☆    累代の策主ら❗   ;
   歴史拾遺   ヒロイ   ;

      ☆       尾張でも、  988年、 な、
    永延2年、 の、11月8日に、
    朝廷へ、 訴えが起こされ、 

      太政官に提出された、
 「   尾張国  郡司  百姓  等  解文   」     ;
   ≒     尾張国申文    ;        、は、

     国司苛政上訴の詳細な事柄らを示す、
   史料として、 有名だ。

     藤原元命は、 この時の尾張守で、 
  解文   ゲブミ   、において、
  その、 非法ぶりを訴えられ、 
  989年、の、永祚元年、の、2月5日に、
    朝議において、 この問題が、 審議され、
    同年の4月5日の除目   ジモク     ;
  ≒    人事異動     ;       、で、
    守を停止   チョウジ   、 された。 

    が、 その後も、 彼は、  995年、の、
   長徳元年、の、吉田祭での、
   上卿弁代役をつとめるなどし、
   官界に、身を置き、  その子の頼方は、
  従五位下石見守 ジュゴイゲ・イワミのカミ   、
   と、成り、 
   頼方の子の、 頼成は、 
  従五位上越前守、 と成り、 
  受領の家として続いている。 

  「  尾張国郡司百姓等解文   」、  により、 
     元命は、 私欲を満たすべく、
  貧しい農者らから、 苛烈な収奪を行う、
    受領の代名詞にされ、
    後世の説話の世界でも、その評判は、
  非常に悪い❗ 。

     「  地蔵霊験記  」 、という、 書物には、 
 「   術つきて、東寺門にて、 乞食しけるが、   
   終いには、 餓死したりけり    」、
  等と書かれる。 

     この訴状は、 国司の下の、
  当時の国守の任国への支配ぶり、   
  国の状況を読み取り得る、
  貴重な資料となっている。

    例えば、 
   第19条の、 
「   馬津の渡りの、船無きに依り…     」、
    25条の、 
  「   購読師の衣料、並びに、僧尼、
   等の、毎年の布施の、稲、
  万2千余束   ツカ   の事」    、  等は、
    正に、 地方行政の長として、    
  国司か、国守、が果たすべきであった、
    仕事らの事が書かれている。  
  
    その他に、 飢饉や、火災などの際に、
   窮民を救うべき、  食料の倉出し     ;
    ≒      出庫   スイコ    ;        、のような、
   社会福祉活動も、  国衙   コクガ     ;
   ≒     地方の役所で、 警察署      ;       、 の、
  仕事なのに、
    国守が、 それをしなかったので、
    それらの一部な事らは、 郡司らが、
  私財をもって、 補わざるを得なかった、
   と、訴えている。 

   伝わるのは、  その訴状だけで、 
  元命が、 どう反論したのかは、 
  残っていないので、
  実情が、 どうだったのかは、解らない。 

    当時の公家の日記でも、訴えられた、
  31ヶ条らの中で、 不法とされたのは、   
  1か条だけ、と、いわれる。 

  当時は、 旧来の律令制の枠組みのままでは、      地方の行政が成立たなくなっていた、
  「  前期  王朝国家」   、 への、
  転換点にあたる時期であり、

        ここでの、
    「  百姓  」、  は、
   『   農員ら   』 、 ではなく、
   名   ミョウ   、への耕作を請け負い、

     農業や漁業、などの、 産業らでの、
   大規模な経営を展開し、   
  富を蓄積していた、 郡司にも成る、
  『  田堵  大名    タドダイミョウ  』  、や、
  『  田堵  小名  』、  に、  田堵、   などの、
   田堵負名層で、  新興勢力の、 
「   農業経営者などの、事業者   」、 であり、 

   「  納税者  」、  として、 朝廷が、
  宛にした人々だ。 

   「  農員ら  」、 などは、
  その下で働いていた。 

   一方で、   朝廷は、 
  旧来の律令制の枠を越えて、   国守     ;
  ≒     受領    ;       、らへ、
  大幅な裁量権を与えて、
  地方の農業、などの、 産業らの振興を図り、 
     かつ、 税収の増加か、 
   何らかの意味での、得られ得る税らの、
   質的な度合の増加を目指した。

    元命が、 尾張国の守となった、
   花山天皇の時代も、 
  元命の甥      ;       ≒       一説に、叔父     ;
    、の、藤原惟成氏や、藤原義懐氏も、
  その様な政策を進めていた。

