☆ カルシウム Ca ❗、 と、
置換 オッケー される、
ストロンチウム Sr ❗ ;
☆ 古い記事の引っ越し保管➕ ;
・・中国の核実験、 ら、 などのせいで、
1960年代には、
世界中で、
大気中の、 Sr : ストロンチウム 、
らの濃度が、上がったが、
その、 Sr、 らが、
人々の健康に、
どんな影響を与えたかについては、
はっきりしていません・・
と、 NHK 、の、 ネットで閲覧できる、
科学担当の記事に在る、 が、
単に、本格的な調査を、
各国政府が出来ていない、
というだけの事だ。
ウラン 、 が、
『 核 分裂 する 』 、時に出来る、
ストロンチウム 90 、 は、
半減期 、が、 29年 。
ストロンチウム 89 、 は、
半減期 、 が、 50日 。
大気中に 、 放出 される と、
牧草 、や、 野菜 、 などに 、 付着し、
特に、牧草を食べた、 牛らの乳を通して、
人々の体内へ 入り込む、 流途 には、
要注意 だ。
体、 などの、 物体 を 、
すり抜けて飛んでゆく、 『 透過力 』、
が、 乏しい、 すっ飛び 電子 、 である、
『 ベータ線 』 、
という、 放射線 しか 出さない ので、
例えば、
どこかの地域辺りに降り注いだらしい、
としても、
その土壌に含まれているか、否か、
を 、分析するには、
2週間程が、 かかる様で、
それの出す、 放射線が、
体を、びゅんびゅんと、 突き抜けて、
すっ飛んでゆくような、
『 ガンマ線 』 、 や
X線 : レントゲン 、 など、
を、 出す、 ものら 、であれば、
その 、 飛び出して来る 、 粒子ら 、
を測定するだけで済む 、
のに対して、
ストロンチウムら 、への検出には、
手間と時間が、 余計にかかる訳だ。
つまり、
居所を割り出し難いので、
我々が、それと知らされずに、
体内へ取り込んでしまう 危険性 が、
その分、大きく在る、
という事だ。
人の体は、
ストロンチウム 、と、 カルシウム
、 とを 区別 できないので、
ストロンチウム Sr 、 は、
人々の体内へ 取り込まれると、
カルシウム Ca 、 と同じ動態を呈し、
腸管から 吸収 されて、
( この時点で、 体内へ入る。
胃袋の中や、 そこへ至るまでの、
喉 ノド 、 の、 通り道 、 など は、
まだ、体外 、だ ) 。
主に、
血潮の生産工場 である、
骨髄へ集まって行きます。
一生を、 その人の、 骨に在り続け、
すっ飛び 電子ら を 撃ち続けながら、
段々と、電子銃の使い手らが、
減っていく。
細胞分裂の激しい成長期の、
子供ら 、の体内には、
極力に、 取り込まないように、
配慮されるべきだ。
☆ バナナ 、にも、 放射性物質、は、 含まれてあり、
その、 『 カリウム K 40 』、は、
『 セシウム 』、 と、
置換され得る、
が、 どちらを、 人々が、
バナナを食べる事によって、
自らの身の内へ仕入れた、としても、
人の体が、 持ち合わせてあり、
必要ともし得てある、
放射性物質らのあり得てある、
平均の度合いが、 一定以下で、
あり続ける場合らにおいては、
MT遺伝子、を、 自らに欠いてある、
などの、
特殊な、 遺伝系統の人々を除いた、
大半の人々の体らにとっては、
その健康性への足しに成る、以上の、
度合いでの、 損害性は、 成さない、
と、 観られてある。
☆ Wikipedia ;
☆ 『 カリウム 』 、 は、
動植物の必須元素として、
体液や組織の中に、多量に在る事から、
天然の、 カリウム K 、たちの中の、
カリウム 40 、 に起因する、
放射線は、
