☆   東洋のガラパゴス❗   ;

    ☆   平安時代に紫式部が著した、
  源氏物語  (  全  54帖   ) 、 について、
  鎌倉時代の歌人の、  藤原定家氏    ;
 (    1162  〜  1241年   )、 が編さんした、
  最古の写本な、 「  青表紙本  」、 のうちの、
   5冊目の、 「  若紫  」、  が見つかり、
   冷泉家時雨亭文庫    ;  
  (    京都市は、上京区  )、が、
   8日に発表した。

 所有者は、  愛知・三河吉田藩主だった、
   大河内家の子孫で、  東京都に在住の、
  大河内元冬さん(72)。

     青表紙本は、  1930年代までに、
  花散里などの、 4帖が確認されており、
  いずれも、 重要文化財。
  平安時代から鎌倉時代の紙が使われている、
  ことや、末尾に、 定家氏の、
  独特の注釈が書かれている、点、
  などから、判断した。

 紫式部が書いた原本は、残っていない。


     ☆     なぜ、  明治に築城?     ;
  「  日本最後の城  」 、の謎;
 「  京都の天皇かくまうため   」、
  との説も   ;
   まいどなニュース   ;

 明治時代の初頭に建てられた、
  南丹市園部町の園部城跡が、
  「  日本最後の城  」、  として、
  脚光を浴びている。
   市は、  園部藩の立藩から、
  400年にあたる今年に、
  城にちなんだイベントを催し、
  にぎわいづくりを仕掛け始めた。

   なぜ、明治維新 、という、激動の時代に、
  築城が許されたのか。
   市民の間では、 
 「  京都の明治天皇をかくまうため  」 、
  という説が、 まことしやかに語られている。
   謎を追った。

 高校生が、 楽しそうに会話をしながら、
  重厚な門をくぐる。
  園部高は、 園部城の跡に、  校舎が建ち、
   城の櫓  (  やぐら  ) 、 門や、
  2層の巽  (  たつみ  ) 櫓、 番所が残る。

   櫓門は、 往時と同様に、 閂    カンヌキ  、
  を用いて、 開閉し、
  現役の正門として活用されている。


 1869年    ;    明治2年   、 の、
  園部城の完成には、  
  紆余(  うよ  ) 曲折があった。

    園部町史などによると、  園部藩は、
  出石藩主だった、   小出吉親氏が、
  1619年に転じて誕生した。
  
    小出氏は、 豊臣秀吉氏と深い関係にあった、
  外様大名で、 園部城の櫓への建設は、
  許されず、 陣屋にとどまった。

     江戸時代の末期の1864年の、
  池田屋事件などの、 京都での、
  武力衝突を理由に、  小出家は、
  江戸幕府に築城を申請したが、
   認められなかった。

    交渉を続けて、  67年に、
  内諾を得た、  というが、
  幕府が、 陛下へ、 政権を返上する、
  大政奉還で、 正式な許可が、下りなかった。

 新政府に、 小出家は、
 「  帝都への御守衛   」、   のためと、
  築城を申請し、  明治元年にあたる、
   68年の1月に認められた。

    櫓門な、3カ所、櫓な、5カ所がつくられ、
  園部高の裏の、 小麦山には、
  三層の櫓の絵図が残る。

   南丹市立文化博物館の、  犬持雅哉学芸員
  (  44  )、 は、  
 「    明治天皇をかくまうため、 とまでは、
  記録されていない。 幕末から申請しており、
  築城は、 小出家の悲願。  いち早く、
 新政府に恭順した事が、影響したのでは  」、
  と推測する。

  「  戦いのためと思えない  」  ;

    園部高に頼んで、 櫓門の内部を、
 見せてもらった。   空間は、
  はりに、頭をぶつけてしまうほど低く、
  鉄砲を撃つには、  須辺   スペ  、 が狭い。

  巽櫓の出窓は、十分に、 張り出しておらず、
  石を落とせそうもない。

    三木孝史副校長  (  51 )、は、
  「   戦いのための城とは、思えない   」 、
  と話す。
 「  社寺建築の趣  」、  と表現する、
  専門家もいるほどだ。
  城は、  72年には、  建物や敷地が、
  官有地や民間に、 払い下げられ、
  多くの建物が、解体された。