     元命の当時の尾張も、正に、
  その様な利害の対立のまっ只中にあり、
    この状況は、一人、
  元命だけが、 直面したのではなく、
  その14年前の、  974年、 な、
   天延  2年 、 にも、  
  尾張の国人   コクジン  、 らは、
   国司     ;     ≒     守   ;      、を訴えて、
   解任させ得ており、 
   その、  20年後の、千8年、な、
    寛弘  5年  、 や、   千16年、 な、
   長和  5年  、 にも、  結果は、不明ながら、
    尾張の国人らは、上訴を行っている❗ 。

    939年、な、 天慶  テンギョウ  2年  、
   には、 尾張国で、    国司    ≒    守      、
  が襲われ、 殺されている❗ 、 などし、
    豊かなだけに、極めて、
   統治の難しい国だったらしい。 

    他国の例では、   千12年、 な、
    長和元年、の、  加賀国の、
   国司苛政上訴では、  守は、
   反論の証拠と証人を揃えて、 臨んだ、
   が、 
   その裁判に、 訴訟人、な、
   加賀の国人が、 現れず、
   不問となった。 

    詳細な内容は、 残っていないものの、 
   百姓から、  国司についての、
   訴が起こされた例は、  この時期の、
   公卿らの日記、  などに、
   多く、 記されている。 

    国司苛政というと、   国司側による、
  一方的な、 収奪で、 
  弱い農者らが苦しめられた、
  との、  意目侍が抱かれ易いが、  時には、 
   上訴どころか、    千23年、 な、 
  治安  3年  、  の、12月には、 
   丹波守の、藤原資業   スケナリ   氏の、
   京都の中御門の屋敷を、
   丹波の国人の騎兵らな、
  十数人が、 焼討ちにした❗ 、  とまで、 
   小右記にあり、 
   京に近い国で、 恐らくは、 
   京の法律の専門家らとも連携しやすい、
   尾張国だから、 訴訟で済んだものの、

     その前後の坂東      ;      関東     ;     、では、
    恐らく、同じ様な、 国司と、  国人ら     ;
   ≒     負名経営者に、郡司や、在庁官人ら    ;
   、との、軋轢は、
   戦乱にまでなっている。 

     平将門氏による、 天慶の乱 、に、 
  『  今昔物語集  』、 の、巻の第25第9の、
  「  源頼信の朝臣、平忠恒を責めたる話   」、   や、 
   その後に、長く、関東を疲弊させた、
  平忠常の乱も、 国司と国人の抗争であり、 
 
   「   百姓  」、 が、
  非武装の農者らでは、ない❗ 、
  事が、見て取れる。 

   前述の、藤原惟成氏は、  984年、な、
  永観  2年  、 に即位した、
   花山天皇の側近として活躍し、 
  花山帝が、  精力的に発布した、
  政策な事らへの立案に、 深く参与し、 
 
       花山帝の政策な事らは、
   荘園らへの整理令や、
   武装への禁止令、に、 
  物価への統制令、と、
   地方行政への改革、  などから構成される、
 「  斬新な内容  」、  を持った、
    花山新制を成し、   その花山新制は、 
   摂関家や有力寺社    ;     
  ≒     院宮王臣家     ;       、らと、
   土地、  などの、彼らへの寄進により、
  結びついていた、  当時の、
  郡司、  などに成っていた、
  田堵負名層と対立する物だったので、
   
     花山天皇が、 摂関家の、
  藤原兼家らな、 親子の計略により、
    986年、な、  寛和  2年  、 に退位し、
   摂関家の兼家らが、再び、政権を握る、
  余波を受けて、 
  花山新制の方針に沿って、
  行政を遂行した元命も、
  尾張での苛政を名目に、 罷免された、
  とする、 見方もある。 

      解文、な、 自体も、
  和風の四六駢儷体、という、
  高い文章の作成能力を要する、
  漢文体を採っており、 
    解文、な、 その物は、 
  尾張の百姓の意向を受けた、
  京都の文人が作成した、
   とする、見方も、ある。 
       ☆    花山法皇     : 

    岩走る          滝にまがひて           那智の山 
         高嶺を見れば          花のしら雲       : 

