☆     伊達秘史❗   ;
   歴史拾遺   ヒロイ   ; 

     ☆    「  政宗氏の弟  」、とされる、
     住職❗    ;

     東京都の、  あきる野市に、
  大悲願寺 、 という、 寺があり、
   注目すべき記録が残されている。

    寺の、15代目の住職の秀雄師が、
  伊達政宗氏、への弟だ、  というのだ❗ 。

     大悲願寺には、    1622年、 な、
   元和   ゲンナ   8年  、 の、 8月21日、に、
   当時の住職な、 13代目、の、
   海誉上人にあてた、
   政宗氏の手紙が、伝わっている。

    内容は、  大悲願寺を訪れた、
   政宗氏が、  庭に咲いた、
   白萩の美しさに心を奪われ、
  江戸に帰ってから、 
  株分けを所望したものだ。

    この手紙の包み紙の内側には、
  「   実は、 大悲願寺の15代目の住職の、
  秀雄師は、  伊達輝宗氏の末子で、
   伊達政宗氏の弟だ   」  、
  と、記されている。

    これを書いたのは、  江戸時代の中期の、
  住職な、 如環師 、 とされ、  彼は、
  大悲願寺の過去帳      ;
  (   『  福生市  史  資料編   中世寺社   』 、
  に、 全文が、 翻刻されている    )      ;   
  、も、 整理している。

    そして、  その過去帳に、   如環師が、
  秀雄師を、 政宗氏の弟 ❗ 
  、と、 記した根拠があった。

     秀雄師が、  15代目の住職を務めていた、
    1636年 、 な、  寛永13年   、の、
    5月24日の条   クダリ  、 に、
   伊達政宗氏が没した時に、  秀雄師が、
   その回向    エコー    ;   (  供養   )  ;
  、  を行なったことを示す、
     次の記述がある。

  「    奥州住、   伊達陸奥守権中納言
  従三位・藤原政宗、左京大夫・輝宗之嫡子、
  沙門秀雄兄、  寛永十三  丙子  五月廿四日薨、
   七十歳也   」 。

    亡くなった時の政宗氏の官位、
  藤原 、 という、  伊達氏の本姓、
   左京大夫・輝宗氏への嫡子、 という、
  記述は、 正確であり、 そして、
  「   沙門秀雄兄    」、すなわち、
  「  私の兄  」、  で、  だから、
   供養した、  というのだ❗ 。

     過去帳は、 言うまでもなく、
  住職が書くものであり、  つまり、
   秀雄師、な、 自身が、
 「   政宗氏は、 自分の兄   」 
  、と、  記したことになる。

    また、  過去帳には、  秀雄師が没した、
   1642年、 な、  寛永19年   、の、
    7月26日の条に、
 「   秀雄師は、  輝宗上、の、 二男で、
  政宗上の弟   」 、  とある❗ 。

    政宗氏の弟は、  小次郎氏、 の、
  ただ一人だ❗  。

    それ以外の弟は、 系図な上には、
  一切に、 出てこない。

    すると、御落胤 、 という、
  可能性も、ない、とは、 言い切れないが、
   秀雄師   =     小次郎氏     、  という、
   可能性が出てくる。

    実は、 他にも、  小次郎氏の、
  生存の可能性を示す記録がある。

   『  治家  記録  』、  を編纂する際に、
   史料として使われたのが、
  当時の伊達家の日記、な、
  『  伊達  天正  日記  』 、 だ。

     原本を見ると、
   政宗氏が、 小次郎氏を手討ちにした、
  とされるら  天正18年、の、
  4月7日の部分が、何行分か、を、
  切りとられていて、 残された部分には、
   政宗氏が、 小次郎への傅役    モリヤク  、
  だった、  小原縫殿助    ヌイイノスケ   氏  、
  を、  自分の屋敷に呼んで、
   手討ちにした❗  、  とある。

   つまり、   小次郎氏を殺害した、
  という、 記述は、
   どこにも、 出てこないのだ❗ 。

     他にも、  小原縫殿助氏は、  実は、
  生きていて、  小次郎氏を埋葬した、
   という、 言い伝えもある。

     小次郎氏と小原縫殿助氏への墓は、
   宮城県は、 登米市の、  津山町、の、
   横山にある。

   この墓を管理している、  曹洞宗の、
  長谷寺の記録と、
 『  津山町史   』、  によると、  はじめ、
  小原氏は、  小次郎氏の遺骸を、
   福島の、 ある寺に埋葬した。

