☆ 1.大乗仏教の成立 :
西暦紀元の前後、 西方で、
イエス氏の愛の宗教が生まれたのと、
同じ頃に、 インドにおいては、
愛おしむ思い
≒ いと・惜しみ
≒ とても、大切に思う、その思い
≒ 愛 、 について、
知的共感性により、
他者の心の痛み、 などを、
自らも、 痛ましく思い遣り、
癒やそうと、心がけ、
その苦を去ってやろうとする、 愛である、
慈 ≒ 抜苦 、と、
楽しさ、 などの、
肯 ウベ なわしい思いようらを、
与え宛てる、愛である、
悲 ≒ 与楽 、 とに、 分けて考え、
それらな、 慈悲 、 を強調する、
大乗仏教が生まれた。
当時は、 部派仏教は、 学問的、
哲学的な傾斜を強めていたが、
その様な傾向性らに対して、
仏塔 ≒ ストゥーパ
≒ 卒塔婆 、 を崇拝する、
在家信者らにおいて、
熱烈な宗教運動が起こった。
彼らは、 お釈迦様
≒ シャカムニ ≒ ブッダ 、
への信仰による、救いを求めた。
ブッダの神秘化に、神格化は、
原始仏教の、ごく早い時期に始まった、
と、考えられるが、
自力主義を主とする、原始仏教では、
救済者の観念の内容な事柄らは、
明らかでは、 ない。
大乗仏教では、 如来や、菩薩が、 明確に、
大慈悲心をもつ、救済者として現れてくる。
如来は、 元来は、 『 修行の完成者 』、
という程の意味で、 ブッダの、
多くある異名らの一つだったが、
大乗仏教では、
『 衆生を救うべく、 真理に従って、
この世に到来した者 』 、 と、解された。
原始仏教以来の、
過去仏の観念が拡大され、
無数の仏国土らに、 無数の仏ら
≒ 如来ら 、が在る、
と、考えられるに至る。
その中でも、 とりわけ、
多くの信仰を集めたのは、
阿弥陀仏、や、薬師如来、 などだ。
菩薩 ≒ bodhisattva 、は、 古くは、
『 悟りが確定している者 』 、の意味で、
悟りを得る
≒ 成道 、 前の、
ブッダ 、 へ宛てて、 使われた。
大乗仏教では、
『 悟りを求める者 』 、 と、 解釈され、
大乗の信者らが、
自分らをさして、 用いる様になり、
自らは、 輪廻の苦しみの世界から、
解脱 ゲダツ 、 し、
涅槃 ネハン ≒ ニルヴァーナ 、
に到達しようとすれば、 できるのに、
他の多くの苦しむ者らをみて、 あえて、
輪廻の世界にとどまり、 彼らへ、
慈しみ、憐れむ、心を持って、救済に努める、
「 利他行 」 、 を成し行う者、 という、
菩薩の理想像が形成された。
超人化され、 信仰の対象とされた、
菩薩には、 弥勒菩薩に、 観世音菩薩や、
文殊菩薩に、 普賢菩薩や、 地蔵菩薩、
などがある。
:
10. 如来蔵思想 ;
:
如来蔵とは、 生きとし、生きるもの
≒ 衆生 シュジョウ 、 が、 皆、
如来を胎内に宿している、 という事だ。
如来 ≒ 仏 、になり得る、 可能性は、
仏性 ( ぶっしょう ) 、
とも、言われるが、 それが、
全ての生き者らにそなわっている、
という、 教え
≒ 一切衆生 、 悉有仏性 、だ。
この、 如来蔵、 あるいは、 仏性、を、
自らの内に秘めて在る事が、
あらゆる、 生き者らが、 いつかは、
仏になり、救われ得る、根拠であるとする。
『 勝鬘経 』 、 や、 大乗の、
『 大般涅槃経 』 、 に、『 楞伽経 』 、や、
『 大乗起信論 』 、 などに説かれる。
:
9. 理想として、 追求されるべき、
安らぎ、 についてすら、
こだわってはならない、 と、される。 :
『 執着の対象としては、
一切の戒律や誓いを捨て、 ( 世間の ) 、
罪のある行為も、罪のない行為も捨て、
「 清浄である 」 、とか、
「 不浄である 」 、 とか、 思い成して、
欲求を起こす事をしない様にし、
それらにとらわれずに、行え。
目指して成すべき心持ち、とされる、
安らぎにも、固執する事を、止める。
自ら、議論をふっかける事は、避けよ、
と、 説かれる。
これについては、 当時のインドの、
思想らの状況に関わる。
どの様にすれば、
この世の苦しみから解放されるか、
との、 問題な事への意識は、
ブッダと同時代の、 インドの、
思想家達に共有され、 ブッダの他にも、
多くの思想家らが教理を立て、