   夫木抄  )【  通釈   】 :
     那智の山の頂   オべ   、 を見上げれば、
   岩に迸   ホトバシ   る、  滝の飛沫ら、と、
  見分けがつない様子で、   花達が、
  白雲の様にかかっていることよ❗。    : 

    ◇     那智 ナチ   : 
   和歌山県は、 那智勝浦町。
   熊野那智大社がある。

   【  補記  】 :
    那智の山の中腹から落ちる滝の水しぶきと、
   山にかかる、白雲の様な桜の一群が、
   見分け難い、とした、  花山院は、
   那智山で、千日修行をした、と伝わり、
  二の滝の上流に、 行在所の跡が残る。

    @      年が明けた、 979年 、な、  
   天元  2年  、 に、 大陸から、  ついに、
   情報が届いた。  

   五代十国を構成してきた国らの一つの、 
  北漢が、宋に降伏して、滅び、
  宋が、シナを統一したのだ❗ 。 

   唐の衰退から、各地に、諸侯が生まれ、
   諸侯が独立して、国を成し、 
   朱全忠らにより、唐が滅び、 
   五代十国の混迷の時代を迎えてから、 
  半世紀以上を経ていた。 

    日本の源信師の、  『  往生  要  集  』    ;
    ≒    985年    ;      、は、  宋にも伝わり、
   仏教系の興りを喚起した。 

     @      藤原純友の乱に、
  天慶の乱が前後した頃の、海賊らの横行は、         日本の国内問題では、ない。

     後世の倭寇も、 同じだが、 
  その構成員の圧倒的な大多数は、
  日本人では、ない。 

   何より、 日本語が通じない。 

      新羅の滅亡により、 
  日本列島の各地域へ流れてきた、 
  反社会的な、  部族儒教奴ら       ;
   ≒     部族ヤクザ員ら     ;       、  に過ぎない、 
  新羅人らが、 
   日本で、海賊となり、
   藤原純友の配下となって、暴れ回った、
   が、 
  新羅の滅亡から、 何年が経とうと、
   この流れは、変わらなかった。 

    979年、な、  天元  2年  、 の、
   日本は、 シナを、ほぼ統一した宋による、
  日本、への、 侵略の可損   カゾ    ;     リスク    ;
   、  に対して、 
   その時代の、朝廷がとりうる、
  最大限の努力はしたが、 
   徴兵制である、防人   サキモリ  、は、 
  もう、百年以上も前に、 廃止されており、
    防人と交替で導入した、
  健児   コンデイ   、 も、
  有名無実化していた       ;

     ≒       平安貴族らは、 自家に、
  私兵らを備えたが、   日本の全域での、
  社会治安を維持する事からは、 
   手をひいて、   死刑を、
  2百年以上も、 廃止したままにしていた、
   最中にあり、
    私的な暴力行為らにより、 
   自分らや、自分の私兵らが、
   死刑になる事を予防し、
   昼日中の事では、 あっても、
   闇での暴力沙汰を甚だしくし得て、
    自らの利権となる物を、
  私兵を欠いた人々、 などから、
  収奪し易くする度合を高める、方向へ、
   余計な、 圧力を掛け続けていた、
   ので、 
     公       ;
  ≒    社会一般の人々     ;       、 の、
   福利らを成す為に働く、   あり得る、
   正規の武装勢力、 へ対しては、
   それを弱体化するに任せる、
   傾向性を成してもいた 。 

      代わりに、
  各地域の社会治安を、成すべくも
  、乱すべくも、登場してきたのが、
   武士らだ❗ 。

    この武士らの存在により、 
   百年にも渡る、 新羅からの侵略の全てに、
   完勝する事が出来た❗ 。 

    @      私兵らを蓄えて、 日本の全域で、
    社会治安を壊しながら、 より、
   武力性の無い人々から、
  利権性のある物事らを収奪していった、
    有力貴族らと、
  その手先の私兵らを束ねた、
  軍事貴族らの、
   作為と不作為とによっても、 
   治安が悪化し、経済恐慌が生じ、
  人災が連続する最中   サナカ   、に、
    一人の僧侶が、
   人々の支持を集める様になっていた。 

   その僧の名は、   源信   ゲンシン  師。 

   かつて、同じ、  「  源信  」、という、
   字の姓名の貴族が、 
   藤原良房への側近として、
  左大臣職を務めていたが、
    左大臣であった、貴族の名の読みは、 
   ミナモトのマコト 氏。

