1441年の、  嘉吉の変の前後: 
  傭兵らから常備軍の都市国家ら 32 ;
   道義を成す室町殿ら
   2015/  8/24  10:54:49 ;
   根途記事➕論評群http://www.worldtimes.co.jp/col/siten2/kp111018.html : : 

    貞成親王は、 皇族員であるがゆえに、 
 そう簡単に、自由な外出が出来た訳ではなく、   
 その上、 
  後花園天皇への実父だが、 自らは、
  即位をしていない 、という立場は、
  「 先例 」らを重視する、 当時においては、 
  制限の多い、非常に難しい立場だったし、
   その様な環境にあって、 厳し過ぎる、 
  と、
    (  より、 自らの社会的な役割や職務などを、
  ぞんざいに、 成し行うに至らしめもする、
   要因性を成す形で、
   ヒトの命や人格的尊厳性などを、
   相応に、 どうでもいい物として、 
   素で感じ、 思い扱い宛てておりつつ、 
   その自らの知的共感性の欠け様ら、への、
  自覚認識の系らを構築する、
  能力性をも欠いている側の者らには、 
  より、そう感じられ得べくもある  )    、

   義教将軍からの処分に、 毎度に、
  泣かされる公家らの嘆きを、
  人伝に聞いていたら、
  大きな懸念を抱くのも、解ります。 : 

   しかし、  その、 「  恐怖  」、 に、 
  「  薄氷を踏む時節  」、なる言葉らが、 
  どれ程の意味で、使われているのか、 
   それが、筆者個人の見解なのか、 
  それは、 義教将軍へだけの物として、
  限られた事なのか、 

  ※   実は、  割と穏健で、
  公武に人気の有った、 第4代の、
  義持将軍にも、この表現が使われている 。 
   そういった物を、
  その日記の全体を見渡したり、 
  同じ時期の他の日記らと比較する、
  といった、 大局的見地から検討する事こそ、
  歴史研究の醍醐味であり、 
  そうして、真実相を導き出す過程に、
  歴史を学ぶ、最大の楽しさがある。 : 

  例えば、 短気、と言われる義教将軍だが、
   上御所     ≒     まだ、未完成     、 
 へ、 移ったばかりの頃に、  造作奉行が、 
  「  以外  無沙汰  緩怠  」 
  ≒      めっちゃ、 サボりまくり      、で、
   注意しても、聞かない…。 

    処罰するべきだが、 
  新居へ越してきたばかりだから、   
  「  御堪忍  」 
  ≒     ぐっと我慢    、   した逸話もある。 

  『  満済准后日記  』の、 
  永享4年    ≒     1432年     、の、 
    2月29日。 : 

   ※   その翌年に、 僻事   ヒガゴト  、
 のあった、   5人の造作奉行らに、
  ぶち切れては、いる。 

  『  看聞   日記  』、 の、  永享5年、の、
  10月20日。 : 
   特殊な処分の事例らに関して、 
  その処罰が、過剰か?、妥当か?、
  を判断するなら、
  "当時の社会通念" に照らして、
  慎重に行うべきで、 勝手に、
  現代の価値観で、 推し量ったら、それは、
  真実を探る、 「  研究  」、 ではなく、 
   主観的な、 「  感想  」、 でしかない。

   @    永享   えいきょう   、は、 
   日本の元号らの一つ。 
  正長、の後で、 嘉吉の、前。 :
    1429年9月5日から、 
  1441年2月17日まで、の期間を指す。
 
   この時代の陛下は、 後花園天皇。 : 
  室町幕府の将軍は、 足利義教将軍。 : 

   正長2年、の、 9月5日 
  ≒   ユリウス暦の、 1429年の10月3日に、 
  後花園天皇の代始めにより、改元し、 
  永享13年の2月17日 
  ≒    ユリウス暦の、 1441年の3月10日に、 
  嘉吉へ改元した。 : 

