中観派の祖は、 百年代の2世紀の、後半から、 
  3世紀の前半にかけて、活躍した、
   龍樹師     ≒    ナーガールジュナ師          、で、 
  その主著は、 『  中論  』  、  である。 

     ナーガールジュナ師は、    般若経典の、 
  般若波羅蜜の解釈を、主眼として、 
  『  空の思想  』 、  を理論化した。 

    あらゆる存在     ≒      一切法       、は、 
   縁起により、 成り立っており、 
  不変の独自性を持たない 
   ≒      無自性空       、 とする、 見方に立つ。 

    一切が、空である、とする見方 
   ≒      空観     、は、 
  全てが、 虚無である、とする、
  ニヒリズムの様に聞こえるが、 そうではない。 

    <空> 、 と、<無> 、 とは、 似ているが、 
  全く、異なる。 

   『    空の観念は、 
  プラス 、と、 マイナス 、  等の、
  方向性の別の物事同士が釣り合った状態にある、
  事なども、 それ自らの情報事項として、
  含み得る、  ゼロ 、 の観念などにも通ずる、
  設定の物で、 
   色々な物事らに通底する、
  因果の関係性の全体のその物や、 
  時系列上に、因果の関係性を成さなくとも、
  観念の設定上の、
   物事や意味の成り立ちようにおいて、 
  因果の立場へ分けて観られる、
  因果の関係性、 などへ、 
  分析を施してゆく事から、得られる、 
  情報事項ら、 等、 から成る    』。 
     この派が、  中観派 、と呼ばれるのは、 
    世界を、  < 実在 > 、とする、 極端説、 と、 
    < 虚無 > 、 であるとする、  極端説、との、 
  どちらからも離れた、 中道をとるからだ。
  @    有 (  実在  )、 でもなく、
   無 (  虚無  ) 、 でもない、  < 空 > 
  日常生活において、 我々は、
  見えている、 などする、
   感らの内容で、その対象格のものらを、
  実在する、
  と、 考える事にしており、    社会交際上も、 
  関わる人々との、言葉らの遣り取りにおいても、
  互いに、 そうした考えの在る事を前提として、
   言葉らの、在りようらを設定し合う事を、 
  常の事、としている。

   何らかのもの、  ・✖が在り、  それに対して、 
 「   ✖ 、がある  」、 という言葉が使われるのだ、  と、考える。 

   存在するもの、は、  本や机に、
  鉛筆、 であったりするが、 
  それらの在りようについて、 
   観念する主が、 再検討をし、
  例えば、  ものを、   どんどん、拡大して、 
   極小の構成要素らの集まり、 という姿で、
  観る時に、 「  本  」 、 として、在ったものは、 
  本ではなくなる。 

    逆に、 その物から、どんどん、遠ざかり、
   極大の観点から、観る時にも、 
  やはり、 「 本 」 、は、  消える。 
 「  本当に在る  」 、と思われているものらが、 
  実は、 我々の感らの対象になる、 
  大きさの次元でのみ、成り立っており、 

    『   ✖ 、 がある  』  、  という事は、 
   ✖  、を、  観念の内容対象となる、 
   感らの内容な対象として、我々が覚え捉える、
   相手と格付けて観るもの 
   ≒      我々の観念らの設定される 、在り方ら       、
   との、関わりようの上に、
  成り立って在る事が、 露わになる。 
   更に、 『   ✖ 、がある  』、という時に、 
  『  ✖  』 、 は、
   観念の対象として格付けられて在る、
   観念の内容でもある。

   ✖  、の在りようらは、 それを、
 自らの対象として、自らの内容において、
  格付けて観ている、 
  観念、 の、 成り立ちように依存しているので、 
   ✖  、に、 独自の、 不変の本質なるものは、
   我々の観念らの設定される、
 その在りようら次第のものなので、
  それを離れては、 実は、存在しない 
    ≒       ✖ 、は、   無我・無自性 、 である 。 
 『  ✖  』 、 という、  非観念のものとして、 
  観念での格付けを成されて、
   観念で、 
  その在りようらを設定されるもの、の、
   対象格のものが、 
  その観念の枠組みにおける、
  在り方を適用されるのは、   ✖  、を、 
  他のものらから、識別しようとする、 
  心の働き    ≒    分別     、 
    が在るから、でもあり、 : 
   
