☆ 道義の公方 ; 足利義教将軍❗ ;
山門使節 ;
@ 余りに、悪行が過ぎると、
天下の秩序の維持を使命とする、
幕府としては、 いつまでも、
ビビり上がった振りをしている、
訳には、 行かない。 身勝手に、
社会の一般の人々へ、 より能 ヨ く、
福利らをもたらす、 前提となる、
秩序性を乱す者に対しては、
室町幕府の征夷大将軍として、
足利義教氏が、断固たる態度で、
臨もうとした事は、真っ当な事で、
1433年、の、永享5年は、
7月から、 永享7年の、2月まで、
延暦寺の僧兵らの蜂起が、
断続的に続いた状況に対して、
大名らと評議を重ねながら、
対策が立てられていくが、 やはり、
みな、余り刺激したくない…、
出来れば、 「 無為の御裁許 」、 を、
って論調になる。
※ 無為 ブイ … ;
自然に任せて
≒ 神仏の思い成す通りに任せて 、
作為を施さない事。 か、
平穏無事な事。 :
ここでは、 「 もう、妥協しおうぞ。
とりあえず、荒法師らの言う事らを、
神仏の望む事らとして、聞き入れようぞ。
神仏の成す祟りは、怖い❗ 」 って事。 :
そんな訳で、 初めは、 ある程度は、
寛容な対処をしていたのが…、
そうすると、 荒法師らは、 ますます、
付け上がる。
公方への調伏
≒ 呪詛 ジュソ 、などを始めたり、
土一揆 ツチイッキ 、 を煽ったり、
方々の通路ら塞いだりした。
「 わ主ら、 合力 ゴウリキ
しなかっただろ❗ 」、 と、
園城寺 オンジョウジ
≒ 滋賀県は、 三井寺 ミイデラ 、
を襲ったりもした。 :
※ 延暦寺の事を、
「 山門 」 、 とも呼ぶが、 これは、
園城寺を、
「 寺門 」 、と呼ぶ事に対応している。
:
「 山門 」、と、 「 寺門 」 、とは、
元は、一つ。
分裂してからは、 事ある毎に、
ハチャメチャに、やり合っていた。 :
流石に、やり過ぎって事で、
比叡山の麓 フモト
≒ 山頂ではない 、へ、 義教将軍は、
幕府軍を出動させた → 鎮圧 →
ひとまず、和談 → でも、また、蜂起、
を繰り返し、 最後は、
山門使節
≒ 山門僧徒らの代表で 、
今回の首謀者 、の、 4人が、
義教将軍に謁見して、宥免され
≒ なだめられて、処罰をまぬかれ 、
2年以上も続いた、
山門僧徒らの暴動が、今度こそ、
本当に沈静化し、万事解決❗…、と、
思いきや、
山門使節の一人に、
" 不審な自害 " 、 を遂げた者がいて、
義教さんの心に影を落とした。
「 なぜ、死ぬ必要がある?。
あ奴らは、 何かを、隠してる…? 」――
山門使節の3人への処刑が行われたのは、 世の中が平穏を取り戻した、
1ヶ月半後で、 翌日の、
1435年、の、 永享7年 、の、
2月5日の正午に、
山門僧徒らの放った火により、
延暦寺の根本中堂は、灰燼に帰した。 :
それに加え、抗議の自害者が、
20人 〜 30人も出た。 :
「 自滅終 ジメツイ か、
義教将軍の大勝利じゃw 」 、と、
思うかも知れないが、 これは、
その逆で、 為政者にとっては、
これ以上の、 " 負け " 、 は、無い。
延暦寺は、 元は、
平安京の鬼門を守るべく創建された、
寺院で、 鎮護国家の象徴だ。
それが、 灰燼に帰す、 という事は、
国家の滅亡を意味する、にも等しい。
天下に、 あらゆる災いを、
もたらし兼ねない事態を招く事は、
公方としては、 成しても、 成させても、
成らない事だ。 :
『 満済准后日記 』、 の、
永享7年2月6日より、 満済師の言葉
≒ 「 天下、凶事、重事、
何事過ぐるべからんか、驚歎周章の他、
事無し 」
≒ 天下にとって、 これ以上の、
重大な凶事があるだろうか。 ひたすら、