   ※  例えば、 "儀式の場" で、 
  公方の義教氏を、  『  一咲  』 
  ≒    『  一笑  』     、して、 
  所領を没収された公家について、 
  現代の考察では、 
 「   ほんのちょっと微笑んだだけで、  
  (   何の問題性も、無い筈なのに   ) 、
  処罰された   」 、 と、 
  "一笑" 、 の意味合いも 、
  "状況" も、 考慮せずに、 
 かなり、バイアスのかかった、
  解釈がされている事があるが、
   これについて、 
  貞成親王は、 「   誠、咲申者、
  尾篭、不思儀也   」  
  ≒      笑うとは、無礼だ。
   訳が、解らない。 

  『  看聞  日記   』、 の、 永享2年 
  ≒    1429年     、の、11月9日 、
  と、 述べています。 : 
   侍女の密通    
  ≒     姦通     、に対する、 罰が、 
  男は、切腹で、 女は、流刑ってのは、
   時代を考えれば、  異常とまでは、
  言えないでしょう。 : 

  御所に祗候している女性ですからね。
   風紀の乱れは、大問題です。
   "還俗公方"ゆえに、 
  姦通嫌いも、甚だしかった、
  のかもしれないけどw : 

   ※  祗候 しこう 、
  …傍に仕える事 。 

  そんな、 密通への厳罰の記事の一つ、
  『  看聞  日記  』、 の、永享9年 
  ≒   1439年     、の、
   11月6日の条   クダリ   、では、 
  貞成親王も、 「  猥雑言語道断也  」、
  と、感想を述べているが、 
  この日の日記には、 不思議な記述があり、 

   「   千本殿、比丘尼、  伊勢参宮下向、
  為狂気御所へ参、種々事共託宣、  
  所詮、悪将軍之由申云々、
  不可思儀事、風聞、莫言莫言   」 。 

   狂った尼が、御所に参じて、
  「   お告げじゃー❗、 悪将軍❗   」、
  と、託宣した、とかいう噂  ウワサ 、だ。 
    内緒、内緒、 …って、 
  「  悪将軍  」って、 こんなオチだった。

  「  悪将軍  」、と在り、 流言飛語により、    
  反体制な運動らが喚起され、 誘発されて、
   万人が死ぬ羽目にも成り得る、
  事態を、 未然に防ぐべく、 
  万人の不安を煽る発言を、
  記録にも残り得る所々で、
  誰かの工作員らしく、
  していた人を処刑して、 
  「  万人  恐怖  」  、と在り、 

   手抜きクズの公家らと役人らが、
   「  薄氷を踏む思いをする  」、と在る、
  だけで、 室町殿の下で、
  秩序の中で、安寧を楽しむべき、
    天下の万民へ、  より、秩序立った、
  天下の状況を提供しようとした、
  義教将軍が、   公方   クボウ  、として、
  相応しい事らを、ただひたすら、
  成し行っていた、 実態らしか、
    当時の資料らの記述らは、
    反映し得てはいない。 : 

  「   実は、 義教将軍は、全然、
  恐くなく、優しかった❗  」、
 なんて言うつもりは、微塵も、無い。 

  めっちゃ厳しかったのは、事実でしょう。  
    それでこそ、義教将軍です。

   しかし、 このイレギュラーな託宣での、  
  「  悪将軍  」、なる言葉
   ≒       しかも、 不確かな風聞       、
  を、あたかも、 貞成親王の発言の様に、
  扱って観せびらかす行為ら、 等は、
   フェアなやり方では、無い。 

   古来、 「  託宣  」 、といえば、 
  八幡大菩薩だったので、 
  八幡宮の神の前での、
  改まった神託だったのなら、 
  問題な事になったかも知れない、
  かつての、「  道鏡事件  」、みたいに。 

   道鏡師は、 "道鏡師の失脚" 、
  を狙う、 政敵に嵌められかけた、
  だけっぽいけど。 : 

   厳罰の事例らのみを、ひたすら列挙し、 
  処罰の必要性も、 その真意も、
  探究することを無しに、 
  憶測をすら交えて、 一向   ヒタムキ  に、
  悪し様に曲解する行為には、 もはや、
  歴史学に対する、良心が感じられません。

