根途記事+論弁群 ;
☆ 豊臣の天下を続かせる上策は;
関東で反乱を起こさせる事が狙いなら、
やりようがあると思うんだよな。
さすがに、 秀吉太閤が直にやるのはまずいから、
かつて、 北条に圧迫されてた連中や、
徳川の関東入りをよく思わない連中に、
何個かクッションをおいて、資金援助したりとか。
@ 2012/07/14(土) 07:54:13.28
家康どんの関東移封は、 秀吉どんからしても、
妙策だった。
後年、徳川が政権をとったから、 この策は失敗などと言われるが、1590年の当時には、 家康どんが天下をとるなどとは、 万に一つも考えられない状況だった。
関東も奥羽も、一応は平定したが、 行政的には、
手付かずの状態で、奥羽への仕置きを行うには、
関東の安定が、必要不可欠。
史実では、奥羽仕置きは、 武装蜂起を群発させ、
結局、秀次関白を総大将として、大軍を送るはめになったが、
これも、関東が安定していたから、できた。
家康氏は、 敵地であった関東に、配下の大名ごと
( 甲信など ) 移封してきたが、
一揆のいの字も起こさせなかったばかりか、
同時進行で、 超大規模なインフラ
≒ 道路網や、 通信網に、 学校や、
病院などから成る、 社会基盤、 社会資本 、 への投資を行い、
江戸の町割りに、 水路と、中山道への整備や、
神社仏閣の建築を急ピッチで進めながら、
奥羽に従軍もしている。
秀吉太閤は、 家康領には、 太閤検地を実施しなかったが、これは、 裏をかえせば、
全てを、自己責任で処理せよ、という事で、
統治に失敗すれば、 厳しい咎めを受けることは、
必至だった。
家康氏は、 秀吉太閤の期待に応え、
関東への統治を大成功させたが、
更なる東国開発を口実に、 文禄五年に、
江戸金座の設立を許された。
最高権力者の証である、 通貨発行ができるようになったのだ ( 大判は、不可 ) 。
≒ 自らの制御できる、 経済系に、 人々を取り込む度合いを一定以上に高め得て、
それにもよって、 動員できる人々を押さえ得た 。
これによって、 関東以東の金は、 必然的に、
江戸に集まるようになった。
このあたりから、250万石の大名という以上の、
家康勢の巨大化が始まった。
@ 既に、 検知の行われていた地域で、
太閤検地は、実施されていないよ。
それに、 太閤検地は、 あくまで、
軍役規準のための数値であり、
生産性を把握したものではない。
例えば、 九州などでは、 太閤検地の数値が、
年貢の基準値になっていなかった事が解っている。
北條や今川、それを継承した徳川の、
生産性への把握の検地と、 太閤検地は、
全国検地という以上に、 性質・目的が、全く、
異なる。
@ その説に乗れば、
「 秀吉太閤は、 西関東の国人気質を、かなり、
見誤っていた 」 、 ということだろうな。
今では、多くの研究者らが指摘するところではあるが、
古利根川より、南西側の西関東は、
鎌倉期以来、 「 強き者に、 あっさり靡く、
従順な気質 」 の地域で、
独立気質の大勢力らが割拠し、
東北と、 地域体質の近い東関東
( 特に、 茨城 ) とは、 全然、 違う。
この、 「 強い奴がやって来ると、 あっさり、
臣従してくれる 」 、 西関東気質が、
鎌倉幕府 ( 都の源氏→ 伊豆の北条氏 ) の基盤でもあり、 後北条氏 ( 上方→伊豆→小田原 )
の基盤でもあり、
上杉 ( 長尾 ) 氏などが、 遥か彼方の新潟から、 ある程度は、 制御できた理由でもあった。
つまり、 家康氏が、 大大名として、 権威を以て入れば、 西関東では、大規模叛乱などは、 起こりようが無かったのだ。
家康氏としては、 「 海道一の弓取りが、
天正庚寅八朔の日に、 御入府なされた 」 、
と宣伝すれば、十分だった。
秀吉太閤は、このことを知らなかったのだろう、
と思われる。
東国武士の地域ごとの気質をよく知っている、
上級武士階級員らなら、直感的に、理解は可能だったろう
西関東への平定は、 家康氏でなくても、
極論すれば、 大大名の権威付けがあれば、
誰にでも出来たものだろう。
西関東は、よく見れば、 ずっと、 余所者による支配の地で、しかも、それを、在地国人らが苦にしない伝統がある。
@ それは言える。
