https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190726-00000078-kyodonews-cul 
    アフガニスタンの中部の、
  メス・アイナク遺跡で、
   6百年代な、 7世紀ごろに作られた、
   と、みられる、 仏教の経典への、
   写本の一部が、 見つかった❗ 。

  アフガン考古局が、 26日までに、
  明らかにした。 
  古代の遺跡から、写本が見つかるのは、
  珍しく、 栄えた仏教都市だった、
  ことを裏付ける発見。 

     小説な、 「  西遊記  」 、 の、
   三蔵法師として知られる、 玄奘三蔵師が、
  旅行記な、 「  大唐西域記  」 、 で描いた、
  仏教国な、 「  ブリジスターナ  」 、
  である、 可能性が、 高まった。 

    遺跡は、 首都な、 カブール、の、
 南東の、  約  40  キロ  、 にあり、
   3  ~  7世紀の都市とされる。 

    2千9年に、  アフガン政府が、
  本格的な発掘を開始。
  仏塔や仏像、に、壁画が、 次々と出土し、
  大規模な遺跡である、
  ことが、判明した。 

   @    2019/  7/26  ( 金 )  18:56:5.18    ID:bUZXJhIx0  ;
   玄奘三蔵師のものとされる遺骨は、
  日本にもあるんだよな。
 日中戦争のころに、 日本が見つけて、
  すったもんだのあげくに、
  分骨することになった

    ID:RTjb5V0P0>>10  ;
   岩槻の慈恩寺ね。

    ID:6lujXs070  ;
  当時に、 栄えたにしても、
  その後に、 滅びてるんだよな。 
  攻め滅ぼされたのか、
  何かが、悪かったのか…

   ID:XmhpZgPR0  >>13 ;
 ドラマの西遊記でも、滅ぼされるしな。

    ID:z97yAYiH0  >>18  ;
  そうなの?、  マチャアキの、 
  西遊記しか知らないんだけど。 
あのドラマって、 歴史的な描写を観た、
  記憶が・・ない。

  ID:zKbWeh4o0  ;
 ガンダーラ、ガンダーラ 
なんちゃらかんちゃら、 イーンディア

   ID:5FfLR7+O0 >>14  ;
   they   say   it   was    in    India  

    ID:k2iNwNBl0  >>29 ;
  でも、  ガンダーラは、
  インドじゃないんだよね。 
  作詞者も、後で知って、
  突っ込まれるんじゃないか、と、
  びびってたらしいけどw
  
    ID:GIkJOQTg0  ;
 タクラマカン砂漠の辺りの、
  古代の国は、浪漫があんだよなぁ。
クチャ 、に行って遺跡を見たけど、
  感動したよ。

   ID:z97yAYiH0 ;
あのへんが、 仏教国って、  
  ピンとこんな。

   ID:moagcFhl0  >>17 ;
  仏教の国だった、 インドも、今や、
  ヒンドゥー教が、大半だし 
ヨーロッパも、 百年後には、
 イスラム圏になる、 と、言われている。

   ID:47Sq4IXF0>>56  ;
  インド国旗の真ん中の丸は、
  アショーカ・サークル、と、呼ばれ、 
  仏教の輪廻を表している。

 ID:e9EsV8xn0>>81  ;
 輪廻ではなく、 「 転法輪 」、だけどな。 
   【   脱却すべき   】、
 輪廻を表すのでは、意味がない。

   ID:GJ1BynxA0>>17  ;
 インドから、中国への仏教の伝来は、
  一度は、 パキスタン、や、
  アフガニスタン、 といった、
  インドの西を遠回りしてから、
  シルクロード経由で伝わってきた

   ID:SgaIU2VP0>>97  ;
 なるほど。 そういう事だったのか。 
   ベトナムの仏教は、 北方系なんだと。
  カンボジアとか、タイは、見た感じ、
  いかにも、 南方系だけれども。

