☆ 原始仏教 : ブッダ ≒ 釈尊 、と、
その資料 :
仏教とは、
仏 ≒ ブッダ Buddha 、 の教えで、
漢字で、 「 仏 」 、 の字をあてるのは、
ブッダの音を写した物だ。
日本で、 これを、
「 ほとけ 」 、 と読むのは、
中国での、初期の音写の、 ブト
≒ 浮図 、や、 浮屠 、の字をあてて表現した物 、が、 日本へ入って、 『 ふと 』 、から、
『 ほと 』 、 に、 なまり、 これに、
家や食 、 を意味する、
『 け 』 、 がついた物、 とも、されるが、
色々な説らがある。
:
ブッダは、 わが国では、
『 釈迦 』 、や、 『 釈尊 しゃくそん 』 、
と、呼ばれる事が、多い。
『 釈尊 』 、とは、
『 釈迦牟尼世尊 しゃかむにせそん 』 、
への、 略 、 と、 される。
ブッダ 、 が、 釈迦族
≒ サーキヤ族 、 シャーキヤ族 、
の出身である事による、 尊称で、
牟尼 muni 、とは、
『 聖者 』 、 の事で、
世尊 bhagavat 、 とは、
『 福徳あるもの 』 、 の意味だ。
仏典において、 仏弟子らは、
世尊 、という尊称を、よく用いる。
ブッダの原語の、 buddha 、 は、
『 気づく、理解する、悟る、目覚める 』 、
等を意味する動詞の、
bodhati 、 への、 過去分詞で、
『 悟った、 目覚めた 』 、
等の意味を持つ。
釈尊の当時の、 インド 、 では、
修行を完成し、真理を悟った者を指して、
一般に用いられていた語で、
釈尊は、 悟った者として、
ブッダ 、 と呼ばれた。
仏教の教理が発展すると、
悟りを開いたのは、
釈尊、の、 独りではない、 と、考えられ、
釈尊を以て、 前の諸仏 ≒ 過去七仏 ;
大乗仏教では、 無量無数の諸仏 、
という、 観念が生まれ、
『 ブッダ 』 、 という語は、 もっぱら、
仏教において、 用いられる様になり、
インドでは、 仏教徒の事を、
バウッダ ≒ Bauddha 、
ブッダにしたがう人々 、 といい、
ブッダの、異名らの一つ、
スガタ ≒ sugata
≒ 善く行った者 、の意で、
漢訳では、 善逝 ぜんぜい 、
に基づいて、
サウガタ Saugata
≒ スガタにしたがう人々 、
とも、呼ばれる。
:
ブッダの個人名は、
ゴータマ・シッダッタ氏
≒ ガウタマ・シッダールタ氏 、
であった、と、 される。
これにより、 ゴータマ・ブッダ、
と、呼ばれる事もある。
ブッダ 、 は、 如来 tathagata
≒ 修行を完成した人 、
阿羅漢 arhat
≒ 尊敬に値する人 、
などの、多くの異名らをもつ。
:
仏教において、 6師外道の一人、
と、される、
マッカリ・ゴーサーラ氏は、
その教団の、アージーヴィカと共に、
仏教徒や、ジャイナ教徒ら、
からの攻撃を受け、
その教典も現存していない事から、
教義や実践について、再構成するのは、
仏典やジャイナ教典に引用された、
断片らによらざるを得ず、 至難の業だが、
その宗教活動は、
かなり古い運動と、関わりがあり、
仏教やジャイナ教の成立と比べても、
幾世代をもさかのぼり得る、
と、 観る向きもある。
ゴーサーラ氏は、
生けるものを構成している、
要素として、
霊魂、地、水、火、風、虚空、
得、失、苦、楽、生、死の、
12種類の実体を掲げた。
この内の、得、以下の、6要素らは、
これらの名で呼ばれる、
現象作用を可能ならしめる、
原理とは、 何であるかを考え、
これを、実体化した物だ。
ここでは、 霊魂もまた、
物体と同じ様に把握され、 全ての元素ら、
動植物などの、一切の生物らにも、
各々に霊魂がある、と、主張している。
彼は、 万物は、 その細部に至るまで、
宇宙を支配する原理である、