    ✖  、 は、  他のものらとの、
  観念設定上の関係において、
  成り立っているものとして、
   観念設定され得る     
 
    ≒       ✖       、 は、     他のものらとの、
  相互依存関係が在ってこそ、縁起するものである 、 とも、観られ得る。 

    ✖  、 なるものが、 『  ある  』、と、 
  我々に知られるのは、 
  『  ✖  』 、を、 『  ✖  』 、の如く在る物と観る、   我々の観念の設定の在りように基づく 
   ≒        一切は、 観念の設定による    。 

     ✖  、 は、 「  ✖  」 、 が適用された、 
   考え出された物でもあり、 それを離れては、 
  その様には、存在しない。    
   有 、ではない。

   しかし、  そこに、何もない訳でも無い。
   何も、なければ、 
  感らの成り立ち、 等を通して、
  観念の内容な対象として、観る事が、出来ない。

   だから、 無でもない。 
  有でもなく、無でもない。 : 

   現象する、すべてのものらは、 
  その様な、あり方をしている。

    存在してはいるが、 
  それ独自の存在を欠いている。 

   いわば、 空っぽな存在。 
  このような、 あり方が、 < 空 >  、である。
    ナーガールジュナ師は、 これを、
  飛蚊症、 という、  眼病のたとえで説明する。 

   飛蚊症 、 にかかると、 
  毛筋  ケスジ 、 の様な物が見える。 

   それは、見えているだけで、 
  存在しては、いない。   有 、では、ない。
    しかし、  飛蚊症が直ると、
   それは、無くなる。 

   無である物が、  無くなる事は、無いから、 
  無である、 とは、 いえない。

    毛筋の様な物は、 有でも、無でもない。 
  < 空 > 、 である。 

   現象する、全てのものらが、 
  これと同じ、在り方をする、 という。 
  この世界における、現象らの全ては、
 『  縁起  』  、 により、 現れてくるが、 
   それらは、  <  空を本質とする  > 
   ≒     空性    、   と説かれる。 

    それらは、   必ず、  何かに基づいての、
  仮の現れ     
  ≒      権現    ゴンゲン      、  でしかない。 

    その様な、在り方をしている、 ものら、 は、 
  < 中道 > 、  でもある。 

   というのは、 あらゆるもの、
 あらゆる事柄らが、 必ず、
  他のものや、他の事柄らと、 
  相互に依存する関係を得て、
   はじめて、成立ち、 
  自己同一性を保つ、
  実体的な、もの、や、事柄ら、は、
  何も、無いからだ。 

    この様に、 観念の設定の上に成り立ってある、
  現象世界において、
   分別を働かせる事により、 
  行為と煩悩が生まれる。 

   それらは、 世界を、
  空なるもの、と、観る事により、滅し得る。 

    < 分別 > 、  を否定し、 
  観念の設定である、
  思考や判断に惑わされる事なく、 
 一切を、  < 空 > 、 とみる、  物の観方、 
  これこそが、  般若波羅蜜  、で、
  < 智慧の完成 >  、である。 

   この様な立場から、 ナーガールジュナ師は、
   世界を構成する要素 
    ≒     ダルマ       、 を実在とする説の、
   一切有部 、 や、
   牛には、  牛として認識される根拠として、
  牛の普遍   (  性  )  、  が実在するとする、
   ヴァイシェーシカ師、  などの、
  実在論をとる、 諸学派を鋭く批判した。

     大乗仏教は、 中観と、唯識学派の成立により、
   学問化する一方で、 大衆の間では、
   密教化していった。 
   密教とは、 秘密教 、という意味だ。 
   その特質は、 呪術性にある。 