歎き、うろたえるばかりだ 。
:
「 天魔所行天下凶事、 ただ
愁涙押さえるばかりなり 」
≒ ( 数々の霊宝・経典の焼失に… )、
悪魔の所業、 天下の凶事、
ただ、 悲しみの涙を押さえるしかない 。 :
義教将軍の言葉 :
「 当時の儀御周章、さりながら、
又時刻到来か、無力云々 」
≒ このような事態に周章している。
しかしながら、 これもまた、運命か。
自分の力では、どうしようもない 。
:
※ 時刻到来… ;
ここでは、悪い意味。
人の力の及ばぬ天命により、
「 その時が来てしまった 」 、
という意味。 :
:
※ 無力( 力無し )… ;
為す術がない、仕方がない、
という意味。 :
『 力のない、自分に対して、 落胆 』 、
するのではなく、 :
「 不可抗力
≒ 天命や自然の前に、 人の力では、
どうする事も出来ない 」 、
といった、 意味合いだ。
焼け跡から、御本尊を探し出し
≒ 中堂御本尊以下被召寄:
『 満済准后日記 』 、 早々に、
根本中堂 ( 総本堂 )、への、
再建をすること
≒ 簡要中堂早々御建立珍重存云々 。
今や、出来る事は、それ位だ。
天下を預かる為政者として、
京都の鬼門を守る延暦寺を失う事は、
神罰が下された、にも等しい。
山門僧徒らも、それが判っていた、
からこそ、 強気に出ていたのであり、
最後の抵抗として、 最も、
征夷大将軍としての、
足利義教氏が苦しむ方法を取った。 :
この延暦寺での御本尊らの焼失、
という、結末は、 決して、勝利でも、
喜ばしい事もなくて、 突然に訪れた、
"望まない形での、終わり"、
でしかなかった。
この事件に関しては、 あれこれと、
口に出してはならない、 という、
命が出され、 それを破った一人が、
斬首される。
『 看聞日記 』、の、 有名な一節の、
「 万人恐怖、 言う莫 ナカ れ、
言う莫れ 」 、とは、この時の言葉だ。
軽々しく語る事が、決して許されない、
天下の重大事へついての、
この、過剰なまでの警戒の成しようも、
延暦寺、という、寺院の、
国家的な重みと、 人心の動揺、
という物が、 天下に、
兵禍戦乱を呼び起こす、
最大の、 "火元" である事を知る者なら、
一概に、 非難すべきない事も、
理解され得よう。 :
※ ただし、 "延暦寺の焼失"、 と言っても、
この時に、火が放たれたのは、
総本堂である、 根本中堂、と、
子院らの一つだけで、 中世の寺院は、
本堂の他にも、 無数のお堂や子院に、
宿坊ら、 などを構えた、
極めて大規模な物で、 それらを含めた、
広大な延暦寺の全域が、
焼失した訳では、無い。
嗷訴に対して、 大名らが、
神輿や御神木の祟りを、
非常に恐れていたと、上に述べたが、
それは、 彼らが、 自分へ、
不幸が降りかかる事へ、
怖じ気ていた訳ではなく、
祟りの対象が、 彼らの、
" 個人 " 、ではなく、
" 天下国家 " 、であるが為に、
極端に、慎重になっていた。
※ 参照… ;
「 於有神輿入洛者、 天下重事大儀、
不可如之歟 」
≒ 神輿が入洛したら、
天下の一大事だよ❗。
『 満済准后日記 』 、の、
永享5年は、閏7月5日。
「 私 」、 ではなく、
「 公 」、 の立場に立つ、
幕府の幹部らには、
神輿の動座 ( 入洛 ) 、 も、
延暦寺の焼失も、
天下全般の問題事であり、
「 山門僧徒ら、 むかつく、
ぶっ潰せ❗ 」 、等と、私的な都合や、
感情で、 短絡的に、
対処していた訳では、ない。 :
「 非拠 」
≒ 非道 、 を許せぬ義教将軍が、
「 無為の御成敗 」 、 を求める、
大名らを前に、
妥協案を模索し続けてもいたのは、
その為だ。
※ 参照… ;