ニヤティ ≒ 宿命 、 によって、
定められているとして、
人の意志に基づく、 行為ら、 への、
再生世での、 応報を否定し、
徹底的な宿命論を説いた。
その主張な事らには、
『 人の努力は、 現世で、報われなくても、
その人の生まれ変わりの人が、代わりに、
報われる、とする、 因果応報説は、
意味を成すべき、辻褄、の、
合わない、考え、である 』 、という、
考えがあったので、
ブッダ、や、 マハーヴィーラ氏、 への、
各々の信徒らから、厳しく批判された。
ゴーサーラ氏によると、
全ての生きとし生けるものら ≒ 衆生 、
が、 輪廻の生活を続けている事は、
「 無因無縁 」 、 の状態に在り続けている、
事なのであり、
彼らが、 清らかになって、 解脱するのも、
無因無縁の事で、 言い換えれば、
存在が堕落する、
原因や動機、 というべきものは、なく、
原因も動機も、なしに、堕落するし、
存在の純粋さも同様で、 そこにも、
原因や動機は、無く、 これらを、 無しに、
存在は、純化され得る。
この思想は、 仏教思想の根本たる、
縁起の説とは、真っ向から対立する。
生きとし生けるものらは、 ただ、
運命と状況と本性とに支配され、
いずれかの状態において、 苦楽を享受する。
人が、同じ事をしても、
結果が異なる事があるのは、
運命による物で、
行為のそのものには、
運命を変える力がなく、
個々の心向きの在りよう、
などに、 左右されない、 絡繰りに、
個々の者は、 支配されているので、
個々の人、 などの、 行為のそれ自体に、
善悪は、無く、
それへの報いもまた、無い。
支配的な絡繰りに左右されない、
意志に基づく行為は、成立し得ないから、
輪廻するもののあり方は、
宿命的に定まっており、
6種類の生涯ら
≒ 六道 、 を、 たどって、 清められ、
やがて、 解脱に至る。
840万 大劫 、という、
量り知れない年月を、
賢者も愚者も、流転し、
輪廻して、その苦の終わりに達し、
その期間は、 修行により、
解脱に達する事は、 不可能だ。
ゴーサーラ氏は、 糸玉を投げると、
糸が解きほぐされ、 糸が、 すっかり、
解け終わるまで、 転がり続ける様に、
誰もが、一定期間は、生々流転を続け、
最後は、何の努力もなく、
自然に解脱に至る、
と、主張し、
当時は、 汎インド的に信じられていた、
「 業 」 、の思想を否定した。
行為以外の何かが、
結果を決定している、とし、
それは、神では、ない、 とした。
神では、結果の多様さ、特に、
その不幸な状態を説明できない。
それはまた、 自然の本性でも、ない。
仏教、 などが説く、 カルマ
≒ 前世、などでの、行為らからの結果ら 、 でも、 ありえず、
多次元な世界らの全体の絡繰り ≒ 宿命
≒ ニヤティ 、と、呼ぶ他に無い。
@ マッカリ・ゴーサーラ
≒ パーリ語: Makkhali Gosala
末迦梨瞿舎利 、
マスカリン・ゴーサーラ氏は、
釈迦牟尼の活躍した時代に、
仏教やジャイナ教と並んで、有力だった、
裸形托鉢教団の、
アージーヴィカを主導した、
沙門 ≒ 自由思想家 。
:
人は、
宿命との合一の在りようらの幾つかを、
何事かの成功とし、 宿命のみが、
ヒトの幸福や不幸のありようらを説明する
、と、 説いた。
アージーヴィカ教団では、
宿命を説く一方で、 苦行を義務づけている。
これは、一見、矛盾する様に観えるが、
アージーヴィカ教徒らにとって、 解脱は、
『 転がされた糸玉が、すっかり、
解け終わる 』 、
と、 比喩される様に、
心と、言葉や、身体による、
全ての行為らが消滅する事で、 それは、
半年に渡って、飲食を減らしていき、
最後は、
何も、飲まず、 食べずに、死へ至る、
『 スッダーパーヤナ 』 、と、呼ばれる、
