☆    累代の裏工作主ら❗   ;
     歴史拾遺   ヒロイ  ;

     ☆   『  栄花物語   』、 によれば、
   関白にして、 太政大臣に成った、
  藤原兼通氏は、    その母も同じくする、
  弟な、   兼家について、
  「   できることなら、 九州にでも、
  遷してやりたいものだが、
  罪が無いので、 出来ない    」 、
   と、発言している。

     977年、 な、  貞元  2年   、に、
  重態に陥って、 伏している兼通氏の邸では、
    兼家の車がやって来た、 との、
  家人からの一報を受けて、迎え入れる、
  準備を整えていた。
   が、
   兼家の車は、  門前を通り過ぎて、
  禁裏へ行ってしまった。

    仲の悪い兄弟であっても、
  見舞いに来たか、と、 思っていた、
  兼通氏は、 激怒して、起き上がり、
  病身をおして、 参内し、
   最後の除目   ジモク  、 を行い、
  関白を、  いとこの、 藤原頼忠氏に譲り、
  兼家の右大将・按察使の職を奪い、
  治部卿に格下げした。

   ほどなくして、 兼通氏は、薨去した。
  余計な怒りを買った兼家は、
  長歌を献上して、 失意の程を、
  円融帝へに伝えたが、 陛下からは、
  「  稲舟の   」、  と、 しばらく待つように、
  との意味の、 返歌を受けた、  という。

    後任の関白の、 頼忠氏から、 979年な、
  天元  元年   、に、  右大臣に進められた、
   兼家は、廟堂に復帰され、その翌年には、
   父の遺志を継いで、 天台座主、な、  
  良源師と共に、 延暦寺の横川に、
  恵心院を建立している。

    彼のかねて望んでいた、 詮子女史の、
  入内も、かない、   懐仁親王      ;
  (   後の一条帝   )  、 に恵まれ、
   詮子妃を、 中宮に立てることを望む、
  兼家だったが、   982年、 な、
  天元  5年  、に、   頼忠氏の娘な、
  遵子妃を、 中宮となした、
  円融帝に失望して、以後は、
  詮子妃、や、 懐仁親王、 と、 共々に、
  東三條殿の邸宅に、引き籠ってしまった。

    ≒   
  【    帝への候補な親王らは、  
  その母方の屋敷で、
  その母方の祖父母によって、
  育てられる、 ので、
    その母方の祖父を、 関白などにして、
  共に、 朝廷での政務を成し合う、
  事に、 より、 抵抗性 、 を、
  感じ覚え得ない、 度合いも成しながら、
   成長し、    いわば、
   母方の身内員ら、 と、 致務   チム      ;
   チーム     ;    、  を成して、
     皇位への継承戦に参加させられ、
    母方の仲間の一員としても、
    朝廷での政治な事らを、
  成し行い得べくも、成し付けられる、
   立場にもあった     】 。
    
   さらに、 憂慮した円融陛下による、
   東三條への使いに対し、  ろくに、
  返答もしない有様だった。

     984年、 な、  永観  2年  、の、
   7月に、  相撲節会    セチエ   、を、
   懐仁親王に見せたい、 と望む、
  円融陛下からの、参内の求めに、
  兼家は、 病、 と称して、 応じない。

   なおも、 陛下から、使者を送られた為に、
   兼家は、 やむなく、 参内し、
   そこで、  陛下から、
 「   朕は、 在位して、  16年になり、
  位を、  東宮     ;       皇太子     ;
 (    師貞親王    ;       冷泉帝の皇子で、
  後の花山帝   )   、   に譲りたい、
  と、 思っていた。
   その後は、  懐仁を東宮にするつもりだ。
   朕の心を知らずに、
  不平を持っているようだが、 残念だ    」
  、 と、 諭された兼家は、
   はなはだしく、喜んだ。

    約束の通りに、  同年の、 8月に、
  円融帝は、  師貞親王へ、位を譲り    ;
  (   花山天皇   )   、
  懐仁親王が、  東宮に立てられた。

   兼家は、  関白を望むが、  頼忠氏が、
  依然として、 在任中であり、しかも、
  朝政は、  帝の外伯父の、
  権中納言、の、 藤原義懐氏が執っていた。

     花山帝は、 寵愛していた女御、の、 
  藤原忯子女史が急死すると、 絶望して、
  世を棄てることをさえ言い出していた。

    もし、 花山帝が退位すれば、
  懐仁親王が、 即位となる。    そこで、
   兼家の三男な、 道兼から、
  出家をしきりと勧められた、 帝も、
  その気になってしまった。

