☆ 道義の公方 ; 足利義教将軍❗ ;
1441年の、嘉吉元年の前後 : 傭兵らから常備軍の都市国家ら。
2015/ 8/19 12:6:1 ;
根途記事+論評群 http://www.worldtimes.co.jp/col/siten2/kp111018.html : :
@ 京の幕府は、
鎌倉公方派に攻められた、
上杉憲実氏らを救う為に、
大規模な援軍を送り、 この、
永享の乱
≒ 1438年 ~ 1439年 、は、
足利持氏どの、と、その嫡男の、
自刃によって、一旦は、幕を閉じるが、
それも、つかの間、 鎌倉公方派の、
結城 ユウキ 氏が、 足利持氏どのの、
2人の遺子らを擁して、挙兵し、
京の幕府は、 再び、軍勢を派遣し、
鎮圧した。 :
この、 『 結城 合戦 』
≒ 1440年 ~ 1441年 、 は、
京都の人々へ、大きな衝撃を与えた様だ。
落居
≒ 落着 、した時の、 喜びの声は… :
「 悉 コトゴト く、 落居、 天下静謐
惣別大慶也 」 : 『 看聞日記 』、 の、
嘉吉元年は、4月25日 。
「 先以、 此如し、
承悦之萬民含笑のところ也
≒ まずは、 この通り、 万民は、
喜んで、笑みを含んでいる所だ 」 、
『 建内記 』、 嘉吉元年は、 4月23日。 :
一連の騒動だけを見ると、 謂れ無き、
対抗心を燃やされた義教将軍は、 気の毒で、 この問題は、 義教将軍の治世の、
最初から最後まで、 ほぼ一貫して、
在り続けた、最大の懸念事項、
とも言うべき物だった。
十年来も、敵対されながら、 京から、
軍事介入をする事にしたのは、
鎌倉公方の持氏どのが、
「 上杉憲実氏への討伐行動 」 、という、
武力の行使に踏み切った時が、初めて、で、
「 前から、 義教将軍が、密かに、
鎌倉への制圧行為を目論んでいた 」 、
という訳では、ない。
義教将軍の方から、 鎌倉へ、
軍事制圧を仕掛けた、と、
書いてある物もあるが、 それは、
史実に即した考察ではない。
いつも、 鎌倉公方側の動きが先行し、
京側は、 毎度、その対応に追われている。 :
『 永享の乱 』 、 で、
京への謀反を起こした者らの全員が、
罰せられた訳ではなく、 それが、
次の、 「 結城合戦 」 、 を引き起こす、
原因となった事に対して、
義教将軍は、
自分のゆるさを悔いたのでしょう。
『 結城合戦 』 、 で捕らえられた、
まだ、12歳前後の持氏どのの、
2人の息子ら
≒ 安王丸君と春王丸君 、
が、 誅 チュウ 殺され、 京に届けられた、
その首を見て、 涙を流した事は、
誅殺 、 などへの初断が、
社会の一般の人々の安寧を保証する、
幕府による、秩序を維持すべき、
公方としての使命感に基づく、
苦渋の判断だった事を物語り得てもいる。
「 見人誰も、拭涙、 室町殿
≒ 義教将軍 、も、御落涙云々 」、 『 看聞日記 』 、 の、 嘉吉元年は、
5月19日
≒ 将軍への暗殺行為がなされる、
6月24日の、1ヶ月ちょっと前 。 :
基本的に、 「 鎌倉公方派 」 、と、
「 関東管領上杉派 」 、とが、
対立した場合には、 京の幕府は、
上杉側を支援する、構造がある。
これは、 よくある、主君 vs 家臣の、
「 下克上 」 、 とは、 少し違う。
関東勢は、 鎌倉幕府以来の、
伝統的な、 有力御家人らが多く、
室町幕府の創生期から、
初代の足利尊氏どのに、
忠節を尽くして来た者達なので、
東国の武家としての自負があり、
京の幕府に配慮する、関東管領の、
上杉氏の意向を、余り、面白く思わない、
…傾向があった。 :
※ 幕府の創生期、 特に、
『 観応の擾乱 』 、 期の東国と、
尊氏どの、 との間には、 非常に固い、
誓い、約束事らがあり、
東国の武士らは、 代々、密かに、
それを受け継いでいた様だ。 :
※例えば…、 今川了俊氏の、
『 難太平記 』