家康氏は、 外縁部に、 本多・榊原・井伊を置いたが、これは、 外敵らへの防衛と、 内乱への防止の、
両方の意味があった、と思われる。
ただ注目すべきは、 それまでの長年の支配層が、
全てが、没落し、 そっくり入れ替わった事。
特に、 本来は、 豊臣家臣であった、
木曽や諏訪、真田 ( 特殊な形だが ) などの、
信濃の全大名が、 家康側の家臣とされ、
転封させられたが、 火種にさえさせなかった。
1590年当時は、 関東を安定させ、かつ、
豊臣政権の意向どおりに、 開発と近代化政策を同時進行させえるだけの人材を持つ大名とは、
やはり、 家康氏以外には、考えられなかった。
強いて言えば、 小早川隆景氏がいる毛利家ぐらいだろう。
家康氏は、 秀吉太閤の期待以上に、 関東への統治、特に、 江戸での都市開発と、 領国内での、
港湾・道路整備において、 大実績をあげた。
( しかも、わずか、 5年程度の間 )
その結果にて、 商工業者・寺社を中心に、
徳川支持者を増やして、江戸金座の設立に成功する。
日本中のどこを探しても、秀吉氏以外に、
金座を持つのは、 家康氏しかいなかった。
金座を持ち、 常時、 領国の開発を進めて、
金を動かし、 官僚的人材らを活かす
能範 ノウハン ≒ ノウハウ 、 を洗練し続けた徳川と、 朝鮮攻めに駆り出された他大名・・・
大きすぎる差というしかない。
@ 豊臣家は、 大坂城を退去し、
大和郡山に移り、 併せて、 家康氏の隠し子の、
小笠原権之丞氏を、 豊臣家の家老に起用し、
淀殿は、 人質として、 江戸に下る。
このように、 恭順を徹底的に偽装し、
家康氏の死後に、 柘植新八氏に、 淀殿を奪還させ、また、多羅尾半蔵氏に、 大坂城代・柳沢出羽守を暗殺させて、大坂城を奪還する。
あとは、豊臣家恩顧の大名らに檄を飛ばす
@ 大阪城を退去して、 どの城に拠って戦うんだよ。 天下一の名城の金看板があればこそ、
牢人たちも集まったのに。
@ 豊臣秀長氏が生きていればと思う。
秀吉氏は、 交感神経、 秀長氏は、 副交感神経で、 秀吉の行きすぎを掣肘できた人物。
この人は、尾張派にも、近江派にも、 信頼され、
睨みも効いた。
この人が、生きていれば、朝鮮への出兵もなく、
豊臣家臣団も分裂せず、
家康氏にも、抑えが利いた。
結局、秀長氏以外に、ロクな人物が、 豊臣家の血縁中枢にいなかったことが、滅亡の原因。
@ 豊臣秀長氏は、 たまたま、 秀吉政権の絶好調期に死ねた、 というだけで
生きていれば、 朝鮮への出兵を止め得た、とかいうのは 、
「武功夜話」の創作のような気がする
( 大政所も、朝鮮出兵を止められなかった )。
≒ シナ朝鮮人らによる、 その反社会的な、氏族儒教型の部族倫理にも基づく、
日本人たちへの、 強姦と虐殺を伴う、 侵略行為らが、 繰り返されていた歴史事項らがある事と、
西洋人らが、 布教活動と、植民地化活動とを、
兼ねて、仕掛けて来てもいた事もあって、
それらによる、日本側の在り得る被害性を、
未然に、 最小限にする上では、 明帝国の、
外国人らにまで、 序列化差別を押し付けて、
止まない、 反社会的な精神性の者らは、
かって、 モンゴル勢と連携して、
日本国民らへの襲撃を成した様に、 最新の武器らを持った、 西洋人らと連携して、 日本国民らへの、
侵略行為らを本格的に成す前に、
在り得る、 現地らでの、足しに成る情報らを得る為にも、 押さえ得て置くべき必要性の度合があった。
秀吉氏らの行動らの歴史的な背景には、
繰り返されて来ていた、 シナ朝鮮人らの、
日本国民らへの甚だしい非道性を伴う侵略行為らがあり、 秀吉氏が、 その触れに置いても、
述べている様に、 神社仏閣らを信者らに破壊させ、
人々へ、信仰を成す事を強制し、 人を鎖につないで、 奴隷として、売り飛ばす、 という、
許すべからざる、反社会性をなして観せていた、
南蛮人という、 西洋人らの悪行らがあり、
それらが、 将来に、 日本へ押し寄せて来る、
可能的な事態らへの思案らがあった 。
秀吉親族の加藤・福島の行動を見れば、
小早川を攻められないだろうし。
小早川秀秋氏は、 秀吉氏の養子というだけで、
秀吉氏の血は、一切引いていない。
( 秀吉氏の室の、北政所の甥にすぎない )。
秀吉氏が、 利休氏を殺さずにいたら、
天下に影響があったのかな?
