☆   原始仏教 :    ブッダ   ≒   釈尊     、と、
  その資料  : 
 
   仏教とは、
   仏     ≒     ブッダ    Buddha       、 の教えで、
   漢字で、 「 仏 」 、 の字をあてるのは、 
  ブッダの音を写した物だ。 

    日本で、 これを、
  「  ほとけ  」 、 と読むのは、 
  中国での、初期の音写の、  ブト 
 ≒     浮図 、や、 浮屠   、の字をあてて表現した物     、が、 日本へ入って、  『  ふと  』   、から、 
  『  ほと  』  、 に、 なまり、     これに、
   家や食 、 を意味する、 
  『  け  』 、   がついた物、  とも、されるが、 
  色々な説らがある。
   ブッダは、 わが国では、 
  『  釈迦  』  、や、 『  釈尊 しゃくそん  』  、
 と、呼ばれる事が、多い。 
 『  釈尊  』 、とは、
 『  釈迦牟尼世尊  しゃかむにせそん  』 、
 への、 略 、  と、 される。 

   ブッダ 、 が、    釈迦族 
   ≒      サーキヤ族 、 シャーキヤ族         、
  の出身である事による、  尊称で、 
   牟尼   muni      、とは、 
   『  聖者  』 、  の事で、
   世尊    bhagavat   、  とは、 
  『  福徳あるもの  』 、   の意味だ。

    仏典において、 仏弟子らは、
   世尊  、という尊称を、よく用いる。

    ブッダの原語の、   buddha   、 は、 
 『   気づく、理解する、悟る、目覚める   』 、
  等を意味する動詞の、
   bodhati    、  への、  過去分詞で、
 『   悟った、 目覚めた    』 、  
 等の意味を持つ。 

    釈尊の当時の、 インド 、 では、 
  修行を完成し、真理を悟った者を指して、
 一般に用いられていた語で、 
  釈尊は、 悟った者として、
   ブッダ  、 と呼ばれた。 
 
   仏教の教理が発展すると、 
 悟りを開いたのは、
   釈尊、の、 独りではない、 と、考えられ、 
  釈尊を以て、 前の諸仏    ≒     過去七仏   ;

    大乗仏教では、   無量無数の諸仏    、
  という、  観念が生まれ、
  『  ブッダ  』 、    という語は、  もっぱら、
  仏教において、 用いられる様になり、 
  インドでは、 仏教徒の事を、 
  バウッダ     ≒     Bauddha       、 
   ブッダにしたがう人々       、  といい、  
   ブッダの、異名らの一つ、 
  スガタ     ≒    sugata 
    ≒      善く行った者          、の意で、
   漢訳では、   善逝   ぜんぜい           、 
に基づいて、
    サウガタ      Saugata    
 ≒     スガタにしたがう人々     、
 とも、呼ばれる。 
    ブッダの個人名は、 
   ゴータマ・シッダッタ氏     
  ≒      ガウタマ・シッダールタ氏        、
  であった、と、  される。 

   これにより、 ゴータマ・ブッダ、
 と、呼ばれる事もある。 

  ブッダ  、 は、   如来    tathagata 
    ≒      修行を完成した人       、
   阿羅漢   arhat
   ≒       尊敬に値する人       、
  などの、多くの異名らをもつ。 
   仏教において、 6師外道の一人、
と、される、 
  マッカリ・ゴーサーラ氏は、 
  その教団の、アージーヴィカと共に、 
  仏教徒や、ジャイナ教徒ら、
 からの攻撃を受け、 
  その教典も現存していない事から、 
 教義や実践について、再構成するのは、 
 仏典やジャイナ教典に引用された、
  断片らによらざるを得ず、 至難の業だが、 
 その宗教活動は、 
 かなり古い運動と、関わりがあり、 
  仏教やジャイナ教の成立と比べても、 
 幾世代をもさかのぼり得る、 
  と、 観る向きもある。 
 
   ゴーサーラ氏は、 
生けるものを構成している、
  要素として、
  霊魂、地、水、火、風、虚空、
 得、失、苦、楽、生、死の、  
 12種類の実体を掲げた。

   この内の、得、以下の、6要素らは、 
 これらの名で呼ばれる、
 現象作用を可能ならしめる、
  原理とは、 何であるかを考え、 
  これを、実体化した物だ。 

   ここでは、 霊魂もまた、
  物体と同じ様に把握され、 全ての元素ら、 
 動植物などの、一切の生物らにも、
 各々に霊魂がある、と、主張している。 

  彼は、 万物は、 その細部に至るまで、 
 宇宙を支配する原理である、 
  ニヤティ    ≒      宿命        、  によって、
  定められているとして、 
 人の意志に基づく、 行為ら、 への、
  再生世での、 応報を否定し、
   徹底的な宿命論を説いた。 

