◆英霊は、 台湾の地にとどまり、人々を支えた;

終戦を迎えると、 日本は、 
台湾への領有権を放棄し、
中華民国の国民党政府が、新しい統治者となった。


そして、 ある時期に、 不思議な現象が起きた。
同じ内容の夢を見たという住民が、 複数、で、 
現れたのである。

その夢とは、 白い帽子と服を着た若い兵士が、
枕元に立っている、 という内容だった。

また、この一帯には、養魚池がたくさんあるが、
その傍らに、 海軍の夏服らしきものを着た、
白装束の青年が、 夜な夜な立っている、
という、 現象も起きていた。

人々は、 これを、 名刹 ( めいさつ )
朝皇宮の保生大帝に伺いを立てた。

保生大帝は、 台湾で、 広く信仰の対象となっている存在で、 「 医学の神 」 、 と、 称される。

あらゆる病らを治癒する力を持つとして、
あがめられている。

ここで、 人々は、 
「 その人物は、 この地で、 命を落とした兵士である 」 、 という、 回答を得た。

そして、 人々は、 その兵士とは、 
集落に墜落することを回避し、 絶命した、
杉浦氏に違いない、 と、 判断した。

すでに、 終戦から、 20年以上 、 という、
歳月を経ていたが、 
杉浦氏の悲劇は、静かに語り継がれていたのだ。

1971年に、 人々は、 4坪ほどの、 
小さな祠を建てた。 その後に、 
この地域には、 平穏な日々が続いた。
人々は、 これを、 集落のために、自らの命を捧げた、 杉浦氏の遺徳 、 と考えた、 という。

当時は、 中華民国政府が、
徹底した言論統制を敷き、排日政策をとっていた。

日本兵を祭る、 この廟に対しても、
さまざまな嫌がらせをしてきた、 が、
人々は、 あくまでも、 飛虎将軍を、
自らへの守護神とし、あがめてきた。

御利益も大きく、参拝者は、増えていった。
そして、 1993年に、 祠は、 建て替えられ、
現在に至っている。


◆日本から贈られた、 みこし ;

朝皇宮は、 台湾でも、 屈指の規模を誇る、 
廟である。
配下には、 いくつもの廟や祠があり、
祭事には、 多くの神像らが、 
朝皇宮への詣でを行なう。
この時に、 神像は、 
みこしに載せられて移動するが、
飛虎将軍廟には、 この、みこしがなかった。

管理委員会の、 呉進池会長によると、
杉浦氏は、 お告げの中で、
純日本式の、みこしを所望していた、というが、
これは、 容易には、 実現せず、 時が流れた。

そんな中で、 全国で、 様々な講演活動を行なっている、 クロフネ・カンパニーの中村文昭代表が、
有志を募り、 飛虎将軍廟に、みこしを贈る、 
プロジェクトを立ち上げた。
このみこしは、 2千15年の、 3月10日に、 
奉納式が行なわれ、
新しい飛虎将軍廟の信模 シンボ ≒ 
シンボル 、 となった。

頂部には、 金色の零戦新型戦闘機が据え付けられ、遠くからでも、 よく目立つ。

みこしの初舞台となったのは、 
同年の、 4月30日。
神像は、 日本から贈られた、みこしに乗って、
朝皇宮に向かった。

この時は、 飛虎将軍廟に関心を寄せる、
総勢が、 2百名もの、 日本人たちが、
現地に駆けつけ、 晴れ舞台を祝った。

これは、 杉浦氏の英霊が、 現代に向けて遺した、 交流の種子 ( たね ) が、 開花したもの、
と、 言えるだろう。

現在、 このみこしは、 朝皇宮に安置されている。


◆飛虎将軍を慕う人々の「心」 ;

