☆   足利時代、と、イタリアの都市国家ら❗;
 
   ☆     古文書を、みんなで、 「 翻刻 」❗;
 
 過去の災害について記された、
  古文書の知見を防災に役立てる研究で、
  読み解くのが難しい、  「 くずし字 」 、
 で書かれた、 古文書を、
  インターネットで公開し、
  市民が、 協力して解読する、
  取り組みが、 成果を上げている❗ 。
 
  東京大地震研究所にあった、
  約   500点の解読が、 わずかに、
  2年余りで完了 ❗ 。
 
    予想を上回るペースに、 専門家は、
  「  未知の災害や被害が見つかるかも  」 、 
  と、 日本の各地に残る、
 古文書の解読を進めたい考えだ。
 
 東大地震研で、 20日に開かれた、
  シンポジウム。   国立歴史民俗博物館
  (  歴博  ) 、 の、  橋本雄太助教
  (  人文情報学  ) 、 が、
  期待を込めて言った。
 
 「   把握されていない、
  文字を起こされていない、
  歴史資料は、 膨大にある ❗ 。
   
    研究者や学芸員だけで読み解くのは、
  現実的でなかったが、
  市民が参加する解読は、
 大きな可能性を秘めている ❗  」。
 
 この取り組みは、 歴博と東大、
  京都大が、 2017年に始めた、
  プロジェクト  ;
  「   みんなで翻刻  (  ほんこく  」。
 
   地震研が所蔵する、 495点の、
  古文書らを対象に、 「 くずし字 」 、
  で書かれた文字を、 一文字ずつを、
  現代語に訳し、 過去に、
  どんな、 災害が起きたのか、
  どんな、 被害があったのか、 と言った、
  知見を掘り起こすことを目指した。
 
 とはいえ、  くずし字を読み解くのは、
  国文学、 などの、専門家でなければ、
  容易ではない。
   地震学者が、 一つずつを解読していては、
  到底に、 終わらない。
   そこで、  古文書を、 根途の、
  専用サイトで公開し、
  一般市民ができる範囲で、 少しずつ、
  解読できるようにした。
 
   
  ☆   湧く水の      絶えや濁りも        山津波
 
       迫り来ると                告げる、兆しら❗ 
 
 
    ☆     信  フミ  でさえ
 
    野伏せりをして      数百年
 
    起きて、手紙が        息遣いする
 
   2015/  7/18   8:55:28 ;
http://www.worldtimes.co.jp/col/siten2/kp111018.html : : 
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20150712-OYT1T50012.html      豊臣秀吉氏が、
  「  木下  藤吉郎  」、 を名乗った、
  最後の文書が発見された :
  YOMIURI ONLINE  2015年 7月12日 12時13分 
    豊臣秀吉氏が、木下藤吉郎を名乗った、
   最後にあたる文書 
  ≒     1573年5月付    、が見つかった、
  と、 兵庫県は、豊岡市の教育委員会が、
   7月10日に、発表した。
 
    従来の研究では、 木下姓を記した、
  最後の文書は、 72年12月の物で、
   羽柴姓になった、最初の文書は、 
  73年の7月の物だったが、 
  今回の文書により、改姓の時期が、
   73年5〜7月に絞り込めるとしている。
 
   自領の部下へ、税の取り立てを促す内容で、  木下姓で、自らの指示を細々と記した文書は、  少なく、 専門家は、 
  「  大名になる前の、 秀吉氏を知る上で、
  貴重   」 、 とする。 : 
 
   @    豊岡っていっても、 出石らしいし、
   千石氏か、小出氏についてきた武士が、
  帰農した家かな。
 
    @    元亀4年から、天正元年に改元された、
  7月28日辺りが、改姓の時期という事かな。
 
      @    朝廷が、年号を改元するに当たり、
   費用らの工面に、秀吉氏が貢献したので、 
  その功労に対して、改姓が許された、
  という事でしょうか。 : 
 
