☆ 六角は 勝って、京都で 徳政令
久米田合戦 撃たれし、三好・・❗。
☆ 六角承禎氏 ―負けても勝った、
名門大名 ;
織田信長氏、豊臣秀吉氏、武田信玄氏、
等々、日本人の誰もが知る、
超有名人ばかりが、
戦国武将では、ありません。
戦嫌いだったり、趣味に生きたり…
独自の個性を保ちながら、
歴史の隙間を縫うようにして、
戦国の世を生き抜いた人々を、
注目の歴史小説家が紹介します。
@ 乱世の能範 ノーハン ; ノウハウ ;
戦国時代であれ、 現代社会であれ、
熾烈な競争を勝ち抜いて、
生き残るためには、時代に合わせて、
自己を変革していくことが、
欠かせません。
戦国の覇者となった、 織田信長氏は、
尾張守護・斯波家への家来である、
清洲織田家の、そのまた、
家来の家に生まれました。
この、一介の小領主 、 といってもいい、
地位から須端 スタン ; スタート ;
、 した信長氏は、 徐々に勢力を拡げて、
清洲織田家、斯波家、さらには、
隣国の美濃・斎藤家をも凌駕して、
尾張・美濃の二ヶ国を領する、
戦国大名となります。
そして、 流浪の将軍・足利義昭氏、への、
庇護者、 という、立場で、 京へ上り、
その後は、 義昭将軍をも追放して、
天下人へと、自らと、 織田家、
という、 組織を、
揚浮提 アプテ ; アップデート ;
、していったのです。
このように、常に、自己研鑽に努めながら、
周囲の状況に、 目を光らせ、
状況に合わせて、 新たな自分へと、
生まれ変わる。
それこそが、 苛酷な社会を生き抜く、
必須条件、 と言っても、いいでしょう。
と、何やら、 自己啓発本のような、
書き出しをしてみましたが、どうにも、
気持ちが悪いですね。
こういう、 「 歴史上の偉人から得た、
教訓を実生活に活かそう❗ 」、
みたいな文章は、結論ありきで、
歴史にこじつけているものも、
多々あるので、とりあえず、
眉に唾をつけて読むのが、いい、
と、 思います。
それは、さておき、戦国時代で、
上を目指すのであれば、
自己変革が必要、 というのは、
確かなことです。
特に、武田家、今川家、島津家、
といった、 古くから続く守護大名は、
時代に合わせて、 戦国大名へと脱皮する、
ことで、 生き残りを図り、
強大な勢力を築き上げることに、
成功しています
( もっとも、武田家も今川家も、
戦国大名へ転身した後に、
滅びてしまいましたが )。
前置きが長くなりましたが、
今回に取り上げるのは、 代々を、
近江の守護を務めた名門・六角家の当主、
義賢 ( 後の承禎 )、 さんです。
戦国史に詳しい方なら、その名を、
一度は耳にしたことがあるでしょう。
織田信長氏の上洛に立ちはだかり、
鎧袖一触で蹴散らされた、
あの、承禎さんです。
彼は、守護大名から、 戦国大名へと、
揚浮提した六角家を率いながら、
何故に、 いともたやすく、
信長氏に敗北したのか。
その後に、 彼は、どんな人生を送ったのか。
それらを通じて、乱世に生きる、
武将たちの勝ち負け、とは、
何なのかを考えてみたい、と、思います。
@ 偉大な父 ;
六角家は、 清和源氏と並び称される、
宇多源氏は、 佐々木氏の嫡流として、
平安時代の末から、 近江に根を張る、
名門でした。
近江源氏の出身の人物には、
源頼朝氏の挙兵に加わり、活躍した、
佐々木定綱氏や、
バサラ大名として知られる、
足利幕府の創設の功臣・佐々木導誉氏、
などが、います。
その嫡流の六角家は、
室町時代を通じ、 代々を、
近江への守護職に任じられていました。
第8代の室町幕府の征夷大将軍の、
足利義政氏への跡目を、
その子の、 義尚氏にするか、
僧侶から、還俗させていた、
義政氏の弟にするか、 で、
