☆ 道義公方 ; 足利義教将軍❗;
大名一騎打ち❗ ;
@ 比叡山の、 『 頂 オベ 』
≒ 山上 、 を、
大名軍が "直撃" して、
広域を焼き払った、二回目と、
三回目の、焼き討ちによる、
延暦寺の炎上とは、 根本的に、
性質が異なるのです。
この両焼き討ちは、 今から、
約510年前
≒ 2回目 、と、
440年前
≒ 3回目 、の事件らであり、
現在からすれば、似た様な時期だが、
70年もの間隔があるので、
それなりに、復興するには、
十分な時間があった。
これ程の、 しかも、2度に渡る、
凄惨な攻撃に遭ってなお、
「 蘇った 」、という事実が、
意味する事は…、
この2度の殲滅行為が、
「 国家と、万民の思いを、
度外に置いた、 大名、の、
私的事情による物だった 」 、
という事です。
明応年間の焼き討ち
≒ 前者 、の時は、
仏像の再造が、 『 勅命 』
≒ 『 天皇の命令 』 、により、
進められています。
延暦寺とは、 そういう存在
≒ 国家鎮護の働きを成し続ける事を、
本来の公務として、成すべき存在 、
なのです。 :
:
@ であれば、 私的事情で、
焼き討ちをした大名らは、
国家鎮護を公務とする、
山門僧らが堕落して、
公務を疎 オロソ かにし、 あまつさえ、
自分らにも、 将軍らにも、
天下万民にも、災厄らを与える事になる、 御本尊らへの焼き討ち行為、 といった、
自滅テロ行為を成した、山門僧らは、
極刑に処されても、
倫理的に妥当で在り得るし、
それに類する、
不作為型と作為型の、
作悪事行為を成し過ぎたせいで、
国家の全体な状況を、
戦国乱世に変えた罪は、甚だしく大きい、 と、言わねば成らないし、
公の福利を成すべく、足利幕府が、
懲罰を致せない状態に陥っていたのなら、 大名らが、懲罰を成すのも、
致し方が無いし、 その懲罰行為が、
私的事情だけによる、とも、
言い切れない面がある。 :
√ 足利将軍家 、
というのは、 嫡子
≒ 『 将軍の後継者 』 、
以外の、子女を、原則として、
全てを、 入寺させる。
例外もあるが、 男子だけではなく、
女の子も、みんな、幼少時から、
出家です。
子孫を残さない。
それは、 一つには、 後日に、
親族間の争いを惹起する、
禍根を残さない為ではあるが、
それにしても、
「 嫡流以外を全て絶つ 」 、 って、
徹底しています。
普通に考えたら、
√ ≒ 公の福利らを、
自らの成すべき物事らとして観る所が、
精神系において、 より、
構築され得てはいない方の人々の、
自然に、思い構えて観る様な場合の 、
「 将軍家 」、 っていうと、
家の繁栄を第一に考えて、
息子には、 領地を与えたり、
大名家への養子にさせたり、
娘らは、 他家に嫁がせて
≒ つまり、 政略結婚を成す事により、
自らの勢力の拡大を目指し、
親族員らで、
富と権力を独占して行きそうな物ですが。
人には、 私欲という物がありますから、 権力を手にしたら、それが、
普通かも知れません。
しかし、 そうすると、
「 将軍の座には就いた❗ 、 でも、
天下への私的な独占には、
興味は、無し❗ 」 、 っていう、
足利家って、やっぱり、ちょっと特殊… :
※ 幕府を構成する、 大名家らには、
足利一門も多いが、 血縁的には、
だいぶ遠く、 既に、
独立した一族らであり、 あくまで、
将軍家と主従関係にある、
一大名家らです。
≒ 必ずしも、 主従関係は、
無く、 単に、同じ幕府の体制において、
上司と部下として、 公職を務め合う、