    呪力の発現により、 
  現世利益らの成就をはかり、 あるいは、
   自己 、と、絶対的な真理を体現する、
  大日如来 、との、神秘的な合一の体験である、
   即身成仏 、 を目指す。 : 

   呪力   (  じゅりき  )  、 を発現させるために、
  唱えられる、 『  呪句  』 、は、 
   『  真言  』  、  あるいは、 
  『  陀羅尼  』  (  だらに  )  、と、いわれる。 

    儀式は、 諸尊を配置した、曼荼羅   
  (  まんだら  )   、  の前で、 行われる。 : 

    密教的な要素の事らは、 
  大乗仏教の早い時代から認められる。
   呪句としての、 陀羅尼 、 は、 
  2百年代の3世紀には、成立していたとされる、   
 『  法華経  』、の、   陀羅尼品   ダラニボン 
   (  陀羅尼の章  )  、    をはじめ、 
  大乗経典らに、しばしば、現れる。 : 

   ついで、 3百年代の、4世紀頃から、
   それまで、部分的に説かれていた、
  陀羅尼を、主として説く、
  初期の密教経典が成立した。 : 

   密教に特有の教義な事らが、
   イスラム教の預言者のムハンマド氏や、
   聖徳太子の亡くなる辺りの、
   6百年代の、7世紀頃の、 
『  大日経  』、 と、
   それに、少し遅れて成立した、
『  金剛頂経  』、 において確立された。 : 

 『  大日経  』 ら の説く、  曼荼羅は、 
   『  胎蔵界  曼荼羅  』 、と、言われる。

    『  金剛頂経  』、 の説く、 曼荼羅は、 
 「  金剛界  曼荼羅  」 、と、言われる。 
   密教には、 
  インドの民衆の信仰性ら、からの、
  影響性が、 著しく、ある。 
   ヒンドゥーの多くの神々が、取り入れられ、 
    護法神 、や、 明王   (  みょうおう  )  、 として、 
   崇拝の対象にされた。 

   後期の密教には、 性力を崇拝する、
   快楽主義的な、タントリズムの影響がみられ、
   男女の交合を絶対視する、 左道密教も生まれた。 

   密教化した仏教は、 
  ヒンドゥー教と、明確には、
  区別がつかない、 物となり、 
  ヒンドゥー教に融合していった。

    それに拍車をかけたのが、
   中世の、 インドにおける、都市らの衰退だ。 

   僧院らは、都市の住民の、
  商人階級の寄進に依存していた。
   
    都市らの衰退により、仏教は、
   経済的基盤を失った。

      インド仏教の僧達は、 
  維持が難しくなっていった、 僧院らを捨て、 
  別の僧院に移った。 
    その一方で、 ヒンドゥー教の、 
   バクティ運動は、 仏教の衰退と並行して、
   盛んになっていった。 
    僧らに去られた、 仏教徒らは、 その多くが、 
  ヒンドゥー教に吸収されていった。

     更に、 インド仏教の消滅を決定的にしたのは、
    千年代の11世紀頃から始まる、 
  イスラム教のインドへの伝播だ。

    イスラムの侵入にともない、 
  多くの僧らが、 ネパールや、チベットに逃れた。 : 

    象徴的な事件は、 日本の鎌倉時代の初期の、 
   1203年 、 におこった。

   この年に、インドでの、仏教の最後の砦となった、 
   ヴィクラマシラー僧院が、 
  イスラム軍により、破壊された。 : 

    僧らは、 国外に逃れ、 仏教信者らは、 
  ヒンドゥー教や、 イスラム教に吸収され、 
  千2百年代の、13世紀に、 
  インドでは、 仏教は、 ほぼ、消滅した。 
   その頃の、  日本では、 鎌倉仏教の諸派が、
   実質的な、全知全能の唯一神に相当する、
  阿弥陀如来を信仰する思想体系の物らも含めて、
  甚だしく、盛んに成って行く  : 