争った、
1467年 ~ 1476年 、の、
応仁の乱の後に、六角家は、
近江の国内の、 寺社や、
幕臣の領地を横領した罪で、
二度にわたり、 幕府の追討を受ける、
ことになります。
しかし、 当時の当主な、六角高頼氏は、
甲賀の山中に立て籠もって、
遊撃 ユゲキ 戦 ; ゲリラ戦 ;
、 を展開し、 幕府軍を退ける、
ことに、成功しました。
高頼の子の、定頼氏が当主となった頃には、
足利幕府の権威は、 すっかり衰え、
将軍は、 しばしば、 京都から、
追われるようになります。
定頼氏は、 近江へ落ち延びてきた、
第十二代の将軍の、足利義晴氏を庇護し、
京都を支配する、 細川晴元氏と、
たびたび、 干戈かんかを交えました。
また、 京都を、 法華一揆が支配する、
ようになると、 比叡山延暦寺と合力
ゴーリキ 、 して、
これを打ち破っています。
義晴将軍が、 細川晴元氏と和睦して、
帰洛すると、 定頼氏は、
幕政にも、深く関与します。
義晴将軍の子の、義輝氏が元服した際には、
本来なら、 幕府の管領 カンレイ 、
が務めるべき、 烏帽子 エボシ 親を、
定頼氏が務めました。
この時期には、 六角家の版図は、
本拠の近江の南半国に加え、隣国の、
伊賀や伊勢の一部にまで及んでいました。
また、 北近江で台頭してきた、
浅井家を圧迫し、 従属させる、
ことにも、成功しています。
着実に、 版図 ハント 、を拡げ、
京都の政局にまで関与する一方で、
定頼氏は、 領内で謀叛を起こした、
有力な国人 コクジン ;
地侍ら ; 、 を滅ぼし、
南近江に、 強固な地盤を築いています。
また、本拠地な、 近江観音寺城の、
下 モト 、 を整備し、
一部の商人らの特権を廃して、
市場を開放する、
「 楽市令 」、 を発布しました。
この楽市令は、 織田信長氏の政策として、
有名ですが、 最初に記録に残っているのは、
定頼氏が発布したものです。
残念ながら、 詳細な記録が残っていない、
ために、 実態は、 はっきりしませんが、
信長氏に、 二十年近くも先駆けて、
この政策を実行した定頼氏が、
かなりの先見性を持っていた、
ことは、 間違いないでしょう。
さて、ここで、 守護大名と、
戦国大名の違いについて、
考えてみたい、と、思います。
この問いに対する答えは、
学術的には、 諸説がありますが、
大まかに言うと、
足利幕府から、 守護職 シュゴシキ 、
に任じられたことを、
支配への根拠とする、 守護大名に対し、
自らの実力で、 現地への支配を行うのが、
戦国大名、 といったところでしょうか。
そのためには、幕府権力から、
ある程度は、 独立し、
領内の土豪・国人層を、
家臣に取り込んで、
統制していく必要があります。
当然に、 領国内に対する支配力は、
守護大名より、 戦国大名の方が、
強くなります。
こうしたことを踏まえると、
定頼氏は、 六角家という組織を、
守護大名から戦国大名へと揚浮提する、
ことに成功した、 と、
言えるのでは、ないでしょうか。
@ 仁義なき戦い・京都死闘編 ;
さて、 長々と、
六角家の歴史を語ってきましたが、
ここからが、 本題、我らが、
六角義賢さんの登場です。
義賢氏は、 大永 元年 ;
一五二一年 ; 、に、
六角定頼氏の嫡男として生まれました。
弓術は、 日置流、馬術は、 大坪流を、
当代一流の師から学んでいます。
特に、 馬術は、後に、 自ら、
佐々木流、 という、 流派を起こすほどの、
達人でした。
後年に、 織田信長氏に、呆気なく、
蹴散らされたことから、 意目侍しにくい、
ですが、 個人的な、 武芸の腕前は、
相当なものであったようです。
義賢氏は、 六角家の中興の祖である、