    その主張な事らには、 
『    人の努力は、 現世で、報われなくても、
  その人の生まれ変わりの人が、代わりに、
  報われる、とする、  因果応報説は、  
  意味を成すべき、辻褄、の、
  合わない、考え、である    』 、という、 
  考えがあったので、 
  ブッダ、や、 マハーヴィーラ氏、 への、
 各々の信徒らから、厳しく批判された。 

  ゴーサーラ氏によると、 
  全ての生きとし生けるものら     ≒       衆生      、
   が、  輪廻の生活を続けている事は、 
「  無因無縁  」 、 の状態に在り続けている、
  事なのであり、 
  彼らが、 清らかになって、  解脱するのも、 
  無因無縁の事で、 言い換えれば、 
  存在が堕落する、
  原因や動機、 というべきものは、なく、
  原因も動機も、なしに、堕落するし、
  存在の純粋さも同様で、 そこにも、
 原因や動機は、無く、 これらを、 無しに、
  存在は、純化され得る。 
   
  この思想は、 仏教思想の根本たる、 
 縁起の説とは、真っ向から対立する。 
   
    生きとし生けるものらは、 ただ、 
 運命と状況と本性とに支配され、 
 いずれかの状態において、 苦楽を享受する。

   人が、同じ事をしても、
  結果が異なる事があるのは、 
運命による物で、
   行為のそのものには、 
 運命を変える力がなく、
   個々の心向きの在りよう、
  などに、 左右されない、 絡繰りに、 
 個々の者は、 支配されているので、 
  個々の人、 などの、 行為のそれ自体に、
  善悪は、無く、 
  それへの報いもまた、無い。

    支配的な絡繰りに左右されない、
  意志に基づく行為は、成立し得ないから、
   輪廻するもののあり方は、    
  宿命的に定まっており、 
6種類の生涯ら 
   ≒   六道      、    を、  たどって、 清められ、
   やがて、 解脱に至る。

    840万  大劫   、という、
  量り知れない年月を、  
 賢者も愚者も、流転し、
  輪廻して、その苦の終わりに達し、 
 その期間は、 修行により、
  解脱に達する事は、 不可能だ。

    ゴーサーラ氏は、   糸玉を投げると、
   糸が解きほぐされ、 糸が、 すっかり、
  解け終わるまで、  転がり続ける様に、 
  誰もが、一定期間は、生々流転を続け、
   最後は、何の努力もなく、
 自然に解脱に至る、
 と、主張し、 
  当時は、  汎インド的に信じられていた、
「 業 」 、の思想を否定した。

    行為以外の何かが、
  結果を決定している、とし、 
  それは、神では、ない、 とした。

    神では、結果の多様さ、特に、 
 その不幸な状態を説明できない。

   それはまた、 自然の本性でも、ない。 

   仏教、 などが説く、  カルマ 
   ≒       前世、などでの、行為らからの結果ら          、 でも、 ありえず、 
   多次元な世界らの全体の絡繰り     ≒     宿命 
    ≒      ニヤティ         、と、呼ぶ他に無い。 

   @      マッカリ・ゴーサーラ 
   ≒    パーリ語:     Makkhali Gosala 
  末迦梨瞿舎利        、 
  マスカリン・ゴーサーラ氏は、
   釈迦牟尼の活躍した時代に、
  仏教やジャイナ教と並んで、有力だった、
  裸形托鉢教団の、
  アージーヴィカを主導した、
   沙門      ≒     自由思想家    。 
     人は、   
 宿命との合一の在りようらの幾つかを、
  何事かの成功とし、 宿命のみが、
 ヒトの幸福や不幸のありようらを説明する
  、と、 説いた。 