     ID:bUZXJhIx0 ;
   メスアイナク遺跡は、 近くに、
  銅の鉱床があるため、発掘調査も、
  そこそこに、破壊されようとしている、 
  と、 聞いたことがある。 
  たぶん、 こういった過去の遺跡も、
  十分に調査されることのないまま、
  崩壊するんだろうな。
今のアフガニスタンは、仏教国でないし、 
諸行無常よ。

    ID:rOHRznIq0  ;
  西域は、 ロマンがあるなぁ。 
行って見たいけど、中共とか、
  戦争とかで、躊躇したままだわ。


  ☆   立ちくらみ        頭に足らぬ         血の土産
  
    足を屈めば             やる、脹ら脛 ❗。
 
  ☆     足利時代、と、イタリアの都市国家ら、
  に、 傭兵ら ❗ 02  ;   

・・教皇のアヴィニョン幽囚と、 その後の、
   『  教会  大分裂  』
   ≒      『  シスマ  』       、  という、
  異常事態にあった、 教皇国では、 
 一種の無法状態に陥った領内で、
   ローマ教皇や、 神聖ローマ皇帝、
  への、代官を勝手に名乗る、
  豪族らが割拠して、 互いに、
  抗争を続けていたし、 教皇庁も、
   折に触れて、直接の支配性を回復すべく、
   教会の権威を軽視する豪族らに対して、
  武力行使をためらわなかった。 
  
  中小国家らは、 中小国家らで、 
  こうした地域大国らの抗争に、
  巻き込まれる中で、 いかにして、
  自国の安全を守るかに汲々としていた。 
  
    イタリアで、初めての、 イタリア人、
  だけを、構成員として組織された、
  傭兵部隊は、 
   南北朝を合一する事になる、
 足利義満氏が、 第3代の、
  征夷大将軍に成ってから、 9年後の、 
  1377年に、  
 アルベリコ・ダ・バルビアーノ 、
 が創設した、「  サン・ジョルジョ軍団  」 、 で、 設立への直接の動機は、
   同い年の2月に、 悪名高い、
  イギリス人の傭兵長の、
  ジョン・ホークウッドが率いる、
  外国人の傭兵隊が引き起こした、 
 「  チェゼーナの大虐殺  」、 にあった、
  とされ、   その傭兵隊の一員として、 
  この事件に関わった、アルベリコは、 
  自分と同じ、 ロマーニャ人の市民らを、
  冷酷に、 大量に虐殺する、
  無頼の外国人兵士らへ、
  深い怒りと悔恨を覚え、 その反省が、 
  キリスト教と言語を共有する、
  イタリア人だけの、 部隊、への、
  創設に踏み切らせたのだ、 という。 
 
   サン・ジョルジョ軍団の設立と、 
  その後の、 アルベリコの活躍が、
  一つの契機となり、 
  イタリア都市国家らの政府らの中に、
  イタリア人な傭兵への信頼性が高まり、
   隊長も、兵士も、イタリア人を、
  優先的に雇う、風潮が広まり、 
     千4百年代 
   ≒    15世紀       、の前半から、
  世紀末にかけての、 
  イタリア人な傭兵隊長の、
  黄金時代を迎える事になる。
 
   千440年代の前半に、 
  ヴェネツィアと契約した、傭兵長の、
  ミケレット・アッテンドロが率いる、
  部隊構成員らの出身地をみると、 
 
    教皇領内の諸国が、 36  %  、で、 
  トスカーナと北イタリアが、 
   31.5  %  、に、 
  ナポリ王国が、  26.8  %    、で、 
  フランスと、ドイツや、ハンガリーに、
 カタローニヤ、と、アルバニア 、などが、
    5.7  %    、であり、 
   全体の、  94.3  % 、  が、 
  イタリア人だ。
 