だけの、 間柄な、 大名らがあり、
義教将軍が、 大名らの子弟らを、
自らへの側において、 家来とし、
家来とした者らを、 その出身の、
大名家の当主へ据える事を通して、
大名らを、 足利将軍家への、
累代型の、 家来にする、
段取りな事らを成している内に、
多分、 それにも、反発したであろう、
赤松の主従に、 暗殺されてしまった。
・・さすが、 源氏の嫡流は、
品があるなぁ…と、感心してしまいますがw、 この欲の無さ、一体、
どっから来てるのか?、
と言う事を探る為に、
「 歴代の将軍は、 どんな覚悟で、
天下に挑んでいたか? 」 、について、
関連史料に当たりながら、
考えてみました。
中世の武家が理想としていた、
政治については、 「 2-4
続々々・室町幕府の前半戦
「 武士の道 」 」 、
「 2-6 室町幕府の後半戦へと続く道
「 ちょっと余談、
室町ワールドのこと 」 」、 などで、
既に概略を述べましたが、 やはり、
この時代は、 どうやら、
将軍からして、 「 公方 」、 即ち、
「 公 」 、 としての自覚が、
非常に強かったんではないか、
と、思われます。 :
:
幕府の発足時に掲げた、
『 建武 式目 』 、 をはじめ、 :
『 夢中 問答集 』 の、 夢窓疎石師や、
幕府に仕えた、高僧らの発言、
後のことですが、 一条兼良氏の、
『 文明 一統記 』、
『 樵談 治要 』、
当時の記録に散見する、
政道を説いた漢籍
≒ 『 六韜 』、『 三略 』、
『 論語 』、 孟子、 『 大学 』、
『 中庸 』 、等 、 さらには、
大名家の、 『 家訓 』 、 などから、
理想の政道に対する 、
" 社会の共通認識 " 、 を探って、
総合すると―― …
そんな結果になりました。
「理想」と「現実」の間には、
立ちはだかる物事らも、あるでしょうが、 「 私利 」 、 を捨て、
「 公利 」、 に生きようとする、
潔い覚悟は、感じられます。
彼らにとって、 征夷大将軍の座に就く、
という事は、 民らを、
" 自分 " 、の支配の下に置く、
事ではなくて、 自分を、
" 君徳 " 、への支配の下に置く、
事だったようです。
※君徳… ;
君主として備えるべき徳。 :
「 足利家は、 なぜ、
政略結婚をしないのか? 」 、と言う、
疑問は、 長らく、ささやかれて来た、
謎らの一つですが、
" 天下を治める "、 という、大業を、
" 私欲への充足の手段 " 、 ではなく、 :
「 自らに与えられた 、
"天命" として受け取っていた 」 、
と、考えれば、 謎ではなくなる、
と言う訳です。
この国には、 足利家以外にも、
嫡流以外の全てについて、
出家を原則としていた、一系が在ります。 朝家です。 :
時代による変化は、当然、大きいですし、 特殊な事情による、例外もあるが、
室町時代に関しては、 ほぼ、
慣例化されていた、と言える。
"自己の栄華" の為に、天下に君臨せん、
と望む、王ならば、
"今" の "自分" の為に、生きている限り、
血族の拡散による、
勢力の拡大を目指し続けるでしょうが、
"天命" として、天下万民に君たる、
天子、 は、 民の為に、
安寧の世を遥か未来まで繋げて行く、
事を、 責務としますから、
その血筋を、確実に長く、 同時に、
細く清らかに保って行かねばならない。
皇統を繋いで行く
≒ つまりは、 国を悠久に繋いで行く 、
と言う事は、
利己の犠牲を厭 イト わず、 ひたすら、
天命に生きる、と言う事を、
意味するのであって、