 帝をかくまうため、  という説は、
  どこから生じたのか。    犬持さんは、
  1925年    ;      大正14年   、 に、
  府が発行した、  史跡への調査こ報告書の、
  記述を紹介する。
   築城への理由について、  小出家は、
  御所への警護を担当しており、
   帝に、万一の事態が起こった時に、
  京都から近い、 園部城に迎える、
  ことを期した、と伝わる、
  と、 記されている。
    犬持さんは、  「    文献に記されている、 
  ものでは、 最も古く、
  説の始まりではないか。
  府が調べた当時から、 話は出ていた、 
 ようだが、 本当のことは、 分からない   」。

    @    藩主の子孫、宮中に仕え   ;
 
    ただ、 帝と、 小出家の関わりは、
  明治時代以後も続く。
  最後の藩主の、 英尚氏の次男な、
  英経氏は、  昭和天皇への侍従を務め、
  「  昭和天皇実録  」 、 に登場する。

   明治天皇例祭の45年    ;   昭和20年   、
  の、 7月30日には、
   空襲警報が出たために、 
  昭和天皇に代わって、  英経氏が、
  代拝を命じられている。

     終戦後には、 三種の神器の一つで、
  名古屋市の熱田神宮に保管されている、
  神剣を、 疎開する祭典に派遣されている。

 13代当主の英忠氏は、
  宮中祭事をつかさどる掌典長を務め、
  93年    ;    平成5年  、 の、 6月の、
  天皇・皇后両陛下の結婚の儀に臨んだ。

    郷土史を研究する、南丹市歴史探勝会の、
  小畠寛代表  ( 81 )、 は、
 「   英忠さんの奥さんは、
  天皇家と血縁がある。   天皇家との関わりや、
  園部の京都からの距離を考えると、
  天皇をおかくまいするには、 いい場所で、
  事実だろう   」 、  と、 説明する。

 南丹市や、 商工観光団体は、 5月に、
   園部城祭りを催し、小出家が関係する、
  出石藩にちなんだ、 そばの早食い競争で、
  盛り上がった。
   園部藩や小出氏に関する展覧会も開かれる、
  予定だ。  謎の真相を含め、 園部城が、
  さらに、 市民の誇りとなる、
  ことを期待したい。

(  まいどなニュース/京都新聞  )  ;


     ☆   「 東洋のガラパゴス 」   ;
   小笠原諸島を大発見した戦国武将と、
  その子孫のエピソード
   Japaaan    ;

   日本の南海に浮かぶ小笠原諸島。

   日本で、  唯一に (  アジアでなく  )、
  オセアニア圏に属するだけあって、
  南国情緒にあふれる多彩な自然や、
 「  東洋のガラパゴス  」、 とも呼ばれる、
  独自の生態系を成してある、
    30余の島々につけられた、 小笠原 、
   というネーミングには、
  どのような由来があるのでしょうか。

   今回は、 小笠原諸島の名づけ親?、
  となった、江戸時代の、ある浪人の、
  エピソードを紹介したい、 と思います。

    @    祖先の見つけた南の島を求めて    ;

   時は、  享保十二年    ;      1727年    、
   第八代の征夷大将軍の、 
 徳川吉宗氏の時代の、
  南町奉行所に現れた一人の浪人。

   彼の名は、  小笠原貞任
  (  おがさわら さだとう  )  氏、
  通称は、  宮内  (  くない  ) 。
  持参した、「  辰巳  無人島  訴状  幷
  口上留書  (    たつみ   ぶにんじま   そじょう
  ならびに   こうじょうとめがき   )  」、を、
  徳川幕府に提出しました。

   その書面には、
  以下のような主張が記されています。

「   拙者の曽祖父である、  小笠原貞頼
  (  おがさわら さだより  )、 は、 かつて、
  神君・徳川家康公より、
  『  多年の戦功により、  南海に島があれば、
  与えるゆえ、 自由に探してよい   』 、
  との、お許しをいただき、  果たして、
  南海を探検して、 無人島 (  ぶにんじま  )、
  を発見し、 その領有が安堵された。
  よって、 その権利は、  貞頼の子孫である、
  拙者が相続すべきなり、 
  云々   ウンヌン……    」 。

