その、 1514年な、 永正11年の出来事 ;
2月13日 ;
播磨守護の赤松義村
( あかまつ よしむら ) 、 が、
一向宗 ( いっこうしゅう ) 、 を弾圧。
4月9日 ;
大舎人座 ( おおとねりざ ) 、 による、
絹織物の独占販売を、 幕府が承認 ≒
足利幕府側は、
それからの税収の確実性などを見込めた。
4月10日;
幕府が、
『 故戦防戦 ( こせん ぼうせん 』
禁止令を発布 。
8月6日;
醍醐寺 ( だいごじ ) ,の、
寺領に住む、 農員らによる、
勧修寺 ( かんじゅじ ) 、 での、
乱暴を、 幕府が仲裁 。
10月28日;
大和で、 雨乞いのための能舞台が開催。
能が、 神々や、 それに類する、
精神性のある主らを左右し得る、
呪術性を成してもあり得るもの、
と、 一定数の人々に観られていた事を、
うかがい得る。
12月13日;
越前守護の朝倉教景
( あさくら のりかげ ) 氏によって、
逃亡した、 百姓たち ≒
農員らだけ、 とは、 限らない、
様々な、 職業や、 社会的な立場の人々 、
が、 帰参 ( きさん ) 。
某月某日;
大豊作だった東国で、 物価が急落。
☆ 時の将軍 ;
☆ 足利 義稙 ( あしかが よしたね )
氏は、
室町幕府の、 第十代の征夷大将軍。
父は、 室町幕府の、 第8代の将軍の、
足利義政氏の弟で、 一時は、
兄の養子として継嗣に擬せられた、
足利義視氏。
母は、 裏松重政氏の娘で、
日野富子女史の妹に当たる人物だが、
名は、 伝わらない。
初名は、 義材 ( よしき ) 。
文正元年の、 7月30日
≒ 1466年、 の、 9月9日 、 に、
足利義視氏の子として、
父の近習の、 種村九郎氏の邸で生まれる。
平清盛氏が、 太政大臣に成った、
1167年の、 丁度、 3百年後に当たる、
翌 アク る、 応仁元年な、
1467年、の、 1月に、
『 応仁の乱 』 、 が勃発すると、
父の義視氏は、 その兄である、
第8代の征夷大将軍の、足利義政氏と対立して、 9月には、 東軍より、
山門に出奔し、 ついで、 西軍に身を投じた。
この時に、 東軍の武田信賢氏が、
義材氏を護り、 西軍に送り届けた、 という。
文明5年な、 1473年に、
義政将軍の子の、足利義尚氏が、
第9代の征夷大将軍となり、
文明9年な、 1477年、の、
11月に、 応仁の乱が終結すると、
義視氏と義材氏な、 親子は、
西軍の一角であった、
美濃国の土岐成頼氏、と、
斎藤妙椿氏の庇護のもとに、 革手に下向し、
翌る、 文明十年な、 1478年、の、
7月に、
大御所の、義政氏と、 義視氏との和議が、
正式に成立した後も、
美濃国に留まり続けた。
義材氏は、 長享元年な、 1487年、の、
1月2日に、 自らへの従兄弟である、
義尚氏への猶子 ≒ 養子 、 として、
元服し、 同い年の8月には、
義尚氏の母である、 日野富子女史
( 義材氏の、 母方の伯母でもある ) 、
らの推挙で、
美濃に在国のままで、
従五位下 ジュゴイゲ
・ 左馬頭 サマのカミ 、 に叙位された。
長享3年な、 1489年、の、
3月26日、に、
義尚将軍が、 旧西軍であった、
近江国の、 六角高頼への征伐
( 長享・延徳の乱 ) の、
在陣中に、 死去すると、
父の義視氏、や、 土岐成頼氏、と、
斎藤妙純氏に伴われて上洛して、
義尚将軍の葬儀に参列しようとしたが、
この時は、 細川政元の反対で、
やむなく、 葬儀が終わった後に、
入京している。
政元は、 義尚将軍と、
義材氏への従兄弟で、
堀越公方な、足利政知の子の、
香厳院清晃氏
( 天龍寺香厳院を継承し、
出家していた、 後の足利義澄氏 ) 、
を、 将軍への後継者候補に推して、