では、 人々は、なぜ、 杉浦氏を慕うのだろうか。

これには、 複数の要因らが考えられる。
まず、 台湾の人々は、物故者をいたわる気持ち、
中でも、 戦没者を憐れむ気持ちが強い。

たとえ、 他人であっても、 無念な死を遂げた者をいたわる気持ちは、 日本人が考える以上に 、
強い 、 と言っていい。

同時に、 日本人に対しては、
日本統治時代、 という, 半世紀、を、 
環境の違いこそあれ、 戦争という悲劇の下で、
苦楽を共にした、 仲間意識のようなものもある。

さらに、 年長者や、 先人に、先輩を敬う心が、
強い、 という一面も、大きく絡んでいるだろう。

さまざまな御利益を、 飛虎将軍廟が人々に与えてきたことも、 大きい。

願い事をかなえてくれることや、
平安を保つこと以外にも、
遺失物の方角を教えてくれたり、
生きる指針を指示してくれたりする。

また、 最近は、 受験生が、合格への祈願に訪れ、
受験票のコピーを置いていったりすることも、
多い、 という。
このようにして、 飛虎将軍と地元住民の間には、 親密な関係が、 日々に、培われている。

また、 戦後になって培われた、 
対日感情というものも、考慮する必要がある。

戦後に統治者となった中国 ( 中華民国 ) からの移住者らは、 外省人 、 と呼ばれ、
自らは、 特権階級に収まりつつ、
言論への統制を敷いて、 人々を弾圧してきた。


そういった中で、 隷属を強いられた、 
台湾の人々は、 冷静で、 かつ、 
客観的な判断において、 
統治者らを評価するようになった。


日本に対しても、 「 親日感情 」 などと言った、
単純なものではなく、
じっくりと、 その本質を見据えた上での、 
評価である、 と、 考えれば、
より深く、 台湾人たちの思いに、 
触れられるのではないだろうか。

飛虎将軍廟では、 朝夕の2回を、
たばこを、 神像に供える。

これは、 当時は、 たばこが、 
唯一の慰みとなっていたことにちなんでいる。
当時は、 20歳だった杉浦氏も、 
戦時下の苦境の中で、 
たばこを愛していたのだろう、 という、
人々の思いやりに、 胸を打たれる。

そして、 朝には, 「 君が代 」、
夕方には、 「 海ゆかば 」 、を、 
祝詞 ノリト 、として、 流す。

この儀式は、 1993年から、 
毎日を、 欠かさずに、 行なわれており、
筆者が、 初めて、 ここを訪れた際も、
直立不動で、 神像を見つめる信徒の姿が、 
印象的だった。

さらに、 飛虎将軍廟は、 地域の守護神として 、 だけでなく、
地域文化の一部を担う存在にもなっている。


近隣の安慶国民小学 ( 小学校 ) では、 
児童たちに、 飛虎将軍のエピソードを、 
郷土史として、 教えており、
学芸会では、 児童たちが、 
杉浦氏の人生を演じている。

このことについて、 前出の呉進池会長は、
「 飛虎将軍の心に触れ、 子供たちにも、 
他人を思いやる心を持ってほしい 」 、 と、 
語っていた。

若くして、絶命した、 杉浦氏は、
日本人や台湾人、 という、 区分を超越し、
台湾という土地の上で暮らした、 
一人の人間として扱われている。
人々の厚い信頼を得た存在になっている。


◆里帰りを果たした守護神 ;

2千16年の、 9月21日に、
飛虎将軍こと、 杉浦氏の神像は、
26名の信徒らとともに、 生まれ故郷である、
茨城県は、 水戸市に、 里帰りを果たした。

水戸市に在住の、 藤田和久氏の尽力によって、
計画が進められ、実現に至った。
飛行機については、 誰もが、 
神像が、 荷物として扱われることを危惧した、
というが、 幸い、
中華航空 ( チャイナエアライン ) が、
席の手配に応じた。 