「 内々のことは、 宗易 」 、 といわれていた
実力は?
豊臣家の家老格として、政治力で、
家康側の攻勢をカバーしたりとかできたんだろうか?
あるいは、 三成氏と、 他の大名らとの関係を調整したりとか。
独自の軍事力が無いから、 政治的な立ち回りが、 どれほど出来たかってことだろうけど。
@ 秀吉氏が、 毛利と徳川を滅ぼしてれば、
何でもなかった。たやすいことだった。
秀次関白を殺すとか、 朝鮮の役やるとかに比べれば。
大坂の陣での難癖に比べれば、 何でもない。
やっちまえば、 あの時代の豊臣に逆らえる奴はいない。
明日は我が身で、 みな縮こまる。
@ 秀吉氏に、 取り潰しの隙を与えなかった
家康氏が偉い、まで読んだ。
☆ 5千年以上前のイラクの会計士の話題から ;
@ 一説によると、 神殿娼婦の義務は、
妊娠・出産するまで、だったそうな。
それによって、 「 出産能力あり 」 、
という証明がなされ、 そこで、 初めて、
堂々と、 嫁に行く権利
( と、夫の親族には、 所有権がない、
彼女自身の子 ) が持てた。
今でさえ、 「 子供の生めない嫁は欲しくない。
そして、生まれた子供は、 当然、父親に所有権がある 」、 と考える男 ( と、その親族 )
がいるのだから、 当時の一部の地域らの人々としては、 合理的なやり方だったのだろう。
それに、夫婦間に子が生まれない場合は、
100%で、 夫のせいだ、ということが明確であるため、男のほうも、 子がないことを理由に、
女を離縁したり、第二、第三夫人を無駄に娶ったりする必要がなくなる。
@ RCは、 首都高のように、
100年を放置できない。
陸屋根防水層は、 50年を持てばいい。
でも、 確率を考えれば、 現在のRC建築物の基礎やコア、地下施設が幾つかが残る。
母数が多いからね。 木造だって、 山田寺の回廊のように、 1000年を保存されたりするんだから、必ず、幾つかは、残る、と思う。
仮に、丸ビルが残るとすると、、、スラブや柱と、、カーテンウォールは、消え去り、
敷地の全体は、 地下が崩落し、沼となり、
中心に、 高さが、20メートルくらいまで削られたビルのコアが残り、ツタが絡んで、 緑の塔として屹立する。そんな感じかな。
そこに残る歴史的な資料は、、、、三菱銀行の金庫よりも、ビルのトイレの清掃員記録
( トイレは、 必ず、 コアの内部にある )
だったりするかもしれないけどね。
2016年08月10日 18:19
@ 宗教儀礼として、 職業巫女と性行為をするというのが、 古代にはあったから、
それが、 先史時代から引き継がれてきた風習であれば、 娼婦ではなく、
宗教技能者として、 集団に抱えられていたと思う。
古い時代の遊女の名に、 ○○御前というのが多いのは、古代に性奉仕していた場所が、
まさに、 神様の御前だったから。
寺社の運営が営利的になると、
これで、儲けようとする輩が現れ、
女性を穢れたものとする、 本来の思想とは、かけ離れた側の、仏教の諸派の流布とともに、
それらの巫女たちは、遊女と化していった。
2016年08月10日 19:33
☆ 豊臣の天下を続かせる上策は;
関東で反乱を起こさせる事が狙いなら、
やりようがあると思うんだよな。
さすがに、 秀吉太閤が直にやるのはまずいから、
かつて、 北条に圧迫されてた連中や、
徳川の関東入りをよく思わない連中に、
何個かクッションをおいて、資金援助したりとか。
@ 2012/07/14(土) 07:54:13.28
家康どんの関東移封は、 秀吉どんからしても、