   1990年の統計によれば、
   インドの人口の、 8億人の内で、 
   仏教徒は、  0・71 %   。 

    その数は、  0.48 %  、の、
   ジャイナ教を上回っている。 

   これは、 主として、
   階級による差別への抵抗運動を指導した、
   アンベードカル氏
    (   1893年   ~  1956年   )     、
  が推し進めた、 ヒンドゥー教から、
   仏教への、改宗運動による物だ。

    彼は、 被差別階級に生まれたが、 
   奨学金を受け、 米英やドイツの大学で、
  教育を受け、役人となるが、
   不当な待遇に、辞職し、 
  差別社会と戦う、政治運動の指導者として、
  活躍した。
   1947年の、 インドの独立の後に、 
  新憲法制定議会に議席を得て、 法務大臣となり、
   憲法の起草に貢献し、
   被差別階級への差別を、非合法化したが、
    51年に、 政府内の、
  非協力的な勢力への失望から、大臣を辞職し、
   56年に、 ヒンドゥー教の枠内にある限り、
   カースト制の厳格な階級差別を退け得ないとし、
   低いカーストの人々に呼びかけ、
  仏教への改宗を説き、  それが、支持されて、
  仏教に改宗する人々が、出てもある。

       @   インドの唯物論    : 
   
   アジタ・ケーサカンバリン氏 、の、
  「  ケーサカンバリン  」 、 は、 
  「  髪の毛で作った衣を着る者  」 、 の意味だ。
    アジタ氏は、 教団を開いたが、   それは、    
  古代のギリシアにおける、 
  エピクロス派の教団の様な、
  人生の喜びを共に分かち合う、共同体であった、
  と、 推測される。

    この教団は、 チャールヴァーカ、とか、
  ローカーヤタ 、と、呼ばれるようになる。 
   彼は、 唯物論を説き、
   業と輪廻の思想を否定し、 
  善悪の行為らへの、報いらは、無く、 
   死後の生れ変りも、ない。

     人は、地と水に、火や風、の、
   四要素らからなる物で、 死ねば、
  四要素に帰り、消滅する。

    布施に、功徳は、無い。 
『  人は、 地水火風の四要素らからなる。 
  人が死ぬと、 地は地、水は水、火は火、
 風は風に戻り、 感覚は、虚空の中に消える。 
  四人の男らが、 棺を担いで、死体を運び、
   死者の噂話をして、火葬場へ至り、 
 そこで、焼かれて、骨は、鳩の羽根の色になり、
  灰となって、 葬式は、終わる。 
  乞食 (   こつじき   )  、  の行を説く者は、愚かだ。        物質以外の存在を信ずる人は、空しい、
  無意味な事を言う人だ。 
  体は、死ねば、愚者も、賢者も、
 同じ様に、 消滅する。
   死後、生きのびる精神は、無い    』 : 

  『   沙門果経   』    §22-24. 
『   バラモン教典・原始仏典   』 ;
  世界の名著 1、 p.512.    )  、  だから、 
    
       宗教的な行為は、無意味で、 
  この世での、 生を最大限に利用して、楽しみ、
  そこから、幸福を得るべきだ、と、説く   : 

  『   生きている限り、人は、幸せに生き、 
  ギー    ≒    溶けたバター      、を飲むべきだ。 
   例え、 借金をしてでも。 体が灰になる時に、
  何が、この世に戻れよう。   何も無いからだ。 
  しかし、 楽しみには、悲しみがつきまとう。  
  それを恐れて、喜びから退いてはいけない。
   時には、訪れる悲しみも、喜んで受け入れよ、   
  と、説く   : 
  
  『   人は、 悲しみが伴う事を恐れて、
   喜びから、退いてはいけない。 
 この世での喜びの為には、たまに訪れる、
  悲しみも、 喜んで、受け入れよ。
  魚を貰う時に、骨がついてくる様に。
  米を貰う時に、籾殻がついてくる様に  』  。 
  
    この思想は、宗教や道徳の根本を破壊する物、
  と、 警戒され、
   他のインド思想の諸派から、
  激しく攻撃されたにも関わらず、 
  この派が栄えた時代もあった。 : 