    アージーヴィカ教団では、
 宿命を説く一方で、 苦行を義務づけている。 

  これは、一見、矛盾する様に観えるが、
   アージーヴィカ教徒らにとって、 解脱は、 
『   転がされた糸玉が、すっかり、
  解け終わる    』 、
 と、 比喩される様に、 
  心と、言葉や、身体による、 
 全ての行為らが消滅する事で、 それは、 
 半年に渡って、飲食を減らしていき、   
   最後は、 
 何も、飲まず、 食べずに、死へ至る、 
『  スッダーパーヤナ   』 、と、呼ばれる、
  苦行により、 現実化する、
  と、 考えられていた為だが、
   苦行により、 宿命の結末事を、
 より、安らかに受け入れる、
  境地を成す事をめざしていた、
  と、 観られてもいる。 

     アージーヴィカ   、の原義は、
  『   命ある    ≒    jIIvika     限り   ≒     aa     』 、  である、とも、いわれる。

   『   命ある限り、 誓いを守る     』 、
 という事で、
    出家者には、
  苦行と放浪とが、義務づけられ、 
 その多くは、 宿命を読む、
 占星術師や占い師として活躍した、
  という。

   彼らは、 ゴーサーラ氏の出現前からの、
  慣習に従い、  裸で徘徊し、 
 他の遍歴修行者と同じ様に、 
  乞食   コツジキ  、 をし、
  厳格な食事上の規則に従い、  その多くは、
  餓死する形で、命を終えた。 

    アージーヴィカ 、 は、
「 生活法に関する規定を厳密に遵奉する者 」、
  の意で、   自称した物だが、
   他の教団が、 彼らを貶  ケナ  す時は、 
  生活の糧を得る手段として修行する者、
   の意となり、

    漢訳仏典では、
 「  邪命外道  」 、 の漢字があてられている。
    ゴーサーラ氏の思想は、 
 インド思想史において、
  特異な地位を占め、   その決定論的思考は、 
 自然現象への解明行為や、
 生命法則への研究行為らと結びついた。 

   アージーヴィカ教は、 
  インド亜大陸のほぼ全域を統一した、
   マウリヤ朝の、 アショーカ王 
   ≒     阿育王     
 ≒   紀元前の3百4年 ~ 紀元前の、232年       、と、   その後裔にあたる、 
  ダシャラタ王の時代に、 保護されて、
  大勢力となった。 

   アショーカ王碑文 
   ≒      第7  デリー・トプラ碑文        、には、
   仏教と、 バラモン教や、 ジャイナ教、
  と並んで、  アージーヴィカの名が登場し、
   当時に、 栄えた宗教らの一つであった、
  事が、 推定できる。 

   その後は、 しだいに、勢力は衰え、 
  主として、ジャイナ教に吸収されていったが、
 南インドの、 マイソール ≒ カルナータカ州 、
  などでは存続し、 少なくとも、 
 千2百年代の、 13世紀に至るまでは、
  タミル人らを中心に、
 信奉されていた事が、知られている。 
   @     アショーカ王      ≒     無憂王      、
     ア    ≒     無い    。      
   ショーカ     ≒      憂い        、は、
    マウリヤ朝の第3代の王で、 
  漢訳音写では、   阿育王    、と書かれる。 

   インド亜大陸を、ほぼ統一した。

   釈尊の滅した後の、 
 およそ、百年か、 2百に現れた、 
という、 伝説もある、  アショーカ王は、
   古代インドにあって、仏教を守護した、
  大王として知られる。
  5.   縁起   : 

   世界が、 常に、そのままである事が、 無い、
  事を、  明らかにする事により、
   この世の苦しみを説明する、 一方で、
   苦しみを滅する為に、  苦しみを生み出す、
  原因、が、 何であるかを追究する、
  事も行われ、 
『  縁起説  』、が、 唱えられるに至った。 

   『  縁起  』 、 という言葉は、   現在では、 
  もっぱら、  『  縁起が、 よい、悪い  』、
   という様に、
 『    物事の起こる、前ぶれ事、前兆現象   』 、
  の意味で、 用いられているが、 
  元は、  その様な意味では、なかった。

   『  縁起  』 、 とは、 
『   何かにより、  別の何彼が起こる事   』   、で、
    具体的には、 
『   苦しみは、   何らかの原因や条件 
    ≒     因縁        、により、  起こり、 
  その原因や条件       ≒       因縁        、
  が、無くなれば、   苦しみもなくなる    』、
   という事で、
 『  縁起説  』 、 は、 
  苦しみを生み出す、 
 因果の系列をさかのぼって、
   苦しみらを生み出す根源を探り当て、 
 それを滅する事により、 
 苦しみを解消する事をめざす、 考えだ。 