父な、定頼氏の死によって、
三十二歳で、 家督を継ぎます。
その頃は、 京都では、
細川家への家臣の、 三好長慶氏が台頭、
ついには、 謀叛を起こし、
細川晴元氏と、 前の将軍の、
義晴氏の跡を継いだ、 足利義輝将軍を、
京都から追い出していました。
定頼氏は、 この争いを憂慮して、
和睦を斡旋しましたが、
その交渉の最中に没してしまったのです。
義賢氏は、 父の遺志を継いで、
交渉を継続、 晴元氏の出家を条件に、
義輝将軍が、 京都に帰還する、
ことを、 三好長慶氏に承諾させます。
伸張の著しい三好家を相手に、
和睦を呑ませたことは、
義賢氏の大きな自信となった事でしょう。
また、 当時の六角家は、
傑物の三好長慶氏をして、
敵に回したくない、 と、 思わせるほどの、
力を持っていた、 という、
証 アカシ 、 でも、あります。
しかし、 義輝将軍は、 自身に、
実権が無いこと、 長慶氏が、
事実上の天下人のように振る舞う、
ことを、 不満に思っていました。
そして、 ほどなくして、 出家した、
細川晴元氏と通じ、 長慶氏、への、
打倒を画策しはじめます。
義輝将軍は、 京都は、 東山の麓 フモト 、
に、 霊山城を築いて、 立て籠もり、
晴元氏と共に、 京都への侵攻を狙いました。
ところが、 長慶氏の素早い反撃に遭って、
あえなく敗走、 またしても、
近江へ逃亡することとなります。
以後は、 三好長慶氏は、
将軍・管領を戴くことなく、
自らの実力で、 京都を支配しました。
ここから、 三好家は、 絶頂期となり、
長慶氏は、 事実上の天下人として、
君臨することになります。
さて、 義賢氏は、 父の方針に従い、
近江の朽木谷に落ち延びた、 義輝将軍と、
細川晴元氏へ、 救いの手を差し伸べました。
本音では、 面倒ばかりを起こす、
義輝将軍に、 うんざりしていた、
かもしれませんが、
そこは、 腐っても、 将軍。
手元に置いておくだけでも、
それなりに価値がある、というものです。
しかし、 義輝将軍は、 後に、
『 剣豪将軍 』、 と呼ばれるほどの人物。
黙って、 飼い殺しにされているはずも、
ありません。
義輝将軍と晴元氏の個辺 コベ ;
コンビ ; 、 は、
義賢氏から、援軍を引き出し、
性懲りもなく、 京都、への、
奪回の戦いを挑むのです。
三好家との戦いを前に、 義賢氏は、
家督を、 嫡男の義治氏に譲り、自らは、
出家して、 承禎 、 と、名乗ります。
この時に、 承禎氏は、 三十七歳。
討死にの覚悟を決めた、 というよりは、
いつ、 何があっても、いいように、
早めに、 相続をすませておく、
という、 意味合いでしょう。
永禄 元年 ; 1558年 ; 、の、
六月に、 義輝将軍の率いる軍勢は、
如意ヶ嶽に布陣しました。
両軍は、 しばらく、
小競り合いを繰り返しますが、
三好家の本拠である、 四国から、
続々と、 援軍が到着するに及び、
形勢は、 三好軍の圧倒的有利となります。
そもそも、 史料によれば、
この時に、 義輝将軍が率いていた軍勢は、
たったの、 三千だった、 と、いいます。
これでは、 畿内の近国から四国にかけて、
広大な版図を持つ、 三好軍に、
勝てるはずも、ありません。
六角承禎氏は、 頼まれたから、
兵を出しただけで、本気で、
京都を制するつもり、 など、
なかったのでしょう。
戦況が膠着すると、 承禎氏は、
早速 サッソク 、 三好家と、
和睦への交渉に入りました。
結果にて、 義輝将軍は、 再び、
京都へ戻ることとなります。
下剋上の代表格のように言われる、
ことの多い、 長慶氏ですが、
義輝将軍への措置は、 ずいぶんと、
寛容です。