   小笠原民部少輔又七郎貞頼
  (    おがさわら   みんぶ   しょうゆう 
  またしちろう  さだより   )  氏とは、
  武田信玄氏への相番   アイバン    ;
  ライバル    ;    、  として知られる、
  信濃国  (  現:長野県  )、の、 戦国大名な、
  小笠原長時  (  おがさわら ながとき  ) 、
  氏の曾孫で、 長元  (  ながもと  ) 氏の、
  次男として生まれました  (  諸説あり  )。

    隣国の甲斐  (  現:山梨県  ) 、より、
   武田信玄氏の侵攻に対して、
   果敢に抵抗したものの、  やがて、
  国を逐   オ   われて、  三河
  (  現:愛知県の東部  ) 、 へ逃げ込み、
  徳川家康氏に仕えます。

    それからは、  徳川氏への家臣として、
  甲州への征伐や、 小田原攻め、に、
   朝鮮出兵  (  文禄の役   )、  などの、
   数々の戦陣で、 活躍しましたが、
  なかなかに、 所領を得られずにいました。

  「   いつンなったら、ウチの殿サマは、
  褒美が貰えるずらか   」、
  「  知らなー  」   ;

   身命を賭しての槍働きは、
  ボランティアや道楽ではなく、
  かかるコストも、 自腹なので、
  安定した収入源がない状態では、
  武具や兵糧、兵員への調達すらおぼつかぬ…、
   貞頼氏は、 二度目の、
  朝鮮への出兵を命じられた折に、
  意を決して、 申し出ます。

  「  畏れながら……  」  ;

   それまで、 何を命じても、嫌な顔の、
  一つもせず、二つ返事であった、
  貞頼氏の発言に、さすがの家康氏も、
  いささか、気にかかります。

    貞頼氏が、 それまでの十数年、を、
  数々の戦功にもかかわらず、
  故郷の信濃に帰らず、所領が得られない、
  こと、  そして、 安定した収入源が、
  ない、ままでは、 今後は、
  存分な奉公が叶わない、ことを訴え出ると、
   家康氏は、 言いました。

  「   ……言われてみれば、 確かにそうじゃな。
  と言って、  信濃の領地は、
  他の者に与えてしまった……    よし、
 南の海に、 島などあるやも知れんから、
  もし、 見つけたら、 その地を、
  所領として取らせよう   」 。

「   ははあ、   有難き
  仕合わせにございまする  」 。

    そんな、  曖昧すぎる約束でも、
   一縷   イチル  、の望みに賭けたい、
  貞頼氏は、 さっそく、 南海への探検に出航。
   果たして、 三つの無人島を発見し、
   家康氏のとりなしによって、
  その領有を、  太閤・豊臣秀吉氏から、
  安堵された、  と、 言われています。

   その後も、  貞頼氏は、忠勤に励み、
  戦乱の終焉を見届けて、  寛永二年   ;
   1625年に、 天寿を全うしました。

※参考文献:
坂田諸遠氏編    ;  『  小笠原諸島紀事  』  ;
  国立国会図書館デジタルコレクション、
  明治時代
田畑道夫氏   ;  『   小笠原島ゆかりの人々  』  ;
  文献出版 。

   さて、  話は、 享保に戻って、
  子孫の宮内氏。     貞頼氏が、
  無人島を発見したエピソードをまとめた、
  『   巽無人島記  (  たつみぶにんじまき  』、
   の記述を元に、  小笠原諸島への渡航と、
  領有権の認可を願い出たのでした。

    @    大岡越前守忠相。 Wikipediaより。

    町奉行の大岡越前守忠相
 (   おおおか えちぜんのかみただすけ  ) 氏
 、は、  詮議の結果にて、
  享保十三年    ;    1728年    ;      、に、
  宮内氏に対して、 
  実地検分のための、 渡航、への、
  許可を与えます。

  欣喜雀躍した宮内氏は、 さっそくに、
  甥の小笠原長晁  (  おがさわら ながあき  )
  氏を、  先遣隊に出すものの、
  船が難破して、 
  帰らぬ人となってしまいました。

   それでも、 めげずに、 再渡航に向けて、
  資金への調達に励んでいた宮内氏ですが、
  享保二十年    ;     1735年     ;    になって、
  南町奉行所が、 渡航への許可を取り消し。
   宮内氏は、 詐欺罪に問われて、
  財産を没収、 重追放の刑が、
  下されたのでした。