   これは、 整備され、 因果系列の項目らが、
   12 、に、 まとめられる 
    ≒      十二縁起   。

     十二縁起説では、
   「  根源的な無知  」 、が、
  苦しみの根本的な原因とされ、 
 「 悟り 」 、  と対置されるが、 
  最古層の経典では、 
  一定の因果系列は、 現れてこない。 

     教典に登場する、  釈迦牟尼により、
  対論する相手に応じて、 色々に説かれるが、
  最も多く、 苦しみの根本的な原因存在として、
   取り上げられる、論議の対象存在は、 
  欲望らの存在である。 
    ブッダの教えは、 
  『  真理を悟る事  』 、  による、
   安らぎ、を、 心に成す事を、
  究極の目的としているので、 
   智慧の働きを成す事が、 重視され、   
  追求されるが、 それは、 単に、  
 知識な事らを獲得すれば、善い、
  という事では、ない。

    知識があるだけでは、
  聖者 、と、いわれない。

  『    世の中で、 善き人々は、
   見識や、ヴェーダの学識に、智慧がある、
  から、といって、 
 (  誰かを  ) 、 聖者である、
  とは、観ない。 
 (  欲望らを  ) 、 制し、  悩みを無くし、 
  無欲となった人を、 私は、 聖者、という     』 。 

    悟りは、 宗教的な体験で、 それは、 
  真理を、 『  理解する事  』 、 ではあっても、 
 『   分別により、単に、
  概念を思い構えて観る形で、  理解する事   』 、では、 ない。 

  『    内的にも、外的にも、
   いかなる事柄らをも、 知りぬけ。    しかし、 
  それにより、慢心を起こしてはならない。
   それが、  安らぎである、とは、
  真理に達した人々は、  説かないからだ     』 。 

   智慧は、   分別による、 知ではない。 
  体験されるべき物だ。 

   教えにそった行い事らを通じて、
   安らぎを成す、
  理想の体験へ向かって、
  努力する事が求められる。

   その理法を知り、 よく気をつけて、行い、 
  世間の執着を乗り越えよ。 
  熱心に努力せよ。 思慮を深く働かせ、 
 思念をこらして、 私の言葉を聞き、 
 自らの安らぎを成す事を目指して、
  訓練せよ    』、
  と、 教典の中で述べる、 
  ブッダの基本姿勢は、 自力主義で、 
  大乗仏教らの思想事項らを踏まえて、 
  自らの成立ちを得る事に成る、 
  実質的な一神教の、
 他力本願の考えようとは、 
  実現を目指す事らが、 各々で、 
  異なり合っているので、 異なる。 

     一方は、 悟りを開き、
  苦しみらに満ちた世界ら、 等から、
  解脱する事を目指す、 主の物であり、 
  他の一方は、  
 極楽浄土へ行く事を目指す人の、
  阿弥陀如来観の一定部分の事を、
  現す物である。 

 『   他人が、解脱させてやれる、
  のではない    』 。 : 

   世俗の生活を離れ、 自らに、極めつきの、
  安らぎを成す事を求めて、努力する、  
  事が、  理想とされる。 

 『   この世の物らは、 必ず、
  無く成るものである、と、観て、 
   在家の状態に、
  とどまっていては、成らない   』 。 : 
  @    自らの体験知らを基に、 苦しみらを、
  自らの心の内外の、絡繰りらによって、 
  自らが、 覚え興す状態から、
  自らの境地に、 安らぎを成す、
  事へいたる道を、 人々に示す事、 これが、 
  ブッダの目指した事であった。 : 

   『  伝承によるのではなくて、 今、 
 目の当たりに、体験される、 この理法を、 
 私は、あなたへ説き明かそう    』 。   

   ブッダは、 
  体系的な理論を説いた訳では、ない。 
  説く相手に応じて、説きようを変えた、
と、いわれる 
    ≒      仏の対機説法  。 : 

    最古層の経典には、
  その特徴が、よく、現れている。 
  そこには、 新しい層に、観られる様な、
 整備された教理は、 見出されない。 : 

『    私には、 自分は、 
 これこれの事らを説く、 
  という事が、無い    』 。 

   ブッダは、理論よりも、実践を重んじたが、 
  その教えには、
  一貫した思想傾向が認められる。 :