『 満載准后日記 』 :
極力に、 衝突を回避したい大名らは、
山門使節らに帰順を促し、 応じる者は、 義教将軍に、謁見し、赦免を受けていた。
義教将軍から、
所領と身の安全を保証されながら、
山門使節らの一人が、
"不審の自害" を遂げた件に対しても、
制裁行為を即座に決行した訳ではなく、
それまでに、1か月半の空白がある。
その間には、 新年の御礼で訪れた、
山門使節と、平和裏に対面もしている。
:
「 山門使節、懸御目云々、今日、
無為、珍重珍重 」
≒ 『 満載准后日記 』の、
永享7年、は、 正月20日 。
それから、半月の間に、
どんな心境の変化があったのかは…、
今となっては、 知るすべもない。
:
【 何重もの、 安全弁の様な、
管理の仕組みらにより、
責任者らの加担を得る形での、
人らの意図が無い場合には、
御本尊らを燃やし得ない状況があり、
その事を、幕府の幹部らが、
知り得ていたのであれば、
この論者が、 述べている様に、
人々へ、 疫病などをもたらし等する、
祟りの効力が、
その当時の社会通念において実在し、
その観念上の実在性らに応じた、
社会的な影響力を、
一定以上に持ち得ており、 それに乗じた、 反幕府性の動乱に類する事らを、
起こし得る、 可能性が、
大いに在り得ていたのであれば、
無法な荒法師らが、 意図して、
天下へ祟りを成し得る、
御本尊らへの行為を成した事は、
現代の世界の事に置き換えて観ると、
疫病などを多発させて、
大勢の人々を殺し得る、生物兵器らを、
テロリストらが作動させる、
事にも類し得る事だろうから、
義教将軍が、 そうした、
実質のテロリストらを処刑した事は、
天下万民を安んずるべき、
征夷大将軍として、 当然に、
成すべき事だし、 何かの工作員の如く、
わざと、人々の不安を煽る発言をした、
人を、 厳罰に処さなければ、
野心家ら等が、その手の流言飛語を、
乱破 ラッパ 、 らに成さしめて、
人々を特定の事らへ誘導する機会らを、
反幕府な者ら等へ与えたであろう。
義教将軍は、 より早くに、
その芽を摘んだ❗。
大火災に成り得る、 小火 ボヤ 、への、
種火に成り得た、 流言飛語の、
最初期の段階で、 それを封じる事へ、
力を入れ、その成果を得た、
という事なのであれば、 それは、
天下万民の安寧性を、減らさない為に、
必要な事だった、という事にも成り得る。
人々の不安な思いらをかき立てる、
噂話らを、 バンバンと、
乱破らにやらせて、 人々の中から、
幕府や将軍への、反対運動ら、などを、
人々へ起こさせたり、 自ら、
そうした運動らを成す事、 などに、
より、適した属性らのある、
者らを探し出す様な事らが、
多く成り立ち得る状況が、
起ち現れる前に、 義教将軍は、 能く、
その出現を防ぎ得た、のかも知れない 】 :
√ 和議を破り、蜂起する山門僧徒らに、
厳罰で当ったが、 決して、
望ましい終わり方ではなかった。
義教将軍は、 還俗する前は、
延暦寺の天台座主 てんだいザス
≒ 延暦寺で、一番に、
主導権限のある人 、
を務めていた事があり、
期待もされていたそうです
≒ 天台宗が始まって以来の逸材 。 :
『 大日本史料 』、 の、
応永24年の12月13日 :
山門僧徒たちも、 天台座主から出た、
公方だったから、 少々は、
強引な要求も通る、 と、 思った、
可能性もあるが、 義教将軍は、
縁故より、理非の正しさを選んだ。 :
※ 天台座主を始めとした、 高僧らと、
嗷訴を起こす、 僧兵らの行動とは、
" 別物 " 、 です。
天台座主を、裏長 うらおさ 、とか、
思わないように❗。 :
この山門僧徒らの、幕府への要求行為は、 義教将軍の時代に始まった事ではなく、