内部被曝への、 最大の要因となっている。
食品らの中にも、
カリウム K 、 が多く含まれ、
それに起因する、
白米 、の、 1 Kg 、の中の、
『 放射能 』 、 は、
33 ベクレル ( Bq ) 、 同様に、
乾燥した昆布では、
千6百 Bq / Kg 、
納豆は、 2百 Bq / Kg 、
豚、の、 ひれ肉は、
百20 Bq / Kg 、
牛乳は、 45 Bq / Kg 、
ほどになる。
また、 外洋の海水の中においては、
その、 1 リットル あたりに、
12・1 Bq 、 が含まれる。
アルカリ金属である、 カリウム K 、
は、 ナトリウム Na 、 と、 同様に、
陽イオンの形で、 水の中に在りやすく、
経口摂取により、
体内に取り込まれ、 すみやかに、
全身に、 広がることとなる。
飲食で、 人体の中に取り込まれる、
カリウム 40 、の、 放射能は、
1日あたりに、 約 50 Bq 、
であるが、
通常の生活においては、
体内の蓄積量が、
平衡量まで達しているので、
人体中の、 余分の、 カリウム K 、
たちが排出されるのに伴って、
同等の量が、 吸収され、 つまりは、
摂食による、 カリウム量の変動は、
ほぼ、 無く、
被曝量の変化も、 無い。
その生物学的半減期は、
30日 、 と、 される。
人体が持つ、 放射能は、
体重 、が、 60 Kg 、の、
成人な、 男子で、
約 4千 Bq 、 であり、
これによる、 年間の、
内部被曝線量は、
0・17 ミリ・シーベルト
( m Sv ) 、 となる。
☆ ヒトの体においては、
色々な物同士が、 置換され、
その構造らや機能らを成り立たせる、
事らにおいて、
間に合わせ、 が、 成されてある。
硫黄 イオウ S 、 と、
置換される、 セレン Sr 、は、
子宝 ビタミン E1 、 などの、
ビタミン E 、 たちの帯びてある、
電子強盗、を、 差し止める、
『 抗 酸化 力 』、 と比べ、
60倍も、 大きな、
『 抗 酸化 力 』 、 を帯びてあり、
言わば、
電子強盗らを片っ端から退治できる、
豪傑、な、 ミネラル 、 ではある、
が、
それを、 含んだり、
含まないであったり、する、
タンパク質の、 働き得ようら、
を、 左右する、
可能的な度合いを帯びてもあり、
過剰な、 それへの摂取、を、
警戒すべき事を促す向きもある、
一方で、
三石分子栄養学➕藤川院長系によると、
タンパク質ら、 と、 ビタミンら、 に、
ミネラルら、 とを、
一定度合い以上に、 大いに、
飲み食いなどして摂取し続けてある、
状況において、であれば、
硫黄 S 、 と、 置換される、
などする、 事からの、 あり得る、
損害性ら、の、 度合いら、より、
余計に、
セレン 、への摂取を成す、 事から、
その主の健康性を、 より、 能く、
成す、 度合いらを増し得る、
事が、 あり得る事として、 ある。
☆ 鎌倉武士の天下経済観 ❗ ;
平安時代の後の、鎌倉時代は、
北条時頼氏の時代の逸話で、
モンゴル人らが主導した、 モンゴル軍と、
中国や韓半島の者らが、
日本を侵略しようと、
帆船らで、押し掛けて来た、
北条時宗氏の執権時代に先立つ時代の事だ。
評定衆の一人に、青砥( あおと )
左衛門尉 ( さえもんのじょう ) 藤綱 、
という、 武士 が 居て、
数十ヵ所の領地を持つ身分でありながら、 常々、質素に努め、
食事 、 なども、
いつも、干物の一匹だけで済ませ、
『 飢えたる乞かい人 ( こつかいにん )、
などを見ては、 米・銭・絹布の類を、
与えぬ事は、無かった 』、
と、『 太平記 』 、の第35巻