  一度は、聞き入れられた、 訴えが、
  退けられた決定打は、
  宮内氏が証拠として提出した、
  『  巽無人島記  』、 の記述。
   貞頼氏が発見したとされる無人島には、
  延宝三年    ;     1675年     ;   に、
   徳川幕府が、  調査団を派遣しており、
   その報告と、内容が、 大きく異なる    ;
 (    父島の面積や、  亜熱帯地域では、
  ありえない、 オットセイの棲息など    ) 、
   ために、   『  巽無人島記  』、 は、
  宮内氏が捏造した、 偽書 、 と断定。

   @   小倉藩主・小笠原忠基。Wikipediaより。

   また、    南町奉行所は、  小倉藩主    ;
 (   現:福岡県は、 北九州市   )、
  となっていた、  小笠原氏の宗家に、
  「   小笠原宮内、 という者をご存じか   」、
  と確認した所で、   面倒ごと     ;
  (   詐欺への連座   ) 、  を懸念した、
   小笠原の宗家からも、
  見放されてしまいました。

   しかし、  訴えが認められないのは、
  仕方がないとしても、
  無人島に関する、 幕府の報告書を、
  引っ張り出して、 照合するのに、
  7年もかかる、 というのは、 さすがに、
  お役所仕事というか、 一度は、
 下りた渡航への許可に、 勇躍して、
  出航していった、 甥っ子の、
  長晁氏が、不憫でなりません。

   この一連の騒動が、 世に広まると、
  それまでは、  無人島  (  ぶにんじま  ) 、
  と呼ばれていた島々が、 いつしか、
 「  小笠原  諸島  」、 と呼ばれるようになり、
   祖先の名を残すことができた、
  宮内氏の訴えは、 決して、
  無駄には、なりませんでした。

    また、小笠原諸島の父島には、
  発見者と伝えられる貞頼氏を祀った、
 「  小笠原神社  」、 が創建され、
  敗戦・占領期に、 米軍によって、
  破壊されたものの、 返還後に再建。

    今でも、 毎年の、 7月26日に、かつて、
  貞頼氏が、 小笠原諸島を発見した、
  とされる日に、 例大祭が執り行われ、
  その遺徳が偲ばれています。

   もし、 小笠原諸島を訪れることがあったら、
  まだ見ぬ新天地を夢見て、
  大海原に旅立った、小笠原一族の雄志に、
 思いを馳せたいものです。


    ☆     三橋貴明氏❗;     

   ☆    自助と共助と、公助と災害   ;

2019-10-11 09:57:34
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三橋TV第148回
【映画と政治 トランプ大統領vs.ハリウッド】

https://youtu.be/bQXR-WoB0WI
 
 台風19号が
日本列島に接近してきています。
 気象庁によると、明日の土曜日、
夕方から夜にかけ東日本に接近し、
上陸の恐れがあるとのことです。
 豪雨や豪風に厳重な警戒が必要です。

 特に、千葉県など
台風15号の被災地は、復旧が途上の所に
さらに台風が襲い掛かるわけで、
大変、心配です。

 個人的にかなり気になるのが、
 安倍総理大臣が国会答弁で
台風19号に対する「事前の備え」を
国民に呼びかけたことです。
 
『首相、台風19号に「先手で対策講じる」 
衆院予算委
 安倍晋三首相は
10日の衆院予算委員会で、
大型で猛烈な台風19号への対応について
「警戒態勢を強化している。
台風15号の経験も踏まえ、
具体的対策を確認し先手先手で講じていく」
と述べた。

 首相は、暴風域に入る可能性がある
地域の住民に向け
「最新の情報に十分注意し、
早めに事前の備えをお願いしたい」
と呼びかけた。(後略)』
 
 いや、もちろん、総理が発言することで、
国民の台風に対する警戒心を高め、
特に人命への被害を少しでも減らせる
かも知れませんが、本来的な
「政治」の役割は、
「呼びかけ」ではありません。

 予算を講じ、事前の備え、
被害発生後の復旧力を高めることです。

 自然災害が発生するたびに思うのですが、
被災地に国会議員が赴き、記念撮影をして
SNSに載せることは、
「政治」の役割ではないでしょう。
 
 自助、共助、公助、という言葉があります。
 本エントリーでは、自助を
「自ら助ける」、共助を
地域コミュニティ、さらには
自治体による助け、公助を
「中央政府が助ける」と定義します。