    そして、  旧葛西・大崎領が、
  伊達政宗氏へ与えられると、
   小原氏は、  小次郎氏の遺骸を、
  この地に改葬し、  その後に、
  追い腹を切って、 死んだ、  とある。

    墓のある横山は、   政宗氏らへの母な、
  義姫が、  政宗から与えられた化粧領で、
  改葬は、
    義姫の内命によるものだ、  という。

    2人とも、 政宗氏によって、
  手討ちにされた、 という、
 『  治家記録  』、 と、 矛盾する。
 
    ☆    母子で仕組んだ狂言だった❗?   ;

     結論から言えば、
  毒殺未遂事件と、 小次郎氏への殺害は、
   政宗氏と、 義姫との間で共謀された、
  狂言ではなかったか。

     小次郎氏は、 殺されておらず、
  大悲願寺の秀雄師となったのではないか。

      というのも、    小田原への参陣の時に、
   政宗氏に、 実子は、 いなかった。

   すると、 政宗氏に万一のことがあれば、
  伊達家の血統を継ぐ者は、
   小次郎氏だけだ。

    それを、殺すとは、考えにくい。

    だが、   小次郎氏を、
  当主に推す勢力もあったのだろう。

    小田原への参陣の前に、  政宗氏は、
  伊達家の一本化を図るために、
  弟を排除するべき、 必要性もあった。

     そこで、   義姫と話し合い、
  小次郎氏と小原氏とを殺したことにして、
  小次郎氏の身を、 小原氏に託し、
  寺に逃したのではないか。
   
   2人の墓が、 横山にあるのも、
   不居証   フイショ   ;   アリバイ    ;
   、  作りの一環だろう。

    政宗氏と義姫との関係は、  おそらく、
  幼い頃から、 ぎくしゃくしていたが、
   かなりの部分は、
  政宗氏の思い込みだったのではないか。

    政宗氏は、 後年に、疱瘡にかかった際に、
  義姫が見舞いに来なかった、
  と、 語っている。

   そうした体験から、  義姫は、
  弟だけをかわいがり、自分を疎んじている、
  自分は、 いずれ、
  亡き者にされて、 弟が跡を継ぐ、
  義姫の背後には、
  敵対する最上義光氏がいる……、
  そんな不安が、 徐々に、
  育まれたのではないか。

    政宗氏が、  小田原の、
  豊臣秀吉氏に会いに行くときに、
  一番に、 心配だったのは、
  自分の留守中に、 
  小次郎氏を擁立した内乱が起きかねない、
  ことだった。

    政宗氏は、  それまで、
  胸の内に抑えていた、 不信感を、
  率直に、 義姫に伝え、 それを聞いた、
  義姫も、 政宗氏の想いを汲み取り、
  そこで、 考えられたのが、
  この狂言ではなかったか。

   2人で申し合わせていたのなら、
  義姫が、 最上に逃げ帰ることは、
  なかったのでは、 という、見方もあるが、
  4年後 、 ということに、 意味がある。

     政宗氏が、  家臣の鬼庭綱元氏に、
  事件の直後に与えた、 と思われる、
   手紙がある。

   そこには、  義姫が、
  政宗氏を毒殺しようとしたが、  背後には、
  義姫の兄な、義光氏がいる❗  、 という、
  噂があり、 その通りだ、  と思う。

    このままでは、
  小次郎氏を守り立てる側との間で、
  内乱になりかねない。

   毒を盛ったのは、  母だが、
  殺すわけにはいかないので、
  かわいそうだけれど、
  弟を殺すことにした、とある。

    そして、 最後に、 信頼している、
  お前にだけは、この事実を話しておくので、
  お前が斟酌して、いい、 と思うことは、
  世間へ口説き、広めてほしい、
  と、 書いてある❗  。

   この指示から、  政宗氏は、
  義姫に毒殺されそうになったので、
  弟を殺したのではないか、  という、 噂が、
  徐々に浸透していった可能性がある。

    やがて、 義姫は、  周囲の、
  自分に対する目が厳しくなってきた、
  ことに、 耐えられなくなって、
  実家に帰った。

   あるいは、  実家に帰ることで、
  自分が、政宗氏を毒殺しようとした事が、
  真実だった、 と思わせようとした、
  のかもしれない。

      ☆    親子な、3人に去来する想いは…    ;