   それで描いた人物像に、どれほど、
  真実が反映されている、と言えるのか。 

   厳罰の事例らと、そうではない事例ら、
  との、 整合性を取りつつ、 
  マクロな視点で、 私曲を交えず、
   最も、筋の通る仮説を模索していく、
  作業が、 真の歴史研究だ。 : 

   ※例えば、
   …御所で供される食事について、
   ある日に、 給仕の者が、 
 「   悪  ア  しく、したためた   」 、事が、
   大きな問題となり、 
  「   関係者の数名が、厳罰に処された上、
  さらに、 厳密な究明が進められて、 
  その他の給仕らが、  起請文 
  キショウモン 
  ≒   誓約書     、を書くに及んだ    」、
  という、 普通に考えたら、 
   複数人の共謀による、
   将軍か、誰かへ宛てた、
   毒殺などの企てを誘発しかねない、
   事件などは、
  厳罰を宛てられて、 当たり前でしょう。


     @    寺門
    ≒     寺の内部での昇格      、出の、 
   天台座主   ザス     、の、
  異様な在任期間の短さ : 

    28代、の、 明尊師、 
  長暦2年 (  1038  ) 、に、補任して、
  三日目に、  山門大衆の反対で辞任。 

  34代、の、 覚円師、 
  承暦元年 (  1077  )、の、2月5日に、
  補任。  山門大衆が騒ぎ、翌日に辞任。 

   39代、の、 増誉師、 
  長治2年 (  1105  )、の、  2月14日に、
  補任。 翌日に辞任。 

   44代、の、  行尊師、 
  保安4年  (  1123  )、の、 12月18日に、
  補任。   6日後に辞任。

   47代、の、 覚猷師 
  ≒     鳥獣戯画で    、有名 、
   保廷4年 (  1138  )、に補任。 
  3日後に辞任。 

   50代、の、  覚忠師、 
  応保2年  (  1162  )
  ≒      後白河法皇の院政と、
  平家政権の頃 、 2月1日に補任。 
  2日後に辞任。 

   60代、の、  公顕師、
   文治6年  (  1190  )
   ≒      源頼朝 
 ミナモト・の・ヨリトモ  氏を、
  武家の棟梁に頂く、鎌倉幕府が、 
  好い箱作ろう、の、 1185年  、に、
   後白河法皇から、 
  一定の人々と地域ら、への、
  統治権を認められた後 、
   3月4日に補任。
   4日後に辞任。 

   公顕師以降は、 もう、この仕組みは、
  ダメだと考えたか、寺門出の座主は、
   なくなり、 摂家門跡や、
   宮門跡の時代となる。 

   戦後の総理大臣どころではない、
  寺門出の、天台座主の在位の短さ   : 

   @    寺門出は、  園城寺 
  ≒    三井寺   ミイデラ     、出、
  という意味ではありませぬか。
   だから、 山門 
  ≒     比叡山の者ら      、 から、
  攻撃を受けたと。 : 

   @   1441年、の、嘉吉元年に、
   室町幕府の、第6代の征夷大将軍の、
  足利義教将軍が、 赤松氏の侍に、
  赤松の屋敷での宴会中に暗殺された、 
   嘉吉の変、の後で、 
  室町幕府は、 幼少の将軍を補佐するべく、   
  畠山持国氏と、細川勝元氏とが、 
  交互に、 管領   カンレイ 、 として、
  執政する時代があった。 
   が、 内実は、 
 単なる権力闘争の感が強かった。 

  その様を端的に示す手紙が、
  南近江の豪族の、山中一族に伝わっている: 

   大上様 
  ≒      第6代の義教将軍の子で、
   第8代の征夷大将軍の、 
  足利義政将軍への母堂      、
  に申し上げる次第です。 

  私、山中高俊は、 四十年間、 検断 
  ≒    警察業務      、
  の責務を果たしてきました。

   西芳寺の荘主代   ショウズダイ   、
  が、殺害された時は、
  伊勢・伊賀まで、 賊を追いかけ、
  見事に討ち取りました。 

   その時は、 西芳寺から、直々に、
  恩賞を賜りました。 

   ですが、 伴帯刀   タテワキ   、が、
  悪事を企て、私に濡れ衣を着せて、
  裁判を起こしました。 
  畠山殿が管領の時に、  伴一族は、
  成敗を受けています。 
  その時の書状も持っています。 
   ですが、 今回の裁判では、 
  調べもせずに、
  本領の宇田村を没収されました。 
   これは、間違いです。
   きちんと、調べ直して下しさい。 
   もし、 調べ直して頂けるならば、
   ますます、 我々一族は、 
  幕府の為に、忠節を尽くす事でしょう。
   謹んで言上  ゴンジョウ いたします  」。 : 