( 入江雄吉氏著: 経済学の基本がわかる本 ) に述べ伝えられているのだが、
その青砥藤綱氏が、 ある夜に、
出仕 する事になり、
鎌倉 の 滑河( なめりがわ )、なる、
河 を渡る時に、
十文の銭を落としてしまった。
青砥氏は、
近くの商家へ、 下人を走らせ、
『 50文で 』、
松明( たいまつ )、 を買わせて、
滑河へ落とした、と、思 ( おぼ ) しき、
『 10文の銭 』、 を 探させ、
ついに、その十文の銭を拾う事が出来た。
世の人々は、
これを、 『 小利 大損 』 、 と、
嘲笑 ( あざわら ) ったが、
青砥氏が、
眉をひそめて、 言いらく :
『 さればこそ、
御辺達は、世の費 ( つい ) えを知らず、
民を恵む心無き人なれ、
十文の銭は、
只今、求めずば、
滑河の底に沈みて、 永く失うへん、
松明を買いつる、
五十銭は、
商人の家にとどまって、失うべからず。
我が損 (: 消費; 支出 ) 、 は、
商人の利なり。
彼と我と何の差別が、 ある
( であろうか、 いや、無い ) 。
彼此 ( かれこれ ) 、
60文の銭を、 一つも、 失わざるは、
あに、 天下の利 、 に非ずや
( どうして、
天下の利益でない事であろうか、
いや、天下の利益なのだ ) 』 、
と、 言ったので、
嘲笑った人たちは、 皆、舌を巻いて
( 返す言葉も無い程に ) 、
感じ入った。
室町時代の太平記に記された、
この話の設定における、
青砥氏の発言な事柄ら、からすると、
青砥氏には、
ある人たちの消費らが、
別の人たちの所得らの一定部分であり、
カネ回し 、が、
所得付きの仕事回しである、
という事についての体系知が、
一定以上に構築され得ており、
『 消費 = 所得 の 連鎖循環系ら 』 、
について の、
一定度合い以上に、
明確な、 認識 、が、 その精神系に、
構築され得ており、
その天下経済系における、
カネ回し の効能を体現する、
事の体系の在り様を、
端的に、 言語化し得る以上の、 度合いで、
一定度合い以上の、
分析型の認識を宿す体系が、
そこに、 構築され得ていた、 と、
明らかに、 観て取られ得る、
『 設定性 』 、 が、
この太平記の物語り様には、
施されてある。
太平記の物語って観せる、 青砥氏は、
所得付きの仕事に、 あぶれて、
物乞いをする他にない人たちに対して、
衣食の類を惜しみなく提供する人であり、
『 ひとの身の上事を、
自分の身の上事に置き換えて観る 』、
情念類推の能力を、
高度に発達させ得た人であり、
そういった、
社会倫理性の高い、
理知的な情念を構築し得た所から、
消費 = 所得 の 、
連鎖循環系らの在り様ら、 を 、
相当に 、 認識するに至ったのであろう、
と、
十二分に、 想いうかがわせるに足る 、
人物 、 でもある、 が、
逆に言えば、
そういった能力の、
さして発達し得ていない人たちには、
消費 = 所得 の 、 連鎖循環系ら 、を、
我彼 ( われかれ ) 、の、
切実な思いらと、
一体に重ね合わせられ得るものとして、
想い構えて観る事は、
より、 出来難い、
業 ( わざ ) 、 な訳で、 あろう。
☆ ブログ 仏教ウェブ入門講座 ;
☆ 一休さん ❗ ;
・・蓮如上人の本願寺への造営に、
忙しそうに、多くの職人が働いていました。
そこへ、 破れ法衣を身にまとった、 一人の僧侶が、 普請の場の、
大きな木の上に立って、
ニヤニヤしながら、 眺めています。
仕事への邪魔になるので、 大工たちが、
幾度も、退去を勧めても、 少しも、
動こうとはしません。