その覚悟、 というのは、 ちょっと、
常人の想像の及ばない所がある。
という訳で、 「 天命を背負いし者…
ちょっと、かっこいい 」、
という話でしたが、 それにしたって、
公私の全てを社会に捧げる、
「 嫡流以外、 断絶❗ 」 って、
普通に考えると、
かなり、過酷ですね。
子弟を寺院に入れる事は、
朝廷や幕府にとっては、
仏教界との融合や、統制、
という、 効果もあったが、 朝家は、
色んな意味で、超越した存在だとしても、 室町は、将軍家までが、
こんなんだったとは…、品格高すぎw
足利家の徹底した嫡流主義、 家ごと、
「 公 」 、 に捧げる、その姿には、
何だか、哀愁すら覚える、
"天性の将軍家の宿命"を感じます。 :
:
@ 『 太平記 』 、 による、
足利氏方への理不尽な非難言 ゴト 、
らを難 ナン じた、
九州探題を能く務め得た、 今川了俊氏の、 『 難太平記 』、 の記述に在る :
足利高氏どの
≒ 後醍醐天皇から、 尊、
の字を授かってからは、
足利・尊・氏 、 どのの、
何代か前の先祖が、 自分の代で、
幕府を開けなかった事を無念に思い、
切腹する際に、
その子孫の何代目かまでに、
幕府を開ける様に祈願した、
とかいう、話から観ても、
足利氏らは、
鎌倉幕府の役職にもあった事から、
天下国家の事を倫理的に考える事が、 代々に、 当たり前に成っていて、
仏教的な世界観の枠組みでもある、
倫理観の系を自律系にし得ていた所も、
個人差はあれ、多大に、
甚だしい度合いで、
在り得ていた様ではある。
その倫理的な世界観に基づいて、
家ごとの当主ら、 等へ、代々に、
受け継がれ得る、秘密の約束事らを、
足利尊氏氏らは、取り交わしてもいた、
様だが、 それらの、
臨機な実現らを保証し得た、前提の、
共通の世界観は、 どうしても、
武家らが受け入れて、
自ら創造し得ていた、 武家倫理型の、
神仏を自らの内在性を通して観る、
世界観、 といった物だったろう :
√ そんな訳で、 家督継承者ではない、
義教将軍も、 「 断絶上等❗ 」、で、
35歳
≒ 満33歳 、まで、
天台宗の僧として生きて来たが、
ある日、突然に、
「 はい、今日から、 君、将軍❗ 」 、
とか言われても…、
「 え、あっ、お…お断りだああぁー❗ 」 って、なりますね。
≒ 種々 クサグサ 、 ニ、
御辞退云々 ウンヌン
≒ ちょ、無理、マジ無理❗ 、
と、お断りしまくる
≒
※『満済准后日記』の応永35年正月15日 :
「 お願い❗、 はい、この通りです、
お願い❗ 」、 と、迫られて、
≒ 「 面々ニ、強申所存條 」
≒ 大名たちが、こぞって、これでもか、 と、頼みまくる 。 そして、 とうとう、
「 御領掌 」… orz 、 となった訳です。
@ 根途記事➕論評群 http://www.worldtimes.co.jp/col/siten2/kp111018.html : :
『 TPPで、ジャップらを罠にはめて、
締め上げてやるんですね 』:
英米から、ネットからスパイした、
情報らをも共有し得てもいる、
ニュージーランド、の、倫理的に、
あり続けさせるべきではない、
政権与党の政治家な、 毛唐の発言❗。
@ 室町幕府の、 第6代の、
征夷大将軍の、足利義教将軍と、
愉快な大名らの、ほのぼの逸話 :
上御所造営のこと :
1431年、の、 永享3年、の、
12月11日に、 義教将軍は、
それまでに、4年程を住んだ、
『 三条坊門殿 』
≒ 下御所 、から、 新造なった、
『 室町殿 』