    政宗氏が、 大悲願寺に立ち寄ったのは、
  秀雄師に会うためであった、 と、
  地元では、 昔から、言われていた。

     秀雄師は、 当時は、 住職な、
  海誉上人への弟子になっていたからだ。

     寺には、  政宗氏から贈られた、
   茶壺もある、 という。
   つまり、   記録には残っていないが、
  大悲願寺には、 何度かを行っている、
  可能性がある。

   すると、  なおさら、  秀雄師、 つまり、
  小次郎氏と会うことが、
  目的だった、  と、 思えてくる。

    事件の当時は、  政宗氏は、  24歳、
  小次郎氏は、
   10  〜  12歳  、  と、 推定される。

   しかし、  事件の翌年、に、
  政宗氏の初めての実子な、
    秀宗氏が生まれる。

   後継者ができた時点で、
  小次郎氏が復活する必要は、なくなった。

    逆に、  生きていることが、
  知られては、 まずい。

    政宗氏は、 小次郎氏が、
  一番に、 気の毒だと、
  負い目を感じていたのではないか。

   だから、 会いに行った。
   本当に、 気の毒なことをしたと、
  謝る以外の気持ちは、なかっただろう。

    政宗氏が、 大悲願寺で、
  白萩を眺めた、2カ月後の元和8年10月、
  最上家への改易により、
  義姫は、  山形から、
  仙台の政宗氏のもとに戻って、
  その約9カ月後に、 亡くなった。

    大悲願寺で、
  小次郎氏と会っていたとすれば、
  政宗氏は、 その様子を、
  義姫に伝えていたかもしれない。

   あるいは、  最上家への改易の噂は、
  以前からあり、 大悲願寺で、
  政宗氏と小次郎氏が、
  義姫への処遇について、
  話し合ったかもしれない。

  その時、 親子な、 3人に去来した想いとは、
  いかなるものだったのか。

   いずれにしても、  秀雄師が、
  小次郎氏とは、 断定できないが、
  私は、 その可能性は、 高い❗
   、と、 考えている。

   そして、  小田原への参陣とは、
  伊達家にとって、 かようにら
  大きな犠牲を払うほどの、   
  重大な局面だったのだ。

     紙幅の関係で、
  説明を省略した部分も多いが、
  この論に興味を持たれた方は、
  拙著な、 『  素顔の伊達政宗  』   ;
 (  洋泉社  )、   拙論、な、
 「  伊達政宗と母義姫─
 毒殺未遂事件と弟殺害について─  」   ;
 (  『  市史せんだい  』  Vol.27 
   仙台市博物館 2017年9月発行    )   ;
  、  を参照していただきたい。
    ※本記事は、   歴史街道   2018年  11月号 、
  に掲載したものです。

    ☆    室町幕府は、 弱かった?   ;
  『  観応の擾乱  』、の、
  亀田俊和先生に聞いてみた
   2018年  12月26日   公開   ;

     ☆    足利義満氏   ;
 
     1338年、 な、  建武5年     ;      、に、
   足利尊氏氏が、 征夷大将軍に任じられる。
    以後、二百数十年にわたって、
  足利氏を将軍とする体制が続いた。
──室町幕府。
  今日の日本文化の原型が生まれる、などし、
   日本史における重要な時代であった、
  にもかかわらず、に、
  「   よく、わからない   」、  という、
  人も、 少なくないだろう。

  「  室町幕府  」、  を、 
  ベスト・セラーな、 『  観応の擾乱  』、
  への著者な、亀田俊和氏が、
  わかりやすく解説する。
 
  亀田俊和 Kameda Toshitaka 氏   ;
   国立  台湾大学  日本語  文学系  助理教授   ;

       @     「  徹底した実力主義  」、が、
    招いたものとは     ;

    室町幕府と言えば、  鎌倉幕府、
  江戸幕府と比べて、 どうしても、
  戦乱が多くて、 弱い、  という、
   意目侍   イメジ  、が、 
  つきまとうのではないでしょうか。

   たとえば、  発足して、 わずかに、
  12年で、 観応の擾乱 、  という、
  内紛が勃発します。

    これは、  初代将軍の、足利尊氏氏と、
  弟の直義氏が対立し、
  全国を股にかけて争った、内乱です。

   3代将軍の、 足利義満氏の時代は、
  室町幕府の全盛期で、
  最も、安定していましたが、  それでも、
  土岐氏、山名氏、大内氏といった、
  有力守護を、たびたび、粛清する、
  必要にせまられていました。