   鈴鹿山道を、代々を、警護する、
  山中一族だが、 管領が交代して、
   就任している時期に、一族の本領である、   
  宇田村の付近の私有地を没収された。 
  
  その近隣の豪族の伴一族が訴えた為だが、   
  実は、この裁判は、 三年前に、
  伴一族による、言いがかりだ、
  と、判決が下りている。 

  だが、 この裁判を、
 畠山持国氏が裁可した、というだけで、 
 細川勝元が、判決を翻してしまった。
   
   再審は行われずに、 山中一族は、
  没落の道をたどる。 : 

  第3代将軍の足利義満氏の時とは、
  違いすぎる、 管領の、
  自分勝手な振る舞いだ。

   この裁判の結果をうらみに持っていた、
  山中一族は、 応仁の乱で、
  六角氏側として参戦し、 
  西軍側の近隣豪族の所領を攻撃した。 : 
   @    甲賀忍びの棟梁で出てくる名だね、
   山中氏に、伴さんは : 

   @     太平記巻八  ;    ・妻鹿 メガ 、孫三郎、  
  勇力事 、だから、 南北朝の頃の記事だ。 
    南北朝時代は、 一般的には、 
  鎌倉時代の後で、 元弘の変や、
  建武の新政も、南北朝時代の事件、
  として、 含まれる。 

   正確には、  1336年     
  ≒      延元元年  /   建武3年      、に、
   足利尊氏どのによる、
  光明天皇の践祚と、 
  後醍醐天皇の吉野への転居により、 
  朝廷が分裂してから、 
 第3代の室町幕府の征夷大将軍の、
  足利義満氏が、
 いざ、国、 合わそう、の、
  1392年の、元中9年  /  明徳3年 、に、  皇室らを合一するまでの、 
  室町時代の初期に当たり、
   朝廷は、 南朝が、 
  大和国の、吉野行宮   アングウ  、で、 
  北朝が、 山城国の平安京。

     異常、   という言葉に、
  悪い意味を含めないが、 多分、
   近親交配による、
  遺伝子の系統らの重なり具合から、
   筋肉が、異常に発達し易い、
  体質だったのであろう: 

  『   年の頃、  二十歳ばかりの若武者が、 
  ただ一騎、駆け寄ってきて、
  引き上げる途中の、 妻鹿   メガ  
  孫三郎と組み討ちをしようと近づき、
  鎧   ヨロイ  の袖  ソデ  に取り付いた。
    これを、 孫三郎は、物ともせず、 
  長い腕を繰り出し、
  この若者の鎧の総角を掴んで、
  左手の一本で、そのまま持ち上げた。

   その状態のまま、 馬を、  三町 
  ≒    約  3百メートル    、ばかりを駆けた。
    左手で掴み上げていた、この鎧武者を、 
  馬上で、 右手にポイし、 右手だけで、
    「  えい  」 、 と投げた。 

    投げられた武者は、 
   孫三郎の後に続いていた、 馬武者の、
  6騎の上を飛んでいき、 深田の泥の中に、 
   体が見えぬ程、埋まってしまった   』。 

   伝言戯務   ゲム 
  ≒    伝言ゲーム      、式の、 
  歪曲に誇張もあろうが、 太平記に、
  何人かは、 出てくる化物らの中の一人、 
  な、 妻鹿孫三郎氏についての記事 : 

     @     妻鹿長宗氏の一族、
   人並み外れた怪力の男ばかり、
  17人の軍団。    恐ろしそうだが、
   16人は、 六波羅勢に討たれた   : 