≒ 上御所 、へ移徙する。
これは、 義教将軍が、
"権力の誇示の為に、
可哀相な大名らを脅して、
" 造らせた訳ではない。
事の発端は、 前管領 カンレイ 、 の、
畠山満家氏の提案で、 彼は、
前年から、 満済准后へ、
「 公方様、 上御所に移住されたら良い、
と思うが、どうかな? 」、 と、
内々に打診していた。 :
この年の7月27日に、 大方殿の、
日野栄子女史
≒ 第4代の征夷大将軍の、
義持氏の正室 、 が亡くなったのを契機に、
話が進展していった。
感染などによる、死の連鎖を、
目にも、耳にもした、古代の日本人らが、
感染への可能性を最小限にする為に、
設定した、観念の系なのでしょう、
当時、 死を、 "穢れ"、として、
この様に、 住居の移転、への、
きっかけになる事もあった。
畠山満家氏の意向を、
満済師から伝えられた、 義教将軍は、
「 ほんと? 、 それは嬉しいな❗ 」、
と、大喜び。
≒ 「 御悦喜、 極まり無し 」。
※ 以下は、全てが、
『 満済准后 ジュゴウ 日記 』:
永享3年の7月ー8月より: :
話を聞いた山名時煕氏も、
「 いいね❗、 早速、始めよう❗。
俺らで進めよう❗ 」、と、ノリノリ。
≒
「 上御所事、 早々被仰付
≒ おおせつけられ 、 御移住、
可為珍重旨申、 随而、御造作事、
面々、可執沙汰云々 」 、
…これを、直に、義教将軍に申し入る 。 :
義教将軍へ、意見が受け入れられ、
畠山満家氏も、
「 めでてぇ、ありがてぇ 」、
と、感涙です。
≒ 「 旁目出畏入 」 。 :
現管領の、斯波義淳氏も、 二人に、
「 謹んで、OK❗ 」、と賛同して
≒ 「 両人、申入趣尤、可然畏存 」 、
「 じゃ、俺んちで、会合な。
費用分担を決めようぞw 」
≒ 「 於管領、面々、会合談合、
用脚一萬貫計
≒ 一万貫ばかり 、分先支配 、
云々 ウンヌン 。
@ 用脚
≒ 経費 、の、一万貫の、
計 、 22人の守護大名らによる、
配分が決まった。 :
上御所の旧跡に決定で、好いのか、
それとも、 今の下御所の周辺が、好いか、
大名らは、
満済准后 マンサイ・ジュゴウ 、
を通して、 義教将軍に判断を仰ぐ。
すると、返ってきた返事は、
「 どこでも好いよ❗。
みんなで決めてね❗ 」
≒ 「 雖為何在所、 面々、
可計申條、 可然云々 」 。 :
この日も、 管領の、
斯波義淳氏の家に集まっていた彼らは、
それを聞いて、
「 おおう、ありがてぇ 」
≒ 「 此儀このぎ
≒ この事については 、
可畏入 おそれいるべし 、云々 」 、
という訳で、
陰陽師 オンミョウジ 、 の、
賀茂在方氏と、安倍有盛氏へ、
吉方を相談しつつ、
在所を選ぶ事と、あいなった。 :
「 次は、 俺んち集合ね❗ 」、
by 畠山満家氏。
6日後…、 畠山邸。
挙がった候補は、6か所。
その内の、2か所に絞って、
義教将軍に報告すると、
「 うーん、何か違う。 やはり、
上御所がいっか 」
≒ 「 所詮、 上御所、
可宜由、被治定了 」 って事で、
最初の案に落ち着いた。
「 俺らの一日は、いったい… 」 、
みたいな事になってますが、 決して、
しょぼ〜んムードじゃない。
この後、 みんなで、
義教将軍の所へ赴いて、
太刀 タチ を進上して、 決定を賀し、
珍重 ( おめでたい事 ) 、の、
由を申している。 :
※ この様に、 当時は、
何かの慶事の度 タビ 、 に、
太刀 タチ
≒ 打ち刀より、長い刀 、を献じて、 祝賀した。 :
これが、 恐怖政権の下における、