   @     織田氏が、差し許す事だが、
   それも踏まえて、 羽柴への改姓を認めた、
  所は、あったかも知れない。 
  豊臣姓は、 陛下から賜った、
  賜姓らの一つで、 
  豊臣氏が、徳川氏に滅ぼされた為に、   
   源平藤橘に次いで、 帝、ないし、
 朝廷から賜った姓としての、
  豊臣姓は、 なくなってしまったが、 
  豊臣秀吉氏の姉の、ともさん、の、
  子孫達の一人が、 今上陛下で、 
  陛下を、 豊臣氏の親類にできた事にも、
   豊太閤らが頑張った甲斐がある❗  : 
 
   @     キリスト教の宣教師らが、
   日本人らを鎖に繋いで、海外へ、
  奴隷として売る事を、豊臣氏が非難し、
   キリスト教の布教を禁ずる、
  理由な事らの一つにも挙げて、 厳しく、
  布教活動を取り締まった事を逆恨みした、
   宣教師らが、 別の理由事らをねつ造し、
   自己投影により、 豊臣氏らを、
  性倫理の欠けた者として宣伝した❗。
 
 
     ☆    根途記事➕論評群❗ ;

   1354年だから、 鎌倉幕府が、 
  後醍醐天皇を頂く、 
  新田義貞氏が率いる軍勢により、
  最後の執権の、北条高時氏を始めとする、  主だった人々が、  自害へ追い込まれる、
 形で、滅んだ、 一味散々、の、
  1333年の後に、 後醍醐帝が、 自ら、
  親しく政務を執  ト  り行った、
   『 建武の新政 』が、 主に、 
  土地への権利らの分配に、 
  宜  ヨロ  しきを得ないが為に、
   効力を失う中で、  1339年に、 
   後醍醐帝が亡くなり、 
  イギリスとフランスとの間では、
   百年戦争が始まり、 
  北朝の帝を擁立した足利氏の勢力と、
  後醍醐帝の子孫を帝に頂く南朝とが、   
  どちらが、日本の統一政権で、
  在り得るかを巡って、争っていた、 
  南北朝の時代に、 : 

   イタリアでは、  特定の主を持たない、 
  自由戦士らの、一万人程が、 
  その2倍の数の、
  民間人の合戦支援員らを率いて、
  イタリアの中央部の、最も、
  肥沃な地帯らを横切り、 
  戦利品らを売って、 
 生活物資ら、 等を買いつつ、 押し通る、 
  事件があった。

   この頃の、 イタリアの都市国家らは、
   その周辺の農村らや、漁村ら、
  等を統治し、  そこらの領主らの、
  一族郎党を、 都市の中へ迎え入れ、
  一定の権限を与える、 等して、
  共和制や、豪族の独裁体制に、
  合力させ得ており、   
  海外との、売り買いらや、
  海賊行為らによっても、 
  生活物資らを豊かに得ていただけでなく、       
     人々が、 目の前の消費を控えて、
  その分を、 将来の消費へ回す、
  行為らを成す事にも役立つ、  貨幣ら 
  ≒    お金ら      、の一定数量が、    
   出回っており、
   帳簿らに記載される、 金額な、
  数値らも、 お金として、役に立つ、
  一定の度合いを成してもいたので、
   都市国家員らは、  仲間内で、
  税金を取り集め、  その一定金額で、
   武装した異邦人らによる、
   軍事便致  ビンチ  、 ら 
  ≒    『  軍事サービスら  』    、
   を、買う事も出来た。

    軍事便致らを売る、自由戦士の、
  異邦人らにとって、  彼らが貰う、
  カネらには、 彼らが、 体を張るに足る、 と、判断できる、 一定以上の、
  質てしての度合や、 量としての度合の、
  生活物資らや、 贅沢品らに、
  性的サービス、 などの、 
  便致らを買える、 見込み、
  を思い構えて観宛て得る状況が、 
  イタリア 、にあった事によっても、
   彼らは、 外国らから、   
   イタリア 、へと、やって来ていた。

    自由戦士らが、貰えた金らを、
  イタリアで使う事は、 
  イタリア都市国家員らから、
  取り集められた、税金らの、
  一定部分らが、  その都度に、 
  都市国家員らの一定数の人々へ戻され、 
  その人々の、 買い物ら、や、
  税金を納める行為ら、 などにより、 
   その他の都市国家員らへも、
  そのカネらが回される事をも意味した。