色々な説らが唱えられ、その違いから、
活発な議論が行われた。
『 ある人々が、真実だ、正しい、
とする事を、 他の人々は、うそだ、
間違いだ、 と、 争って、議論する。
なぜ、 修行者らは、
同じ事を説かないのか 』。
修行者らの議論でも、
安らぎを得る為の、智慧の追求が、
論敵に勝つ為の理論の追求に変わるが、
日常経験らの範囲を越えた、
形而上学的な問題が扱われ、 それらは、
経験らによっては、確かめられない、
肯定と否定の両論が、ならびたち、
決着は、 つかない。
『 世の中に、 多くの、 色々な、
永遠の真理がある訳では、ない。 ただ、
想像して立てられているだけだ。
独断的な見解に基づいて、推論を立て、
これが、真理だ、間違いだ、と、
両極端の教えらを説いている 』 。
論争は、 論争の為の論争に陥る。
ブッダは、これを、修行者らには、
無用 、 と考えた。
修行者らに対して、
( そうではない立場の世間一般の人々が、
倫理的な義務としても、
身の潔白性を証し立てたりする、
事などの為に、 何らかの裁きの場などで、
議論をする様に ) 、
修行者らが、論争をする事は、
避けるべきである事が、 随所に説かれる。
『 修行者らが、 「 自説にこだわり、
これこそが、 真理だ、 と、
論争する人々は、みな、 非難をうけるか、
時には、賞賛を得る事もあるが、
修行者として在る、本来の目的な事から、
外れた事だ。
心の平らぎの為になる事では、ない。
論争への報酬は、( 非難と賞賛の ) 、
2つだけだ。
これを見極め、 修行者らは、論争を避けよ。
心の平安をめざす、 とは、
論争しない境地に立つ事だ。
全ての立場らへの、 無執着が強調され、
極端説だけでなく、 中間にも、
とらわれない事が、 説かれる。
『 知者は、 両極端を知りつくし、
中間にも、けがされない。
その様な人を、 私は、偉大な人、と、言う。 その様な人は、 この世で、縫いつける物
( 妄執 ) 、 を超越している 』 :
3. 前提となる世界観 一 ー 輪廻と業 :
最古層の詩句らには、
業 ≒ 行為 、と、
輪廻の思想は、 明確には、現れないが、
当時に、 一般に広まっていた、
この思想は、 ごく早い時期に、
仏教の中に、とりいれられた。
『 スッタニパータ 』 、 でも、
第3章には、 濃厚に現れ、
その第十経、な、 コーカーリヤ 、 には、
嘘への報いとして、
落ちる地獄の在り様らが、詳しく説かれる。
この様な思想は、
大衆教化に重要な役割を果たし、
仏教説話の、 『 ジャータカ 』 、 からも、
その事が、 推測される。
ジャータカ 、 は、
大衆向けの教訓的な例え話らを、
ブッダの前世の物語として説くが、
それには、 業と輪廻の思想が、
前面に、押し出されてある。
輪廻の観念を成した上で、
苦しみからの解放は、
苦しみの生存から離脱する事
≒ 輪廻から脱する事 、だ、
と、考えられる様になり、
悟りを表す表現は、 次の様に定型化された。
『 生まれる事は、尽きた。
清らかな行いらは、すでに、完成した。
なすべき事らは、 成しおえた。 もはや、
再び、この様な生存を受ける事はない 』 。
何に生まれ変わるかを決定する、
原因、が、 何であるかについては、
ブッダの時代の一般の社会において、
色々に考えられていた。
臨終に際しての意志による、との考えや、
神の意志による、との考え、等もあったが、
支配的な考えは、 前世における、
業 ≒ 行為ら 、による、
とする、 考えであった。
:
ブッダと同じ時代の、
自由思想家たちの中には、
プーラナ・カッサパ氏、や、
アジタ・ケーサカンバリン氏の様に、
業 、 を、 因とし、
その果として応える、 報いを、
積極的に否定した、 人々もあった。
彼らは、 あるヒト、 などの、
善悪の行為らが、
生まれ変わった後の、
生きる主へ、
安楽と苦しみの果報をもたらす事は、無い、
と、 考え、
マッカリ・ゴーサーラ氏の様に、
運命論を説く人もいた。
業 、 を、 原因な事らとする、
因果応報の思想らの中には、
前世での行為 ≒ 業 、を、
宿命の様に観成す、決定論的な考えもあった。
現世での行いらまでもが、