   マウリヤ朝の、チャンドラグプタ王の大臣の、
  カウティリヤ氏の作と伝説される、 
『  実利論  』 、の、  第1巻の第2章には、
 『   哲学は、 サーンキヤとヨーガに、
  順世派   ≒   ローカーヤタ   、だ    』、 と、在る。

    この書の成立年代は、明確でなく、 
   紀元前の、 3世紀から、紀元後の、
  4世紀までの間、とされるが、 
   ヴァイシェーシカ学派の名があげられていない、
  事から推せば、   当学派に先立つ、
  紀元後の1世紀までに、
   ローカーヤタ派が栄えていた時代があったろう。

   この派の文献で、今までに、伝わる物らは、
  極めて少ないが、 8世紀頃の成立とされる、
   ジャヤラーシ氏の、 
『   タットヴァ・ウパプラバ・シンハ    』   ≒  
  「  真理  」、  を破壊する、  ライオン     、
は、  現存する。 

   この書は、 自然の運行について、
   自然    ≒   スヴァバーヴァ    、
  の、  そのもの以外の、   原因を認めず、 
  知覚 (  感覚  )、  だけを、
  唯一の知の源泉とし、 
  推論に基づく、確実な知の存在を、徹底的に疑う、
  懐疑主義の立場をとり、
   当時の、 主要な哲学や宗教の諸派が立てる、 
  メタ・フィジクス 
   ≒       形而上学     、     的な、 原理らへ、
   鋭い批判を浴びせる物だ。 
  @     パクダ・カッチャーヤナ氏は、 
  七要素らの事を説いた。 
  
    『   人は、 七つの要素ら、すなわち、
  地に水と、火や風に、楽と苦に、 生命、
 あるいは、霊魂から成る者で、 
  これらは、 作られた物らでは、無く、
  何かを作る者でもない。

    不動で、不変であり、 互いに、
 他を害する事が、在り得ない。 :

  殺す者も、殺される者もなく、 
 学ぶ者も、教える者も、いない。 
  
   たとえ、 鋭い剣で、頭を断っても、 
 誰も、誰かの命を奪う訳は、ない。 : 

    濡らされず、 乾かされない。
    彼は、常に在り、  遍   アマネ  く在り、
  堅固であり、不動で、、永遠だ    』、
   という、  思想と、同じ物だ。

     剣による、 裂け目は、 
  ただ、七つの要素らの隙間に、できるだけだ。
  
     行為     ≒     業    (  ごう  ) 、 に、 
  善悪の価値は、 無い 、とする。 : 

    プーラナ・カッサパ氏の教えと同じく、 
  これも、 道徳への破壊性向のある思想、
  と、されるが、  そうでは、ない。 

   人の本質は、霊魂にある、と観て、 
  霊魂は、不動で、不変な者なので、
  殺す事も、害する事もできない、 と、 説く物だ。 : 

 『   バガヴァッド・ギーター    』 、の、2.24の、    『    彼は、 断たれず、焼かれず、 濡らされず、
   乾かされない。 
  彼は、常に在り、遍く在り、堅固であり、
  不動で、永遠だ    』、
   という、 思想と、 同じものだ。 : 
   ☆    梵我一如の思想  : 
 
    梵 、 すなわち、 『  ブラフマン  』  、と、
   我 、すなわち、『 アートマン 』 、とが、 
  同一である事を知る事により、 
  永遠の至福に到達しようとする。 
   
   これが、  梵我一如の思想だ。
   ブラフマン 、 は、   宇宙を支配する原理で、 
   ブラフマン 、 は、 元は、
  ヴェーダの、 「 ことば 」 、 を意味する語で、
   呪力に満ちた、
「 賛え歌 」 、や、 「 呪句 」 、  を表した。 

   やがて、それらに内在する、
「 神秘力 」 、 の意味で用いられる様になり、
   さらに、 この力が、宇宙を支配する、
  と、理解されて、 
「  宇宙を支配する原理  」、と、された。 :