22日には、 茨城県の、 護国神社で、
慰霊の儀式が行なわれた。

この日は、 あいにくの雨模様だったが、
儀式が始まると、 途端に、 小降りになった。
厳かな雰囲気の中で、 儀式は進められ、
滞りなく、終わった。

「 その後、 神像は、 一行と共に、
市内へ移動。 
午後には、 有志が担ぐみこしに載せられて、
近辺を練り歩いた。

杉浦氏の生家のあった場所には、
茨城県信用組合農林水産部のビルが建っているが、
ここには、 杉浦氏を紹介するパネルが設置された。

翌日は、 杉浦氏の出身校である、 
水戸市五軒小学校と、 三の丸小学校を訪問し、
児童と交流。
さらに、 隣の那珂 ( なか ) 市も、 訪ねた。

里帰りを済ませた後は、 静岡県の三島に寄って、
富士山を眺め、 京都へ向かった。

飛虎将軍廟への信徒であり、
台南市で、 日升大飯店、 という、 
ホテルを経営する、 郭秋燕さんは、
「 里帰りは、 もちろんですが、 
富士山だけは、 
どうしても、 見せてあげたかった 」 、 と語る。

このひと言にも、 信徒の思い、 そして、
虎将軍を慕う気持ちが、 表れているように思えて、
ならない。

日本滞在の最終日に、 一行は、 
住吉大社への参拝を済ませた後で、
関西国際空港から、 帰途に就いた。

郭秋燕さんは、
「 祖国にとどまりたい気持ちは、 
よく、 わかります。
しかし、 飛虎将軍には、 台南の人々も、
守ってもらわなければならないですから 」 、 と、 笑顔を見せた。

一週間にわたる飛虎将軍の、 日本での滞在は、 
ここに終わった。

水戸での行程を終えた一行は、 
特急の、 「 ひたち 」 6号に乗車し、
東京へ向かっていた。
誰もが、 それなりに疲れを感じていたはずだが、 皆、晴れやかな表情だった、 という。

列車は、 軽やかな走りを見せ、土浦駅を出発。
荒川沖駅を通過する直前に、 列車は、急停車し、
間もなくして、 走り出したが、
緊急停車の理由には、 触れられず、 なぜ、 
停止信号が出たのかは、 知るよしもなかった。

この場所は、 杉浦氏が訓練を受けた、
旧霞ヶ浦海軍航空隊予科練習部のすぐ近くであった。
まさに、 飛虎将軍にゆかりの地である。
まさか、 飛虎将軍のために、 列車が緊急停車したなどとは、 考えられないが、
郭秋燕さんは、
「 飛虎将軍が、 思い出の地に、 1秒でも、
長く滞在できてよかった 」 、 と、 
興奮気味に、その瞬間を振り返る。

その間、 わずか、 1分30秒。
もしかすると、 これは、 飛虎将軍と一行の思いが起こした、 「奇跡」だったのかもしれない。

片倉 佳史  KATAKURA Yoshifumi 氏 。


☆ 2017年の、 2月10日、に、 
中国中央人民ラジオのニュースサイトは、

中国で、 2015年の9月に起きた、 
ベトナム人女性の集団人身売買事件について、
誘拐から、 仲介、と、売買までが、一体となった、 
悪質な組織的犯罪について、 伝えている。


旅行や、アルバイトを名目に、 
ベトナム人女性を集め、
雲南省の国境から、 不法に、
入国させていた事件は、
雲南省、河南省、山東省、江西省などの、 
7省・市の警察当局の合同捜査により、 
16年の5月に、最後の2人の容疑者が逮捕された。


ベトナム人の花嫁を購入するために、
河南省から雲南省に来て、逮捕された、
22歳の男は、
「 違法だと知っていたら、ここには来なかった 」、
とし、
「 地元で、 結婚相手を見つけようとしても、
金がかかりすぎる。
見合いでは、 車だ、 家だと、
女性から突きつけられるハードルが高すぎる。
とても、支払いきれない 」 、 と、 打ち明けた。


公安部刑事捜査局の責任者は、
「 こうした人身売買は、 
女性の尊厳を踏みにじる行為だ 」 、 とし、
「 ベトナム人の花嫁を買っていたのは、
多くが、 農村に住む男性だ 」 、 と、指摘する。

( 翻訳・編集/ 岡田記者 ) 。