 97年の橋本緊縮財政以降の日本は、
「公助」を縮小する
ことを基本方針としてきました。

 97年の「財政構造改革法」以降、
日本政府は基本的には
「支出抑制」を推進し、
「何かが増えるならば、他を削る
(もしくは増税する)」
 プライマリーバランス
黒字化路線を突き進んでいきます。
(PB目標が閣議決定されたのは、
小泉内閣以降) 

 日本の場合、高齢化で
社会保障支出が増えていくため、
他の支出は
「国民の生命を守る防災」であっても、
削らざるを得ません。
 
【歴史音声コンテンツ 経世史論】

http://keiseiron-kenkyujo.jp/apply/
※10月1日から、長浜浩明先生の
特別コンテンツ
「日本人はどこから来たのか?」が
視聴可能となりました。
 
 さらに、2013年6月の
骨太の方針2013以降は、
日本政府は明確に
「PB赤字の縮小」を始め、
「国防」
「防災」
「交通インフラ整備」
「教育」
「地方発展」
「食料安全保障」
「科学技術振興」
「エネルギー安全保障」
 といった「公助」でなければ
不可能な分野の予算が
容赦なく削減されていきました。

 特に割を食ったのが
「地方発展」の部分で、公共投資による
インフラ整備は先送りされ、さらに
地方交付税が減額されたため、
(本エントリーで言う)
共助の維持が不可能になっていきます。

 地方公務員全体の数が減らされる
のはもちろん、非正規雇用が増えていき、
今や二割以上が非正規。当たり前ですが、
「行政の質」は低下せざるを得ません。

 とはいえ、昨日の北村誠吾
地方創生担当相の発言ではないですが、
政府は、
「全国各地の主体的な
取り組みを後押しすることで、
地方が主役となるような地方創生を実現する」
 と、地方経済を各自治体に丸投げ。

 それはまあ、
地方交付税を減らし続けている以上、
「それぞれの地方が自力で頑張れや」
 としか、言いようがないのでしょう。

 同じことが、「防災」の面でも
見えているように思えてなりません。

 すでに、2013年時点で
国土強靭化基本法が成立している
にもかかわらず、政府は予算を付けず、
国民の生命や安全、財産が
「災害」により失われることを、
あたかも「自己責任」であるかの
「政治方針」を貫いた。

 ここでいう「政治方針」とは、
具体的に予算を増やし、
土木・建設の供給能力拡大に努めたか。

特に重要なエネルギー供給について、
政府が予算を使い、
各電力会社のサービス供給能力の
強靭化に努めたのか、という意味になります。

 ご存知の通り、やっていません。何しろ、
予算がない以上、どうにもなりません。

 とはいえ、さすがに、
「国民が災害で死ぬのは、自己責任」
 とは政治家は言えないため、口先だけでは、
「警戒態勢を強化している。
台風15号の経験も踏まえ、
具体的対策を確認し先手先手で講じていく」
 と綺麗ごとを言い、
災害が起きると
現場に強引に乗り込み、写真を撮って、
「ほら、被災地に来ていますよ。
努力していますよ~」
 というポーズだけをとる。

 違うでしょ! 安倍総理を含め、
政治家が本気で
国民のことを考えているならば、
「PB黒字化目標」という
狂った目標を破棄し、
「追加的」に防災のために
予算を講じることです。
普通に建設国債を発行すれば済む話です。

 それにも関わらず、
相次ぐ災害を受けてなお、政治家から
「建設国債を増発しよう」という
声が全く聞こえてこない。

 申し訳ないですが、
冒頭の総理の国会答弁における発言は、
「建設国債発行による
正しい防災強化はしないし、
カネも使わないけど、とりあえず
何かやっているふりをしなければ
ならないから、
それっぽいことを言っておくよ」
 にしか見えないのです。

 世界屈指の自然災害大国において、
我々国民の生命や財産を守るのは、
「公助」、具体的には
「国債発行と政府支出」しかないのです。

 安倍総理が本気で
「具合的な対策を講じる」
と思っているならば、
いの一番にやるべきことは、
PB黒字化目標の破棄、
財政均衡主義からの転換です。

 日本国民は、この災害列島において
「公助」無しでは
生きていくことができない。
この現実から目をそらすのは、
いい加減いやめて下さい。
 
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