      986    悔やむ    ;
   986年、な、  寛和  2年  、 の、
  6月22日の夜に、  兼家に仕える、
  源頼光らな、 武士らに警護された、
  陛下は、  道兼と共に、
  禁裏を抜け出してしまった。

    陛下の姿が消えて、 大騒ぎになっていた、
  内裏を顧みず、  2人の逃亡先である、
   山科の元慶寺で、まず、 陛下が、
  剃髪して、 出家をした。

    が、  道兼は、
 「   出家する前の姿を、  最後に、
  父に見せたい❗  」、  と、 言い出して、
  去ってしまった。

   天皇は、 欺かれた、 と、 知ったが、
   もう、 手遅れであった。

    翌る朝に、  中納言の、 藤原義懐氏、
  と、 権左中弁、の、 惟成氏が、
  元慶寺に駆けつけるが、そこにいたのは、
  小法師の姿になってしまった、
   花山帝だった     ;    (   寛和の変❗  )  。

     策略は成功し、懐仁親王が即位した     ;
 (   一条天皇   )  。

    兼家は、  陛下への外戚となり、
  摂政・氏長者となる。

    帝への外祖父が、 摂政に就任するのは、
   人臣で、 最初の摂政となった、
   藤原良房  (  清和天皇への外祖父   ) 、
  以来であった。

     が、  当時に、 右大臣であった、
  兼家の上官には、  前関白の太政大臣、
  な、 頼忠氏と、 
  左大臣の、 源雅信氏がいた。

   特に、  雅信氏は、  円融天皇の時代から、
  一上の職務を務め、
  法皇となった、 円融陛下の信頼を背景に、
  太政官に、 大きな影響力を与えていた。

    さらに、 頼忠氏も、 雅信氏も、
  皇位への継承が可能な、
  有力な皇族員、 との、 
  外戚関係が、 なかった、 ために、
  謀叛、  などの罪を着せて、排斥する❗、
  ことも、 出来なかった。

   そこで、  兼家は、  この年に、
   従一位・准三宮   ジュサングウ   、の、
  待遇を受けると共に、  右大臣を辞して、
   初めて、  前職大臣、な、 身分     ;
  (    大臣と兼官しない    )  、 の、
  摂政となった。

   右大臣を辞した兼家は、
  頼忠・雅信氏の下僚の地位を脱却し、
  准三宮として、  他の全ての人臣らより、
   上位の格を帯びた。

     一条帝をして、  本来は、一氏族である、
  藤原氏への氏神に過ぎない、
  春日社へ行幸させたり、
   道隆や道長氏らな、  自分の子弟を、
  公卿に抜擢し、弁官を、  全てを、
  自派員らに差し替える、  といった、
  強引な人事を行ったり、
  自邸の、 東三条殿の一部を、
  内裏の清涼殿に模して、建て替えたりして、
   自流の地位を、 他の公家員らとは、
  隔絶したものに高めた。

   その一方で、  有能な人材の登用、や、
  官僚機構の再生のための、
   新制の発布、と、  
  梅宮祭・吉田祭・北野祭を、
  公祭と定めて、  主催の神社を、
  国家による祭祀の対象として、加え、
  後の、 二十二社制度の基礎を作る、
  といった、 一条朝における、
  政治的安定にも、貢献した。

     989年、 な、  永祚  元年  、に、
  円融法皇の反対を押し切って、
  長男な、道隆を、  内大臣に任命して、
   律令制の歴史上で、 初めての、
  「  大臣  4人制  」 、  を実現させ、 更に、
   この年に、  頼忠氏が、 薨去すると、
   その後任の太政大臣に就任した。

    990年、な、 翌る、 永祚  2年  、
  の、  一条天皇の元服に際しては、
  加冠役を務め、  これを機に、
  関白に任じられるも、  僅かに、 3日で、
  病を理由に、  
  嫡男な、道隆へ、 関白の職を譲って、
  出家し、  如実 、 と号して、
  別邸の、 二条京極殿をして、
 「  法興院  」 、  という、  寺院に改めて、
  居住したが、  その、 2ヶ月後に、
  病没した。    享年は、  62。