    1441年、 な、  嘉吉元年   、には、
  6代将軍の、足利義教氏、
  播磨への守護の、赤松満祐の屋敷での、
  宴会の席で、 暗殺され     ;
  (    嘉吉の乱   )    、  
   1467年、 な、  応仁元年   、には、
  有名な、  『  応仁の乱  』、
  が、 始まり、  七年も続きます。

    その後は、  戦国時代に突入し、
  将軍家も、 たびたびに、 分裂し、
  一世紀にわたって、 混乱が続きました。

     しかし、  内紛や戦乱は、
  鎌倉幕府も、 負けず劣らずに、 多いです。

    周知のように、鎌倉幕府では、
  将軍は、 飾り物で、
  実権を握っていたのは、  元は、
  伊豆国の在庁官人にすぎなかった、
  執権な、 北条氏でした。

    江戸幕府の安定度は、
  世界史的に見ても、 驚異的で、
  これと比較するのは、 酷だ、と、
  個人的には、 思っています。

    むしろ、 黒船が来航してから、
  わずかに、 14年で滅亡した、
  江戸幕府と比較して、何度も、
  京都を追われながらも、 生き残った、
  室町幕府のしぶとさを、
  評価すべきかもしれません。

    鎌倉幕府・江戸幕府とは異なる、
   室町幕府の特色として、 私は、
  「  徹底した実力主義  」、 を挙げる、
  ことができる、 と、 考えています。

    もちろんな事に、  
  鎌倉幕府・江戸幕府にも、
  実力主義は、 存在していましたが、
   室町幕府の実力主義は、 はるかに、
  徹底しています。 
    
    少なくとも、  義教将軍の頃までは、
  そうした風潮が残っていた、
    と、 思われます。

     合戦で手柄を立てた武士には、
  将軍が、 恩賞として、
  所領や官職を与えました。

     指揮官クラスは、  守護職を拝領し、
   地方への統治を担当しました。

    寺社もまた、  幕府軍の勝利を祈禱し、
  僧兵を派遣して、
  軍事的に貢献することさえ、 しばしばで、
   将軍は、 所領を寄進することで、
   寺社の忠誠に報いました。

    訴訟に際しても、 幕府、への、
  忠誠や、貢献が、 評価され、
   証拠文書に問題がなければ、
   迅速に判決が下され、執行されました。

  「   努力すれば、する分だけ、 報われ、
  利益を与えられる   」 、  という、
   信頼があったからこそ、
  義満氏は、 
   1392     いざ、国    、合わそう、 な、
   1392年に、
   南北朝の合一❗  、 を成し遂げ、
  全盛期を築いたのではないでしょうか。

    もちろん、  常に、
  能力や貢献を試されて、
  競争を強いられ続ける環境であった、
  ことが、
   室町幕府の政治が、 不安定だった、
  要因の一つです。

    過当な競争は、 いずれ、破綻します。

    何より、 将軍自身もまた、
  臣下に、 常に、 実力を試される存在で、
  最後は、 武士の貢献に、
  応えることができなくなり、
  衰退・滅亡しました。

      しかし、
  「   努力しても、 報われない   」 、
   閉塞感が漂う、 現代の日本において、
   室町幕府の実力主義は、
  ある程度は、 再評価する、
   価値があるのではないでしょうか。
 
    @    室町幕府における、
   将軍と大名の関係   ;

     この問題についても、
  さまざまな議論がありますが、  やはり、
   諸国の守護が、 基軸の制度だった、
    と、 私は、 考えています。

    御判御教書による、 将軍の命令を、
    守護が執行する。
   
    これが、  応仁の乱に至るまでの、
   室町幕府体制の基本でした。

     もっとも、 初期の室町幕府においては、
   守護は、 必ずしも、
  好まれていたわけでは、ありません。

    地方で、  南朝軍との、
  苦しい戦いを強いられ、  敗北すれば、
  全責任を負わされ、 失脚する、
   守護の立場を、本音では、
  忌避していた武将も、多かったようです。

