九州へ向かおうとした❗ 。
これは、 豊後 ; ( 大分県 )、の、
緒方氏を、 味方と頼んだからだ。
しかし、 船が難破して、
九州行きは、 失敗❗ 、 京都は、
鎌倉軍に占領され、
緒方氏も、 鎌倉に降伏❗ 。
義経氏は、 畿内の、公家や、
寺社に密かに匿われて、転々としていた、
が、 その間に、
義経氏、への、 合力者で、
和泉に勢力を持っていた、 源行家氏、や、
大和に勢力を持っていた、 源有綱氏、とか、
義経氏への家臣で、 伊勢の山賊の出の、
伊勢三郎氏が、 鎌倉軍に、 相次いで、
見つかって、 討ち取られ、
義経氏は、 再起の道筋が見えず、
途方に暮れていた、 と、 思われる。
そんな中で、 頼朝将軍は、
奥州藤原氏に、圧力をかけていた❗ 。
それまで、 奥州藤原氏は、京都の朝廷へ、
直に、 献金していた、
が、 それを、 頼朝氏が仲介して、
献金すること、と、 一方的に、
言い渡してきたからだ❗ 。
頼朝氏の事実な上での挑発、 とみた、
奥州藤原上は、 「 有事 」、 に備えて、
義経氏を、 平泉で、 密かに匿う❗ 、
こと、と、 決めて、 迎えの者を、
畿内の義経氏の潜伏先へ派遣した、
のではないか、 と思う。
なぜなら、 はるばる、 畿内から、
奥州平泉まで行って、秀衡氏から、
「 いきなり来られても、匿えません 」、
と、 断られたら、 義経氏としては、
行き場を失うわけで、 そんな、
行き当たりばったりな、
ハイリスクはしない、 と、思うからだ。
@ もし、 藤原泰衡氏が、
義経氏と手を組み、 頼朝氏方の、
奥州への征伐軍と戦い、 義経氏が、
鵯越の逆落としのように、
頼朝氏の本陣を奇襲して、
頼朝氏を討ち取ったら、
どうなったのかな?。
義経氏には、 幕府を開く構想は、
ないから、 京都に住んで、
朝廷や院に仕えるだろう。
それこそ、 義経氏が、
権大納言、の、 右近衛大将となる。
泰衡氏は、 陸奥守、の、
鎮守府将軍となって、 奥州の自治を、
名実ともに、 実現かな。
@ 幕府を開く構想は、なくとも、
その頃には、 頼朝氏が、
幕府みたいなものを開いている訳だから、
幕府への構想を乗っ取るんじゃないかな。
東北に、幕府ができてたかも。
@ 鎌倉軍が、 相当な兵力を動員できた、
のに対して、 奥州は、兵力が少なく、
兵力差が、 あまりに、 大きいので、
たとえ、 義経氏を加えたとしても、
奥州側に、 勝ち目は、ない。
おそらく、 義経氏は、 泰衡氏とともに、
平泉を捨てて、 奥地へ退却して、
鎌倉軍を引き込み、
遊撃 ユゲキ 戦 ; ゲリラ戦 ;
、 に持ち込むだろう。
津軽あたりまで、 引き込み得た所で、
季節が、 冬になり、大雪が降れば、
鎌倉側の騎馬隊は、 立ち往生する❗ 。
恐らく、 その頃合いで、 義経氏は、
頼朝氏の本陣を奇襲する、 と思う。
@ 木曾義仲氏の残党員ら、って、
どうなったの?、
頼朝氏側に吸収されたの?。
@ 頼朝氏側に吸収❗ 。
北陸系は、 比企氏じゃねえかな。
@ 平家 ✖ 頼朝氏 ✖ 木曾義仲氏
✖ 奥州藤原氏 ✖ 朝廷 。
この5勢力って、感じだったのかな?。
平家の中では、
勢力争いみたいのは、なかったの?。
@ ざっくりで、
宗盛氏派 ✖ 池殿派 ✖ 小松殿派 。
清盛氏の跡は、 宗盛氏が継ぎ、
同母弟の知盛・重衡氏が、
宗盛氏を支えた。
これに対して、 宗盛氏の長兄な、
重盛氏の子である維盛・資盛氏らな、
小松家、
清盛氏への異母弟な、 平頼盛氏らな、
池家とは、 微妙な関係であった。
@ 摂関家も、 松殿 ✖ 近衛
✖ 九条 、で、 それぞれが、
独自な路線を歩んでて、
朝廷は、もう、 むちゃくちゃ。