   1482年の4月に、 ウルビーノ公の、 
  フェデリコ・ダ・モンテフェルトロが、
 最後の務めになる、フェッラーラ戦争、への、
  出陣に際して率いた軍団の内訳をみると、
   少・中隊長級の合計の、
 260名の出身地は、 
  アルバニア人の3名を除き、 全てが、
  イタリア人で、 その4割強が、 
  ウルビーノ領内の住人になっている。 
 
    それ以前の傭兵隊は、 主として、
  外国人の兵士くずれを中核とする集団で、 
  隊長も、外国人の騎士や、
  食い詰め浪人らであった。 

   こうした傭兵隊は、 都市国家に、
  戦う道具として雇用されている間は、
  一個の軍隊として行動するが、 
  そうした働き口がなくなれば、 
  生活の糧を得る必要から、思い思いに、
 強盗や、略奪を働き、 強姦を成す者らも、
 混ざり込んでいた事から、 
 一般のイタリア人らの嫌悪と恐怖の的だった。 

    千333年に、鎌倉幕府を滅ぼした、 
  後醍醐天皇が死んだ、 千339年に、 
  フランスとイギリスとが、 
  フランスの王位を巡り、 百年戦争へ突入し、
   何度も、中弛みしつつ、 時々に、
  思い出した様に、
  合戦していた頃の、 足利義満氏が、
  征夷大将軍になる、  5年前の、
  千363年に、 
 トスカーナの平原に、 大軍団が姿を現した。 
 
    百年戦争の前半戦を締めくくった、 
  ブレティニーの和を受けて失業した、
  傭兵らが結成した、 
  「  白の軍団  」 
  ≒     『  コンパニア・ビアンカ  』      、
 が、戦を求めて、イタリアへやってきたのだ。 
 
    フィレンツェから国葬される事になる、    
  悪名の高い、ジョン・ホークウッドは、 
  その軍団内の、一隊長に過ぎず、
   軍団は、 初めは、 フィレンツェ、への、
  仇の、 ピサと契約をしたが、 
   ピサ当局を満足させる、
  成果を上げられないでいた。
 
    ホークウッドが、一隊長から、
  コンパニア・ビアンカを率いる、
  立場になったのは、
   この時だった。 
 
   彼は、  対フィレンツェ戦で、
  決定的な敗北を喫するも、 
 ピサの政変に深く関わり、 新たに生まれた、 
  ピサの領主との間に、緊密な関係を結び、 
  ピサの領主と同盟関係にあった、
  ミラノの領主の、ヴィスコンティ家、
  と、結んだ後で、 教皇庁に雇われる。 
 
    教皇庁との契約中に、 ホークウッドは、
   枢機卿の名の下に、 チェゼナの町での、
  大虐殺に参加して、悪名を轟かせた。
 
   チェゼナの虐殺は、 教皇との約束事による、
  最後の仕事となり、 次に、 彼を雇ったのは、
   フィレンツェ、 と、
 ヴィスコンティ家だったが、
   ヴィスコンティ家の主が、
  すげ変わった事を受け、 
  パドヴァの依頼で、
 ヴィスコンティ家と戦ったりもしている。 

   彼奴が、 どの陣営に属している際でも、
  標的にされた都市が、シエナで、 シエナは、 
  ホークウッドの軍が、
 その都市の近郊を通過する度に、 
  彼の軍団をおとなしくさせておくための、
  カネを揺すり取られた。 
 
   支払いを拒めば、 ホークウッドの軍は、   
 シエナ領内で掠奪をし、   
 カネを払った場合にも、 
   ホークウッドらの乱暴な行為らを、
  止める手立ては、なかった。
 
    アレッツォも、ピストイアも、 
 トスカーナの雄の、フィレンツェも、 
 この手の取り立てを免れ得なかった。 

    ホークウッドは、 各地で、
 虐殺を筆頭とした、
  残虐な行為らを繰り返していた、
 と、される。 
 
    彼は、 反教皇派の、ミラノに鞍替えし、
   ベルナボ・ヴィスコンティの娘で、 
 教会に公式に認められた嫡出ではない、
  庶子の、
   ドニア・ヴィスコンティ嬢と結婚し、 
  彼女との間に、 男子の1人と、女子の、
  3人を儲けている。
 
