@ 封建的な社会や、 それに類する社会らにおいては、 家代々の文化的な遺伝事として、 謀り事を成す事を、常に、心がけ、
等張や、 等張に成り得る、氏族ら等 、
に対して、 何代を掛けてでも、
罠を張り巡らし続け、
その罠の網を拡充し続けて行き、
その為に動員できる郎党らに類する、
が、 表立っての社会交際上は、
自家とは、何の繋がりも無さそうな、
人々を仕立て、
他の氏族らの主導者ら等に、
ありもしない過失などを設定して、
公にもし、 明るみに出して、
公権力により、 処罰させ、
その氏族らの勢力が、 削がれる度合いが増す様に段取りする事を、 代々に、 ひたすら、
繰り返し、
その広範囲性と熟練性などを増し得ても行く様にし、 表では、 偶然付帯性らや、
人々への心配り等に努め得た事などのお蔭で、 幸運らに恵まれたかの様に、振る舞って、
政権への独占性を増してゆく、
といった事への、 志向性らが、
刻印され得ている度合が、
一定以上に高い事らがあり、
代々の主導者らの誰彼らが、
そんな文化的な遺伝事らを、
能く活かし得た度合いが、
一定以上に高かった、藤原氏と、北条氏は、
政権への独占性を代々に高めて行き得た。
北条氏の主導者らは、 能く、藤原氏らの実演し得た、歴史的な事らと、その裏に在り得ていて当たり前な事らとを、 案じ踏まえ得て、
政権を子孫員らに独占させる所へ、
至らしめ得た。
@ 信長氏があっての秀吉氏。
秀吉氏があっての家康氏。
征夷大将軍が正解だなんて話ではない。
@ 豊臣、なる、 新たな氏を創って貰って、 賜 タマワ る、とかは、 将軍になるより、
何千倍も、 権威が有るから。
@ 将軍が最高とか思われてるのは、
徳川家の、260年の間の、 ひたすら、
将軍家を神聖視させる政策が続いた結果だ。
@ 徳川家も、 太政大臣や内大臣とかを、
朝廷から授けさせている。
これらは、 奈良時代からの、
実務を担当しない、 名誉職とはいえ、
公武に渡って関わる様にはしていた訳だ。
そんな名誉職どころか、
公家と武家の両方にまたがる、実務を担う、 地位が、 令外 リョウゲ 、 の官職ではあるにしても、 関白だった。
@ 徳川が、 何代もかけて、征夷大将軍が、 日本を統治する実積を重ねたから、
将軍が、日本の統治権を持つ様に思わせ得たが、 当時は、 直前の室町幕府に統治性が無く成っていたから、 関白が統治する形を、
実験的に行っただけやろ、 豊家は。
@ 江戸以降の価値観に引きずられすぎだ。 あの時点では、 征夷大将軍は、名ばかりで、 実権がない印象が強すぎる。
鎌倉幕府も室町も、 初期の数代しか、
将軍に、 実権がない。 だから、
千6百3年の当時は、まだ、 豊臣の下だった家康氏が、将軍になれたんじゃないの。
@ 両方とも、令外の官だが、官位相当だと、
明らかに、関白の方が上。
関白は、 皇太子より上位。
太政大臣になってんのが、
将軍をやる訳がない。
ハクをつけるべく、藤原氏の養子になれば、 行く方向は決定された。
@ 将軍も、 江戸幕府までを見ている、
現代人だから、 重きを置く訳で、
秀吉氏らの時代の人らには、
直近〜少し前の幕府まで見ても、
失敗例にしか見えんだろ。
家康氏には、 日本を実効支配するだけの力があったってだけで。
@ 鎌倉で、 覇権を成し、
京の中央政権にも影響を及ぼせる様になった、 源頼朝氏だが、 正式な官位や官職でもって、 支配していた訳じゃないから、
ただの反乱軍の頭でもあった。
朝廷から、 右近衛大将の位を貰えたので、
合法な立場を得たが、
敵の源義仲氏が、 征東大将軍だったので、
東国を支配する大義名分を欠いていた。
そこで、 東国を平らげるのに相応しい、
官職を探して、 得たのが、
不在になって久しかった、 征夷大将軍だ。
朝廷の中央政権に、 影響を与えつつ、
東国を拠点にする、 合法性が欲しかった、
だけで、 天下人として、
将軍になった訳では、ない。
この位につけば、 関東以東を平定する、
合法な、大義名分を得られ、 それをもって、 武家員らへの、棟梁として、政権を成す、
言い訳に出来た。
鎌倉幕府が滅びると、
鎌倉幕府が滅びると、
滅ぼした事を正当化する様に、 自らが、
征夷大将軍に就任したのが、足利尊氏氏。
それを更に高い地位に推し上げたのが、
足利義満氏であり、 徳川家康氏だ。
義満氏の頃から、 征夷大将軍 ≒
天下人 、 という観念性がついてきて、
完成したのが、 徳川の時代って感じ。