@ 後付けだが、奥州藤原氏が、
生き残るために、やるべきだったことは、
源平合戦が、 長期化・泥沼化するよう、
工作すべきだった。
都落ちして衰退した、 平氏に、
奥州藤原氏が、 黄金や軍船、に、
軍馬を用立てても、よかった。
@ 頼朝は、 激怒するだろう。
でも、 頼朝氏が、 東国と京を維持しつつ、
西国の平家と、 奥州藤原氏の両面を、
同時に、 相手にして戦うのは、
無理だから、 奥州藤原氏の、
「 勝手な 」、 振る舞いにも、
ある程度は、 我慢して、
交渉するほかにない。
@ 当時は、 奥州の藤原氏、以外にも、
関東には、 志太先生義広氏、
上総介広常氏、などの、
独立勢力があった。
これらな、独立勢力らは、
源頼朝氏に対しても、 強い自尊心、
独立心で、 接しており、やがて、
頼朝氏に 危険視されて、滅ぼされていく。
頼朝氏の鎌倉幕府は、
東国での独立勢力を許さない体制だった。
平家や摂関家のそれのような、
緩やかな支配のほうが、 まだ、
奥州藤原氏には、 都合が、よかった。
@ 反頼朝勢力は、基本的に、
古利根川の東側が、 本拠地なんだよな。
今でも、 そうだが、 茨城 ➕ 栃木 ➕
千葉の、 東関東 ; ( 方言学用語 ) 、
は、 文化的に、 東北に通じるものがある。
他方で、 神奈川 ➕ 東京 ➕ 埼玉
➕ 群馬 、の、 西関東は、
中部地方との、つながりが、強い。
地理的な関東地方は、 実は、古利根川 ;
( 正確には、 古渡良瀬川 ) 、 で、
人文的には、 東西に分断されている。
頼朝政権は、関東政権と言われるけれど、
実際には、 箱根以西を、 辺主 ベス ;
ベース ; 、 とする、
東海政権としての、 雰囲気が、 強い。
この、「 東海→西関東→東国政権 」、
という流れは、 北条執権の政権、
堀越公方、後北条氏、徳川氏と、
断続的では、あるが、 ずっと続く。
この話、 昔に、 この板でやったら、
なぜか、 「 関東は、 一つだ❗ 」 、
と、 激怒して、 猛反論する奴がいて、
大荒れになったんだよなw。
後の古河公方、な、 足利成氏氏による、
享徳の乱にしても、
中央室町側の西関東 ➕ 山梨伊豆 ;
( 上野、武蔵、相模、甲斐、伊豆 )
✖ 在野の、 成氏氏への支援の、
土着な武士らの、 東関東 ;
( 下野、常陸、下総、上総、安房 ) 、
との、 争いになっている❗ 。
むしろ、 関東は、 南北よりも、
東西での争いが、 割と多いのは、
歴史的にも、 結構と、 有るし、
千葉は、 首都圏となっているとしても、
栃木と茨城は、 言語学者によっては、
関東よりも、 東北方言に含める人もいる ;
( 勿論な事に、 異論や反論も多いが ) 。
@ 鎌倉幕府にとっては、
頼朝氏が健在で、 勢いがあるうちに、
奥州政権を潰せて、 楽機 ラッキ ;
ラッキー ; 、 だったよね。
下手に、 大勢力として臣従されちゃうと、
揉め事の種が、増えるだけだし。
@ あれだけ、 黄金を持って、
大陸とも交易してるんだから、
大陸から、 数万人を、 お金で雇って、
奥州に連れてきて、
奥州藤原軍の兵力を水増しして、
頼朝氏側と、戦えば、 よかった。
@ 黄金は、食えないからね。
@ 秀衡氏は、 自分の死後に、
その長男な、 国衡氏、と、 次男で、
跡継ぎの泰衡氏が争うことを恐れて、
泰衡氏の母を、 国衡氏に嫁がせる❗ 、
という、 ミラクルをやって、
争いを防ごうとした。
その結果にて、 国衡氏と、
泰衡氏の争いは、 起きなかったが、
代わりに、 泰衡氏は、 自分の弟な、
4人の中の、 3人を斬って、
粛清してしまった❗ 。
そして、 父な、 秀衡氏の遺言を破って、