    婚姻の際に、すでに、齢が、
  50半ばを過ぎていたが、 ホークウッドは、
   文盲であった為に、 
 人に契約書を読ませてから、
  作印をしていた、 というが、 
  ヴィスコンティ家とは、 仲違いをし、 
  フィレンツェ 、 についた。 
 
   1381年には、 イングランド王の、
  リチャード2世から、
  法王庁の大使に任命された。 

  足利義満氏が、いざ、国、合わそう、の、 
  1392年に、 南北朝を統一する、
  五年前の1387年に、 ホークウッドは、 
  フォルリの、 
 ジョヴァンニ・オルデラッフィ、
  と、 争っていた、 
  パドヴァ 、 を支援するべく送られた、
   ヴェローナ軍への指揮を取り、 
  カスタニャーロの戦いに勝った。 
 
  1377年に、 ホークウッドは、 
  教皇のグレゴリウス11世の命として、 
  チェゼーナにおいて、
  数千人規模の大虐殺を行った。 が、 
  一説には、 彼は、 
  チェゼーナ市民らの助命を約束した物の、 
  ジュネーヴの、 ロベール枢機卿 
  ≒      後の、 アヴィニョンにおける、
 対立教皇の、   クレメンス7世      、
 が、全員を殺す様に指示した、 とも、言う。
 
   イタリアの都市国家らのそれぞれは、
   政治経済的な目的を達成するのに、
 十分な、 軍事力を常備している訳ではなく、
   折り毎に、 利益を同じくする、
  国々と合従連衡して、
 集団的な防衛力の強化を図るかたわらで、 
  それを背景として、 外交により、 
  紛争への解決に当たり、 それで、 
  打開のめどが立たない場合には、
   短期間に、   金で、傭兵らを雇い、
 その武力に訴える、  やり方のほうが、
   遥かに、賢く、合理的で、
 経済的でもある、 とする考え方が、 
  この時代の各国を主導していた、
  所があった観がある。
 
   1379年に、 
  アルベリコは、 教皇の、
  ウルバーノ6世の命を受けて、 対立教皇の、
  クレメンス7世のブルトン人傭兵隊を、
  ローマの近郊で撃破し、 対立教皇を、
 アヴィニョンに逃げ走らせる、
 きっかけを作った。 
  
  翌る、80年には、 自分への師匠であった、 
  ホークウッドの軍を、トスカーナに、
 ウンブリアで、 うち破り、
 イタリア人な傭兵隊の強さを内外に示した。 
 
    その強さの秘密は、 重装騎兵に、
  効率的な軍隊組織と、
 彼自身の巧みな用兵術にあった。 
  
    それが為に、 アルベリコの幕下からは、 
  ヤコポ・ダル・ヴェルメに、
  ファチーノ・カーネや、 
 ブラッチョ・ダ・モントーネと、 
  ムーツィオ・アッテンドロ、  などの、
 次代を背負い立つ、
 優れた傭兵長が輩出された。
 
    中でも、 ブラッチョ・ダ・モントーネと、
 ムーツィオ・アッテンドロは、 双璧で、 
 それぞれに就いて、戦術を学んだ者は、
  ブラッチョ派 、や、スフオルツァ派 、
  と、呼ばれ、  傭兵長らの世界では、
 一目を置かれる存在となった。 
 
   14、15世紀に活躍した、イタリア人な、
  傭兵長らの中には、
 その事蹟に関する記録よりも、
  ルネッサンスの巨匠の手になる、
  絵画や彫刻を通じて、
その名を知られている者が、少なくない。 
 
