☆     歴史拾い❗   ;  土器像    ➕
   和歌ら❗   ;

    ☆   胸に乳房が表現された女性、
 と、みられる、 人物の刻まれた、土器片❗   ;

   奈良県は、 田原本町と天理市にまたがり、
   弥生時代の集落跡と墓跡が確認された、
  清水風  (  しみずかぜ  ) 遺跡で、
  胸に乳房が表現された女性とみられる、
  人物の刻まれた土器片    ;
(   紀元前1世紀ごろ   )、 が、 みつかった。

   町教育委員会が、 9日に発表した。
   乳房が表現された、 弥生時代の、
  絵画土器への発見は、 初めて。

    この女性を、 霊的な力を持つシャーマン   ;
  (   宗教的職能者   )   ;   
    呪員   ジュイン    ;     、
   とする、 見方もあり、
   農耕祭祀  (  さいし  )、 での、
   女性の役割を探る、 貴重な資料として、
 注目される。 

   町教委によれば、   土器片は、
  最大の幅が、  16  センチ  、
  高さ、 が、  12  センチ  、 で、
  大形の甕  (  かめ  )   ;      ミカ     ;
   、の口から、 胴にかけての、 部分、
  と、 みられる。

   5~6月に、 約  40平方メートルを調査し、
   弥生の中期の川跡から、出土した。

    両手を広げ、  手の指は、5本。
   顔に、 目と鼻、や、 口、に、 まゆ毛、と、
  羽のような袖や、 二つの乳房らも、
  表現されている。 

    絵画土器は、  10日~12月1日、
  町内の唐古・鍵考古学ミュージアム    ;
 (   月曜は、 休館、  祝日の場合は、
  翌日に、 休館   )、  で展示される。
   問い合わせは、  町教委文化財保存課へ。
 (   岡田  匠  記者  ) 

    @     かつては、あった    ;
   君が代 、の、  二番    ;
  (   藤原俊成氏の作詞   )  ;

   君が代は   千代とも鎖さじ 天の戸や 
   出づる月日の       果てし無ければ   ;

   同じく、  三番    ;
  (   源頼政氏の作詞   )   ;

   君が代は     千尋の底の    さざれ石の 
    鵜の居る磯と     現わるるまで・・。

    ・・さざれ石は、 本当に、 
   くっついて、大きくなる。


    ☆   「  かるたの聖地  」、 として、
  知られる、 近江神宮  (  大津市  )、で、
  11月3日に、  世界初の、
   競技かるた国別対抗団体戦が開かれる。

   競技かるたに青春をかける、
  女子高生の姿を描いた漫画    ;
  「  ちはやふる  」、 の、  働漫   ドマン    ;
  アニメ   ;     、 版が、
   海外でも、放映され、
   かるた人気が、 国外でも高まる中で、
   競技かるたの魅力を世界に発信しようと、
   大津市などが企画。
    
   米国やイタリアなどの、 
   7カ国のチームのほか、に、
  日本代表な、 2チームと、
   留学生チームの、  計して、
  10チームが参加して、腕を競う。

   世界一を決める一戦を控え、
  外国人な選手らも、 熱のこもった、
  練習を繰り広げている。
  (  杉森  尚貴  記者  ) ;

 「  バンッ❗  」 。     畳をたたく音が、
   張り詰めた空気を切り裂く。
    10月の下旬に、   大会の会場な、
  近江神宮では、  
 「  大津あきのた会  」、  に所属する、
   かるた愛好家に交じって、
  練習に励む、 留学生選手の姿があった。

   留学生チームの面葉として出場する、
  立命館大の、 大学院の、経営学研究科の、
  2年、黄馨永  (  コウ・シンヨン  )、さん
    ;  (  25  )、も、  その1人だ。

   台湾の出身で、  7月に、
  かるたを始めたばかりだが、
  和歌を母国語に訳したメモなどを使い、
  研鑽  (  けんさん  )、 を積んできた。
   
  「   単に、 文字として、
  ひらがなを覚えるのは、 難しいが、
   和歌の意味を理解することで、
  情景が意目侍できるようになってきた  」、
  と、 手応えを感じている。

   競技かるたに熱中する女子高生を、
  主人公にした漫画な、「  ちはやふる  」、
 が、  働漫化され、  海外でも、
  配信されたのが、 きっかけとなり、
   かるた人気に、火が付いた❗ 。

   黄さんも、 漫画を読んで、
  かるたの魅力に取りつかれた。

 競技かるたで読み上げられるのは、
  小倉百人一首の和歌だが、
  最初の数音で、  取り札を判断するため、
   日本語が堪能ではない外国人でも、
   楽しみ得ることも、 普及の背景にある。

 大津市によると、  米国、中国、タイでは、
   愛好会が立ち上がり、  多くの国で、
  選手が増えている。

   日本で開催される大会に出場して、
  段位を取得する人も増え、
   列辺   レベ  、 が上がっている、  という。

   競技かるたの海外での普及、での、
  第一人者で、10カ国以上で、
  かるたを紹介してきた、 米国に在住の、
   日本人、な、  ストーン睦美さん
  (  56  )、  は、
  「    読みあげられる瞬間、
  日本の選手が、 聞き取りにくい、 子音を、
  すばやく感知して、動き出せるので、
   コンマ数秒の駆け引きで、
  有利になることもある    」 、
  と、 指摘する。