やはり、 長慶氏にとっても、
義輝将軍は、 「 腐っても将軍 」、
だった、 ということでしょうか。
細川晴元氏は、 この和睦に、不服で、
長慶氏へ、人質として差し出していた、
息子を、 ほったらかしたまま、
姿をくらませてしまいました。
乱世の父子の絆ほど、
あてにならないものは、ありませんね。
@ 決戦❗、 野良田表 ;
これで、 畿内は、 ようやく、
平穏を取り戻したかに見えましたが、
そこは、 戦国時代、そう、
甘くは、ありません。
次の火種は、 北近江の浅井家でした。
浅井家は、 代々を、 北近江に勢力を張る、
六角家の同族な、 京極家の配下でした。
しかし、 浅井亮政氏の代に、
主家の内紛に乗じて、 勢力を伸ばし、
下剋上を成し遂げます。
ところが、 亮政氏の子の、久政氏は、
凡庸で、 前に述べたように、
六角定頼氏の圧力に抗しきれず、
六角家に従属する道を選びます。
承禎氏は、 浅井家との、
主従関係を確かなものとするために、
久政氏の息子に、 自らの名の一字を与えて、
「 賢政 」、と、 名乗らせ、
家臣の娘をめあわせました。
しかし、 これに、 浅井家の家臣団は、
激怒します。
承禎氏自身の娘なら、まだしも、
家臣の娘をあてがわれることを、
侮辱 、 と、 捉えたのです。
永禄 二年 ; 1559年 ; 、の、
四月に、 浅井家臣団は、
久政氏を、 強制的に隠居させると、
弱冠十六歳の賢政氏を当主に据えました。
賢政氏は、 妻を離縁して、
六角家に送り返してしまいます。
そして、 すぐさま、 六角氏の傘下の、
国人・土豪に調略をしかけ、
肥田城主・高野瀬秀隆氏を寝返らせる、
ことに、成功しました。
翌 アク る、 永禄三年、の、四月、に、
この報せを受けた、 承禎氏は、
大軍を率いて、 観音寺城を出陣、
肥田城に押し寄せます。
承禎氏は、 肥田城の周囲に、堤防を築き、
近くの、 愛知川、宇曽川から、
水を引き入れて、 水攻めを行います。
しかし、 落城寸前 、と思われた所で、
大雨に見舞われ、 堤防が決壊した、
ことで、 この作戦は、
失敗してしまいました。
六角氏は、 戦法を力攻めに切り替え、
肥田城にほど近い、
野良田表に、 布陣します。
そうこうしているうちに、 浅井軍も、
その本拠の小谷城から出陣してきました。
八月の中旬に、 両軍は、
宇曽川を挟んで、 対峙します。
軍記物によれば、 この時、六角軍は、
二万五千余り、 対する浅井軍は、
一万一千。
この数字を鵜呑みにすることは、
できませんが、 六角軍が、
浅井軍の倍近い兵力を動員していた、
のは、 間違いが、 なさそうです。
浅井賢政氏としては、苦しい状況です。
ここで、 引き上げれば、
肥田城を見捨てたことになり、
賢政氏への信頼は、 地に堕ちます。
敵に攻められたら、
見捨てられる、 となれば、
配下の土豪・国人が、 次々と、
六角家に寝返り、
浅井家の支配が、 一気に、瓦解する、
ことにも、なりかねません。
しかし、 六角軍は、 浅井軍の二倍。
野戦を挑んだ所で、 普通に考えれば、
勝ち目など、ないでしょう。
まさに、 進むも地獄、戻るも地獄の、
大瀕危 ヒンキ ; ピンチ ; 、 です。
六角軍が、 肥田城攻めに、
四ヶ月もの、 期間をかけたのは、
浅井軍の主力を、 小谷城から、
引きずり出す、 意図があった、
のかもしれません。
窮地に陥った、 浅井氏が選んだのは、
野戦での、 真っ向勝負でした。
若さによる血気か、あるいは、
野戦を挑むに足る勝算があったのか。
いずれにせよ、後世に名高い、
「 野良田表の戦い 」、の、
火蓋が切られることとなりました。
開戦の当初は、 互いの、
先陣同士のぶつかり合いは、