苦行により、 現実化する、
と、 考えられていた為だが、
苦行により、 宿命の結末事を、
より、安らかに受け入れる、
境地を成す事をめざしていた、
と、 観られてもいる。
アージーヴィカ 、の原義は、
『 命ある ≒ jIIvika 限り ≒ aa 』 、 である、とも、いわれる。
『 命ある限り、 誓いを守る 』 、
という事で、
出家者には、
苦行と放浪とが、義務づけられ、
その多くは、 宿命を読む、
占星術師や占い師として活躍した、
という。
彼らは、 ゴーサーラ氏の出現前からの、
慣習に従い、 裸で徘徊し、
他の遍歴修行者と同じ様に、
乞食 コツジキ 、 をし、
厳格な食事上の規則に従い、 その多くは、
餓死する形で、命を終えた。
アージーヴィカ 、 は、
「 生活法に関する規定を厳密に遵奉する者 」、
の意で、 自称した物だが、
他の教団が、 彼らを貶 ケナ す時は、
生活の糧を得る手段として修行する者、
の意となり、
漢訳仏典では、
「 邪命外道 」 、 の漢字があてられている。
:
ゴーサーラ氏の思想は、
インド思想史において、
特異な地位を占め、 その決定論的思考は、
自然現象への解明行為や、
生命法則への研究行為らと結びついた。
アージーヴィカ教は、
インド亜大陸のほぼ全域を統一した、
マウリヤ朝の、 アショーカ王
≒ 阿育王
≒ 紀元前の3百4年 ~ 紀元前の、232年 、と、 その後裔にあたる、
ダシャラタ王の時代に、 保護されて、
大勢力となった。
アショーカ王碑文
≒ 第7 デリー・トプラ碑文 、には、
仏教と、 バラモン教や、 ジャイナ教、
と並んで、 アージーヴィカの名が登場し、
当時に、 栄えた宗教らの一つであった、
事が、 推定できる。
その後は、 しだいに、勢力は衰え、
主として、ジャイナ教に吸収されていったが、
南インドの、 マイソール ≒ カルナータカ州 、
などでは存続し、 少なくとも、
千2百年代の、 13世紀に至るまでは、
タミル人らを中心に、
信奉されていた事が、知られている。
:
@ アショーカ王 ≒ 無憂王 、
ア ≒ 無い 。
ショーカ ≒ 憂い 、は、
マウリヤ朝の第3代の王で、
漢訳音写では、 阿育王 、と書かれる。
インド亜大陸を、ほぼ統一した。
釈尊の滅した後の、
およそ、百年か、 2百に現れた、
という、 伝説もある、 アショーカ王は、
古代インドにあって、仏教を守護した、
大王として知られる。
:
5. 縁起 :
世界が、 常に、そのままである事が、 無い、
事を、 明らかにする事により、
この世の苦しみを説明する、 一方で、
苦しみを滅する為に、 苦しみを生み出す、
原因、が、 何であるかを追究する、
事も行われ、
『 縁起説 』、が、 唱えられるに至った。
『 縁起 』 、 という言葉は、 現在では、
もっぱら、 『 縁起が、 よい、悪い 』、
という様に、
『 物事の起こる、前ぶれ事、前兆現象 』 、
の意味で、 用いられているが、
元は、 その様な意味では、なかった。
『 縁起 』 、 とは、
『 何かにより、 別の何彼が起こる事 』 、で、
具体的には、
『 苦しみは、 何らかの原因や条件
≒ 因縁 、により、 起こり、
その原因や条件 ≒ 因縁 、
が、無くなれば、 苦しみもなくなる 』、
という事で、
『 縁起説 』 、 は、
苦しみを生み出す、
因果の系列をさかのぼって、
苦しみらを生み出す根源を探り当て、
それを滅する事により、
苦しみを解消する事をめざす、 考えだ。
これは、 整備され、 因果系列の項目らが、
12 、に、 まとめられる
≒ 十二縁起 。
十二縁起説では、
「 根源的な無知 」 、が、
苦しみの根本的な原因とされ、
「 悟り 」 、 と対置されるが、