    漢字で書くと同じだが、読みも違うし、
  血縁関係もない、
   活躍した時代も、違う。 

       極楽浄土へ往生する上で、
   要   カナメ  な事ら、  を、 集めて、述べた、
  『  往生  要  集  』 、 は、
  比叡山の中の、  横川   ヨカワ   、の、
   恵心院に隠遁していた、  源信師が、
   985年、 な、  寛和  元年、に、 
   浄土教の観点より、 
   多くの仏教の経典や論書ら、 等から、
   極楽往生に関する、重要な文章らを集めた、
    仏教書で、
   一部が、3巻からなる。 

   死後に、 極楽へ往生するには、 一心に、
   仏を想い、 念仏の行をあげる       ;
  ≒      観想念仏や、 唱える念仏     ;      
  、以外に、方法は、 ない、 と、説き、 
  浄土教の基礎を創る。 

   この書物で説かれた、 地獄や極楽の観念ら、  に、 厭離穢土   エド  ・欣求   ゴング 
  浄土の思想は、 
   貴族や庶民らにも普及し、 
  後の文学思想らにも、大きな影響を与えた。 

     その末文からも知られる様に、 
    本書が撰述された直後に、 北宋の、
   台州の居士で、 周文徳、 という人が、 
  本書を持って、天台山国清寺に至り、 
   シナの僧と俗の多くの尊信を受け、 
   会昌の廃仏、以来、 唐末から、 
    五代十国の戦乱の中で散佚した、
   教法な事らを、
  中国の地で復活させる、素材になった、
  事が、特筆される❗ 。  

    源信師が説いた事は、 
  死後の極楽浄土、等の事で、 
  この世で、 苦しい日々が続いても、
  亡くなった後は、
  心安らかな世界が待っている、
    と、 説いた事は、 
  この時代の人達に、 救いをもたらした。

     しかも、 源信師は、 出家して、
   僧侶となった上で、日々、に、
  念仏を唱える必要は、無く、 
    民間人のままでも、
  仏を敬い、 念仏を唱える事で、
   死後の救いが待っている、
   と、 説いた。

     これは、この時代の人には、
  新鮮な教えであった。

   何しろ、この時代の寺院は、
  荘園を持ち、武力を持つ集団として、
  認識されていた。

      寺院の彼らが、
  宗教の関係者な事は、 人々は、
   知っていたが、 その彼らと、
   今の自分達の心の救い、
   との、 接点などは、
    見いだせなかったのだ。

     多くの寺院らは、
  高位の貴族や裕福な者の為に祈る、
  事は、 あっても、
   一般の公民らの為に、
  祈りを捧げる事はなかった。 

    それをやった、空也上人   ショウニン 、
  が、  絶大な支持を集めたのも、
   一般の人たちから、 一線を画した、
   上位の身分にある者としての、
   僧侶ではなく、
  一般の人らに溶け込み、
  一般の人らの中で、
   念仏を唱える、 僧侶に成っていたからだ。

       源信師は、 
  空也上人の教えを更に進めた。 

    空也上人は、
  一般の人らの中に溶け込んで、念仏を唱えて、
  心の救済をなしたが、 源信師は、
  本に、導きになる事らを記した。

    直に、手をさしのべるのではなくとも、
   本を読める人らや、
   その本の朗読を聞ける、全ての人らへ、
  手をさしのべた。 

   その本こそ、  「  往生要集   」、 だった。

    この本が、 世に出たのは、  985年、な、
  永観  3年  、  の、 四月。
     四月の何日かは、 判らないが、 
   藤原斉明と藤原保輔の兄弟が起こした、
   傷害事件で、平安京の全体が揺れている、
   最中に出た事は、判明している。 

     本は、 黙読されるだけでなく、 
   聞き手らを得て、 朗読される事が、
   今に比べて、 ずっと、 当たり前な、
   行為であった事も、 
   各地域の社会の一般の人々が、
  共通な事らに富む、
  世界観の体系を構築し合い、 
  互いに、互いの、
  心分かりの度合いらを深め合う、
   機縁らを増す上で、 
   極めて重要な働きを成し得ていた事も、
  特筆すべき事だろう。 