数で勝る、 六角軍の優勢となりました。
しかし、 ここで敗れれば、
滅亡が必至となる、 浅井軍は、
粘り強い戦いぶりで、
六角軍の先陣を食い止めます。
戦闘の開始から、 およそ、 四時間。
浅井軍の先陣に、さすがに、
疲れの色が見えてきました。
ここで、 六角承禎氏が、動きます。
温存していた、 六角軍の、
第二陣を迂回させ、
浅井軍の先陣の横腹を衝かせたのです。
浅井軍の先陣は、これを支えきれず崩壊、
何とか踏みとどまろうとした、
浅井家の家臣の、 百々内蔵助氏も、
奮戦の末に、討ち取られてしまいます。
このまま押せば、難なく勝てる。
六角軍の誰もが、そう思った事でしょう。
六角軍の将兵は、 武功を求め、
さらに、激しく、 浅井軍を攻め立てます。
先陣が壊滅した浅井軍は、
戦線を維持するのが、 やっと。
このままでは、 総崩れは、
時間の問題です。
凡百の将なら、この時点で、
勝利を諦め、 退却を命じても、
おかしくありません。
ところが、 浅井賢政氏は、
この状況で、 手持ちの兵力を二分する、
という、 挙に出ました。
一手は、 家臣に預けて、
六角軍への足止めを命じ、もう一手は、
自らが、率い、 戦場を、大きく、
迂回したのです。
賢政氏の狙いは、 手薄になった、
六角軍の本陣への強襲でした。
前がかりになっていた六角軍の主力は、
いとも、たやすく、 賢政氏の本隊の、
迂回を許してしまいます。
気づいた時には、 浅井上は、
手勢とともに、 六角方の本陣へ、
突撃を敢行していました。
この捨て身の攻勢に、六角の本陣は、
大混乱。
武芸の達人である承禎氏も、
こうなっては、 どうすることも、
できません。
戦況は、 一気に、逆転❗。
承禎氏らは、 這う這うの体で逃亡し、
六角軍は、総崩れとなってしまいました。
こうして、 野良田表の戦いは、
浅井軍の大逆転の勝利で、
幕を下ろしました。
浅井軍の死者は、 四百、
六角軍は、 九百余り。
この勝利で、 浅井賢政氏は、
「 江北の麒麟児 」、 という、
異名をとることになります。
この戦いから、 ほどなくして、
賢政氏は、 六角承禎氏から賜った、
「 賢 」、 の字を捨て、
名を、 『 長政 』、 と、 改めました。
後に、 織田信長氏への妹婿となり、
信長氏を裏切ってら 窮地に追い込んだ、
あの、浅井長政氏です。
一方で、 敗れた六角家の兌滅 ダメツ ;
ダメージ ; 、 には、
深刻なものがありました。
北近江と肥田城への支配権を失い、
さらには、 倍する兵力で、
十六歳の若者に打ち負かされたことで、
承禎氏の武威は、 大きく、
低下してしまったのです。
このことが、後の、 六角家中の混乱、
へと、繋がっていきました。
野良田表の戦いの翌年に、
近江坂本に、 流寓中の細川晴元氏は、
将軍・義輝氏の勧めで、
三好長慶氏と和解し、再び、
京都の土を踏みました。
しかし、 長慶氏は、あろうことか、
晴元氏を、 摂津普門寺に、
幽閉してしまいます。
この報せを受け、
六角承禎氏は、 激怒しました。
実は、 晴元氏の妻は、
承禎氏の妹だったのです。
承禎氏は、 前年の敗戦の痛手も、
癒えないうちに、 反三好勢力による、
一斉蜂起を画策しました。
承禎氏が、 手を組んだのは、 かつて、
三好長慶氏に敗れ、 紀伊へ落ち延びていた、
前の河内の国主な、畠山高政氏でした。
これを、 精強な鉄砲隊を擁する、
紀伊は、 根来 ネゴロ 寺、の、
衆徒に支援させ、 南北から、
三好領を挟撃しよう、
と、 目論 モクロ んだのです。
永禄四年、の、 七月に、
観音寺城を発した、 六角軍の二万は、
京都の東に進出、同時に、
根来寺の衆徒を、 主力とする、
畠山軍の一万が、 南から、