困った棟梁が、 本願寺の役僧に訴えます。
いくら、話しても、一向に聞きいれないので、 手をやいた役僧達が、
蓮如上人に報告しました。
『 先ほどから、 変な乞食坊主が、
頭に、 草を冠 カブ って、
工事場の木の上に立って、 ニヤニヤ、
笑っているので、
工事の邪魔になるから、と、
幾ら、言っても、 帰りません。
いかがしたものでございましょうか 』。
『 なんとな。 草を冠って、
木の上に立っている。
うん、それは、 一休に違いない。
お茶を一杯持って行けば、 帰るじゃろう 』。
早速、お茶を一杯持参すると、
『 これは、どうも。さすが、
蓮如じゃわい 』、
と、ニヤッと笑って、飲んで、帰りました。
後で、 蓮如上人に尋ねると、
『 木の上に人が立って、
草を冠っておれば、お茶、
という字になるだろう 』、
と、笑って答えた、 と、 いいます。
ある時、一休さんが、小鳥を捕まえて、
蓮如上人に、
『 この鳥は、生きていると思うか、
死んでいると思うか 』
、と、 聞きました。
生きている、 と言えば、 きゅっと、
殺してしまい得ますし、
死んでいる、 というと、
逃がして、 飛ばし得ます。
すると、 蓮如上人は、
本堂の階段に、 片足をかけて、
『 一休、わしは、 これから、
あがる、 と思うか、 降りる、 と思うか 』
、 と、 聞かれました。
その答えを聞いたら、
同じように、 鳥について、 答えます。
これには、 一休さんも、答えられず、
蓮如上人へ、一目を置くように成ります。
一休さんは、 蓮如上人に、 なかなか、
勝てないので、
蓮如上人の書いたものを読みました。
すると、阿弥陀如来は、
平等の慈悲を持たれた方だ、
と、 書いてありました。
同時に、阿弥陀如来をたのまなければ、
助からないが、 たのめば、助かる、
と、 書いてあります。
『 これは、 平等 、 とは、
言えないのではないか、よし、
蓮如を困らせてやろう 』。
一休さんは、蓮如上人に手紙を書きました。
『 阿弥陀には まことの慈悲は
なかりけり
たのむ衆生 シュジョウ を
のみぞ助ける 』。
『 たのむ衆生 』、 とは、
他力への信心を獲た人のことです。
他力への信心を獲た人だけを助けて、
他力への信心を獲ない人は、助けないのは、
差別ではないか。
そんな差別をするのは、平等ではないから、
まことの慈悲ではないではないか、
ということです。
蓮如上人は、 その時、このように、
一休さんへ歌を送っています。
『 阿弥陀には、 隔つる心は
なけれども
ふたある水に 月は宿らじ 』。
月は、 海にも、 かげを宿す 、
池にも、 かげを宿す 、
お茶碗の中にも、 影を宿す 、
田んぼの中にも、 肥だめにも、
かげを宿す。
広い海でも、 小さなお茶碗の中でも、
きれいな茶碗でも、 汚い泥水の池にでも、
月は、 平等に、 その、 かげを宿す。
ちょうど、そのように、
あの人は、 善人だから、
あの人は、 悪人だから、 と、
そんな、 差別の心は、 ありません。
平等のお慈悲です。
ところが、
蓋 フタ 、がしてあるものには、
うつらない 、
ということです。
月が悪いのではなく、蓋が悪いのだ、
ということです。
蓋がある、というのは、
他力への信心ではない、
ということです。
一休さんが、 その晩年にまとめた、
『 狂雲集 』、 には、
浄土真宗を開いた、
親鸞聖人の先生の、 法然上人についても、
『 伝え聞く、 法然は、 いき如来と
蓮華上品台に安坐す
智者は、 尼入道の如し、 と教え
一枚起請、最も奇なるかな 』
、と、 讃えています。
一休さんは、67歳のとき
( 寛正二年 ≒ 1461年 ) 、 の、