≒ 反足利色のある、 『 太平記 』、
の、 記述な事柄ら、へ対して、
事実らや、 自らの解釈らに基づいて、
その非難すべき事らを論じた、著作で、
太平記を難ずる、 という、
そのままな、 題名を宛てられてある 、 や、
『 源威集 』 、 に、その痕跡らがある。 :
そんな背景から、 彼らは、
主君の鎌倉公方を支持して、
上杉氏に対抗し、 上杉氏は、
主君の、 " 鎌倉公方 " 、 には、
逆らいたくはないが、
鎌倉公方派の関東勢との、
対立を余儀なくされ、泥沼化する。 :
:
" 関東の上杉氏 " 、 には、
犬懸 イヌガケ 家 、 と、
山内 ヤマノウチ 家に、
扇谷 オウギガヤツ 家があり、
「 上杉禅秀の乱 」 、 で、
犬懸家が衰退した後は、
山内家が関東管領を世襲していく。 :
@ 足利氏の、
「 家の字 」 、は、 氏、だった様で,
尊氏どのが好い例だが,
征夷大将軍になってからは,
源氏の棟梁として、
「 家の字 」、 を、
「 義 」 、 に変え, :
「 氏 」、 の字は、
鎌倉公方家に引き継がれ、
鎌倉公方家は、
「 将軍から一字を拝領 」 ➕ 「 氏 」、
の例が、 多くなり,
鎌倉公方の足利持氏どのも、
その例に洩れず,
第4代の義持将軍から、
『 持 』 、 の字を授かっている。 :
:
戦国時代へかけては、
この、 足利将軍から、 その名の字を、
賜って、 自らの名の一部とする、
大名ら、などが、観られ、
その字に注目すると、
その人が、 どの将軍の時にあり得た、
人なのか、が、察せられ、
生まれた年などの、分からない人々、
についても、 大体で、 どの頃に、
元服をしたり、 活躍し得る立場になったか、
などの事らについて、
見当をつける、 よりどころらの一つに、
この、 賜り字の存在が、 成り得てもある。
@ 『 嘉吉 』 、に、事を、欠きつ、の、
意味を掛け合わせた、当時の狂歌 :
いなかにも 京にも御所の 絶え果てて
公方に、ことを 嘉吉元年
カキツ・ガンネン 。
√ いなかは、 鎌倉 、で、
この事件の数年前に、 義教将軍が、
自らに反抗的な態度を取り続けた、
関東公方の足利持氏どのを攻め滅ぼした
≒ 永享の乱 、で、
鎌倉も、京も、御所が絶え果てて、
『 公方 クボウ 』
≒ 『 征夷大将軍 』 、
に、ことを欠く始末だ 、
との大意だ。 :
この、 『 永享の乱 』 、 の、
一方の当事者である、 関東管領の、
上杉憲実氏は、 山内家の人で、
彼は、 主君の足利持氏どのの為に、
必死に、 諫言を続け、 挙句に、
主君から、追討の対象にされるも、
持氏どのが敗れて、 出家してからは、
京の幕府に対して、
主君の助命を嘆願する。
が、
京の幕府の評定で、 却下され、
上杉憲実氏は、 主君を討つべく、
出兵させられ、主君の持氏どのは、
自刃して果て、 主君を討った事に、
絶望し、30歳位で、隠居する。
:
「 結城合戦 」 、 の後も、京の幕府から、
再三に、政界へ復帰する事を求めらるが、
固辞し、 最後は、 放浪の旅に出て、
果てた。
一度は、殺されそうになった、
にも関わらずに、 何という忠誠心か。
良い人過ぎる。 この時代の、
「 大名にとっての、公方の存在意義 」 、
を考えさせられる逸話だ。 :
今の千葉県の根元の方は、 京から、
海路で来て、 より、 近い方から、
『 安房 アワ 』 、に、
『 上総 カズサ 』 、 と来て、
『 下総 シモウサ 』 、と、呼ばれる、
行政区域だったが、
そこに居城していた、 結城氏朝
ユウキ・ウジトモ 氏が、
永享の乱に敗れて、 自害した、
鎌倉公方の幼子らを擁し、 彼らを頂く、
鎌倉府の樹立を目指して、
兵を挙げてから、 4ヶ月後の、
1440年の7月に、
結城城を幕府軍に包囲され、
翌る、1441年、の、
永享13年の、4月16日に、
氏朝氏は、降伏を決意し、