三好領の和泉の国は、
岸和田に攻めかかります。
対する三好方は、 京都の守備を、
長慶氏の嫡男な、 三好義興氏、と、
重臣の、 松永久秀氏に託し、
畠山軍に対しては、 弟の、
三好実休氏を当て、 自身は、
本拠の、 河内国は、 飯盛城に腰を据えて、
情勢を睨 ニラ みます。
戦いは、 長期戦になりました。
京都の戦線では、 十一月二十四日、に、
勝軍地蔵山城を巡って、
激しい合戦となり、 双方に、
多数の死傷者を出したものの、
その後は、 一進一退が続き、
互いに、 譲りません。
和泉でも、 畠山軍と三好軍、との、
睨み合いが続きます。
しかし、 翌る、 永禄五年、の、三月、に、
畠山軍と、三好軍は、 和泉の国は、
久米田で、 激突、
三好軍の総大将の、 三好実休氏が、
鉄砲で、討ち取られてしまいました。
この敗戦で、 三好家は、 大きく動揺し、
三好義興氏、と、松永久秀氏は、
京都を放棄、 六角軍は、 三月六日、に、
ついに、 念願の入京を果たします。
ところで、この時期の、
「 天下 テンガ 」、 という、 言葉は、
日本の全国ではなく、
京都と、 その周辺を指す、
ものでもありました。
つまり、
京都と畿内の近国を制した者こそが、
「 天下人 テンガビト 」、
と、 呼ばれたのです。
その意味では、 一時期の、
三好長慶氏は、 まぎれもなく、
「 天下人 」、 でした。
六角承禎氏に、 長慶氏から、
天下人の座を奪う意図があったか、
否かは、 わかりません。
ですが、 上洛を果たした、 この時に、
承禎氏は、 間違いなく、
天下人の座に、 手をかけていました。
ここが、 戦国大名の、 六角承禎氏の、
頂 オベ ; ピーク ; 、 だった、
と、 言っても、 いいでしょう。
さて、 三好実休氏を討ち取った、
畠山軍は、 三月の中旬に、 勢いに乗って、
三好長慶氏のいる飯盛城を包囲しました。
三好政権の崩壊が、俄然、
現実味を帯びてきます。
しかし、 そこは、
百戦錬磨の長慶氏です。
軽々しく、 出撃することなく、
守りに徹して、 畠山軍の疲弊を待ち、
態勢の立て直しを図ります。
そして、 五月二十日に、
京都から撤退した、 三好義興氏、に、
松永久秀氏と合流した三好軍は、
河内教興寺の合戦で、
畠山軍を、 完膚なきまでに、
打ち破りました❗ 。
畠山軍は、 総崩れとなって敗走、
その勢力は、 事実な上で、 消滅します。
この間を、 京都の承禎氏は、
何をしていたのでしょう。
入京の直後に、 承禎氏は、洛中に、
人々の借金を棒引きにする命令な、
徳政令を発布し、
武士や民への慰撫に努めました。
しかし、 その後に、
畠山軍の要請に応じることなく、
二ヶ月余りの時を浪費しています。
兵糧が、 欠乏していたのか、
勝軍地蔵山城での、
激戦の痛手が、 大きかったのか、
あるいは、 承禎氏が、
病に臥せっていたのか。
その真相を、 史料から、
明らかにすることは、できません。
しかし、 翌る年に、
六角家で起こった大事件を考慮すると、
この時には、 すでに、家中に、
不協和音が生じていた、
可能性が高いでしょう。
理由は、 さておき、
畠山軍を壊滅させた、
三好軍が、 京都に迫ると、
承禎氏は、 まともに戦うこともなく、
近江へ撤退します。
こうして、掴 ツカ みかけていた、
天下人の座は、
承禎氏の掌 テノヒラ 、 から、
するりと、 すり抜けてしまいました。
@ 観音寺騒動 そして没落へ ;
永禄六年、の、十月、に、
近江一国を揺るがす大事件が起こりました。
名目上の六角家の当主な、義治氏が、
重臣の、後藤賢豊氏を殺したのです。
賢豊氏は、 先々代の当主な、
定頼氏の時代から、 家臣団の筆頭格で、