義材氏の将軍職の継承に反対していたが、
義政氏と富子女史の夫妻が、
義材氏を支持したために、
義材氏の将軍への就任が、 ほぼ決定し、
翌る、 延徳2年な、 1490年、の、
1月には、 義政氏が死去し、
義材氏が、 第十代の将軍に就任した。
☆ 明応の政変 ;
当初は、 政治の実権を握り、
「 大御所 」 、 と称した、 父の、
義視氏が、 延徳3年な、 1491年、の、 1月に死去した後は、
前の管領 カンレイ 、の、
畠山政長氏と協調して、
独自の権力の確立を企図するが、
擁立への功労者であった、 富子女史や、
元は、 清晃氏への支持員であった、
細川政元 ( 一時は、 管領となったが、
すぐに辞任 ) 、 とは、
対立性を生じることになった。
同い年の8月に、 義尚将軍の遺志を継ぎ、
政元の反対を押し切って、
六角高頼への征伐を再開し、 みずから、
近江国に出陣して、
高頼の追放に成功している。
明応2年な、 1493年、の、
2月には、
応仁の乱の終結後も分裂状態が続いていた、
畠山氏において、
畠山政長氏への対抗者である、
畠山義就氏が死去したのに乗じて、
義就氏への後継者の、
義豊氏を討伐するべく、 またもや、
政元の反対を押し切って、
畠山政長氏らを率いて、 河内国に赴いた。
しかし、 義材将軍が、
京都を留守にしている間に、
京都に残っていた、 細川政元と、
日野富子女史、や、伊勢貞宗らは、
同い年の4月に、 清晃氏を、
第11代の征夷大将軍に擁立して、
義材将軍を廃する、 政変
( 明応の政変 ) 、 を起こした。
政元の政変の最大の原因は、
義材将軍が、 将軍への就任時は、
政務は、 当時の管領だった、
政元に任せる、 と言いながら、
成長すると、
自ら、 政務を行おうとしたこと、
すなわち、 将軍と管領のどちらが、
幕政の主導権を握るかにあった、
と、 みられている。
政元の細川氏らは、
足利氏の身内員らではあっても、
足利氏への家来と成った、
歴史性を成してあった者らであり、
斯波氏や、 畠山氏らのように、
足利将軍家へ対する、 身内員ではあっても、
家来ではない、
対等な立場で、 足利幕府の、
管領などの要職を占めた人々とは、
歴史的な立場の異なる人々であった。
京都では、
義材派の人々への粛清が行われて、
市中は、 騒然となり、
自分が任命した将軍の廃立に怒った、
後土御門天皇は、 一時は、 抗議のために、
退位を表明し、 その後も、
政変を、 なかなかに、承認せず、
そのために、 清晃氏への、
征夷大将軍の宣下は、 政変から、
8ヶ月以上を経た、
12月27日に行われた。
政元は、 軍を河内国に派遣して、
義材将軍と畠山政長氏らを打ち破り、
政長氏は、 自害した。
義材将軍は、 尊氏氏以来の、
足利将軍家に伝わる家宝の甲冑な、
「 御小袖 」 、と、 「 御剣 」 、
だけを携えて、 政元の家臣な、
上原元秀の陣に投降し、
京都に連れ戻されて、 龍安寺に幽閉された。
この時に、 義材将軍が、 毒を盛られる、
事件が起き、
富子女史からの指示によるものだ、
と、 噂された。
幽閉された義材将軍は、
瀬戸内海の小豆島へ流されることを知り、
明応2年な、 1493年、の、
6月29日に、 側近らの手引きで、
京都を脱出して、 畠山政長氏の領国である、
越中国の、 放生津に下向し、
政長氏への家臣な、神保長誠氏を頼ったために、 越中公方 ( 越中御所 ) 、
と、 呼ばれた。
この時の義材将軍は、
単なる、 無力な逃亡者ではなく、
越中国で、 それなりの陣容を整えた、
政権を樹立していることから、
後の足利義維氏の、 「 堺幕府 」 、や、
足利義昭氏の、 「 鞆幕府 」 、 にならい
「 放生津幕府 」 、 などと、
呼ぶこともある。