11月に、 蓮如上人のつとめた、
親鸞聖人、の、 200回忌に参詣し、
無条件で救われる、 教えのすばらしさに、
大いに、 感動しました。
そして、 「 末世相応の心を 」 、
と、 題して、
『 襟巻の あたたかそうな黒坊主
こやつが法は 天下一なり 』
、 という、 歌を詠んでいます。
この後に、 一休さんは、
親鸞聖人の御影を欲しがったので、
蓮如上人は、
当時の名のある絵描きに、
親鸞聖人のお姿をうつさせて贈ったので、
この歌を書いて、
酬恩庵に保管した、 と、 いいます。
なぜか、 というと、 一休さんは、
この年に、 実は、 禅宗から、
浄土真宗に改宗していたのです。
一休さんの書いた、『 自戒集 』 、 には、
「 寛正二年 六月十六日、
大燈国師の頂相 ( 肖像画 )、を、
本寺へかへして、 念仏宗となる 」
、と、 あります。
これは、 生涯を変わらず、 死の前年、の、
87歳のときにまとめた、
『 狂雲集 』 、 には、 こうあります。
「 前年、 大燈国師の頂相を賜うことを、
かたじけのうす。
予、 今、 衣をあらためて、
浄土宗に入る。
故に、 ここに、 栖雲老和尚にかえし奉る 」。
「 禅門の最上乗を離却し、
衣をあらたむ、 浄土の一宗僧。
みだりに、 如意・霊山の衆となって、
嘆息す、多年、大燈をくらませしことを 」。
現在は、 蓮如上人の宗派は、
浄土真宗 、 と、 いわれていますから、
浄土宗 、 といっても、 今でいう、
浄土真宗のことです。
この漢詩は、仏教の中でも、 最高 、
と、 いわれる、 禅宗を離れ、
浄土真宗の僧侶に改めました。
これまで、 分際もわきまえず、
如意庵や、 霊山徳禅寺
( どちらも大徳寺の中にある )、 にいて、
大徳寺を開いた、
大燈国師の法灯を乱していたことを恥じ、
ため息をついています、 という意味です。
そして、 このような歌も残しています。
『 九年まで 座禅するこそ 無益なれ
まことの時は 弥陀の一声 』 。
これは、浄土真宗で説かれる、
阿弥陀如来の本願は、
無条件で、 人々を、 救われるのに、
禅宗の祖師の達磨が、壁の前で、
9年間、を、 手足が腐るまで、
座禅をしたのは、 無意味なことだ、
ということです。
最後に、 一休さんは、
自分が死んだら、
中陰の式 ( 四十九日の法要 ) 、は、
山科本願寺の蓮如上人にお願いして、
浄土念仏の廻向をして欲しい、
と、 弟子の宗臨師に遺言しています。
一休さんの死後、に、 宗臨師が、
蓮如上人に、それを伝えると、
蓮如上人は、
『 私は、 生きているときに、
一休さんを導き終えたから、
死んだ後に、念仏の功徳による、
必要は、ない 』
、 と、 答えています。
このことから、なぜ、 一休さんが、
晩年に、 女性と同棲できたかが、
わかります。
蓮如上人の伝える、 阿弥陀如来の本願は、
どんな人でも、 苦悩の根元を断ち切って、
無条件で、 絶対の幸福にする、
という、 法です。
これなら、出家の戒律を破り、
男女で、 共に暮らしていても、
ありのままで、 救われるのです。
☆ ブログ 禅の視点 ;
☆ 臨済宗、と、曹洞宗 ;
臨済宗、と、 曹洞宗、の、
両者を分かつ、 最大の特徴として、
挙げられるのが、
黙照禅 ( もくしょうぜん )、と、
看話禅 ( かんなぜん )、 という、
2つの考え方だ。
曹洞宗は、 黙照禅、
臨済宗は、 看話禅。
昔から、 このような言い方で、
両者は、 別個に考えられてきたが、
安永老師の話を聴いて、やはり、
違いの根本は、
黙照禅と看話禅と表現することが、
ふさわしい、 という、 理解を得た。
