@ 応仁の乱までの近畿の周辺の大名らは、 十代以上に渡る、家政組織を持つ、
@ 家康氏は、 関白 = 豊臣家 、 が、
@ 平家を滅ぼして、武士の頂点に立った、 頼朝氏は、 右近衛大将に任命させたが、
@ 後世から見たら、 色々と、
それなりに由緒正しい家格の家々だった。
が、 戦国的な争乱により、
下克上が普遍化してゆくと、
伝統的な旧族大名らから見れば、
まともな家政組織も無い、
織田信長氏の家の様な連中が台頭してくる。
信長氏の政権構造は、 全てが、
信長氏の元に収斂する、 ワンマン体制で、
信長氏自らは、 政権の継承は、
家政組織の安定化によるのではなく、
信長氏−信忠氏、という、血縁関係による、
としか考えていなかった可能性もある。
これは、 重臣でも、働きようが足らなくて、 気に入らなければ、 次々に解雇する様な、
( 社会保障性を欠いた ) 、
不安定な体制を成した事からも首肯できる。
秀吉氏も又、 こういった、
信長オーダーの申し子であり、
織田以上に貧弱な家政組織しか持てない、
秀吉氏が、 手本に出来る物は、 やはり、
信長氏の政権構造しかなかった。
中世の日本の社会構造を変革する事は、
信長氏−秀吉氏の様な、
非伝統的な君主以外には、 でき得なかった、
にも拘らず、 非伝統的であるが故に、
政権の継承には、 失敗し易い、 ジレンマ
≒ 相反性、 矛盾性 、 が存在した。
この政権を最終的に受け継いだのが、
非伝統的ではあるが、
十代前後の家政組織を持ち得ていた、
徳川家だ、 という事は、 興味深い。
@ 家康氏は、 関白 = 豊臣家 、 が、
既にいたから、 将軍になっただけで、
誰も、将軍職を最終的な御留 ゴル ≒
ゴール 、と、思っていなかった。
源氏員でないから、なれなかったって説は、 徳川側のデマ。
@ 平家を滅ぼして、武士の頂点に立った、 頼朝氏は、 右近衛大将に任命させたが、
この役職は、京都在住が、必須だった ≒
必ず、すべき事だった 。
そこで、 頼朝氏が目をつけた宛 アテ ≒
対象 、が、 京都に在住する必要がなく、
かつ、 最高の軍事司令官だった、
征夷大将軍であった、 と、 いわれている ≒
諸説あり 。
以後、 鎌倉政権は、
京都の朝廷とは距離を置いた、
独自の仕組みで、 全国の、
『 武家所領らだけを 』 、
間接的に統治し続け、 それが、
室町幕府に継承されて、 いつしか、
武家員らへの総帥 ≒ 征夷大将軍 、
と、見做される様になった。
@ 足利家なんて、 正に、
権威でしかなかったから。
征夷大将軍 セイイタイショウグン 、
になれば、 権力を握れる、 という、
概念が無かったのかもしれない。
それよりは、 権威の根本である、
朝廷に食い込んで、 朝廷の権威でもって、
豊臣家が、 権力を行使する事を、
人々に認めさせ、
朝廷による冊封を成す形で、 大名らをして、 豊臣家に臣従させる、って事を考えたんだ、 と思う。
これは、 信長氏も、同じ。
自らが、 権威 ( 性と一体に ) 、
になろうとしていた。
手は在ったんだと思うが、 最後まで、
秀吉どんの、個人商店のままって感じ。
創業以来の、 大番頭の弟が死んで、
名物社長の秀吉どんが死んで、
奥さんが愛想を尽かして、
残った妾腹の子を、 丁稚上がりの、
石田三成どんが担ぎ損ねて、
同業他社で、 経営手腕に勝る、徳川に、
美味い事をやられた挙句に、 経営が頓挫し、 シェアをゴッソリやられる。
今の世でも、出来すぎた、父ちゃん母ちゃん企業に良くある話。
個人の才能やエンジンが必要な時期、
大きくなり、リスクを分散すべき時期、
上手く後継に譲るべき時期、
色んな段階で判断を間違うと、歯車が狂う。 組織規模がデカイ程に、狂いも大きくなる。
個人事業主なんで、 他人事とは、
思えないんですわ。
@ 豊臣家の直轄地と、
統一後の徳川家の天領の石高を考えたら、
秀次氏が、 そのまま継いでも、
鎌倉室町の三の舞だったんじゃないかね。
@ 豊太閤の予定では、
シナに領地を成し、 それを基に、
日本内の大名らを圧倒し得る筈だったが、
死期が、予定より早く来て、
その事業などが頓挫した。
@ 関白 ≒ 天皇陛下の代理人 。
征夷大将軍 ≒ 征夷に関してのみ、
陛下から、権限を貸し与えられた、
陛下の代理人 。 本来は、こんな感じ。
当時は、 武家員らへの統率に関して、
関白も将軍も、大差の無い、失墜振りだったので、 秀吉氏的には、 武家へは、自力、
公家へは、官位で、
巧く、政治を進める気だったろう、と。