妙策だった。
後年、徳川が政権をとったから、 この策は失敗などと言われるが、1590年の当時には、 家康どんが天下をとるなどとは、 万に一つも考えられない状況だった。
関東も奥羽も、一応は平定したが、 行政的には、
手付かずの状態で、奥羽への仕置きを行うには、
関東の安定が、必要不可欠。
史実では、奥羽仕置きは、 武装蜂起を群発させ、
結局、秀次関白を総大将として、大軍を送るはめになったが、
これも、関東が安定していたから、できた。
家康氏は、 敵地であった関東に、配下の大名ごと
( 甲信など ) 移封してきたが、
一揆のいの字も起こさせなかったばかりか、
同時進行で、 超大規模なインフラ
≒ 道路網や、 通信網に、 学校や、
病院などから成る、 社会基盤、 社会資本 、 への投資を行い、
江戸の町割りに、 水路と、中山道への整備や、
神社仏閣の建築を急ピッチで進めながら、
奥羽に従軍もしている。
秀吉太閤は、 家康領には、 太閤検地を実施しなかったが、これは、 裏をかえせば、
全てを、自己責任で処理せよ、という事で、
統治に失敗すれば、 厳しい咎めを受けることは、
必至だった。
家康氏は、 秀吉太閤の期待に応え、
関東への統治を大成功させたが、
更なる東国開発を口実に、 文禄五年に、
江戸金座の設立を許された。
最高権力者の証である、 通貨発行ができるようになったのだ ( 大判は、不可 ) 。
≒ 自らの制御できる、 経済系に、 人々を取り込む度合いを一定以上に高め得て、
それにもよって、 動員できる人々を押さえ得た 。
これによって、 関東以東の金は、 必然的に、
江戸に集まるようになった。
このあたりから、250万石の大名という以上の、
家康勢の巨大化が始まった。
@ 既に、 検知の行われていた地域で、
太閤検地は、実施されていないよ。
それに、 太閤検地は、 あくまで、
軍役規準のための数値であり、
生産性を把握したものではない。
例えば、 九州などでは、 太閤検地の数値が、
年貢の基準値になっていなかった事が解っている。
北條や今川、それを継承した徳川の、
生産性への把握の検地と、 太閤検地は、
全国検地という以上に、 性質・目的が、全く、
異なる。
@ その説に乗れば、
「 秀吉太閤は、 西関東の国人気質を、かなり、
見誤っていた 」 、 ということだろうな。
今では、多くの研究者らが指摘するところではあるが、
古利根川より、南西側の西関東は、
鎌倉期以来、 「 強き者に、 あっさり靡く、
従順な気質 」 の地域で、
独立気質の大勢力らが割拠し、
東北と、 地域体質の近い東関東
( 特に、 茨城 ) とは、 全然、 違う。
この、 「 強い奴がやって来ると、 あっさり、
臣従してくれる 」 、 西関東気質が、
鎌倉幕府 ( 都の源氏→ 伊豆の北条氏 ) の基盤でもあり、 後北条氏 ( 上方→伊豆→小田原 )
の基盤でもあり、
上杉 ( 長尾 ) 氏などが、 遥か彼方の新潟から、 ある程度は、 制御できた理由でもあった。
つまり、 家康氏が、 大大名として、 権威を以て入れば、 西関東では、大規模叛乱などは、 起こりようが無かったのだ。
家康氏としては、 「 海道一の弓取りが、
天正庚寅八朔の日に、 御入府なされた 」 、
と宣伝すれば、十分だった。
秀吉太閤は、このことを知らなかったのだろう、
と思われる。
東国武士の地域ごとの気質をよく知っている、
上級武士階級員らなら、直感的に、理解は可能だったろう
西関東への平定は、 家康氏でなくても、