・・ 黙照禅は、 何も考えずに、
ただ、 坐禅をする。
≒ 只管打座 。
看話禅は、
公案について、 考え、 悟りを目指す。
これが、 黙照禅、と、 看話禅、の、
修行須態 ≒ スタイル 、の、
違いである。
・・原始仏教では、 僧侶は、
生産活動が、 禁止されており、
自分で、何かを作ることが、
許されなかった。
だから、 僧侶は、 午前中に、 托鉢に出て、
在家の方々からの施しで、
食事をまかなっていた。
しかし、 中国の山奥に、
禅寺を建てて、 修行して暮らすとなると、
托鉢だけで、 生きることは、
非常に、難しくなった。
周囲に、 人がいないのだから。
そこで、 百丈禅師は、
畑を耕し、 作物を育てることも、
立派な修行である、と、 清規に定め、
生産活動を肯定した。
そういった労働を、 禅寺では、
「 作務( さむ ) 」、 と呼び、
作務も、 重要な修行、 という、
概念が、 次第に定着していった。
しかし、 鍬で、 畑を耕せば、
土のなかにいる虫たちを、
傷つけ、 殺してしまうこともある。
ミミズを真っ二つに切断してしまう、
ことだってあっただろう。
そうして、 「 しまった! 」 、
と、 慌てる、 雲水を見て、
師匠は、 即座に、 それを問答の種にした。
「 今、 鍬で切られて、 ミミズは、
2つになった。さて、
ミミズの命は、 右の半分にあるか、
左の半分にあるか 」
、 という具合に。
ミミズでなくて、人でも、いい。
もし、 あなたが、真っ二つに切断されたら、
「 あなた 」 、 という存在は、
左半身に、残るのか、右半身に、残るのか、
それとも、 「あなた」が、二人になるのか。
そんな意味合いの問いを、
雲水に投げかけたのだ。
あなたとは、何か。 命とは、何か。
禅問答! というのは、 そのような、
禅の日常生活の中で生まれたものであって、
突飛なものでも、抽象的なものでもない。
むしろ、地に足の付いた問いなのだ。
そのようにして、 中国で、
独自の発展を続けた禅は、
宋の時代
( 960 ~ 千279年 )、 に普及し、
そして、 変質していった。
それまで、 禅において、 重要だったのは、
三宝( さんぼう ) 、 と呼ばれる、
「ブッダ」、「仏法」、「出家僧侶」、
の、 3つであったのだが、
これに、 変化がみられるようになった。
すなわち、 遠いブッダよりも、
身近な、 祖師が尊ばれ、
仏法よりも、
祖師の悟り体験が、重要視され、
出家者や僧侶に限らず、
人間のすべてを対象とする、
普遍性を求める風潮へと変化をしていった。
それにともない、
お経よりも、 語録
( 師弟の問答の記録 ) 、が、
重要となっていった。
語録には、 先のミミズの話のように、
師と弟子との間で、生まれた、
問答 、が、 記録されており、
そういった問答から、
真実を学ぶこと、つまり、
先人の悟り体験を追体験する、
ことが、 禅の修行、 という、
考え方が生まれた。
この語録が、
現代の公案への原点になる。
つまり、 公案 、 というのは、 いわば、
禅の問題集みたいなものなのだ。
宋の時代には、
この公案を題材に、
師の部屋で、 弟子と問答を行う、
「 入室 ( にっしつ ) 参禅 」 、
という、 修行が、
重要視されるようにもなった。
これは、 それまでの禅には、
見られなかった、修行の形式化、
マニュアル化、とも、 いうべき、 変質で、
人為的手段によって、
悟りの追体験を得ようとする、
試みでもあった。
看話禅の、
「 公安について、考え、悟りを目指す 」 、
という、 言葉の意味は、 言うなれば、
「 師と弟子の問答を収めた、