先代から引き続く、 一連の、
継承された課題事です。
4代目の義持将軍の時も、 特に、
前半は、大変だった様で、 時に、
厳しい対応も見られます。
その点で、 3代目の義満将軍は、
非常に上手くやっていた❗。
対立が激化しつつあった、禅宗と、
顕密仏教、 との、 融和路線を築き、
見事に、 延暦寺を懐柔した。
嗷訴の激減です。
"南朝と北朝"も、 "朝廷と武家"も、
"禅宗と顕密"の融和も、みんな、
義満将軍の業績❗。
延暦寺の嗷訴対策として、
『 山門使節 』、の制度を創設したのも、
第3代の征夷大将軍の、義満将軍です。
√ 『 山門使節 』 、 は、 本来は、
幕府の意向に従うべき、
立場の者達だった。 ← ここ、重要❗。
:
『 山門使節 』、 は、
僧徒らの代表者であると同時に、
幕府と、僧徒らとの間を、
"取り持つこと" が、仕事ですから、
これまでの嗷訴では、
ヒャッハーする僧徒らを " 宥 ナダ める、
側" にいた
≒ 当初は、 透破 スパ : スパイ 、
としても機能し得ていたのだろう 。 :
義満将軍に、義持将軍と来て、
義教将軍の時代も、 当初は、
幕府との関係は、良好でした。
が、
『 山門使節 』、 らが、
傲訴の先頭に立ったとなれば、
それへの制裁もまた、 当然の事ながら、
幕府の仕事です。
今回の騒動は、
「 幕府 vs 延暦寺の勢力争い 」 、
などという、 次元の話ではない、
と言う事。
延暦寺は、 決して、
「 幕府から、 完全に、
独立した反対勢力 」 、 等ではない❗、
と言う点に、注意しましょう。 :
:
※ 顕密 ケンミツ 、とは、
顕教 ケンギョウ 、 と、
密教 ミッキョウ 、の事。
:
日本では、 鎌倉時代に、
「 禅宗 」 、 を始めとする、
" 仏教の新しい潮流 "
≒ 鎌倉仏教、とも言う 、が起るが、
それ以前の、 「 天台宗 」、 や、
「 真言宗 」、 に、 「 南都 六宗 」、
の事を、 顕密仏教 、 と言う。
※ 南都北嶺
≒ 興福寺 & 延暦寺 、は、
代表的な顕密寺院。 :
室町幕府と言えば、 イコール ;
「 禅宗 」 、 という、印象ですが、
初代の尊氏将軍と、直義氏の時代から、
特に、真言密教との関係は、深く、
幕府における、仏事では、
重要な役割を担っていた。 :
3代目の義満将軍以降では、
天台宗の総本山の、『 延暦寺 』 、
との関係も改善し、
『 延暦寺 』 、 の門跡である、
『 青蓮院 』 、 で、
僧の時代を過ごしていた、義教将軍も、
相当の密教好きですw :
山門僧徒らが、理不尽に、
嗷訴を繰返していたのも、
室町幕府の前半戦
≒ 応仁の乱 、位まで、です。
延暦寺が、寺社権門な事から、
こんな事も言われるが、
「 宗教者なのに、武器を持ってる何て、
おかしい❗ 」、…事は、 ありません。
それは、 所領を守る為の自衛手段。
中世では、 寺院も、神社も、
在地の民も、土地は、
自分らで守る物でした。
" 守る力 " 、 を持つのが、
本来の日本人の姿なのです。
延暦寺は、 室町時代が始まる、
遥か昔から、 「 公 」、 的な役割を、
強く持つ、 " 歴史に裏付けられた、
国家的な寺院 " 、 だったのであり、
従って、 それが、破壊される事は、
単なる、一宗教勢力への制圧ではなく、
天下の全般への災厄をもたらす、
惨事に、 文化への破壊を意味した。 :
「 公 」、 としての存在である、幕府が、 延暦寺の破滅を自ら望む事などは、
ある筈はなく、 逆に、
「 公 」、 としての意識が薄く、
「 私 」 、 の利益を優先出来る、
戦国大名らの一部の者ら、 等なら、
延暦寺への破却行為を成す事は、