    武将たちは、便利で、
  娯楽の多い京都の生活を好んでいました。

    全盛期の幕府でも、守護たちは、
  基本的に、 在京志向が強かった、
   ことが、 指摘されていますが、
   初期から、 そうでした。

    武勇で名高い、執事の、
  高師直の一族でさえ、 守護職には、
  さほど、 興味はなく、
  地方の南朝軍を鎮圧すると、
  守護職を、 他の武将に譲り、 帰京して、
  在京での奉公に戻るのが、 普通でした。

    しかし、 その師直の一族が、
  観応の擾乱で敗北して、
   壊滅的な状態になると、
  守護分国を集積することの、
  有効性を認識する、
   武将が、 増え始めたようです。

   仁木頼章、細川清氏、斯波義将氏、
  といった、  師直の後任の執事たちは、
   皆、
   守護分国の集積や経営に力を入れています。

       ≒
   斯波氏らは、   足利氏への、
   家来ではなく、  単に、
   幕府の体制に参加するに当たって、
   足利将軍家を、 自らへの、 上司として、
   それに参加した、
   足利氏への、親戚であり、
   同じく、 親戚でありながらも、
  足利氏、への、家来としての、
   累代性を成していた、
  細川氏、とも、異なる、 立場で、
    室町幕府に参加し得ていた。
       
   細川清氏氏と、仁木義長氏が対立した、
  原因の一つが、
  伊賀への守護職をめぐる争いであるなど、
   守護職の争奪を契機とする、
  紛争も増加します。

    そして、 守護分国の獲得と、
  世襲に成功した武家が、
  三管四職として、
  将軍を支える体制が確立しました。

   一方で、  将軍と守護を、
  潜在的に対立する存在である、とする、
  見方も、根強くあります。

    3代将軍の、足利義満氏は、
  土岐氏、山名氏、大内氏といった、
  有力守護を次々と打倒し、
  六代将軍の、 足利義教氏も、
  若狭と丹後への守護の、 
  一色義貫氏を殺害したり、
  加賀への守護の、富樫教家氏を、
  追放したりしています。

     8代将軍の、足利義政氏も、
  斯波氏、畠山氏の後継者争いに介入し続け、
  応仁の乱を起こしてしまいました。
    守護から、相対的に自立した国人たちを、
   将軍が、 奉公衆、つまり、
  直轄軍として編成した、
  史実も、知られています。

   ただし、 将軍が、守護を粛清しても、
  必ず、 別人を、 新たな守護に任命した、
  事実は、 看過できません。
   将軍が嫌ったのは、
  力を持ちすぎた守護であり、
  守護という制度、な、 そのものは、
  まったく、 否定していなかったのです。

    地方への統治に、 守護は、
  必要不可欠な存在でした。

   奉公衆も、守護家の庶流が取り立てられる、
  事例が多く、 将軍と守護が協調する、
    側面も、ありました。


  【    室町幕府の、 足利将軍家は、
   一部を除いて、  一般に、
  守護大名ら、 に対する、
  『  主君  』、 ではなく、 単なる、
   『  上司  』、 でしかなかった。

     これは、 江戸幕府の、
  徳川将軍家が、 大名らに対する、
  主君であり、
  直参旗本と同じく、
   徳川将軍家への直臣であり、
   大名らの各々への家来らは、
  徳川将軍家への、 直臣ではなく、
  陪臣であり、
  主従関係の宛て付けられてある、
  立場を占めていた、
   が、

     室町幕府に参加して、
   管領   カンレイ  、 を務めた、
  斯波氏員らや、 畠山氏員ら、
  などは、  足利将軍家に対する、
  家来ではなくて、
  それへの親戚で、  幕府において、
  部下、な、役職を務めもする、
  というだけの立場にあり、
   その一方で、 
  細川氏員らのように、
  足利将軍家への親戚でありながら、
  累代の家来としての契約性を成して、
  足利将軍家に仕えるべくある、
  人々もあった。