過去問を解くなかで、 悟りを目指す 」 、
という、 意味なのだ。
臨済宗は、
坐禅を修行の根本に位置付けながらも、
同時に、 師から受けた公案について、
考え尽くし、
師と問答を繰り返す、ことで、
悟りを目指す、 宗派だ。
1つの公案について、
師から、 合格を得ると、
次の、 新しい公案を受ける、
という形式で、
師から受ける公案は、 大体で、
十問程。
すべての公案らを透過するには、
十 ~ 15年は、 かかる、 という。
公案によって、 悟りを得ようとする、
臨済宗の禅のあり方を、
安永老師は、 非常に、わかりやすい、
喩えで、 説明された。
『 臨済宗とは、 公案とは、
限りなく、 円に近い、
多角形を目指すようなものなんです 』。
つまり、 真ん丸の円が、 悟りだとして、
その円を目指して、 修行をする。
三角形よりかは、 四角形のほうが、
円に近く、
四角形よりも、 五角形のほうが、
円に近い。
それぞれの、「角」、が、 言ってみれば、
「公案」、であり、
多くの公案を透過することで、
角を増やして、
円に近づこう、 ということなのだ。
したがって、
公案の数は、 ある程度の多さで、
なければ、ならないし、
それだけの公案を理解し、体得するには、
必然的に、 時間もかかる。
このような、 臨済宗の考え方に対し、
曹洞宗は、 違う考え方をする。
円が悟りだ、 というのなら、
曹洞宗は、 最初から、真ん丸の円を目指す。
三角や四角を経ようとはせず、
ひたすら、 円だけを目指す。
そうした視点から考えれば、
曹洞宗は、 一気に悟ることを目指し、
臨済宗は、 徐々に悟る、
ことを目指している、
と、 言い換えることも、できるだろう。
曹洞宗では、
何も考えずに、 坐禅をするが、
それは、 坐禅 、 という、
姿を、 悟りの姿だと考えているから、
に、 他ならない。
つまり、真ん丸の円を実体化したのが、
坐禅の姿なのだ、と、
曹洞宗では、 考えているのだ。
だから、 坐禅をすれば、
それ以上は、 何も、考える必要は、ない。
むしろ、 何かを考えることは、
真ん丸の円に、
「 角 」 、 を作るような行為であるため、
これを戒めて、
「 ただ坐る 」 、 ことに徹するのだ。
つまり、 ここが、
両者の違いを理解する、
最重要ポイントとなるのだが、
曹洞宗も、臨済宗も、
坐禅を標榜してはいるが、
臨済宗の坐禅は、
「 円を目指す坐禅 」 、であり、
曹洞宗の坐禅は、
「 円を真似た坐禅 」、 なのだ。
臨済宗は、 角を増やして、
限りなく、 円に近い、
多角形を目指すため、
坐禅をしながら、
公案に取り組み、 考え尽くす。
曹洞宗は、 最初から、
円を体現することに徹し、
円の真似に徹することで、
円そのものになろうとする。
このような、 2つの修行観は、
どちらが、 優れているか、
というのではなく、 それぞれ、一長一短。
臨済宗の修行は、
多角形の悟りを目指すものであり、
真ん丸の悟りではない。
人工的な悟り、 ともいえる。
しかし、 確実に、 一段一段と、
悟りに近づく、 という、 見方もできる。
曹洞宗の修行は、 最初から、
円を真似るものであり、 角は、ない。
得られれば、 真ん丸の円だが、
得られなければ、 何もない。
オール・オア・ナッシングの修行観だ。
2種類の修行観による、
禅の修行が、 存在する、 ということは、
2種類の人間に、 それぞれ、
適した入口が設けられている、
ということを意味する。
一段ずつを、ステップアップして、
最上段を目指す、 臨済禅。
最初から、
最上段にいるもの、 と仮定して、
坐禅を続ける、 曹洞禅 。