最古層の経典では、
一定の因果系列は、 現れてこない。
教典に登場する、 釈迦牟尼により、
対論する相手に応じて、 色々に説かれるが、
最も多く、 苦しみの根本的な原因存在として、
取り上げられる、論議の対象存在は、
欲望らの存在である。
:
ブッダの教えは、
『 真理を悟る事 』 、 による、
安らぎ、を、 心に成す事を、
究極の目的としているので、
智慧の働きを成す事が、 重視され、
追求されるが、 それは、 単に、
知識な事らを獲得すれば、善い、
という事では、ない。
知識があるだけでは、
聖者 、と、いわれない。
『 世の中で、 善き人々は、
見識や、ヴェーダの学識に、智慧がある、
から、といって、
( 誰かを ) 、 聖者である、
とは、観ない。
( 欲望らを ) 、 制し、 悩みを無くし、
無欲となった人を、 私は、 聖者、という 』 。
悟りは、 宗教的な体験で、 それは、
真理を、 『 理解する事 』 、 ではあっても、
『 分別により、単に、
概念を思い構えて観る形で、 理解する事 』 、では、 ない。
『 内的にも、外的にも、
いかなる事柄らをも、 知りぬけ。 しかし、
それにより、慢心を起こしてはならない。
それが、 安らぎである、とは、
真理に達した人々は、 説かないからだ 』 。
智慧は、 分別による、 知ではない。
体験されるべき物だ。
教えにそった行い事らを通じて、
安らぎを成す、
理想の体験へ向かって、
努力する事が求められる。
その理法を知り、 よく気をつけて、行い、
世間の執着を乗り越えよ。
熱心に努力せよ。 思慮を深く働かせ、
思念をこらして、 私の言葉を聞き、
自らの安らぎを成す事を目指して、
訓練せよ 』、
と、 教典の中で述べる、
ブッダの基本姿勢は、 自力主義で、
大乗仏教らの思想事項らを踏まえて、
自らの成立ちを得る事に成る、
実質的な一神教の、
他力本願の考えようとは、
実現を目指す事らが、 各々で、
異なり合っているので、 異なる。
一方は、 悟りを開き、
苦しみらに満ちた世界ら、 等から、
解脱する事を目指す、 主の物であり、
他の一方は、
極楽浄土へ行く事を目指す人の、
阿弥陀如来観の一定部分の事を、
現す物である。
『 他人が、解脱させてやれる、
のではない 』 。 :
世俗の生活を離れ、 自らに、極めつきの、
安らぎを成す事を求めて、努力する、
事が、 理想とされる。
『 この世の物らは、 必ず、
無く成るものである、と、観て、
在家の状態に、
とどまっていては、成らない 』 。 :
:
@ 自らの体験知らを基に、 苦しみらを、
自らの心の内外の、絡繰りらによって、
自らが、 覚え興す状態から、
自らの境地に、 安らぎを成す、
事へいたる道を、 人々に示す事、 これが、
ブッダの目指した事であった。 :
『 伝承によるのではなくて、 今、
目の当たりに、体験される、 この理法を、
私は、あなたへ説き明かそう 』 。
ブッダは、
体系的な理論を説いた訳では、ない。
説く相手に応じて、説きようを変えた、
と、いわれる
≒ 仏の対機説法 。 :
最古層の経典には、
その特徴が、よく、現れている。
そこには、 新しい層に、観られる様な、
整備された教理は、 見出されない。 :
『 私には、 自分は、
これこれの事らを説く、
という事が、無い 』 。
ブッダは、理論よりも、実践を重んじたが、
その教えには、
一貫した思想傾向が認められる。 :
@ ブッダは、
神の事や、神秘的な事らを説かず、
信仰や、 呪 ( まじな ) いで、
問題な事らを解決しようとせず、
呪術や占いを成す事を、
修行者らに禁じた。
『 呪術、夢占い、人相占い、星占い、
鳥占い、懐妊術 、 を行うな。
私の教えに従う者は、治療術に関わるな 』 。 :