    ブロンズの騎馬像で、
 その勇姿を偲ばせる武人もいる。 

   ヴェネツィアのエ・パオロ広場にある、
  ヴェッロッキオ氏の作の、騎馬像は、 
  同共和国軍の総司令官を務めた傭兵長の、
  バルトロメオ・コッレオーネだ。
 
  √   イタリアの都市国家らが、 
  千4百年代の半ば辺りから、   
 傭兵らを細分し、  彼らを指揮する、
  兵頭  ヒョウドウ  、らを、
  傭兵ら、との、主従関係から切り離す形で、 
  別々に、採用する事に基づく、
   文民による統制の在りようを、
  確立した事により、 

     組織的な軍隊へ対する、 
  都市国家役人らによる、統制が効いた、
  状況の存在が保証され、 
  スフォルツァ、 が、 1450年に、 
  ミラノで成した様な、軍事政変は、
  深刻な脅威ではなくなった。 
 
  その上で、  外交での損得も含めて、
  赤字の決算を出さない様にする事をも、
  目標な事にして、 知恵を絞り、  
 算盤勘定でも、 評価し得る、 定量的で 
  ≒      科学的な      、   評価基準へ当てて、 
   軍事を評価し得る状況を成し得た事から、 
  とても柔軟で、 効力のある、
  戦争の仕方の仕組みらが、 
  千4百年代の末に、 イタリアの、
  ポー川の流域に現れ出た。 

    その頃の日本では、  1441年に、 
  嘉吉  カキツ  、 の乱 、で、   第6代の、
  室町幕府の征夷大将軍の、 足利義教氏が、 
  播磨・備前・美作の守護大名の、
   赤松満祐の手の者らにより、 
  満祐が不在の折りに、 
  満祐の屋敷での宴会の最中  サナカ  、に、   
  首を斬り落とされ、 
  赤松らが、 その領国の播磨で、
  幕府方の討伐軍らに敗れて、討たれる、 
  一連の騒乱があり、 
  『   嘉吉の変  』  、  とも呼ばれる。 

    この事件については、 
  伏見宮の貞成親王の日記の、 
    『  看聞日記  』、
  に、  義教将軍への暗殺行為の成った、
  当日の事情が記され、  全一巻の、
 『  嘉吉記  』 、  には、 
  嘉吉の乱から後の、 神器への奪還までの、
  赤松氏員らの事が記されている。 
 
   1427年、の、 応永34年、に、 
 満祐が、 家督を相続したのに対して、 
  元の第4代の征夷大将軍の、足利義持氏は、 
  子の第5代の征夷大将軍の、
  義量氏が死んだ後に、  
   将軍職へ、誰も就けずに、
 自ら、政務を執り、 
  播磨を取り上げて、 寵臣の赤松持貞 
  ≒    満祐  、への、 又従兄弟でもあった      、      
  へ、与えようとし、
  満祐は、 京の屋敷を焼いて、
   領国へ去る事件を成した。 

    冷やり、とする事らが、 3百もあり、  
   はっとする事らが、 30もあって、 
  大事故へ至る ❗  、  という、 
  冷りはっとの法則があるが、 
  満祐も、 将軍への暗殺の前に、
  やらかしていた訳だ❗。

     元の第4代将軍の、足利義持氏は、
   激怒して、満祐を討とうとするが、 
  幕府の重臣らは、それに反対し、
  その内に、 満祐を押しのけた形になった、   赤松持貞が、 
  義持氏への侍女と密通した、
 事が露見した、として、処刑され、 
  満祐は、 意図して、火事を成し、
   勝手に領国へ帰った、
  科  トガ  、について、 
 処罰されるべきだったのに、赦免されて、    3ヶ国への守護職   シュゴシキ   、
  を相続し得た。 
 