   後に、  兼家の家系員らは、 大いに栄え、
  その五男な、道長氏の時に、全盛を迎える。

     兼家は、   左中弁、な、藤原在国氏、
  右中弁、な、平惟仲氏を信任し、
   「   まろの左右の目だ   」、 と称した。

   また、  高名な武士の、 源頼光氏が、
  兼家に仕え、
  名馬の、 30頭を献上をしている。

   打伏神子  (  うちふしのみこ  )、を、
  甚だしく、 信じ、 その、 動静の全てを、
  彼女の言葉に従った、  ともいう。


     ☆      織田信長氏の祖父な、
  織田     氏の母は、
    京極持清氏の娘、 との事であり、
     で、あれば、
    織田信長氏も、 宇多天皇や、
    佐々木道誉氏ら、 の、 子孫員、
   という事になる。

     ☆      宇多天皇   (   うだてんのう    、
   867年   6月10日     ;
   〈   貞観9年   5月5日    〉-
   931年    9月3日     ;
 〈   承平  元年   7月19日    〉     、は、
   日本の、 第59代の天皇      ;
 (   在位:      887年    9月17日    ;
 〈   仁和3年    8月26日    〉
   -   897年   8月4日     ;
 〈   寛平   9年    7月3日     〉   。 
   諱は、  定省    サダミ   氏 。

     光孝天皇の、 第七皇子であり、
   母は、  桓武帝の皇子な、 仲野親王の、 
  娘ごな、 皇太后の、 班子女王であった。

     その父な、 光孝天皇は、 即位の後に、
  関白、な、 藤原基経の妹な、
  藤原高子女史の子であり、
   陽成帝の弟であった、  
  貞保親王を、 はばかり、    884年、な、
  元慶  8年   、の、  6月に、
   26人の皇子や皇女を、
  臣籍へ降下させて、  源氏とした。

    定省王も、 その一人であり、
   源定省  (  みなもと、 の、  さだみ   )
     、 と、 称した。
      清和天皇への後継ぎな、 陽成帝に、 
  王侍従として使えていた時に、
  殿上の間の御椅子の前で、
  在原業平と、 相撲をとり、二人の体が、
  椅子にぶつかったために、
  手すりが折れた、 という、
  話が残っている。

     887年、 な、 仁和  3年  、には、
   光孝天皇が、 重態に陥ったが、
  後継ぎを指名しなかった。

    実力者の基経は、  陛下の内意が、
  貞保親王ではなく、 定省氏にある❗ 、
   とした。

    基経は、非常に仲の悪い、妹、な、
  藤原高子女史の子であり、
  陽成帝の弟な、 貞保親王の即位は、
  避けたい、  事もあり、 
   朝議は、 一決した。

   定省氏は、 基経の異母妹な、
  尚侍、な、 藤原淑子女史への猶子であり、
  後宮に強い影響力を持っていた淑子女史が、
  定省氏を熱心に推薦した❗、
   ことも、大きかった。

   定省氏は、  8月25日に、
  皇族に復帰して、 親王宣下を受け、
  翌る、 26日に、  皇太子に立てられた。

   しかし、  基経は、  特に、
  定省氏を気に入っていた、
  わけでは、なかった。

    定省氏には、 同母兄の源是忠氏がおり、
  兄を差し置いて、 弟が立つ、  と言う、
  問題もあったため、
   基経以下の群臣の上表による推薦を、
  天皇が受け入れて、 立太子を行う、
   と言う形が、取られた。

    立太子した、 その日のうちに、
  光孝陛下が崩じたために、  践祚し、
  11月17日に、 即位した。

     @     阿衡    アコウ   事件 ❗  ;

     宇多陛下は、 即位後の、 間もない、
  11月21日に、  基経に、再び、
   関白としての役割を果たすよう、
  勅書を送った。

    しかし、 この手続きの際に、
  左大弁、な、  橘広相氏の起草した、
  「   宜しく、  阿衡の任をもって、
  卿の任とせよ   」、  の文言に、
   基経が、立腹し、  政務を拒んで、
   自邸に引き籠もってしまう。

   翌る年の、 6月になって、 
   宇多陛下は、 ついに、折れ、
  勅書を取り消した上に、
   広相氏を、 解官せざるを得なかった。

   891年、 な、  寛平  3年  、 の、
   1月に、  基経が死去するに及んで、
   ようやく、 親政を開始することが出来た。

      宇多帝が、  勅願寺として、   
   仁和寺を建立したのは、
   この阿衡事件の最中の、
   仁和   ニンナ   4年  、 のことだ。

       @     寛平の治❗    ;