   百人一首の巻頭歌を詠んだ、
  天智天皇を祭る、 近江神宮は、
  かるたの聖地として知られる。

  「  ちはやふる  」、 の舞台にもなった、
  ことで、  国の内外から、   和阿   ワー    ;
  ファン    ;    、  が、 
  聖地への巡礼に訪れている。

   大津市は、  
 「   かるたの魅力を知ってもらい、
  大津への誘客のきっかけにしたい   」   ;
 (  観光振興課  )、 と、 意気込んでいる。
     ◇
 競技かるた 鎌倉時代の歌人、
  藤原定家氏が、   京都は、小倉山にある、
   知人の山荘の障子に張る、
  色紙へ、書きつけるために、 集めた、
   100首の和歌らが、 起源とされる。

    かるたの形で普及したのは、江戸時代。

    読み上げられる、 百人一首の、
   上の句と対応した、 下の句の字札を、
   いかに速く取るか、を、競う。

   素早く、 激しい動きや、
  対戦で求められる、 強い精神力と、
  体力から、  「   畳の上の格闘技   」、
  と、 呼ばれる。


   ☆    『   鳥羽僧正、
  絵の描き様問答の事   』    ; 
 
    鳥羽僧正という人は、比類なき、
  絵の名手であったが、その下にも、
  絵描きの好きな法師がいて、あまりに、
  練習を重ねたものだから、最近は、
  僧正にも、劣らないほどの、
  絵描きになっていた。 

     僧正は、 ねたましくなり、 どうにかして、    失点を見つけ出してやろう、
  と、 思っていた所で、  法師が、
  手元に置いていた自信作の中に、
  喧嘩の図があり、 相手に突き刺した、
  刀の切っ先が、 拳ごと、
  背中へ出ているのを見つけた。 

   これは、 いい失点と思った僧正、
  早速、 法師へ、このことをあげつらう。 
  「   お前さん、  もう、 絵を描かぬ方が、
   よかろう。   人を突いたから、といって、
   拳まで、 背中に出るなんてことが、
  あるものか。  ありもしないことだ。
  こんな、 心ばせなら、
 絵を描くべきではない   」。 

   すると、法師は、反論する。 
  「   そのことですが、 これは、
  絵の故実、 というやつでして   」。 
   僧正、 相手が言い終わる前に、
  文句を言う。 
  「   自分で決めた、 故実か。
  片腹痛いわ   」 。 
   だが、 法師は、動じない。 

  「   私一人のものでは、御座いません。
  昔の名人の描いた性交の図、 
  などを見てみますと、 性器の寸法は、
  とても実在するものの大きさでは、
  御座いません。  なんで、現実に、
  あんな物が在る筈が御座いましょう。
  ありのままを描いたら、 興ざめである、
  からこそ、ああしたのです。
  絵そらごと、とは、 絵だけが表現しうる、
  もの故に、 言われている言葉です。
   事実と異なる描写は、  貴方様の絵にも、
  数多く見受けられますが    」 。 

   この様に、 臆することをなく、
  言い放ったものだから、 僧正も、
  正論だと感じ、黙ってしまった、 という。 

    ◆m6VSXsNcBYte   2010/10/10  ( 日 )   ;    21:31:46    ;
  『  福原大相国禅門のわかがみの事   』   ; 

   平清盛という人は、  若い頃は、 実に、
 立派な評判をとった人であった。 
  折悪しく、苦々しいことをしでかした、
  者がいても、  戯れであろうと思って、
  とがめず、お愛想で、
  つまらないことを言われても、
  笑ってやった。 
  どんな誤りをし、物をぶちまけ、
  呆れる真似をする者がいても、
  今更に言っても、 詮の無いことである、
 として、 声を荒げる様なことは、なかった。 

     冬の寒い頃には、  傍に控えている、
  者たちを、 己の衣で覆ってやり、
  朝早く目が覚めた時には、まだ、
  寝ている者たちを起こさずにおき、
  好きなだけ、寝させておいてやった。 

     召使の末端に位置している様な、
  者であっても、 その身内がやって来た、
  目の前では、 欠かせない人材である様に、
   扱われたので、  そんな姿を、
  身内に見せることが出来た者たちは、
  大いに面目をほどこし、心から喜んだ。 

   こういう情け深い人であったから、
  多くの者達が、心服したのだ。 

   ここでは、 若い頃の話とされており、
  晩年は、 そうではなかったのか、
  という話になりそうですが、
  当時の因果応報の理から言うと、
  善因が善果に、悪因が悪果になる筈なので、
  晩年まで、 「  いい人  」、 であった、
  ことにしてしまうと、
  熱病や一門の滅亡、への、原因が、
  より、 つかめなくなる、ので、  あえて、
  若い頃は、 としたものでしょう。 
   この話が本当なら、  基本的な性格は、
  変わらなかったのでは。 