  室町幕府の第6代の征夷大将軍である、
  足利義教氏は、
  守護大名の、 畠山氏らと共に、
   連歌をたくみに詠む、 という、
  農家の娘さんと同席し、
   共に、連歌を作り合い、
    その娘さんの才能を愛でている、
  が、
   この娘さんは、
  『   主持ちでは、ない  』、
   『  主  アルジ  』、 格の人であり、
    足利将軍と同じく、
  『  主  』、格の人、として、
   足利将軍ら、と、同席し得もした、
  のであり、
    幕府の要職にあろうが、
   どんなに羽振りの良い、
  武家員であろうが、
   『  主持ち  』、 な、 
  『  家来  』、格な人々は、
     『  主  』、格な人々とは、
   公式には、  同席などは、 できない、
  立場にあり、
    大名であっても、 
  足利将軍家、などを、
  主君とする、 契約性を成した人々は、
   この、 農家の娘さんのように、
   将軍家と同席する事、 などは、
  公には、 より、 できない、  
  立場を占めており、
     そうした、 主格の人々と、
  家来格の人々とへの、
   交信系などでの、 独特な区別性、や、
   主格な人々同士の、 交信系などでの、
  対等性、 といった物らは、
  足利時代の、 日本人たちの精神性なり、
  その精神性らを規定する、
   価値序列の観念性なり、として、
  特徴性のある物らであり、

    義教将軍が、
  守護大名らの身内員らを、
  自らの、そば近くに仕えさせ、
   その大名らの身内員らを、
  大名らへの跡継ぎにする事で、
  守護大名らを、 段々に、
   足利将軍家への累代型の家来に、
    入れ替えてゆく、 度合いを、
  増さしめてもあった道次で、
  暗殺された、事への、
  あり得る、要因性らの中にも、
   この、時代の特徴的な精神性らの存在、
  と、 足利将軍家へ対して、
  守護大名ら、などが、 一般に、
  累代型の家来ではなく、
  主従関係を成して居らず、
   単に、共通の幕府体制の中で、
  それへ参加した場合に、
  上司と部下との、役職上の、
  関係性を公に成す、 だけの、
  間柄しか成して居らず、
   
    例えば、
  守護代の、 家系員である、
  織田信長氏は、
   その先祖らの契約性により、
   織田氏を、 守護代に取り立てた、
  斯波氏である、 足利氏員らは、
  自らへの主家員なり、
   主君なり、として、盛り立てる、
 宛てとすべき、筋合いには、
  あり得ては、居たが、
   将軍家の方の足利氏員らは、  
  織田氏員ら、などにとって、  単に、
 同じ体制での、上司の家系員らに過ぎず、
 自らが、家来として、盛り立ててやるべき、  
  筋合いには、無い、 宛ての、
  人々であり、
   江戸幕府における、 
 大名らへの、家老らや、
   その家系員ら、とは、
  幕府の長  オサ 、な、 家系員らへ対する、
  関係性とは、 著しく、 異なる、
  関係性を成していた。

     戦国時代は、 下剋上の時代、
  としても、 語られるが、
     それは、 より、武力の行使性、
   などを欠いた立場にあった、
   主格な人々が、
   必ずしも、 主格な存在ではなかった、
  武家員ら、などから、
   ありもしなかった、 身分制めいた、
   秩序性を、 無理にも宛て付けられ、
   より、 元から、 武力の行使性による、
  身分性なり、 序列性なり、が、 より、
  一定の人々に限定される、
   事を、 無しに、 より、
  一般の、 主格な人々へまでも、
  宛て付けられるべき、  正統な物としても、
   あり得て来たかのように、
    匂わされる、 度合いら、を、
  各地で、余計に、成し増していきもした、
   時代でもあり、

      神々のどれ彼の格を、
    その子孫員としてある、
   日本人の誰彼らの子孫員として、
    生まれ付きに、 受け継いである、
  日本人たちの、 自らへの主である、
  格性は、
   『  主持ち  』、になる、
  契約性を成して、 何らかの意味で、
  公の事らにおいては、
   『  主  』、格な人々のとは、
   区別される、 作為型や、
  不作為型の、 振る舞いようを、
  成すべき、  立場へ、
   特定の先祖員らへの子孫員として、
  その何彼らを引き継ぐと共に、
  自らを据えたり、
   自らを、 初代として、
   そうした契約性を成したり、した、
  特殊な、人々においては、
  より、 公には、表立てられない、
   筋合いなものとしての度合い、
  を、 成し、 増し得もするべく、
  あった、 宛てなものであった、
  としても、
 より、一般な、 主格の人々においてまで、
   『  主持ち  』、としての、
   観念性らが、 その精神性を、
  規定すべき、 いわれ、などは、
  本来は、 より、  無かった     】  。 
  

  ☆    足利時代、と、イタリアの都市国家ら、 に、  傭兵ら ❗ 03 ;
     ・・続きは、  ブログ  ;
 『    夜桜や    夢に紛れて    降る、寝酒    』
 、で❗。