義経氏も斬ってしまった❗ 。
とてもではないが、 頼朝氏と、
太刀打ちする器は、ない。
@ 頼朝氏方が、 攻めてきたら、
義経氏を大将、国衡氏を副将にして、
迎え撃たせる。
泰衡氏は、 平泉の留守を守る、と称して、
平泉に残り、密かに、 奥州の砂金を、
大船に満載し、 シナ語がわかる、
僧侶や商人たちを、 船に乗せておく。
義経氏方が、 大敗し、
奥州藤原軍の壊滅の知らせが聞いたら、
泰衡氏は、 すぐに、 船に乗って、
シナへ逃げる❗ 。
@ 大陸へ渡るよりも、
蝦夷地へ渡る方が、 安全ではないか?。
奥州藤原氏は、 蝦夷地、への、
航路を知っていた可能性がある。
また、 家臣団とともに、
武器を持って行けば、
蝦夷地への支配者として、
存続することもできる。
函館あたりを拠点にすれば、いいだろう。
@ 奥州藤原氏は、 平家側について、
頼朝氏の勢力が、 まだ小さいうちに、
攻め滅ぼしておけば、
よかったのではないか?。
石橋山の合戦の当時なら、
奥州藤原氏が、 本格的に、
平家側に加勢すれば、 頼朝氏側は、
かなりに、 不利になる❗ 。
関東が、 割拠状態にあるほうが、
奥州は、 安泰になる。
@ 奥州が、 京都から遠すぎるんだよな。
せめて、 日本海あたりに進出して、
もっと、 勢力をふやせなかったのかな?。
初期に、 頼朝氏側と組んで、
日本海側から、 京都に攻め入ってたら、
いい感じで、 天下を三分できたんじゃ、
ないだろうか?。
@ 奥州藤原氏側は、
日本海には、 進出している❗ 。
渤海国とも交易している❗ 。
この時期に、 飢饉の京都に入ったら、
木曽義仲氏の二の舞は、避けられないよ。
@ 奥州藤原氏には、
血統による正統性がなかったからな。
所詮は、 俘囚の長ってだけだし。
@ 奥州藤原氏は、 中央貴族の、
藤原氏の一族か、縁者であることは、
間違いないのではないか?。
東北に土着して、独立した、
生活圏を作ろうとした。
その点においては、 他の関東の武士らに、
似ている、 とも思う。
異なるのは、 その支配の領域が、
広大であること、 突出した、
経済力・文化力を持っていたこと、
俘囚と呼ばれた、 化外の人々の住む、
僻地にあり、どこか、
異質性を感じさせることだ。
@ 奥州藤原氏が、 号令をかけても、
奥州、 以外からは、 兵は集まらない、
と、 思うけどな。 なぜか?、 それは、
俘囚だからとしか言いようがない。
☆ 大河兼任 オオカワ・カネトウ の乱 : は、 1189年でもある、 文治 5年、
の、12月から、 翌る年の3月にかけて、
鎌倉政権と、奥州藤原氏の残党員な、
大河兼任氏ら、 との間で、
東北地方にて行われた戦いだ。
1189年な、 文治 5年に、
奥州合戦に勝った、 源頼朝
ミナモトのヨリトモ 氏は、 9月22日に、
葛西清重氏を、奥州総奉行に任じ、
28日に、 奥州から、鎌倉へ帰った。
陸奥 ムツ の国内では、
奥州藤原氏に従属していた武士団が、
土地を没収されて、 清重氏を始め、
多くの東国武士らが、地頭職を与えられた。
一方で、 多賀城国府では、
在庁官人らによる、国務の運営が継続し、
戦場にならなかった、今の秋田県などの、
出羽国の内陸部では、
旧来の在地の豪族らが、
勢力を保持しており、
東国武士勢と在地勢らとの間に、
軋轢が生じる様になる。
1189年の12月になると、
死んだ筈の、源義経氏や、
木曾義仲氏の子息や、 藤原秀衡氏の子息が、
同心して、鎌倉へ進軍する、
という、風説が流れた❗ 。
翌年の正月になると、 反乱の首謀者は、
藤原泰衡 フジワラのヤスヒラ 、氏、
への、 郎従で、 八郎潟の東岸 ;
≒ 今の、秋田県は、 五城目町の付近 ;