   寝ている家来を起こさずにおく、
  という話は、 伊達政宗氏や、
  徳川家治氏にも、あります。

36:   m6VSXsNcBYte    21:44:15   ;
  『   上達部案内を頼む事   』  ; 

    鎌倉幕府の時代な、   天福    ;
    (   1233  ~  1234年   )の頃、
  ある上達部    カンダチメ   、  が、   
  嵯峨の辺りに、 家を建てようと思い、
  出歩いた末に、 大覚寺の池の辺りで、
  破子を開いていた。 
   すると、 そこに、杖にすがった老僧が、
  一人で歩いて来たので、これ幸いと、
  周囲のことを訊ねてみると、 これが、 
  驚くほどに、詳しい。 

   喜んだ上達部は、  酒を勧めてみるが     ;
 (    当時の僧侶は、 慣習で、 飲んでおり、
  俗人も、当然のこととしていた    )、
  珍しく、 断酒している、 と言って、
   飲まない。 
  それならばと、 破子を勧めてみると、
   斎    ;   (    午前中しか、 食事をしない、
  僧の掟   ) 、  と言って、 受け取らない。 
   全くもって、 今時に、 
  珍しい清僧であった。 

   そこで、 上達部    カンダチメ   、 
 「   それでは、  後で、 必ず参れ。
  馴染みになって、 嵯峨の案内を
 頼もうではないか    」 、   と言い、
  家と名を訊   タズ   ねた。 
    すると、  老僧、  「    この辺の人は、
   左府の入道、 と、 申しております   」
  、 と言う。 

  それを聞いた上達部は、 肝をつぶし、
  破子も食べずに、逃げ出した。 
この老僧、 前   サキ 、 の、  左大臣藤原隆忠
  (  当時   71~72歳   )、  氏の、
  出家した姿であり、 当時は、
  大覚寺 、 と号していた人物であった。


    ☆    執権の母・松下禅尼    ;

   相模守の、 北条時頼氏への母、
  松下禅尼は、 あるときに、
  時頼氏を自宅に招いた。 
  そのおり、禅尼は、 自ら、
 障子の破れを切り貼りし、修理していた。 
  これを見た、 彼女の兄の、 安達義景氏が、 
  「  自分で直すことないんじゃない?、
  器用な男がいるから、
  そいつに任せようよ  」 
  、   と言った所で、  禅尼は、  
「   その者だって、 私より、
  上手ではないでしょう?   」 
 、と、返して、 張り替えを続けた。 
   そこで、 義景氏は、 
「    替えるなら、全体を取り換えてしまえば、
  楽だし、見栄えもいいのでは?   」 
、 と、 重ねて申しあげると、 禅尼は 、

   「   いずれ、そうするつもりですが、
  今日は、 わざと、こうしているのです。
  物は、 壊れたところを修理して使うものだ、
  と、若い人に教えようと思っています  」 
  、と、答えた。 

   この松下禅尼の教育を受けた息子が、
  幕政の安定と執権の権力の強化に奔走した、
  北条経時・時頼氏な、兄弟だ。

   49:    三浦の犬     ; 

  1213年、  鎌倉幕府にて、 政所別当を務めた、
   重鎮、和田義盛氏が、
  北條氏との政争の末に、追い詰められて、
  乱を起こす。 
世に言う、和田の乱だ。 
    義盛氏は、  和田一族のみならず、
  横山党や波多野氏、に、三浦氏の筆頭格で、
  従兄弟で、 友でもあった、
  三浦義村氏の、 同心を得て、挙兵するが、
  義村氏が、 土壇場で、  華麗に寝返り、
  北條義時氏に通じ、 やがて、
  和田氏側は、 敗れた。
    そんな経緯があっての話なので、
  これは、 それより後の話であろう。

   ある年の正月に、 年賀の挨拶のために、
   多くの御家人達が、
  源氏な、 将軍の御所を訪れていた。 
   そんな中で、  三浦義村氏は、 早くから、
  詰所に入り、 上座に座っていた。
 
   ところが、  後からやってきた、 
  下総の千葉胤綱氏が、  堂々と、
  多くの人々を無視すると、義村氏より、
  上座に座りこんだのだ。

    千葉胤綱氏は、 かなり若く、
  この出来事の時は、  十代の後半から、
  二十代の前半ほどだった。 
  年齢からいっても、 官職からいっても、
  明らかな非礼を受け、  義村氏は、怒って、
     「   下総の犬は、
  己の居場所も知らぬか  」  
  、 と、 言い捨てた。

   だが、 言われた胤綱氏は、
  平然とした顔で、 
  「   三浦の犬は、 友を食いますな  」 
  、と、 返した。 
  和田の乱での、 
 義村氏の行為を皮肉ったのだ。

  『  古今著聞    チョモン  集  』 、には、
  この後のことは、 書かれていないが、
  騒動になった、 という話が、
  伝わっていないので、 何とか、
  その場は、 収まったのであろう。

     続きは、   ブログ   ;
 『    夜桜や     夢に紛れて     降る、寝酒    』
、で❗。