善であれ、悪であれ、 全てが、
前世の業により、 規定されている、
と、考える物で、 この説によれば、
意志の自発による、行為は、認められない。
これらに対し、
仏教、や、 ジャイナ教は、 この様な、
ヒトの行為の効力性
≒ 効力のある事 、を、
認めない説を、
行為否定論
≒ akiriyavaada , akriyaavaada 、
と呼び、
道徳を破壊する説として、非難した。
仏教は、
『 世尊は、 業論者で、行為論者で、
努力論者であった 』 、 として、
業思想を容認しつつ、 ある現世の主が、
その行為らや努力により、
生存のあり方を変え得る、効力性を認めた。
業と輪廻の思想により、
涅槃観も変化した。
当初は、 涅槃は、
現世において実現される物、
と、考えられていた。
しかし、 業と輪廻の思想からいえば、
涅槃は、 輪廻からの解脱を意味し、
たとえ、 この世において、
涅槃に達したとしても、 やはり、
前世の業への果報としての、
身体は、 消滅していないから、
真の意味の、 「 消滅 」 、 とは、
観成されず、 死において、 初めて、
実現される、と、考えられるに至った。
涅槃は、
死と強く結びつけらて観られる様になり、
原始仏教の末期には、
現世において得られる、
『 心身の残余のある涅槃
≒ 有余依涅槃 、と、
煩悩も、身体も、 全く、 消滅した死後の、
『 心身の残余のない涅槃
≒ 無余依涅槃 、 との、
2種に、 思い分けて観られる様になった。
:
5.教理 (1) 一 縁起 ≒ 十二支縁起 :
仏教の根本教義は、 『 縁起説 』、
だが、
原始仏典の古い層には、
一定の形式をもった、縁起説は、現れない。
苦しみを生み出す、
因果事項らの系列について、
色々な項目らを立てた、説らが現れるが、
漠然とした縁起説らは、 追い追い、
整備され、 形式化された。
その完成された物が、
十二の項目からなる、 十二支縁起
≒ 十二因縁 、の説で、
古来、 仏教の根本教義として、
尊重されてきた考えだ。
☆ 十二の項目とは、
① 根源的な無知 ≒ 無明 。
② 生活行為 ≒ 行 。
③ 心の中で、 真実な事、 などとして、
自らの感らや、 観念の設定存在ら、
等から、 事柄らを成して観る、働き
≒ 認識作用 ≒ 識 。
④ 心と物 ≒ 名色 。
⑤ 六つの感覚機能ら ≒ 六処 。
⑥ 対象との接触 ≒ 触 。
⑦ 感受 ≒ 受 。
⑧ 本能的な欲望 ≒ 渇愛 。
⑨ 執着 ≒ 取 。
⑩ 生存 ≒ 有 。
⑪ 誕生 ≒ 生 。
⑫ 老いと死 ≒ 老死 。
十二番目の項目の、 「 老いと死 」、 には、
愁い ( 愁 ) 、に、 悲しみ ( 悲 )、
と、 苦しみ ( 苦 ) 、 に、
憂い ( 憂 ) 、 と、 悩み ( 悩 ) 、
が、 加えられる事がある。
老死は、 苦しみの代表とされ、
老いと死に象徴される、
この世の苦しみらが、
いかにして、生ずるかが、明らかにされる。
それと同時に、 その根源を、
「 根源的な無知 」 、 から始めて、
順に滅すれば、 苦しみが消滅できる、
事を説き示している。
十二縁起を説く、 初めの部分には、
『 これあれば、かれあり。
これ生ずれば、かれ生ず。
これなければ、かれなし。
これ滅すれば、かれ滅す 』、という、
定型表現が加えられる事がある。
これは、 遅れて成立した物である事が、
定説となっているが、 ここには、
明らかに、縁起 、が、 一般化され、
現象世界の法則性 、 と、見なされる、
傾向性が、 認められる。
現象する物事らは、 全て、
もろもろの原因と条件が、
集まって現れてくる、とする、
考え方にかたどられた、
考えようらによるものだ。
現象する物事らが、 他の物事ら、
への、 依存関係において、 成立する、
という、考えようらは、
無我説に影響を及ぼし、 後の、
空の思想への論理的な根拠となった。
:
1. プーラナ・カッサパ氏の、
行為の善悪への否定論 :
カッサパ氏は、
行為に、善悪は、 なく、
行為が、 因となって、 生まれ変わった、
後の生きる主へ、
善悪の果報をもたらす事も、 無い、
と主張した。
傷害・脅迫・殺人・強盗・不倫・虚言、
などを行ったとしても、