   義持氏の死後に、 弟の義教氏が、
   第6代の征夷大将軍になると、 
  満祐は、 侍所頭人に就任した。 
 
   応永年間には、
   反社会的な、 儒教型の、
   部族倫理員である、 事を、
  通例とする、  朝鮮人ら、 が、
   またしても、  日本人たちへの、
  不意打ちを成し、
   対馬の日本人たちへ対して、
  強姦と虐殺に拉致とから成る、
   侵略行為を働いた、
  『  応永の外寇  』、 を成して、
   いわゆる、 和寇 、 なる、
  その当初は、  日本人たちからの、
  倫理的にも、妥当な、
  報復と偵察の行為らを、
  シナ朝鮮人な、 
   反社会的な部族倫理員としてある、
  事が、 一般な、 自らの側の者らへ、
  宛て付けさせる、 原因、を、
  自ら、成したが、
  
  1423年、の、 応永30年の、3月に、    足利義持氏は、 38歳で、
  征夷大将軍職を、嫡子の義量氏に譲り、
   その翌年に出家したが、 
  その翌年の正月に、第5代の義量将軍は、   疱瘡を患い、 翌る、 1425年、の、 
 応永32年に、 19歳の若さで死んだ。

   関東公方の足利持氏氏は、 
  義持氏の猶子となり、
   在京奉公をする事を望み、
   義持氏から、後継者へ指名される、
  事を期待していた。 

   幕閣は、 関東公方を仮想敵として、
  常に、念頭に置き、 
  九州と関東公方の管轄下の、
  東国の諸国の守護ら、 以外は、
  在京を原則としていたが、 
  越後・信濃・駿河の、
  関東の国境の諸国の守護大名らだけは、
  在国としていた。 : 

   1428年、の、  応永36年、の、
  正月7日に、 義持氏は、風呂場で、
  尻の傷を掻き破り、 それが悪化し、
  起居も、ままならなくなった。 

    ≒      人々の命と健康性とを成し続ける、
  のに必要な、  
  あるべき、 代謝らの各々を、
  合体して、 直に、 成す、
  酵素   コウソ  、 な、  タンパク質、
  らと、
  補酵素    ホコウソ  、 な、
   ビタミン  、 らや、
   補因子 、な、  ミネラル 、
  らへの、  日頃の、 摂取らにおいて、
    義持将軍の、 代謝ごとに、 
  異なり得る、
  代謝員な、 それら、の、
  能く、 合体し得て、
  直に、 代謝の働きよう、 を、
  成し得る、 度合い 、 である、
  『  確率的  親和力  』、 ら、
  での、 不足分 、らを、
  より、 埋め余し得る、
  余計な、度合いを成して、
  あるべき、 代謝員ら、の、
  どれ彼、 らを、 飲み食いし付ける、
  事において、
  その、 あるべき、度合いら、を、
  より、 欠いてあった、 事が、
   何の事は、ない、 感染症からも、
   義持将軍が、 より、早くに、
   死ぬまでに至った、
  その、 免疫性、 などの、
   度合いらの低下を成し得ていた、
  のであろう。

    正月の16日に、 彼の父で、
  第3代の征夷大将軍の、
  足利義満氏への猶子の、 
 三宝院満斉氏へ、 
「   大略、   思   オボ  し食   メ  し、
  定められるなり。   43 、 にて、
   御薨逝   コウセイ  も、  不足なく、
  思し食さるるなり   」 、  と、 
  洩らす様になる。 

   後継者を指名しない義持氏へ、
   已む無く、 満斉氏が、
  八幡宮の神前での、
  籤引   クジビ  きにより、 
  「  神慮  」 、 にかなう者へ、
  将軍職を承け継がせる様に、
    と、提案し、 了承された。 

   義持氏の弟は、4人で、 
  青蓮  ショウレン  院の、  義円師に、 
  大覚寺の、 義昭  ギショウ  師と、
   景徳寺虎山の永隆師に、
   三千院の、  義承  ギジョウ  師だ。 

    正月17日に、 籤らを、 
  管領  カンレイ  、の、畠山満家氏が、
   石 イワ 清水八幡宮へ持参し、 神前で、
   1通だけを引いて、深夜に持ち帰った。

    管領、 以下の大名らが会して、 
  その面前で開封する。 
 
  「  青蓮院  」、と、記されてあった。