承禎氏の信頼も厚く、 家中で、
人望を集めていました。
賢豊氏への殺害の名目は、
無礼討ち、 ということですが、
具体的なことは、 わかりません。
義治氏が、 賢豊氏の人望を妬んだとも、
隠居後も、 実権を手放さない、
承禎氏の力を削ぐため、 とも、
言われています。
実際に、 承禎氏は、
口うるさい父親だったようで、
六角義治氏が、 美濃の斎藤家と、
同盟を結ぼうとした際に、
それへ苦言を呈する書状も残っています。
義治氏としては、 公然と、
父に反抗するわけにもいかず、
賢豊氏が、 そのはけ口として、
殺されたのかもしれません。
この義治氏の行為に、 家臣団は、
猛反発しました。
賢豊氏と近い、 重臣たちは、 あっさりと、
義治氏を裏切り、 挙兵、
浅井長政氏へ、支援を仰ぎます。
この事態に、 観音寺城の義治氏は、
城を捨てて逃亡、 箕作城で、
隠居していた、 六角承禎氏も、
義治氏の後を追って、
甲賀へと逃げ込みました。
承禎氏は、 頭を抱えたことでしょう。
定頼氏から、承禎氏の時代にかけて、
六角家は、 家臣団への統制を強める、
ことで、 守護大名から、
戦国大名への脱皮を果たしました。
しかし、それは、 完全なものではなく、
不測の事態が起これば、 家臣たちは、
簡単に、 主家に牙を剥く、
ことが、わかったのです。
結局は、 後に、 観音寺騒動 、
と呼ばれることになる、 承禎父子と、
家臣団との対立は、 賢豊氏と並ぶ、
宿老の一人な、 蒲生定秀氏の仲介により、
どうにか、収拾されました。
しかし、 実際に、 干戈を交えた、
両者の溝が、
簡単に埋まるはずもなく、
この四年後には、 『 六角氏式目 』、
と呼ばれる、 分国法が、 制定される、
こととなります。
分国法とは、
領国への支配の縷留 ルル ; ルール ;
、 を記した法律ですが、
他の大名家のものとは、違い、
六角家のそれは、
大名家の恣意的な権力の行使を、
抑制する、 ことに、 重きが置かれ、
六角氏の傘下の、 土豪・国人層の、
自立性を保障する、
内容となっています。
これは、 大名が、 配下、への、
統制を強めていく、 世の流れとは、
明らかに、 逆行するものでした。
式目は、 家臣団が起草したもので、
承禎父子は、 自らの権力を縛る、
法を認めさせられた、
ということになります。
その意味では、 六角氏式目は、
法律 、 というよりも、
憲法に近い❗ 、 ということが、
できるかもしれません。
; 『 戦国大名と分国法 』 ;
( 清水克行氏著・岩波新書 )、 では、
六角氏式目のことを、
「 日本版 マグナ・カルタ 」、
と、 呼んでいます。
こうした経緯で、 六角家は、
戦国大名としての権力を、半ば喪失し、
家臣団との深刻な亀裂を抱えたまま、
最大の敵を迎えることになるのです。
六角家が衰退に向かっていた、
永禄七年に、 三好長慶氏が病没、
その翌年には、 三好家を牛耳っていた、
三好三人衆 ; ( 三好政康
・三好長逸・岩成友通 )、 と、
松永久秀の子の、 久通が、
京都の将軍御所を襲い、
足利義輝将軍を討つ、 という、
大事件が起こります。
出家して、 奈良の興福寺にいた、
義輝将軍への、 弟の、 一乗院覚慶氏は、
三人衆に幽閉されるも、
幕臣の、細川藤孝氏らの手引きで逃亡、
近江国は、 矢島へ移った後に、
還俗しました。 これが、
後の、 足利義昭将軍です。
当初は、 六角承禎氏は、
義昭氏を上洛させ、 将軍職に就ける、
方針で、 動いていました。
そのために、 仇敵の、 浅井長政氏と、
尾張の織田信長氏との同盟を、
斡旋してもいます。
・・続きは、 ブログ ;
『 夜桜や 夢に紛れて 降る、寝酒 』
、で❗。