    食い扶持らが増えただけで、カネらは、    自由戦士らと、  イタリアの都市国家員ら、
  との、 両方を巡り巡って、 
  同じ、 天下経済系らの中を、
  ぐるぐると、 回っただけで、 
  自由戦士らの食い扶持ら、
  等を用意できさえすれば、 
  その契約関係らは、持続し得た。 

      自由戦士ら、 等により、 
 犯されたり、 強盗されたりするより、
   自由戦士らを雇い、 
  食い扶持らを当てがう方が、善い、
  と、 イタリアの都市国家員らが、
  判断し得た、 前提としては、 
  それなりに、 在り余れる生活物資らを、
  イタリアの内外の人々が、
   生産し得ており、 
  人々が、 その将来において、
  消費を成し得る事を約束してもくれる、
  に足りる、 条件な事らを満たし得た、
  お金らが、得られない場合には、 
   差し控えられていた、 
  余剰物資らを成すに至る、
  生産活動らが、 
  お金らを得られる事を当てにして、
   刺激され、 実際に、
  成し行われもし得ていたからだった。   
 
   人々の将来の消費の見込みを、
  一定度合い以上に、 確実にし得てくれる、
  類の、  一定以上の買い物が、
  確実にできる、 カネらには、 
  それらが存在しない場合には、 
  実現され得難い、  あり得る、
  余剰物資らへの生産らを実現する、
  効力もあるのだ。 

   北イタリアにおける、 比ぶる豊かで、
  都市当局の主導者らが有能な、
  都市国家らにおいては、
   組織的暴力行為ら、への、
  売り買いが可能になると共に、
   強盗行為らを成す事から、    
  主な、 生活物資ら、 等を得ていた、
  自由戦士の将兵らは、 
  金額の定まった給料によって、
  生活物資ら等を得る事を、
  選り好みする様に成っていった。 

    請け負い 
  ≒    condotta 
  ≒    軍事契約       、を成した、
   condottiere 
  ≒   『  傭兵長  』     、らによる、 
  軍事サービスの展開され得る、  
  制度らが発達すると、 
  略奪をしても、許される状況らを、
  特定する、   『  鏤留   ルル  』 
  ≒    『  ルール  』       、
  らが定められもした。 

   定まった給料を貰う身分になっても、 
  イタリアでの軍人稼業は、 
  投機経済性をも合わせ持っていた。

    イタリアの市場絡繰り、への、
  軍事企業らの編み込みは、 
  2つの段に、 区分され得る。 

   食いつめ浪人的な者らや、
  単に、食いつめた者らなどから成る、
  自由戦士団は、 
  室町幕府の、第3代の征夷大将軍へ、
  明治維新の元年のから、丁度、
  五百年前の、1368年に成った、   
  足利義満氏の頃の、 
  1380年代までに、 消え去り、 
  
    代わりに、 都市国家らの各々が、
  幾人かの兵頭らと約束事らを成して、
   兵頭らは、決まった額の、
 貨幣らと引き換えに、 兵らを雇い入れ、
   その兵らで、部隊を編成して、
  指揮する事を約束する事が、
  普通の事に成った。 

    この方法により、 
  都市国家らの各々は、 
  特定の年の軍事季節らにおいて、 
  その時に欲しい、と、望まれる通りの、
  構成の、軍事勢力を選び得た。 

   納税者らを代表する役人らが、
   担当の傭兵らを細かく査察する事により、
   実際に受け得たサービスらの分だけへ、
  貨幣らで支払いを成し、 
  それ以上の支払いを拒む事もあった。 