明応7年な、 1498年、の、
9月に、 政元側との和睦交渉が進展した、
という、 認識から、
義尹 、 と、 改名した、 義材将軍は、
越前国の朝倉貞景氏のもとへ移った。
が、 政元との和睦は、 不調となり、
朝倉貞景氏や、 畠山政長氏の子の、
尚順氏と同調して、 軍事攻撃による、
上洛へと、 方針を転換した。
延暦寺に、根来寺と、高野山の僧兵も、
義尹将軍に呼応して、 一時は、
近江国まで、 迫ったが、 坂本で、
六角高頼に敗れ、
河内国に逃れたが、 ここでも、
政元に敗れて、 かつて、 大内家が、
応仁の乱で、 父の義視氏を奉じて、
西軍に属した縁を頼って、
周防国に逃れ、
大内義興氏のもとに身を寄せた。
畠山尚順氏も、 河内国を失って、
紀伊国に逃れた。
永正4年な、 1507年に、
細川政元が暗殺されて、
政元の3人の養子らの間で、
細川家が分裂状態
( 永正の錯乱 ) 、 に陥ると、
義尹氏は、 将軍への復帰の好機と見て、
永正5年な、 1508年、の、
4月に、 大内家の軍事力に支えられ、
細川家の後継者候補の内の、
細川高国らの勢力に迎えられて、
中国地方や、 九州の諸大名とともに、
山口から、 尾道、と、 鞆を経て、
海路で、 上洛しようとする。
同い年の4月に、 堺に到着。
同い年の6月に、 京都を占領して、
第11代の征夷大将軍の、義澄氏、や、
高国と対立していた、 管領の、
細川澄元を追放し、 7月には、
将軍職に復帰した。
その後も、 義尹将軍と義澄派は、
将軍職をめぐって、 抗争する。
永正6年な、 1509年、の、
十月には、 義澄氏に、 刺客を送られたが、
義尹将軍は、 自ら、 これを撃退した。
永正8年な、 1511年、の、
8月の、 船岡山合戦の直前に、
義澄氏が病死し、 さらに、 この戦いにも、
義尹派が勝利したために、
義尹氏の将軍職への復帰が確定した。
明応の政変において、
足利将軍の将兵らは、 解散され、
その、 再結集を差し止められる、
手立てな事らが、成された事は、
足利将軍による、 独裁性を成す上で、
決定的な障害を成すものだったが、
義尹将軍の政権は、
管領となった、 細川高国や、
管領代と称された、 大内義興氏らの、
軍事力によって支えられていたために、
親裁志向の強い義尹将軍としては、
意のままにならないことも、多く、
永正5年な、 1508年、の、
8月に行われた、
将軍への復帰の直後の、 最初の御成先に、 畠山尚順上の宿舎を選んだ
( 尚順氏を、 将軍への復帰の、
最大の功労者と認定したことになる )
、 ことで、
大内義興氏が、 これに抗議するために、
宴会を途中で退席して、
細川高国も、 これに同調し、
永正9年な、 1512年、の、
3月に、 後柏原天皇が、
義尹将軍の意向に反して、
大内義興氏を、 従三位 ジュサンミ 、
に叙し、
永正十年な、 1513年、の、
3月には、
細川・大内・畠山の諸氏と対立した、
義尹将軍が、 一時は、 京都を出奔して、
近江国の甲賀郡に逃れた上で、
当地で、 病を発し、
義稙 ヨシタネ 、 に改名した。
これに対して、 4月に、
細川高国・大内義興・畠山尚順
・畠山義元の連名で、
将軍の下知に背かない旨の起請文が、
作成され、
回復後の同い年の5月に、
和解が成立して、 先の4名や、
伊勢貞陸が、 甲賀郡まで、
義稙将軍を迎えに行き、 京都に戻った。
だが、 永正14年な、 1517年には、
義稙将軍の拒否にも関わらず、
細川高国の判断によって、
伊達高宗氏に偏諱
( 「 稙宗 」 ) 、 が与えられて、
左京大夫に任官された。
元から、 足利幕府においては、
足利将軍家の身内員な、 武家員らが、
親類として、 対等な立場で、
その要職らを占めて来てもあり、
