@ 秀吉太閤 タイコウ は、 公家と武家の両者の頂点となる道を選んだ。
その方が、あの当時は、全国を統治する事
( の度合を高める事 ) を、容易にできる、
との、観通しが、豊太閤らにあったから。
室町幕府の失敗例が存在した事も、
要因事らの一つだ。
逆に、 家康氏は、公家の頂点になりたくても、 秀頼氏が存命中には、成れなかった。
( 秀頼氏へ期待する有力者らも、
一定数以上が存在して居り、
徳川氏の、やる事らとやらない事らへの、
批判度の高い人々は、 豊臣秀頼氏ら、を、
盛り立てる方向へ圧力を掛ける、きらい ≒
傾向性 、もあり、
公家の頂点ではない立場から、 徳川氏は、
自らの一極支配の妨げに成り得る度合いが、 一定以上に高い人々や、 高く成りそうな人々の勢力らを、 その対立性を煽る等して、
削いでゆく必要性があり、
その必要性が無い程、
可能的な敵らを弱体化し得た後には、
関白から、太閤に成る、
政治・軍事的な必要性が無く成っていた ) 。
家康氏は、 武家の頂点にしかなれなかったが、 強固な基盤を築き、 将軍の世襲化に成功した事もあって、安定した政権を成した。
@ 全国を統一した時点で、 羽柴秀吉氏に、 20代の息子が複数人がいたとしたら…。
将軍になった時点で、 家康氏には、
幼齢の息子が一人しかいなかったとしたら…。 後継って、やっぱ、重要だわ。
@ 明への朝鮮への出兵は、 具体的な戦略目標が、結局は、達成できなかった事もあって、 判っていないから、 失策に見える人らもいる様だが、 やっている事は、 天下統一を目指して、九州や、関東を攻めていた頃と、
余り変わっていない。 その延長線にある。
臣従したばかりの大名らを、
同じ戦線へ投入する事で、 まがりなりにも、 同盟軍や戦友としての意識を芽生えさせ、
それによっても、戦国乱世への逆行へ、
歯止めを掛けよう、という意味合も持っていた事だった。 こんな事は、 秀吉どんじゃなくても、 世界中で同じ類な事が行われて来ている。
@ 世界中を侵略中な、 スペインら、
への、 予防的な示威行為としては、
明への出兵は、成功し得た行為、
とも、 観成し得る。
資料らの、 更なる発掘が、待たれる。
@ 関ヶ原により、 家康どんの対抗勢力らが、 一掃されたってのは、 違う。
あの戦いは、 かなり、 なし崩し的な展開の仕方をしている。
家康どんの敵らの全てが、
石田方についた訳でもないし、
家康氏に従ったから、 完全に、
味方として取り込めた訳でもない。
徳川への対抗勢らを弱体化させて行けたのは、 幕府を開いた後に、 実力も名声もある、 大大名らを、改易したり、断絶させたりして、 徳川一極体制を目指した事と、
大坂の陣らで、勝ち、
何より大きいのは、 二代に三代と、
将軍家が、盤石な形で受け継がれていった事が、 成り立ち得た事らによる。
関白だの将軍だのという地位の問題は、
ほとんど、関係がない。
@ 徳川氏は、 北条氏の旧領などの関東に勢力を築けたのが、大きい。
東に睨 ニラ みを利かせ得る、意味合いと、
朝廷から距離をとれるし、
譜代の大名らも揃 ソロ えられる。
失敗例の鎌倉幕府を修正できる、
と、踏んだ所もあるのだろう。
@ 源頼朝氏も、 家代々の郎党らではなく、 他の武家らの勢力に乗っかる形で、
政権を成したので、 家政の延長線上に、
武家らを統御する度合を成す所が足りなくて、
北条氏らに、三代で滅ぼされた。
自家勢力が一定以上にある事は、
自家政権を永続きさせる上で、
大きな有利性がある事を意味し得る。
兄弟の義経氏らを、 家臣化してゆく事に、
失敗して、 滅ぼして行った事は、
北条氏らには、 自家が、 あり得る、 政権を牛耳 ギュウジ り得る、 可能的な度合いを高め得てくれる事でもあった。
頼朝氏の兄弟や甥ら等が、
幕府の要職らを占めてゆく事態を、
未然に阻止し得る様に、 北条氏などの、
有力御家人になるに至る者らは、
情報らを操作し、
頼朝氏の兄弟や叔父ら等が、
頼朝氏との連帯性を深めずに、
対立する様に、 計らい続けもしただろう。
家代々の主導者らへ、 謀り事を駆使して、
有力に成り得る、 他の氏族らを罠に掛けて、 段々と、 何代を掛けても、滅ぼしてゆくべき事を伝え得た、 度合いが一定以上にあった、 藤原氏と、北条氏は、
そんな文化的な遺伝性を欠いた、等張 ラバル ≒ ライバル 、な氏族らの勢力を削いだり、 滅ぼし得たりして、
自家の子孫員らが、 政権を実質的に独占して、 運営できる様にし得た。
文化的遺伝事項らが、何かも、極めて重要だ。