    初めの頃は、 請け負いは、 
  一回限りの軍事行為らや、 
  短い期間に特定して、 締結された。  

   部隊らへの雇い入れは、 
  特定の一つの軍事作戦に限って成された。 

      例えば、  隣りの都市国家の境の砦 
  トリデ 、  への、一回の襲撃に限って、
  一つの請け負い契約が成されたりした。 

   請け負いが終わる度に、 自由将兵らは、
  危機的な端境   ハザカイ  、期を迎えた。 

   新しい稼ぎ口を得られない場合には、 
  彼らは、 強盗をやるか、
  平和的な職業へ転ずるかの、
  いずれかを選ぶ事に成った。 

   彼らの今日の雇い主らは、 明日には、
  敵かも知れない、といった、状況では、
   都市国家らの側と、傭兵らとは、 
  互いに、秘密を持ち合う度合を、
  一定以上に高くし合う事にもなり、 
  互いに、打ち解け合えない事にもなるが、

   1368年に、 第3代の、
  征夷大将軍になった足利義満氏が、 
  いざ、国、合わそう、の、 
   1392年に、 
  南北朝を統一してから間もなくの、 
  千4百年代 
  ≒   15世紀     、の、初め頃には、 
  特定の兵頭らと、特定の都市国家らとは、
 長期の契約を結ぶ様になっており、 
  2年か5年位で切れる、
  契約を重ねる事により、 
  兵頭らが、 一生を通じて、
   一つの都市国家へ仕  ツカ  える例も、 
  普通の事に成っていた。

   同一の兵頭  ヒョウドウ  ら 
  ≒     傭兵長ら     、を常雇いする事は、
    その傭兵頭の指揮を仰ぐ、
  将兵らの固定化を、
  並行  ナミキ  させしめた。 

   長期契約を成していた、 職業兵士らは、   50個の、  『  騎槍  キャリ  』 
  ≒     『  ランス  』   、か、
   百個の騎槍 ごとに、 
  一部隊を成す様に組織された。 

      『  騎兵槍  』 
  ≒   『  ランス  』   、なる言葉は、 
 元は、 重装騎士の、一人と、 
  彼が、 戦場へ連れて来る、
  数名の郎党らから成る、 
  一揃   ヒトソロ 
  ≒     一単位 
  ≒    一ユニット     、を意味していた。 

    やがて、   『  騎槍  』 
   ≒    『  ランス  』    、は、 
  軍事行為らの売られる、
  商業化が進むに連れて、 
  兵士らと装備らの標準化が進み、 
  3人  〜  6人の兵士らからなる、
  戦闘可能単位を指す、言葉に成った。 

    その、3人  〜  6人は、 それぞれ、
  武装の具合は、 違ったが、 
  合戦では、  互いに助け合い、 
  緊密な、個人的な関係で結ばれていた。 

   都市当局の軍事監督係の役人らは、 
  傭兵らへの、定期的な、召集に、
  点呼、と、閲兵行為により、 
  仲間の税出し主らの税金が払われている、  当て先の者らが、
  紙の上に在るだけはでなく、
   実在する事を確かめた。 

   傭兵らは、 服務の期間を、
  都市当局に明記して貰う様に成った。 

    1409年に、 
  足利義満氏が死んだ事を受けて、
   第4代の征夷大将軍の職を継いだ、
   足利義持氏が、子の、
 義量 ヨシカズ 氏へ、将軍職を譲ってから、 
 跡継ぎを成さない内に死なれたので、 
  また、 自ら、将軍職につき、 
  死に際しては、 重臣らへ、
  第6代の征夷大将軍を、
 誰にすべきかを命じずに亡くなった為に、 
  重臣らが、くじ引きにより、
  彼の弟らの中から、征夷大将軍を選び、 
  その籤引きにより選ばれた、
  第6代の征夷大将軍の、
  足利義教   ヨシノリ   氏が、 
  足利幕府の支配体制を、
  より、 強固にしつつあった、 
  1441年に、 
  守護大名の、赤松満祐   ミツスケ  、
 の、 屋敷で、  宴会の最中  サナカ  に、
  暗殺された辺りから、 
  明治維新の元年の、  4百一年前で、
   足利義満氏が、 
  第3代の征夷大将軍に成った年の、
  99年後の、 
   『  1467年  』、  に始まる、
  応仁の乱、 を迎える前までの、