出来事だなんて、到底、思えませんね。
なぜ、 楽しそうかっていうと、
大名の "誰かんち" に集まって、
相談をしているからな訳だが、
これは、 別に、 彼らが、
放課後の小学生気分だった…、
訳ではなくて、 当時は、 この様に、
将軍や大名の邸宅は、
自邸と職場を兼ねており、
諸大名が、御所に出仕
≒ 出勤 、する日も、 限られていて
≒ 常に、 将軍の傍に、
仕 ツカ えているのは、 申次
モウシツギ 、 等の近臣 、
基本的には、 御所と大名の館の間を、
奉行人や使いの者が、 行き来して、
政務が執り行われていた。
何となく、当時の京都の雰囲気、
伝わって来たでしょうか?。
『 御所 』
≒ 将軍の邸宅 、といえども、
天守閣や石垣がある様な、
"お城" ではなく、 あくまで、
"お屋敷" です。
『 洛中洛外図 』 を見ると、判ります。 :
だから、 ど派手で、巨大な楼閣に、
大奥を作って、側室らを、
うん百人も侍らして…とかいう、
暴君の風情ではなく、
もっと、 品のある感じです。
それから、場所選びで、
陰陽師 おんみょうじ 、が登場したが、
当時は、 天変地異への用心に、
対処法として、吉凶の占いや、
寺社での加持祈祷は、
大変に重要な物で、 それを行う事は、
天下の安寧を保つべき為政者に課された、 責務でもあった。
特に、 義教将軍は、
"還俗公方 ゲンゾク・クボウ" な事もあり、
諸寺社への参詣や修法
≒ 密教での加持祈祷 、に、
とても熱心だった事が、
諸記録に散見される。
延暦寺の件で、 強硬姿勢に出たのも、
"仏法をも怖れぬ横暴さ" からではなく、
逆に、 それを尊重するからこそ、
尊い仏法を穢 ケガ し、
利己的な要求を押し通す手段として、
利用する、山門僧徒らの振る舞いが、
許せなかったのでしょう。 :
山徒
≒ 山門僧徒 、の堕落は、
仏法の衰退にも繋がりかねんから。 :
正室の三条尹子女史が病むたびに、
すぐさま、修法を行わせまくり、
尹子御台 タダコ・ミダイ 、が病む →
義教将軍 ; 「 御心元無し
≒ しょぼーん 」 →
僧侶らが、御祈り →
尹子御台が、ちょっと良くなる →
義教将軍: 「 御悦喜 ≒ にこにこ 」、
…みたいな感じ。
しかも、 回復が遅いと、
「 御祈り 」 、 を繰り返すw :
在所は、 上御所の旧跡に決定した、
訳ですが、 最後位は、
義教将軍の意見で締めくくられたか?、
と、思って、 他の記録を見てみると…、
「 室町殿、上之旧跡に御移住の事。
八幡で、御くじを下される 」、
『 看聞日記 』 、 永享3年8月11日 。 :
迷ったら、それか❗。 俺ら武士だ❗、
弓矢の神様な、
"八幡大菩薩"の思し召しなら、
間違いない❗ 、 と。 :
「 大名一騎打と、 一色義貫氏のこと 」;
1430年、の、 永享2年の7月25日に、
義教将軍の、 右大将拝賀の儀式、
が執り行われた。 :
「 右大将 拝賀 」 、 とは、 朝廷から、
右近衛大将に任官された将軍が、
参内して、 主上
≒ 天皇陛下 、に返礼する、儀式で、
この官職が、武家にとっての栄誉であり、 公武が、共に参加する、
儀式である事から、 非常に、
重要な意味を持つ、儀式 、 でした。
:
人目を驚かす程の、
美しい行粧に身を包んだ武士らの行列で、
その最後をゆくのは、 …名物の、
『 大名一騎打 』❗ :
※ 一騎打 いっきうち … ;
騎馬の武士が、 一騎ずつ、一列で、
進むこと。 一対一の勝負の事じゃない。 :
この大名一騎打を務める事は、