幕府に降伏するに当たり、 氏朝氏は、
城内にいる女子らの命乞いを願い出て、
足利幕府は、 その条件を、
すんなりと、 呑むが、
幼い春王君と安王君を女装させて、
女子に紛れさせて、 逃がそう、
との計略が、 結城氏にはあった。
春王君が、13歳で、 安王君が、
11歳だったので、 女子の格好をすれば、 様に成る、と、 結城氏らは、
踏んだのだろうが、
幕府の将兵らに、 2人は、
あっさり、見つかってしまう。 :
捕えられて、京へ護送される途中の、
5月16日に、 美濃の、垂井 タルイ 、
に差し掛かった時に、
護送役の、 長尾実景氏へ、
飛脚から、 手紙が届けられる。
いつもは、 夜遅くまで歩き続けるのに、 垂井で、 まだ、日の高い内に、
宿の手配がされる。
いつもと違う、その雰囲気に、
手紙の内容を 悟 サト る、 幼い兄弟。
手紙の主は、義教将軍で、
その内容は、「 即刻、2人を斬れ❗ 」 、 だ。
再び、 輿に乗せられて、
亡き父との縁のある道場へ連れて行かれ、
道場に入ると、 上人と対面した。
上人曰く、 「 鎌倉殿からの恩を、
若君達へ返したい、 何か、
思し召す事があれば、お聞きしたい 」。
この言葉を聴いて、 兄弟は、
自らの末期 マツゴ 、が迫っている、
事を確信した様だ。
2人は、 風呂を所望し、その身を清める。
その夜は、 酒宴が開かれたが、
警護の将兵らは、 春王ぎみ達の、
末期を察して、沈みがちだった。
春王君は、周りの空気を察して、
舞を舞い、安王君も、一緒に舞った。
彼らの姿を見て、長尾氏の将兵らは、
涙を袖でぬぐった。 夜が更けて、
長尾兵らから、用意された、
布団で寝る様に促されると、 健気にも、
「 けして、泣いたり、
騒いだりせぬゆえ、 殺す時は、
起こしてたもれ 」 、と、
兄弟は、 頼んだ。
殺す役を命じられた、 漆崎小次郎氏が、
そっと寝所へ入って行くと、
幼い兄弟は、手と手を、 しっかりと、
結び合い、 一つの布団に、一つの枕で、
寄り添う様に眠っている。
彼は、 むせび泣き、 しばし考えて、
やはり、 兄弟が言った様に、
起こしてから、斬るべきだ、
と、結論に達し、 そっと、揺り起こす。
「 お命を頂戴いたしまする 」 、
と言うと、 2人は、 すんなり、
起き上がり、
「 もう、 覚悟は決まっている。
兄弟二人で死ぬる事、 嬉しく思う 」 、
と言い、 手を合わせながら、
小次郎氏の方へ首を差し伸べた。
@ 安王丸君と春王丸君の乳母が、
捕縛され、京へ連行され、
厳しく取調べられ、
「 持氏殿には、
十人余りの子があった❗。
安王丸ぎみ、春王丸ぎみの他は、
何処へ落ちたか❗?、
居所を白状すれば、 恩賞を与える。
隠すなら、拷問にかけるぞ❗ 」 。
乳母は言った、
「 私は、安王丸様、春王丸様の、
他の方の事は、一切、知りませぬ❗ 」。
幕府の奉行らは、 彼女に、
『 水火ノ責ニ及 』 、 んだ。
乳母は、一切を、口を割らず、
舌を噛み切り、自ら死んだ。
( 上杉憲実記 ) 。
結城合戦の戦火は、
鎌倉公方の支配下にあった、
奥州にも飛び火し、 持氏どのの叔父で、
永享の乱では、 幕府側に寝返った、
篠川公方の足利満直氏が、
結城氏を支持する、 諸将に討たれた❗ 。
@ 中世の寺社は、 朝廷と、公家や、
武家などと並ぶ勢力
≒ 権門らの一つ 、 で、
独自の基盤
≒ 荘園や兵力 、 を持ち、
自治の体制が整っていた。
特に、 中央の足利政権、 との、
結びつきが強い、 京都の近郊の、
大寺院らに、神社らは、
持つ権限も大きく、 頗 スコブ る、
威勢がいいので、 彼らは、時に、
嗷訴 ゴウソ 、 と称して、 乱暴をする。
※ 嗷訴… ;
為政者へ、集団で、要求を、
強引に訴える事で、
神輿とか、 南北朝の頃の、
荒くれ武者らでさえ、馬を降りて、
平伏したりしていた、 御神木とか、