   千4百年代 
  ≒   15世紀      、の前半 には、
   比ぶる能のある都市当局を持つ、
  イタリア都市国家らにおいて、 
  兵員の数と、その能力性らが、 
  具体的に、 予め判り得ている、
   正規の常備軍らが、 
  古代のローマ帝国の崩壊してから後の、
  ヨーロッパに、初めて登場した。 
   ヴェネツィアは、 イタリア半島にある、
  テッラ・フィルマなる地域を、
  征服するべく、 足利義満氏の亡くなる、
  3年前の、 1405年に、 
  初めての軍事作戦を成した時に、 
  他の都市国家らに先駆けて、 
  コンドッタ 
  ≒    『  軍事請負契約  』     、を、
   この様な在り方の下に、
   正規の物としていた。

   『  ヴェネツィア  』 、 は、
  海軍においては、 
  艦隊を編成する事において、その前から、   同じ様な事を既に慣わし事にしており、

     第一次十字軍 
  ≒     千96年  ~  千99年    、  で、
   千95年に、  ローマ教皇の、
  ウルバヌス2世からの呼びかけにより、
   キリスト教の聖地の、  
  エルサレムを回復するべく始められた、
  軍事行動で、 クレルモンにおける、
  公会議の終わりに成された、
  聖地を回復する為の支援への、
  短い呼びかけが、 
  民衆の宗教意識の高まりと相まって、
  西欧の国々を巻き込む、
  一大運動へと発展した      、 の前から、

     ヴェネツィアの軍事力を、
  海外でも行使する為に、 給料を付けて、
  漕ぎ手をも兼ねた、水兵らを、
  季節ごとの契約で雇い、
   艦らの各々の、標準化された、
  構成の乗組員らの、
  一部へ組み込んでいた。 

    そうした慣わし事は、 
  細部らを少しイジ れば、   半  ナカ  ば、
  常備的な地上軍の運用へも応用できた。 

    ヴェネツィアにおける、半常備的な、
  地上軍の運用は、 
  テッラ・フィルマ、での、
  軍事作戦が始まる直前に、 
     Stradioti 
  ≒     『  ストラディオティ  』
  、と、呼ばれた、 
  その東方の、バルカン半島の、
 キリスト教徒ら、を、
  雇い入れる事から始まった。 

   花、を意味する、 フィレンツェ 、では、   人文学的な教養を詰んでもいた、 
  マキャベリ氏の様な、
  都市当局の役人らが、 
  共和制ローマの制度ら、
  等に、 魅力されていたせいもあり、
   都市国家員からなる、
  民兵隊の衰退を嘆き、 
  軍人らによる、軍事政変を恐れ、
   職業専門家らを雇う、
  費用を惜しんだ事もあって、 
  経済性と、 国家員らによる、自衛、
  という、古い伝統な事象にこだわり、
  肝心な戦場での、 実効性を蔑 
  ナイガシ   ろにした。 

   傭兵頭らが、 不法な実力の行使により、 
  都市国家らの役人らから、   
 権力を奪取する事は、 実際にあり、 
  フィレンツェ人らが、 
 軍事政変への警戒の念を解かない様に、  
  用心していた事には、
  妥当な裏付けがあった。 

   室町幕府の第6代の征夷大将軍の、
  足利義教氏が、 1441年に、 
  播磨の守護大名の、赤松満祐の屋敷で、 
  赤松の手の者らにより、
  宴会の最中に斬り殺されてから、 
  9年を経た、 
   1450年に、 
  ミラノでは、 黒  、を意味する、
  スフォルツァ  、を家名とする、 
  フランチェスコ・スフォルツァ  、
 が、 権力を奪取し、 
 彼に従う将兵らを、 都市国家の、
  ミラノの得られ得る、資源らで養う、
  軍人専制の体制を成した。 

   ヴェネツィアは、 巧みに策を講じて、
  そうした事態の成る事を防いだ。 

    ヴェネツィアでは、 
 傭兵らとの約束事らを幾つにも分け、 
  互いに張り合う、傭兵長らと契約し、 
  忠実で、手柄を立てた傭兵長へは、
  都市国家員としての名誉と、
  贈り物らを惜しまずに与え、 
 ヴェネツィアの貴族階級の女性、
  との、 結婚をまとめてやったりした。 