大名らにとって、非常に名誉な事で、
5騎の内で、 先頭と最後尾が、
特に、 重要でした。 :
騎馬の順番は、
「家格」や「先例」によって決まるが、
室町幕府では、 この "家格秩序"、
という物が、 しっかりしていて、
基本的には、 三管領の、 斯波 >
畠山 > 細川 > 、 その他の、
足利一門 > 、 その他の清和源氏 >
、 外様大名ら 、 といった感じです。 :
御一家、と呼ばれた、吉良・渋川、
・石橋が、 斯波に次ぐ度級で、
別格、とされていた。
あくまで、基本です。 例えば、
山名氏は、 足利一門ではなく、
清和源氏らの中で、 足利流でなくて、
新田流だが、 比ぶるに、
高い待遇を受けていた。
細川氏は、足利一門の中では、
本来は、 その先祖らが、
足利氏への家来に成った為に、
そう成らなかった、
足利流の家らに比べ、 低い家格だが、
管領家となった事で、
待遇が上がった例です。
よく、「 今川は、 吉良に次ぐ高家格 」 、 と、誤解されているが、事実ではないw 。
今川氏も、細川氏も、 一般には、
戦国期での印象が強い人々には、
超名門的位置付けだが、 室町幕府内で、
超名門、と言えるのは、
斯波、御一家、畠山位、まででしょう。 :
でも、 今川氏は、 それに次ぐので、
名門である事に、 変わりは無い。
√ これは、宗家らの話で、分家らは、
別です。
管領家の畠山の分家である、
能登の畠山氏は、宗家の家格が高いから、 分家でも、高家格といえます。 :
そんな訳で、 先頭は、
前管領の畠山満家氏の嫡男の、
畠山持国氏、で、 後騎は、
現管領の斯波義淳氏が、妥当だろう、
という事になった。
ここまでは、 平穏、かつ、順調で、
ほのぼの進行した。 が、
ここで、噛み付いてくる奴がいた❗。
一色義貫 よしつら 氏だ❗。
彼の理論によると、
3代目の義満将軍の右大将拝賀の時には、 彼の祖父が先頭を務めたのに、 今度は、
畠山氏の次ってんじゃ、あんまりだ❗。
「 家の恥辱 」だ❗。 今回も、
先頭は、 一色氏の、俺であるべきだ❗、
と、言い立てた。
しかし、 これは、誰から見ても、
理不尽な要求で、 内々に、
一色義貫くんから相談された、
満済准后や、山名時煕氏も、
「 いや、無理だろ、うん 」
≒ 「 堅斟酌仕者也
≒ かたく、 しんしゃく
・つかまつるものなり 」 、
by 山名時煕氏 :
※以下は、 『満済准后日記』の、
永享2年の7月ー8月より。 :
「 そんな事を公方様に伝えられる訳が 」
≒ 「 所詮、披露難儀之由 」 、
by 満済准后 。 と、
ひとまず参ってしまったが、 余りに、
一色義貫氏が頑張るので、 一応は、
義教将軍に申し入れてみたら、
「 時煕殿から、 それとなく、
「 お前、 考え直せよ 」 って、
言ってやってくれんか 」
≒ 「 可令諷諫 ふうかんせしむべし
≒ 何かに例えた話しをして、
いさめ、たしなめるべきだ 、云々 」、
と、 円満な解決を望む義教将軍。 :
何か、格下の一色氏から、
喧嘩を売られた形になった、
畠山満家氏にも、 ごく内密に、
事の全容を伝えられた。
家格の差を考えれば、 畠山満家氏は、
当然、 怒ってもいい、言い掛りだ。
が、 彼の返事は、
「 私 わたくし 、めは、 どこになろうと、
構いません。 上意に従いまする 」
≒ 「 於愚身事は、 雖何所候、
不可及異儀、 可為上意 」 。
器でけー❗、 畠山どんの器でけーw
この返事に、
義教将軍は、とても喜び、 御書
≒ 多分、御内書の類 、を下して、
その志を讃えた。