    @    1441年の、 嘉吉の変 、を含む、
   嘉吉の乱の時に、
  城山城への後詰をするべく、
   白旗城から出陣した、  依藤   ヨリフジ 
  太郎左衛門    ≒    惟次      、氏。 

   しかし、  到着を待たずに、 
  城山城は落ち、 赤松満祐は、自害した。 
  
     間に合わなかった、 赤松側の、
   依藤氏は、 
  揖西郡は、千本村 、という所にある、
  辻堂へ、力なく、 走り上って、
  腹を掻き切った。 
     が、 
  はらわたを、 庭前の楠に投げつけ、
  眼を見開き、 歯を食いしばっていた所を、 
   たまさかに、 通りかかった、
  美作  ミマサカ   小原城主の、
  新免弾正   ダンジョウ  、 に見つけられ、
  首を取られて、手柄とされてしまった。

    新免氏は、 時の人から、 
  「  ひろい首也  」、と、
   誹 ソシ られている。 
 
   依藤太郎左衛門氏は、 旧知の人により、
  弔  トムラ  われたのだが、 その人が、

  「   梓弓   アズサユミ 
   播磨   ハリマ  の方の           人、とえは 
   ≒   人問えば      、 
   松より藤の       名こそ高けれ       」 、
  と、 歌を詠んで、掲げたら、

  依藤   ヨリフジ   氏の亡霊は、怒り狂って、
 悪霊と化し、里の民を悩まし始めた。
 これは、堪 タマ らない、と、 
  ある僧を頼んで、改めて弔った上で、
   この歌を、

 「   あつさ弓      播磨の方の       人とえは 
    松により藤の        名こそ高けれ     」、
  と、 直したら、 亡霊の怒りは、
  ようやく、鎮まった 
    ≒     『  播磨鑑  』      。 

  @    主家想いの亡霊というのも、中々に、     
   難儀なものですなあ。 : 

  @    どっから、松が出て来たのか、
  と思ったら、  赤松の松か。 : 

  @    手直しした後の歌では、 
  赤松氏を暗に指す、 松  、により 
   ≒     松      、のお蔭で 、 
   依藤氏    、という、
   藤の者が、 名が高い、 といった、
   意味になり、 
  前の歌では、  松に比べて、
   依藤氏が、 名高い、 といった意味に。 
   @      伏見宮貞成親王の、
  貴重な室町時代の記録の、
  「  看聞  日記  」 、 より、 
  1418年の、 第4代の征夷大将軍の、
  足利義持氏の頃の、 応永25年は、
  8月晦日の記事: 

  『    晴れ。   野遊びに出かける。
   田向常良三位   サンミ、
   庭田重有朝臣   アソン、 田向長資朝臣、
   壽蔵主などと相伴して、
  蒼玉庵へと行ったが、 
  そこの坊主が、 留守だったので、 
  敷地内の栗林に入り、 栗を拾った。
  無許可で。  面々、大いに悪行を成した。 
  それから、楊柳寺に行き、
  ここの庵に顔を出す前に、
  本尊である観音像を拝見していると、
   そこへ、 坊主がやってきて、
  盃事となった。   三献も酌み交わした。 
  その後で、帰宅。   その後に、
  蒼玉庵の坊主が、酒を少し持参し、
 「  知らなかったとは言え、
  私が留守の間にお尋ねになった、 とか、
  恐れ入ります   」、 等と言いに来た。 
  そこで対面し、「   こちらこそ、
 栗拾いの乱暴狼藉、すまなかった    」、
  と、 謝り、盃を与える。   すると、
  退出していった   』 : 

   @    栗拾い如きで、乱暴狼藉なのか。 
  日記に書けない様な、
  悪い事をしたんじゃないの? : 

  @     わざと、大げさに言った、
  冗句  ジョーク  、 だよ : 

  @   坊さんなのに、 普通に、しれっと、
  酒を持参すんのな。 : 

  @    中世の銘酒の生産地といえば、
  寺社だぞ。 寺社は、それを売って、
  金を稼いでた。

   @   現代の寺社への、 『  鏤想   ルソー  』
  ≒     『  イメージ  』    、 は、
  江戸時代や明治以降に定着した物だね。