    不法に、力ずくで、政権を奪う、
  簒奪であれ、 同化によってであれ、 
  傑出した傭兵長らは、 急速に、 
  イタリア都市国家らの、
  支配階級の一角に地位を占めるに至った。 

   現金の授受による雇用関係らは、 
  多岐にわたる、  情念的な絆   キズナ  、
  により補強され、 傭兵長らをして、
  競い合う関係に置き、 牽制させ合い、 
  別々の戦線に配置する事で、
  一致団結しない様にした事は、 
  軍隊の全体の、 柔軟性、と、
  力量を損なってもいたので、 

   傭兵長らの中の誰か一人を、安心して、
  総司令官に任じ得ない、
  状況への解消が、 求められてゆく内に、 
   文民の行政担当者らは、 
  軍事の請け負い契約を結ぶ相手として、
   なるべく、小さな、 
 戦闘単位を選ぶ様になり、 ついには、
   個々の騎槍 
  ≒     『  ランス  』      、
  を、契約の当事者にした。
  応仁の乱が、何となく、
  1477年の辺りに終わってから、
  すぐの、  1480年代までには、 
  騎槍単位で、傭兵らとの契約を結ぶ事は、  ヴェネツィアでも、  スフォルツァ、
 が、乗っ取った、 ミラノでも、 
  通例な事 
  ≒    慣わし事     、に成っていた。

   @     スフォルツァ、は、 黒ではなく、
   強  シ  いる者、  を意味する家名 。 : 
  √     傭兵らと傭兵長らとを、
  バラバラに選び取り得た、
  この契約の仕方により、 

   文民の役人らは、  好みの傭兵らと、
 好みの傭兵長らとを、別々に採用し、 
    その都市国家が与え得る、
  資源らの範囲内で、 好きな数だけの、
   ランスを連ねて、 それを、
  好みの人に指揮させる、
    事が、 可能になり、 
   文民らに統制される将校団が生まれた。 

  将校らの経歴の善し悪しを左右するのは、   彼らを任命する行為を成す、権限を持つ、
  文民官僚らとの関係性になり、 

   その時々に、偶々に、
  自分の指揮下に入る、 傭兵ら、
  との、 関係性では、無くなった❗ 。 : 
    そうなる前の、傭兵らが、
  イタリア世界にはびこる経緯 
  イキサツ を振り返ると、 
  執権の北条時宗氏の下で、 
  鎌倉幕府の御家人らにより、 
  モンゴル帝国の、 蒙古人や、
  高麗人とシナ人らが、 撃退された、
   匹夫、無し、の、 1274年の、
  弘安の役から、  匹夫野卑 、 の、
   1281年の、文永の役の頃の、
   千2百年代の末から、
   千3百年代の初めにかけて、 
  外国人な兵士の多くが、 
  アルプス山脈の彼方から、 皇帝や、
  王たちに率いられて、
  イタリア半島へ入り、 主が、
 本国へ引き揚げた後も、そのまま、
  残留した者らだが、 
  イタリアでは、 傭兵として、
  雇用される機会が多く、 土地も豊かで、
   女性らをも含めて、略奪もたやすい、
   との噂を聞いて、 目的意識をもって、
  やって来る者らもいた。

   その頃のイタリアは、 ミラノ公国に、
  ナポリ王国や、 ヴェネツィア共和国と、 
  フィレンツェ共和国に、 教皇国の、 
  5大領域国家らが割拠していた他に、 
  それらの周辺や、それらの国々、
  との間の緩衝地帯らに、 
   フェッラーラ公国や、マントヴァ侯国に、   サヴォイア公国と、ジェノヴァ共和国や、
  シエナ共和国、などの、
  中小国家らが散在していた。 

   ミラノ、と、ヴェネツィア、や、
  フィレンツェに、ナポリ王国の4大国は、
   互いに、勢力圏の拡大を意図し、
  折りある毎に、戦いをまじえていた。

    とりわけ、 ナポリ王国は、 
  王位の継承を巡り、 アラゴン家、と、
  アンジュー家との、 角の突き合わせが、
  断続的に発生し、  ミラノの内部では、
   政権への独占を狙い、 骨肉の争いや、
 下克上な戦いが、頻発していた。