   @      五代十国時代     ;      907年 - 960年     ;
  、は、 朱全忠らによる、   907年の、
   唐王朝の滅亡から、北宋の成立までの間に、     黄河の流域を中心とした、 華北を統治した、
    5つの王朝ら     ;       五代    ;      、と、 
   華中に、華南と華北の一部を支配した、 
  地方政権ら     ;       十国   ジッコク    ;       、
  とが、 興亡した時代 。 

  @       往生要集が出た、   985年 、な、
    永観  3年 、の、  4月27日に、 
   寛和 、に改元する、と、発表された。 

    名目は、 花山帝の即位に伴う、改元だが、
    遅すぎる。
    即位から、半年も経ている。 
   この半年は、 ただの半年では、ない。 
   花山帝の、 『  革新的な  』、
  政策事項らが、 矢継ぎ早に発布され、 
  直ちに、混乱と、日本全国の至る所で、
   荘園領主らの、有力な、貴族らや寺社らに、     猛烈な反発を喚起し得た、 半年だった。


        ☆      花山帝が即位する前の時代に、
    関白太政大臣にまで、 成った、
   藤原兼通氏は、
     同母妹の、中宮な、藤原安子女史、
  と、 その所生の春宮な、 憲平親王に仕え、
   同年に、 村上朝の有力者であった、
  父の右大臣な、藤原師輔氏を失うが、
    安子女史が、 村上帝からの、
  寵愛を深く受け、 有力な皇嗣への候補な、
   憲平親王     ;    (   冷泉帝  ) 、
  ・為平親王、  ・守平親王   ;  (   円融帝  ) 、
  を儲けていたことから、
    伊尹・兼通・兼家の兄弟は、
  政治な上で、  極めて有利な立場にあった。

     が、  964年、な、 応和  4年   、
  に、 安子女史が急死し、   その際に、
   最後まで、 彼女に付き添ったのは、
  父の死後に、 彼女を支えた、 2人の、
  「  兄  」、 である、  伊尹氏 (  参議  )、
  と、 兼通氏  (  中宮権大夫  )、 であった。
      安子女史への、 「 弟  」であった、
   兼家  (  左京大夫 )、は、
  その場に立ち会えなかった。

      967年、 な、  康保  4年   、 の、
   正月に、  蔵人頭兼内蔵頭に任ぜられるが、
   同年の5月に、  村上帝が崩御したため、
  冷泉帝の即位と共に、 
   蔵人頭を、 弟の兼家と交代する。

    この年に、 兼通氏は、  7年ぶりに、
  昇叙されて、 従四位上に叙せられるが、
   その弟な、 兼家は、  1年の間に、 
  三度の昇叙を受けて、 一挙に、
  従三位に昇っており、 位階面で、
   先を越されてしまう。

      969年、 な、 安和 2年   、に、
   兼通氏は、  従三位・参議に叙任され、
   公卿に列すが、
   兼家は、  参議を経ずに、  正三位・中納言、
  と、 昇進面で、 水を空けられた。

     これについては、  子息の・正光氏が、
   源高明氏の娘な、 「  中姫君  」、
  を娶っていたため、   安和の変の際に、
  兄弟の中で、  唯一に、
   高明派、と、みなされて、 冷遇された、
  とする説がある。

    兼通氏は、 世間体を苦にして、
  出仕を怠るようになると、そのために、
   冷泉帝に次いで即位していた、
  円融帝からも、 
  疎遠に思われるようになってしまい、
    この間に、  長兄な、伊尹氏は、
   970年、な、 安和 3年  、 に、
     摂政右大臣、   971年、な、
  天禄  2年  、 に、 太政大臣に昇り、
     翌る、 天禄  3年 、の、 閏2月に、
  兼通氏は、 ようやく、 権中納言に進むが、
    弟な、 兼家は、 権大納言兼右近衛大将と、
  大臣の座を目前としていた。

    この頃の、 兼通氏と兼家の官位の逆転が、
  二人の不和への原因となった、
   とも、される。

      同年の、 8月ごろより、 伊尹氏は、
  病に伏し、  ➕月には、  危篤に陥って、
   21日に、 辞意を示す上表を行った。

     それを知った、 兼通氏と兼家は、  
  早くも、次の日には、   円融天皇の御前で、
  後任を巡って、 口論を始める有様であった。

    ・・続きは、   ブログ   ;
 『    夜桜や    夢に紛れて    降る、寝酒    』、
  で❗。