しかし、 『 スッタニパータ 』 、の、
第5章でも、 最古層の記述とは、
観なされない、
「 序 」 、 には、
ブッダ 、への、
神秘化や神格化の進んだ説が現れ、
信仰する心の存在が、肯定的に説かれる。
『 根源的な無知が、頭である、と知れ。
明知が、 信仰と思念や、精神統一と、
意欲や努力に結びついて、
頭 ≒ 無知 、を引き裂く 』 :
当初の、 ブッダの教えは、
宗教的、というよりも、 合理的で、
倫理的な事らを述べた物であったが、
ブッダの教え事らに信頼を寄せ、
帰依する人々の集団が形成されるに伴い、
急速に、宗教性が強まった、
と、考えられる。 :
8. 実践のための徳目 ー
我が物と思わない度合の目安
≒ 無執着ぶり :
:
自らに安らぎを成すに至る、
正しい生活を成す為に、 どの様な心をもち、
どの様に行動すべきかが、
原始仏教では、具体的に説かれる。
たとえば、
名声・財産・食物・衣服・異性、 などへの、
禁欲、に、
嘘・怠惰・怒り・後悔、 などの、
心を汚す行いらを避けるべき、
事、 などが挙げられるが、
これらを集約する事として強調される事が、
『 何にも、執着をしない様に心がけよ 』 、
という事である。 :
執着する事は、苦しみを心に興す、
主要な原因事項、 と、考えられた。 :
『 世の中の種々さまざまな苦しみらは、
執着を縁として生ずる 』 。
『 無知なまま、執着する人は、愚か者で、
繰返し、 苦しむ。
苦しみらの生い起つ、
基を観察した智慧ある人は、
執着しない事に、 心をかけよ
( 観察して、 理解し得た、
所のものらが成立ってあるのだから、
できる ) 』 。 :
執着する、心の働きは、
『 我が物 』、 という、観念を伴い、
それにこだわる事だ。
従って、 どんなものについても、
『 我が物 』 、という、
観念をもつ事が、 否定される。
『 ( 何かを ) 、 我が物である、
と、執着して、 動揺している人々を見よ。
彼らの在り様らは、 干上がって、
流れの水の少ない所にいる、
魚らの様な物だ 』 。 :
『 世間における、何ものをも、
我が物である、と、観なして、
固執する、心の働きを興す、
行為を成さない様に 』 。
『 何であれ、 「 これは、我が物。
是は、ひとの物 」、 と思わない人は、
我が物、 という、
観念が、 心に興す物らを知らない。
この様な人は、 「 自分には、無い 」、
と、 思って、悲しむ事が、無い 』 。
『 無所有に、無執着。 それが、
老いと死、という、
激流からの避難所となる、
洲 ( す ) 、 に他ならない。
それを、 安らぎ 、 と呼ぶ。
それは、 老いと死の消滅だ 』 :
@ 西のストア哲学では、
『 精神の、動揺しない、
極めつきの、不動性、 を成す事を目指す 』 、
のであれば、 :
妻や子を愛している心が、
自らに成り立って在る場合、 などには、
単に、この妻や子を愛している自分が在る、
と、思わずに、
この妻や子である、ヒトを、
自分は、愛しているのだから、 仮に、
妻や子を失う、不幸な出来事に、
自らの心を打ちのめされた時にも、
ヒト 、という物は、
まだ、世界に在るのだから、
自分は、その、愛する宛先な、 ヒトらへ、
何かをしてやれる、立場に在る、と、
自らの愛する心を 奮い興す事ができるし、
ある、壺、 などの、
骨董品を愛 メ でている、
自分の心が、成り立って在る場合には、
その壺を、 自分は、愛でている、
のではなくて、
その壺の愛でるべき何彼らの属性らを、
愛でている、自分の心が在る、
と、思うように、 自ら、
自分の心の働きぶりを、仕付けて置けば、
その、 壺、 などが、壊れても、
それに動揺し、 悲しみを増幅させる方向へ、
心の働きが傾いてゆく事に、