足利将軍家への、 家来として、
足利将軍家に仕えるべくある、
歴史性を成してあるのは、
細川氏員らなどの者らだけであったので、
徳川幕府の大名らが、
徳川将軍家への直の家来として、
徳川幕藩体制に参加させられていた、
のとは、 甚だしく、 事情が異なり、
畠山氏員らや、 斯波氏員らなどは、
その役職の目的とする事らを、
忠実に成し行うべきではあっても、
足利将軍家の意向の実現などに、
忠実であるべき立場には、 無かった。
これより前の、 第6代の征夷大将軍の、
足利義教氏が、 自らの息のかかった、
側仕えの者らを、
その氏族の長に据えようとした事は、
彼の先祖が、
身内な、 細川氏員らを、 足利将軍家への、
累代の家来とし得たように、
幕府の要職らを占めるべき者らを、
足利将軍家への直臣らへ入れ替えてゆき
得べき、 方向性をも示す事でもあった。
永正15年な、 1518年、の、
8月に、 大内義興氏が、
その領内の事情などから、
管領代を辞して、 帰国し、 続いて、
畠山尚順氏も、 同様の理由で、 帰国すると、
残された義稙将軍と、細川高国は、
次第に、対立性を深めていった。
大内義興氏の帰国により、
義稙将軍への軍事的支えが無くなり、
これを好機と見た、 細川澄元が、
蠢動し始めたことから、
永正15年の、 12月に、
義稙将軍は、 赤松義村氏へ、
澄元や、その家臣らを成敗するように、
命令を出している
( 『御内書案』 。
そして、 阿波国に逃れていた澄元は、
永正16年な、 1519年、の、
十月に挙兵し、 11月には、
摂津国に上陸し、 義稙将軍は、
その11月3日に、 赤松義村氏へ、
細川高国に味方するように命じた。
永正17年な、 1520年、の、
2月に、 細川高国は、 尼崎で大敗し、
京都へ敗走し、 2月17日に、
高国は、 義稙将軍に、 一緒に、
近江国へ逃れるように、 申し出たが、
義稙将軍は、 これを拒否した。
既に、 義稙将軍には、
細川澄元から、 恭順を誓う、
書状が送られており、
近江国へ逃れた、 高国に代わって、
3月に、 澄元の家臣の、
三好之長が入京した。
近江国で勢力を回復した、 高国が、
5月5日に、 等持院 ( 京都市の中京区の、 等持院北町の付近 )、 で、
澄元を打ち破って
( 等持院の戦い )、 再び、 入京し、
澄元は、 阿波国へ逃げ帰った。
義稙将軍と細川高国の仲は、
険悪なものとなり、
大永元年な、 1521年、の、
3月7日に、
自前の軍隊を結集し得ていた、
度合いの足りなかった、 義稙将軍は、
和泉国の堺に出奔した。
これに従ったのは、
側近の畠山順光氏や、 極一部の奉行人らの、 数名のみで、
政所頭人の伊勢貞忠や、
奉行人のほとんどは、 京都に留まって、
義稙将軍を見限ることになった。
また、これが、 同月に予定されていた、
後柏原帝の即位式の直前のことであった為に、 陛下は、 細川高国に、
即位式への準備を命じて、
予定通りに挙行させた。
高国は、 義稙将軍に代わる、
新将軍として、 11代将軍の、
義澄氏の遺児の、足利義晴氏を擁立した。
義稙将軍は、 和泉国から、
淡路国の、 志筑浦に逃れ、 ここで、
再挙を図って、 細川高国と抗争した。
高国の妻の兄弟である、
和泉守護の、細川澄賢氏
( すみかた、 政賢氏の子 ) 、や、
河内守護の、 畠山義英氏らを味方につけて、
十月には、 堺まで引き返すが、
兵が集まらなかったために、
高国にかなわず、 その後は、
沼島で、 しばらく潜んでいたが、
再起のために、 細川讃州家の許に赴いた矢先の、 大永3年な、 1523年、の、
4月9日
( 5月23日 ) 、 に、
阿波国の、 撫養
( 現在の、 鳴門市 ) 、 で死去した
享年は、 58 ( 満 56歳 、で没 ) 。