生まれ変わった後の、 悪には、ならない。
悪への報いは、 ない。
施し・祭式・節制・真実を語ること、
を行ったとしても、
後の善には、 ならない。
善への報いも、無い、 と、 説いた。
この教えは、
「 道徳否定論 」 、 として、
紹介される事が、 多いが、 決して、
その様な思想では、ない。
パクダ・カッチャーヤナ氏の思想と同じく、
あらゆる物事らを、
生まれ変わった後の、生きる主における、
善い事と悪しき事とに対して、
何の影響性も無い、と観る事により、
行為を因として、後の世に果となる、
罪福 、への、 こだわり、 と、
その結果として、 生まれる、
苦しみから、
人々の心を解き放とうとする、教えで、
業により、 果の善悪の報いを、
業の主からの、 生まれ変わりの主が得る、
という、因果応報の考えようを、
思い分けて観てゆくと、
加害者側は、
応報の構成に関与させられているだけ、
という事に成り、 言わば、
天罰に加担させられている
【 という事に成り、
被害者側が、
その前世での業ら
≒ 行為ら 、により、
ある、この世 ≒ ある、現世 、で、
応報を得るに当たり、
加害者側は、
その応報を成す事に関与させられている、
に過ぎない事に成る。
被害者側が、 応報を得る、要因となった、
彼の前世での業らも、
被害者を成した、加害行為らについては、
同じく、 因果応報の考えようによれば、
ただ単に、 応報の天罰めいた事象を成す、
事に、
加害者として関与させられた、
事でしかないので、 本来は、 彼をして、
天罰を与える役を演じ行わせた、
主因者が、 その責任を負うべきであり、
東や西の実質的な一神教においてであれば、
それは、
全知全能の阿弥陀如来
≒ 全知全能の唯一神 、であり、
応報の加害者役に設定された、
彼では、 ない。
因果応報説は、 現世において、
善い人々が、善い人々であるのに、
なぜ、 神仏らの全き監視の下で、
悪らに、害せられる事があるのか、
という、もっともな疑問への、
一見、見事な答えに成っており、
西の一神教らの諸派のほとんどに、
この考えようが、欠けている事は、
欠点と言えば、 欠点であり、
それは、 古代エジプトの王様の、
アメンホテップ4世が、 政治的にも、
一神教の原型を創り出して行った、
後を受けた、
古代の、今の、 ハザール系、 などの、
イスラエル人らとは、 ほとんど、
血縁の無い、ユダヤ人らが、
一神教の観念な事らの所々の事らを、
彼らの、 部族社会の、
序列化差別型の社会倫理に合う、
意味合いの物らへ、ネジ曲げて、
その社会倫理らを正当化する、
思想的な用具とする位が、
精一杯な事であったし、
彼らの社会での、 加害者 、 と言えば、
それは、 大抵は、
彼らの部族の長らであり、
部族の長らが、
部族内の序列の下の者らを従わせる、
などの為に、
彼らへ加害する事は、
その社会倫理的には、 長らが、
正当な権利を行使する、
正当な行為でしかないので、
なぜ、 善い人々が、式の、考え自体が、
倫理的に、成り立ち難かった、
事などもあって、
因果応報の思想の様な、考えらが、
極少数の人々には、ぼんやりと、
思い浮かびかけても、 より、
意味の辻褄を成す形の物へと、
考え合わされ、代々に、伝えられるには、
至らないままだったのだろう。
@ このような教えは、 特に、
生き物を殺す事を職業とする為に、
業と輪廻説に従う限り、
苦を、果報として受ける事が、
避けられない、と、 される人々へ、
説かれたのではないか、と、考えられる。
これは、 その本質において、
『 バガヴァッド・ギーター 』 2.38の、
「 苦楽、得失、勝敗を平等のものと見て、
戦いに専心せよ。 そうすれば、
罪悪を得る事はない 」、 という、
「 平等 」 、の教えと、 同じであろう。
パーリ仏典の、 『 沙門果経 』、 の、
第17節 、 において、
プーラナ氏の思想は、
次の様に紹介されている。
「 行為する者、 させる者が、
( 人を ) 、 切ったり、 切らせたり、
苦しめたり、 苦しめさせたり、
悲しませたり、 疲れさせたり、
恐怖を与えたり、 与えさせたり、
生き物を殺したり、 与えられない物を、