歯止めを掛ける事ができる、
といった様な趣旨の、
大プラトンの、
イデアの思想事項らを踏まえた様な、
考えようらが、 呈示されている。
:
√ 執着する、心の働きを興さない様に、
心がける行為は、
自分の見解や信条についても求められる。
『 自分の見解への執着を超越する事は、
容易ではない 』 。
理想として追求するべき、
安らぎについてすら、
それに、こだわって、
苦しみの種を成すな、 と、 説かれる。
☆ ガン細胞たちは、 ブドウ糖だけ、 を、
唯一の、主な、栄養分としてあり、
糖質を制限する事を含む、
ビタミン・ケトン療法は、
ガン細胞たちを兵糧攻めにする事でも、
ガン、の、あり得る度合を減らす事になる。
Cancer cells are only glucose,
only, as main, nutrients,
including limiting carbohydrates, vitamin / ketone therapy
can also be used to starve cancer cells ,
It will reduce the possibility.
タンパク質たち、と、 ビタミンら、に、
ミネラルら、 を、 完全以上に、
飲み食いなどして、 摂取し続ける、 事が、 一部の人々を除いた、
ほとんどの人々の健康性を成し続ける、
代謝ら、を、
完全以上に、 成し続ける事に、 必要であり、
これら、を、 より、 欠いてしまう事は、
万病を引き起こす、 可能的な度合ら、を、
より、 余計に、 成す事を意味する。
☆ いずれにせよ、
日本人たちは、 より早くに、
日本人たちの足元の、 地下へ、
より、 どこからでも、
より、 速やかに、 落ちついて、
歩み降りてゆき得る、 避難経路ら、と、
より、 快適に住める、 避難所らとを、
作り拡げてゆく、
公共事業らを成す事により、
日本の、 財務省の役人ら、と、
与野党の、 主な政治家らとが、
英米のカネ貸しらの主張する事らを、
そのまま、自らもまた、
オウム返しにして、主張し、
実行もする事において、
日本政府の財政における 、 緊縮 、
を、 繰り返し、 成す事を通して、
彼らへの、 主 アルジ の立場にある、
日本の主権者としてある、日本人たちへ、
物価だけではなく、
その労働らへの賃金らの水準へも、
より、 押し下げる向きへ圧力をかける、
要因らの系である、
デフレ不況性 、を、
押し付け続けて来てある、
その、 デフレ不況性 、を、
解消し去ってゆく、 と共に、
日本人たちの防衛性の度合いを、
飛躍的にも高めてゆくべき、
ぎりぎりの状況にも、 ある 。
地上を襲い、 地上をおおい得る、
あり得る、 災害らへ対して、
地上に、 避難所らや、
避難経路らを設定して、
日本の主権者たちを、
それらへ誘導する事は、
人食い虎どもの住む、 密林へ、
わざわざ、 人々を誘導する事に類する、
行為であり、
日本の主権者としてある、
日本人たちの一般 、へ対して、
個々の日本国民においても、
執事なり、 召し使いなりの立場にある、
公務員などの、 者らにおいても、
成す事が、 許されない 、
行為なり、 態度なり、 であり、
日本国民たちの一般の、 あり得る、
福利ら、を、 より、 能くも、
最大限にも、 成す事を、 約束して、
日本の社会に、 存在し、 存続する事を、
日本国民たちの一般から、 許されてある、
筋合いにある者としての、 義務 、 に、
違反性を成す、 行為であり、
それが、 作為型では、 無く 、
無知性と痴愚性とにもよる、
不作為型の、 行為なり、 態度なり、
であっても、
それへの責めを負うべき、 筋合いを、
その主らの側に、 成すものである事に、
変わりは、 無い。