   @    ブッダは、 
  神の事や、神秘的な事らを説かず、 
  信仰や、  呪   (  まじな  )     いで、
   問題な事らを解決しようとせず、
   呪術や占いを成す事を、
  修行者らに禁じた。

  『    呪術、夢占い、人相占い、星占い、
 鳥占い、懐妊術 、 を行うな。
   私の教えに従う者は、治療術に関わるな    』 。 : 

   しかし、  『  スッタニパータ  』 、の、 
  第5章でも、 最古層の記述とは、
観なされない、
   「 序 」 、 には、 
  ブッダ 、への、
 神秘化や神格化の進んだ説が現れ、 
 信仰する心の存在が、肯定的に説かれる。 

  『    根源的な無知が、頭である、と知れ。 
  明知が、 信仰と思念や、精神統一と、
  意欲や努力に結びついて、
   頭     ≒    無知    、を引き裂く    』 : 

   当初の、 ブッダの教えは、 
  宗教的、というよりも、 合理的で、 
  倫理的な事らを述べた物であったが、
   ブッダの教え事らに信頼を寄せ、 
 帰依する人々の集団が形成されるに伴い、 
  急速に、宗教性が強まった、 
   と、考えられる。 : 

   8.  実践のための徳目 ー 
  我が物と思わない度合の目安 
    ≒     無執着ぶり  : 
    自らに安らぎを成すに至る、
  正しい生活を成す為に、 どの様な心をもち、
 どの様に行動すべきかが、 
   原始仏教では、具体的に説かれる。 

   たとえば、 
  名声・財産・食物・衣服・異性、 などへの、
  禁欲、に、 
   嘘・怠惰・怒り・後悔、  などの、
  心を汚す行いらを避けるべき、
  事、  などが挙げられるが、 
  これらを集約する事として強調される事が、
 『   何にも、執着をしない様に心がけよ   』 、
    という事である。 : 

   執着する事は、苦しみを心に興す、
 主要な原因事項、 と、考えられた。  : 

『   世の中の種々さまざまな苦しみらは、
  執着を縁として生ずる    』 。 

  『   無知なまま、執着する人は、愚か者で、
  繰返し、 苦しむ。 
  苦しみらの生い起つ、
  基を観察した智慧ある人は、 
  執着しない事に、 心をかけよ
   (     観察して、 理解し得た、
  所のものらが成立ってあるのだから、
  できる  ) 』 。 : 

    執着する、心の働きは、 
『  我が物  』、 という、観念を伴い、
   それにこだわる事だ。 

   従って、 どんなものについても、 
『  我が物  』 、という、
  観念をもつ事が、 否定される。 

  『 (   何かを  ) 、   我が物である、
  と、執着して、  動揺している人々を見よ。

    彼らの在り様らは、 干上がって、 
  流れの水の少ない所にいる、
  魚らの様な物だ   』 。 : 

  『    世間における、何ものをも、
   我が物である、と、観なして、
  固執する、心の働きを興す、
   行為を成さない様に     』 。 

  『    何であれ、 「    これは、我が物。
   是は、ひとの物   」、 と思わない人は、 
  我が物、 という、 
  観念が、 心に興す物らを知らない。  
  この様な人は、 「  自分には、無い  」、
   と、 思って、悲しむ事が、無い     』 。 

  『    無所有に、無執着。    それが、
    老いと死、という、
  激流からの避難所となる、
   洲  ( す )  、 に他ならない。 
  それを、 安らぎ 、 と呼ぶ。
   それは、 老いと死の消滅だ   』 : 

   @      西のストア哲学では、
 『   精神の、動揺しない、
  極めつきの、不動性、 を成す事を目指す  』 、
   のであれば、 : 
     妻や子を愛している心が、
  自らに成り立って在る場合、 などには、
  単に、この妻や子を愛している自分が在る、
   と、思わずに、
   この妻や子である、ヒトを、
   自分は、愛しているのだから、 仮に、
   妻や子を失う、不幸な出来事に、 
  自らの心を打ちのめされた時にも、 
  ヒト  、という物は、
   まだ、世界に在るのだから、 
  自分は、その、愛する宛先な、 ヒトらへ、
   何かをしてやれる、立場に在る、と、
  自らの愛する心を 奮い興す事ができるし、