訳も無い事だ。 :
※ 義教将軍の目的は、 あくまで、
公への奉仕の精神に反する、
山門僧徒らの 、"行為への処罰" であり、
"僧徒らへの根絶やし、や、
宗教権門への弾圧" などではないので、
誤解のない様に❗。
たまに、そう書いてある物もあるが、
これも、史実に基づいた、
理論的な考察では、ない。 :
【 この論者の記述事項らも踏まえて、
事を観直すと、 足利幕府側は、
山門僧徒らが、御神木を持ち出して、
傲訴した行為については、
処罰をして居らず、
荒法師らの誰彼らが、
天下万民への災厄の現実化の、
一定度合を防いでくれている、
設定性の、 御本尊らを焼失させて、
天下万民へ災厄らが現前する、
可能性を高める、 という、
凶悪なテロ行為について、
犯人らを厳罰に処している。
傲訴については、 天下万民への、
災厄らの現実化を防ぐ、
神仏的な存在の意向の影の様なものを、
その傲訴における、 要求な事らの内に、
足利幕府側は、認めてやる、
形を取って観せ得たが、
御本尊らへの焼き払い行為については、
誰の目にも、 神仏的な存在の、
祟る力や、天下万民への、
災厄らの現前化、 などを防ぐ、
力の存在への、不信に基づく行為であり、 その手の不信性を広め兼ねない、
行為である事からも、
極刑に処さざるを得ない、
理由としての成分らがあった、
という事だろう 】。
義教将軍は、 弾圧どころか、
半還俗公方か? 、 って位に、
仏教を保護しています。
※ 熱心な、寺院への参詣と加持祈祷に、
護持僧の増員
≒ 6人→ 12人 …、 などなど。 :
:
@ で、あれば、
御本尊らを焼けない様にし続ける、
という、基本的な公務
≒ 比叡山などは、 国家的祈祷を担う、
中世の寺社として、 当時の人々の、
精神面・文化面を支える存在でもあり、
天下万民へ災厄らが見舞う事を、
でき得る限り、防いで居てくれる、
存在なのだから、 その機能を妨げず、
十分に発揮し得る様に、管理し、
維持する、日々の務め事らを成す事は、
その目的事の内容からして、
公務であり、
この場合の、 中世の山門僧らは、
天下万民からの、税の分配を、
得ていなかったにしても、
公務員 、であるから、
その公務を成す義務に違反して、
天下万民へ災厄らを成す、
テロ行為を成した事について、
将軍が見逃さずに、極刑に処した行為は、 極めて、最もな行為だ。 :
√ 最初に、幕府が折れて、
彼らの要求事を呑んだ時点で、
山門側が妥協していたら、
2年も、 抗争が続く事も、
根本中堂が炎上する事も、
恐らく無かった訳で、 しかも、
幕府軍が出動したのは、 あくまで、
比叡山の 、 "麓" 、 であり
≒ 根本中堂があるのは、 " 山頂 " 、
さらに、事件が起きたのは、
「 幕府軍が撤退した、約2か月後 」、
です。 ← ここ、重要❗。
事件の後に、 新たな、
山門使節らへの任命、
根本中堂への再建が、
" 幕府により "、 進められた、
事からも、 自明なように、
室町幕府の、 宗教権門への基本方針は、
「 協調・保護 」 、 であり、
「 弾圧 」 、 ではない。
つまり、 「 義教将軍が、
宗教への弾圧を目的とし、
軍事力で迫り、焼き払った 」 、なんて、
解釈は、 史実をガン無視の、
荒唐無稽なファンタジーなのです。
軍隊なんて、すっかり撤退して、
どこにもいないのですよw。
とにかく、 この辺は、
一次史料を漁れば、 矛盾が、
ザクザクと、出てきます。
とんでもないにも、程があります。 :
:
一回目の延暦寺の炎上は、 あくまで、
山門僧徒らな、 自身が、
根本中堂に、 火を放った
≒ しかも、 義教将軍にも、
厄災を降りかける目的で 。