    宇多天皇は、   基経の嫡子な、
  藤原時平を、 参議にする一方で、
  源能有氏、 などの、  源氏員や、
  菅原道真氏、に、  藤原保則氏、 といった、
   藤原北家、な、 嫡流、 から、
  離れた、人物も、抜擢した。

    この期間には、   
    894   白紙   、 にもどす、
   遣唐使  、  な、    
 894年、 の、  遣唐使の停止   チョウジ  、
   諸国への、  問民苦使の派遣、
    昇殿制の開始、
   日本三代実録・類聚国史の編纂、
   官庁の統廃合、  などが行われ、
   文化面でも、 
  寛平御時菊合や、
  寛平御時后宮歌合、  などを行い、
   これらが、 多くの歌人を生み出す、
   契機となった。

     宇多陛下は、   寛平   9年    7月3日      ;
  (   897年   8月4日   )     、に、
  突然に、 皇太子、な、 敦仁親王を元服させ、
   即日に、 譲位し、太上天皇となる。

    この宇多陛下の突然の譲位は、かつては、
   仏道に専心するため、 と考えるのが、
   主流だったが、近年では、
   藤原氏員らからの、
   政治的な自由性を確保するために、
  これを行った、あるいは、
  前の皇統に連なる、 皇族員らから、
  皇位への継承の要求が出る前に、
  実子に譲位して、
   己の皇統の正統性を示した❗ 、
   など、とも、 考られている。

     譲位にあたって書かれた、
  『  寛平  御遺誡  』 、  には、
  右大臣、な、  源能有氏の死に、
  強い衝撃を受けた❗  、 ことが、
   書かれており、 これを、
   譲位と結びつける、見方もある。

    新たに即位した、  醍醐帝には、
  自らの同母妹な、為子内親王を、   
   正妃に立て、  藤原北家、な、 嫡流が、
  帝への外戚となることを防ごうとした。

   また、 譲位への直前の除目で、
  菅原道真氏を、  権   ゴン  大納言に任じ、
   大納言で、 太政官、 の、  最上席だった、 
   藤原時平の次席、と、 したうえで、
   時平と、 道真氏の双方に、
   内覧を命じ、朝政を二人で牽引するよう、
   命じた❗ 。

    この人事は、  権門の公家員らには、
  不評で、  公卿らが、 職務を拒む、
   という、 事件に発展した。

    道真氏は、 宇多陛下に願って、
  かかる公卿らに出仕を命じてもらい、
  ようやく、 新政が須端   スタン    ;
  スタート   ;    、 した。

       @     昌泰の変❗   ;

    宇多陛下は、  譲位の後も、
  道真氏への後ろ盾となり、
   時平の独走を防ごうとしていたが、
    一方で、 仏道に熱中し始めた。

    899年、 な、  昌泰  2年  、の、
  10月24日には、 出家し、  東寺で、
  受戒した後で、  仁和寺に入って、
   法皇 、 となった。

    さらに、  高野山、比叡山、熊野三山に、
  しばしば参詣し、 道真氏への援助を、
  十分には、 行えなくなった。

     901年、 な、    昌泰  4年  、 の、
   正月、に、   道真氏は、
  宇多陛下の子で、  自らへの婿でもある、
   斉世親王を皇位に即けようとしていた、
   という、 嫌疑で、 大宰府へ左遷された。

    この知らせを受けた宇多陛下は、
  急遽に、  内裏に向かったが、
   宮門は、 固く閉ざされ、 その中で、
   道真氏への処分は、 決定してしまった。

    日本史学者の河内祥輔氏は、
   宇多陛下は、  自己の皇統の安定のために、
   醍醐帝の皇太子への決定を急ぎ、
   結果的に、 当時は、 男子のいなかった、
   醍醐陛下の後継きを、
   その弟から出すことを考えるようになった。

    加えて、  醍醐陛下が許した、
  基経の娘、な、藤原穏子女史の、
  入内にも、 反対したために、
   これに反発した醍醐陛下が、
  時平と図って、  
  法皇の代弁者とみなされた、
  道真氏を失脚させた、 という、
  説を提示している。

    ・・続きは、   ブログ   ;
 『    夜桜や    夢に紛れて    降る、寝酒    』
 、で❗。