   ある、壺、 などの、 
   骨董品を愛  メ   でている、
  自分の心が、成り立って在る場合には、 
  その壺を、 自分は、愛でている、
   のではなくて、
   その壺の愛でるべき何彼らの属性らを、
  愛でている、自分の心が在る、
   と、思うように、 自ら、
  自分の心の働きぶりを、仕付けて置けば、 
  その、 壺、 などが、壊れても、
  それに動揺し、 悲しみを増幅させる方向へ、
  心の働きが傾いてゆく事に、
   歯止めを掛ける事ができる、 
  といった様な趣旨の、 
  大プラトンの、
  イデアの思想事項らを踏まえた様な、
  考えようらが、 呈示されている。 
   √     執着する、心の働きを興さない様に、
  心がける行為は、 
  自分の見解や信条についても求められる。 

   『    自分の見解への執着を超越する事は、
  容易ではない   』 。
  理想として追求するべき、
  安らぎについてすら、
     それに、こだわって、
  苦しみの種を成すな、 と、 説かれる。

   ☆   ガン細胞たちは、  ブドウ糖だけ、  を、 
  唯一の、主な、栄養分としてあり、              
    糖質を制限する事を含む、                              
       ビタミン・ケトン療法は、                              
     ガン細胞たちを兵糧攻めにする事でも、         
   ガン、の、あり得る度合を減らす事になる。  

      Cancer cells are only glucose,      
    only, as main, nutrients,                              
     including    limiting  carbohydrates,                         vitamin / ketone therapy                            
      can also be used to  starve cancer cells ,        
       It will reduce the possibility.     

     タンパク質たち、と、   ビタミンら、に、      
   ミネラルら、   を、     完全以上に、
 飲み食いなどして、    摂取し続ける、 事が、           一部の人々を除いた、                                        
   ほとんどの人々の健康性を成し続ける、  
  代謝ら、を、  
 完全以上に、 成し続ける事に、 必要であり、                              
    これら、を、 より、 欠いてしまう事は、    
    万病を引き起こす、 可能的な度合ら、を、  
    より、 余計に、 成す事を意味する。

     ☆      いずれにせよ、
     日本人たちは、     より早くに、
  日本人たちの足元の、  地下へ、   
 より、  どこからでも、 
 より、 速やかに、 落ちついて、
 歩み降りてゆき得る、  避難経路ら、と、
 より、 快適に住める、  避難所らとを、
 作り拡げてゆく、    
 公共事業らを成す事により、

    日本の、    財務省の役人ら、と、 
  与野党の、 主な政治家らとが、

 英米のカネ貸しらの主張する事らを、
  そのまま、自らもまた、 
オウム返しにして、主張し、
 実行もする事において、

    日本政府の財政における   、   緊縮   、  
  を、 繰り返し、 成す事を通して、

   彼らへの、 主  アルジ の立場にある、   
 日本の主権者としてある、日本人たちへ、 
   物価だけではなく、   
 その労働らへの賃金らの水準へも、 
 より、  押し下げる向きへ圧力をかける、
 要因らの系である、
 デフレ不況性   、を、  
 押し付け続けて来てある、

  その、 デフレ不況性 、を、 
 解消し去ってゆく、 と共に、
  日本人たちの防衛性の度合いを、
  飛躍的にも高めてゆくべき、  
 ぎりぎりの状況にも、 ある 。

    地上を襲い、  地上をおおい得る、
  あり得る、 災害らへ対して、 

   地上に、  避難所らや、 
 避難経路らを設定して、
  日本の主権者たちを、 
 それらへ誘導する事は、

   人食い虎どもの住む、   密林へ、 
 わざわざ、 人々を誘導する事に類する、
  行為であり、

   日本の主権者としてある、  
 日本人たちの一般    、へ対して、  
 個々の日本国民においても、   
 執事なり、  召し使いなりの立場にある、 
 公務員などの、 者らにおいても、 
  成す事が、   許されない  、 
   行為なり、 態度なり、 であり、

   日本国民たちの一般の、  あり得る、
  福利ら、を、  より、 能くも、 
  最大限にも、 成す事を、 約束して、
    日本の社会に、  存在し、  存続する事を、
   日本国民たちの一般から、  許されてある、
  筋合いにある者としての、   義務 、 に、 
 違反性を成す、  行為であり、 

   それが、   作為型では、 無く 、
  無知性と痴愚性とにもよる、  
 不作為型の、  行為なり、 態度なり、
 であっても、 
  それへの責めを負うべき、 筋合いを、 
 その主らの側に、  成すものである事に、 
  変わりは、  無い。