、を本拠とする、 大河兼任氏❗ 、
と、判明する。
兼任氏は、 前年の12月から、
義経、と称して、
出羽国は、海辺庄に現れ、
源の木曽義仲氏の嫡男の、 朝日冠者 ;
≒ 源義高氏 ; 、と称して、
出羽の山北郡で、挙兵する、などして、
鎌倉方を撹乱していた、
が、
「 親類・夫婦への仇を討つのは、
通常の事であるが、 未だ、
主人への仇を討った例 タメシ はなく、
その例を始める❗ 」 、 として、
七千余騎の軍勢を率いて、
鎌倉へ向けて、進んだ。
その経路は、 河北の、秋田城を経由して、
大関山 ;
≒ 笹谷峠 ; 、 を 越えて、
多賀城、 という、国府へ出ようとする、
物であった、
が、 八郎潟を渡る際に、
氷が、いきなり、 割れて、
五千人余りが溺れ死んだ❗ 、 という。
兼任氏は、 進路を変えて、
小鹿島や、津軽の方面に向かい、
鎌倉方の、 由利維平氏や、
宇佐美実政氏を討ち取った❗ 。
正月の7日に、 兼任氏の弟で、
源頼朝氏の御家人となっていた、
忠季氏や、
新田三郎入道らから、 報告を受けた、
頼朝氏は、軍勢を遣る事を決断し、
相模から西の、 御家人らに、
動員令が下された❗ 。
正月の8日に、 千葉常胤氏が率いる、
東海道軍や、
比企能員 ヨシカズ 氏が率いる、
東山道軍が、 奥州に向けて、 発ち、
正月の13日には、 追討使として、
足利義兼氏が出陣し、
大将軍として、千葉胤正氏も出陣する。
奥州に所領を持つ御家人らと、
上野や信濃の御家人らも、次々に下向した。
頼朝将軍は、 個々の御家人が、
手柄を競って、 寡兵 ;
≒ 少ない兵 ; 、で、
敵に挑む行為を戒め、 兵力を結集して、
十分に、 準備を進めてから、
事に当たる様に、指示をした❗ 。
大河兼任軍は、 津軽から、
陸奥の中央部に進んで、 平泉に達し、
奥州藤原氏の残党員ら、を配下に加えて、
一万騎に膨れ上がった❗ 。
この形勢を見て、
多賀城の国府の留守所も、
兼任氏側に同調した。
大河兼任氏らが、
鎌倉幕府軍と戦っていた頃に、
西の一神教徒らは、
1192 良い国 、 奪おう、 な、
『 第3回の十字軍 』、 を成した側と、
受けて立った側とが、
1189年 ~ 1192年を、
戦い合っていた❗ 。
アイユーブ朝の始祖で、
「 イスラムへの擁護者 」、 と目された、
サラーフッディーン氏 ;
≒ サラディン氏 ; 、に征服された、
聖地のエルサレムを奪還すべく、
ヨーロッパのキリスト教国らの者らが、
第3回の十字軍を成す。
神聖ローマ皇帝の、フリードリヒ1世 ;
≒ 赤髭王 ; 、も、
ローマ教皇の、 アルバヌス8世、 からの、
呼びかけに応え、
十字軍の第一陣として、
1189年に、 本国を出発した。
フリードリヒ1世は、 その途上で、
サラーフッディーン氏、と、
秘密の協定を結んでいた、
東ローマ帝国の皇帝の、
イサキオス2世アンゲロス、 による、
敵対的な行為に直面したので、
十字軍の将兵らは、
東ローマ領を急いで通過した。
その後の、1189年5月18日に、
クルチ・アルスラーン2世が治める 、
ルーム・セルジューク朝の首都の、
イコニウムを占領し、
1190年の6月10日に、
フリードリヒ1世が、 キリキアの、
サレフ川で、 溺れ死んだ。
彼らは、 数の上では、
サラーフッディーン氏側より多かったが、
フリードリヒ1世を失った事から、
十字軍を解散した❗ 。
一部の者らは、向かった先のシリアで、
戦いに敗れた。
英国の、リチャード1世と、
フランスの、フィリップ2世による、
アッコンへの征服があったりした。
・・続きは、 ブログ ;
『 夜桜や 夢に紛れて 降る、寝酒 』
、で❗。