を、 かざして、 無敵状態で来るから、
お手上げだった。 :
寺院だから、真面目に修行している、
僧らも、当然に、いる。
彼らは、 学侶
≒ 学僧 、で、
武装しているのは、僧兵らだ。
当時の京都の近郊の二大仏教勢力は、
奈良の興福寺
≒ 南都 、と、
比叡山延暦寺
≒ 北嶺 、 で、並べて、
『 南都北嶺 ナントホクレイ 』、
とも称された。
彼らの要求な事らは、かなり、
理不尽な事が多いので、
それを批判される事もあるが、
当時の宗教勢力らの全てが、
悪づいていた訳では、ない。
学問の場を与え、 地方自治を担っていた、 側面も強い。 :
例えば、 紀伊国
≒ 今の、 和歌山県 ➕ 三重県の一部
、の根来寺 ネゴロデラ 、や、
粉河寺 コカワデラ 、の様に、
守護大名の畠山氏に協力的で、
良好な関係を築いていた寺院らは、
在地の民や武士らの核として、
地域社会で、重要な機能をを担っていた。
宗教色が強く、閉鎖的で、
対立的な勢力らもあった。
奈良の興福寺は、 大和国
≒ 今の奈良県 、への、
守護 、 という位置付けで、
武家じゃないが、 実質の守護大名、だ。
在地の武士である国人 コクジン 、ら
≒ 国衆 、を、 興福寺に属する、
「 衆徒 シュト 」 、か、
春日社に属する、 「 国民 コクミン 」 、 として組織し、 大和国を治めていた。
※合わせて、 「 衆徒国民 」、
と、言う。 :
※春日社… ;
今の、奈良の春日大社。 この時代は、
興福寺と、 ほぼ、一体、 と考えていい。
神仏習合、で、一体化していた。
@ 室町幕府は、
寺社権門らと協調関係を築くことで、
在地の民らの心を掌握し、
間接統治を実現していた。 :
ゆるゆるの、 " タノミマス政権 " 、
だった事は、 否めない…。
延暦寺の嗷訴に関しては、
鎌倉時代以前から、久しく、
朝廷の悩みの種だったが、
室町時代に入り、 武家政権が、
京都を拠点にしてからも、
それは、続いた。
特に、 室町時代の初期には、
南北朝の動乱で、 彼らの荘園や所領が、 武士らに押領 オウリョウ 、された、
事や、
幕府が、禅宗を保護した事により、
顕密仏教である、南都北嶺が、
危機感を抱いた、等の事情もあり、
神輿や御神木をかざしてこられると、
皆が、 それとの絡みようによる、
祟りを恐れたり、気味悪がったりして、
荒塊 アラクレ 武者らまでが、
ばかデカい神木が、 掛け声らも荒高い、
荒くれ法師らに引かれて来る様を、
目にも、耳にもすると、 一斉に、
馬を飛び降りて、 平伏 ヒレフ す位に、
おどろおどろしい、
演出が成されてもいた様で、
その大昔の、 平清盛氏の如く、
それにも構わずに、 神木へ、
矢を射当てる様な心構えのある人々も、
社会の一般の多数派の人々の、
心向きらを無視して観せるなどすると、
自らの実現したい、 何事らも、
滞ってしまうので、 表向きだけでも、
神木などを引き連れて来る者らには、
敬意を払って観せる必要性などもあり、
基本的に、 嗷訴に対しては、
理不尽な要求事へでも、 幕府側が、
しぶしぶ、妥協する場合が、多かった。
当時の、 京都の近郊の大規模な寺社らは、
国家的な祈祷を行う存在でもあり、
金融や物流といった、
経済の要 カナメ の系らでもあったので、 幕府にとって、 寺社権門ら、
との、 良好な関係は、
政策な事らを実現してゆく上で、
とても、 重要な物だった。
※ 押領… ;
他者 ヒト の知行
≒ 支配 、している所領を、
勝手に、 「 ここは、 今日から、
儂 ワシ の❗ 」 、と、
力ずくで、横取りする事。 :
※ 神輿 ミコシ・シンヨ… ;
神霊や御神体を乗せて運ぶ輿 コシ 。
興福寺にとっての春日社は、
延暦寺では、 日吉社
≒ 今の日吉大社 :
滋賀県は、 坂本 、に当たる。
寺院なのに、 神社の、
神輿・御神木を担いで、嗷訴するのは、
神仏習合の思想に基づく事象。