     アートマン 、  は、 
  私、という、一個人の中にある、個体原理で、
   私を、この様に生かしている、
  「  霊魂  」 、  であり、
   私を、この様な私にしている、
「  自我  」、  もしくは、  
 「  人格  」 、  の事だ。

    元は、 ドイツ語の、  息 、 を意味する、
   Atem  、と、同じ語源から生まれた語だ。 : 

   そこから、 「  生気  」 、 に、 
 「  霊魂  」、 や、  「  体  」 、 に、 
  「  自己自身  」、  や、 「  自我  」  、 
  という、 意味らが派生し、 ついには、
  「  個体を支配する原理  」 、   
  と、みなされるに至った。     

  この語は、更に、「  ものの本質や、本体  」、
   という意味でも用いられる。

    この宇宙原理の、 ブラフマン  、と、
  個体原理の、「  アートマン  」 、  とが、 
  本質において、 同一である、
  と、 瞑想の中で、 
  ありありと直観する事を目指すのが、 
  『  梵我一如の思想  』 、 だ。

     これにより、  無知と破滅が克服され、
   永遠の至福が得られる、とする。 

   その代表的な思想家は、 
  シャーンディリヤ、ウッダーラカ・アールニ、
 ヤージュニャヴァルキヤ氏、 などの哲人らだ。 

    梵我一如の思想への背景にあるのは、 
   ヴェーダ祭式の、  『  同一視の論理  』、だ。 

   『  同一視の論理  』、 は、    呪術の論理で、 
  たとえば、  獲物の足跡に、 傷をつける、
  猟師の呪   マジナ  い、  がある。 
       
    足跡を、 獲物の足と、同一視して、
  それに傷をつければ、  獲物は、
  遠くへは、 逃げられない、  と、考える。 : 

     ヴェーダの祭式では、 
  祭式の場にあるものを、 
 神話の世界や、自然界の事物と、同一視する。 :

    呪術により、 
  祭場にある、 祭具、などを操作する事で、 
  自然の物事を支配しようとするのだ。 : 

   これに対して、 
  ウパニシャッドの哲人たちは、
   同一視の論理を、 祭式でなく、 瞑想で用いた。 

   ウパニシャッド哲学の文献らには、 : 
『  AをBとウパースする    』 、という、
  句が多くみられる。
    
   瞑想で、AをBと同一のものとみなし 
   ≒     ウパースし      、て、
   意識を集中する。 

   意識の集中により、 
  分別による、 知 、 を乗り越えて、
  対象が直観される。 

   その時に、 主観は、対象の中に入り、 
  対象と融和する。 

   対象のそのものになり、 同化する。 

    同化すれば、 それの持つ力が、
  自分のものになる。 

     こうして、  瞑想により、
   対象のそのものになり、
   その対象の持つ力を体得する事をめざす。

   『    陽は、 ブラフマン 、 だ。 
  虚空は、 ブラフマン 、 だ    』、 
  等といった物から、 
『   食物は、 思考力は、ブラフマン 、だ   』、
   等と、 色々な原理らが、同一視された。 

  とりわけ、  気、息、目、耳、思考力、
  などの、  生活機能らが、
  ブラフマン 、 との、  同一視の対象とされ、 
   ウパニシャッド思想の発展と共に、 
  それらは、
  個体原理 、な、 アートマン 、  と、
  宇宙原理 、 な 、 ブラフマン 、  への、
  同一視に、 収束していった。 
    
   後に、バラモン思想の主流となる、 
  ヴェーダーンタ思想は、
  梵我一如の思想を発展させた物だ。

   大宇宙 (  梵  ) 、と、  
  小宇宙( 我 )、 と、 の、  融合・合一、
   という、  考えは、
  その後の、 神秘主義思想に繰り返し現れる。
   
  例えば、 仏教でも、
  密教の、大日如来への観想行為による、
  即身成仏の思想には、 同じ発想が、みられる。