とったり、 家を壊して侵入したり、
掠奪したり、 盗みを働いたり、
路上で、追いはぎをしたり、
不倫をしたり、 嘘をついたりしたとしても、 悪い果報をもたらす事をする訳では、ない。
周り剃刀の様な円盤で、 あらゆる、
地上の生き物らを、 一山の肉、
一塊の肉にしてしまっても、 それによって、 悪い業が成る訳ではなく、
その、悪への報いは、無い。
ガンジス河の南岸に行き、 人を殺したり、
殺させたり、 切ったり、 切らせたり、
責めたり、責めさせたりしても、
それによって、 悪の業が成る訳ではなく、
その、 悪への報いは、無い。
ガンジス河の北岸へ行き、 施しをしたり、
施しをさせたり、 祭式を行ったり、
祭式を行わせたりしても、 それによって、
その、善の業が成る訳ではなく、
その、 善への報いは、無い。
布施、克己、節制、真実を語る事によって、
善の業がある訳ではなく、
その、 善への報いは、 無い。
:
その哲学上の立場を、 アキリヤヴァーダ akiriyav?da ≒ 非業論 、と称する。
人には、永遠の魂があり、 たとえ、
人が死んでも、魂がなくなる事は、ない。
行為自体は、 魂に影響を与えず、
どの様な行為を成してしまっても、
魂は、 永久に在り続ける事を、
道徳無用論の形で、 述べた。
極端な表現の仕方により、
魂の超越的な不滅性に、関心を向けさせ、
魂の偏在する我彼の立場を超えた、
人々の内なる普遍性を説く。
6. サンジャヤ氏の不可知論 :
:
サンジャヤ氏は、 あらゆる問いに対して、
答えを定める事を避ける、
「 不可知論 」、 の立場をとった。
次の様に答える事を習わしとしていた、
という。
『 もし、 あなたが、 あの世はあるか、
と、たずね、 自分が、あの世は、ある、
と考えたなら、 あの世は、ある、
と、答えるであろう。
しかし、 私は、そうしない。
そうとは、 考えない。
それとは、 異なる、 とも、考えない。
そうでは、ない、 とも、考えない。
そうではないのではない、
とも、考えない 』 。
この様な、 彼の論法は、
『 うなぎ論法 』、と、言われ、
仏教の、「 無記 」 、 の考え方に、
影響を及ぼした、と、考えられる。
ブッダの二大弟子の、 サーリプッタ氏
≒ 舎利弗 、と、
モッガラーナ氏 ≒ 目連 、は、
初め、 サンジャヤ氏への弟子であった、
と、伝えられている。
この思想は、 ジャイナ教の、
スヤード・ヴァーダ 、と似ている。
不可知論的な傾向は、
ブッダの時代に濃厚にみられるが、
このような思想風土が、
自己と他者の思想ら、の、
白黒をはっきりさせないで、両立させる、
文化多元主義の基盤になっている。
釈迦牟尼 ≒ シャカムニ
≒ ブッダ ≒ お釈迦様 、は、
社会倫理として、 成し行うべき事ら、 と、
それらを成し行う目的な事や、
それらを成し行う事においても、
心持ちの、 在るべき、 在りようら、
についてまで、
修行者らと、一般信者らとに分けて、
具体的に、詳しく述べており、
それらを成し行う事への妨げに成る、
特定の問答などの行為らについては、
しない、
という、 行為、や、 応対の在り方を成す、
事を選び行っており、
それらを成し行う事の足しに成らない、
色々な、哲学上
≒ メタ・フィジクス上
≒ 形而上学上 、 の、
問答事項らについて、 見解を問われても、
答えず、
各々の、好きな様に考えさせるがままとし、
どんな思想の人々であれ、
その思想事項らが、
釈迦牟尼の勧めた、
行為らを成し続ける事を妨げる、
障りに成らない事を示し続けた。
キリスト教徒でも、 イスラム教の、
何とか派の信徒でも、
各々の戒律事項ら、 等を守り行う、
事を妨げない限りは、
悟りを開く道をゆく為の事らを、
成し続ける事ができる。
古い、 キリスト教の聖人らの中には、
釈迦牟尼を元にした人物が居たが、
倫理的な自律性よりも、 羊らの立場にある、
信徒らを、天国へ導くべき、 牧する者である、
教会の長らに従う、他律性を、
信徒らが優先する事を重く観る、
立場にあった教会は、
釈迦牟尼について、
より、 具体的な情報事項らを得ると共に、
キリスト教の聖人の立場から、
彼の投影された人物を外した。