極論すれば、 大大名の権威付けがあれば、
誰にでも出来たものだろう。
西関東は、よく見れば、 ずっと、 余所者による支配の地で、しかも、それを、在地国人らが苦にしない伝統がある。
@ それは言える。
家康氏は、 外縁部に、 本多・榊原・井伊を置いたが、これは、 外敵らへの防衛と、 内乱への防止の、
両方の意味があった、と思われる。
ただ注目すべきは、 それまでの長年の支配層が、
全てが、没落し、 そっくり入れ替わった事。
特に、 本来は、 豊臣家臣であった、
木曽や諏訪、真田 ( 特殊な形だが ) などの、
信濃の全大名が、 家康側の家臣とされ、
転封させられたが、 火種にさえさせなかった。
1590年当時は、 関東を安定させ、かつ、
豊臣政権の意向どおりに、 開発と近代化政策を同時進行させえるだけの人材を持つ大名とは、
やはり、 家康氏以外には、考えられなかった。
強いて言えば、 小早川隆景氏がいる毛利家ぐらいだろう。
家康氏は、 秀吉太閤の期待以上に、 関東への統治、特に、 江戸での都市開発と、 領国内での、
港湾・道路整備において、 大実績をあげた。
( しかも、わずか、 5年程度の間 )
その結果にて、 商工業者・寺社を中心に、
徳川支持者を増やして、江戸金座の設立に成功する。
日本中のどこを探しても、秀吉氏以外に、
金座を持つのは、 家康氏しかいなかった。
金座を持ち、 常時、 領国の開発を進めて、
金を動かし、 官僚的人材らを活かす
能範 ノウハン ≒ ノウハウ 、 を洗練し続けた徳川と、 朝鮮攻めに駆り出された他大名・・・
大きすぎる差というしかない。
@ 豊臣家は、 大坂城を退去し、
大和郡山に移り、 併せて、 家康氏の隠し子の、
小笠原権之丞氏を、 豊臣家の家老に起用し、
淀殿は、 人質として、 江戸に下る。
このように、 恭順を徹底的に偽装し、
家康氏の死後に、 柘植新八氏に、 淀殿を奪還させ、また、多羅尾半蔵氏に、 大坂城代・柳沢出羽守を暗殺させて、大坂城を奪還する。
あとは、豊臣家恩顧の大名らに檄を飛ばす
@ 大阪城を退去して、 どの城に拠って戦うんだよ。 天下一の名城の金看板があればこそ、
牢人たちも集まったのに。
@ 豊臣秀長氏が生きていればと思う。
秀吉氏は、 交感神経、 秀長氏は、 副交感神経で、 秀吉の行きすぎを掣肘できた人物。
この人は、尾張派にも、近江派にも、 信頼され、
睨みも効いた。
この人が、生きていれば、朝鮮への出兵もなく、
豊臣家臣団も分裂せず、
家康氏にも、抑えが利いた。
結局、秀長氏以外に、ロクな人物が、 豊臣家の血縁中枢にいなかったことが、滅亡の原因。
@ 豊臣秀長氏は、 たまたま、 秀吉政権の絶好調期に死ねた、 というだけで
生きていれば、 朝鮮への出兵を止め得た、とかいうのは 、
「武功夜話」の創作のような気がする
( 大政所も、朝鮮出兵を止められなかった )。
≒ シナ朝鮮人らによる、 その反社会的な、氏族儒教型の部族倫理にも基づく、
日本人たちへの、 強姦と虐殺を伴う、 侵略行為らが、 繰り返されていた歴史事項らがある事と、
西洋人らが、 布教活動と、植民地化活動とを、
兼ねて、仕掛けて来てもいた事もあって、
それらによる、日本側の在り得る被害性を、
未然に、 最小限にする上では、 明帝国の、
外国人らにまで、 序列化差別を押し付けて、
止まない、 反社会的な精神性の者らは、
かって、 モンゴル勢と連携して、
日本国民らへの襲撃を成した様に、 最新の武器らを持った、 西洋人らと連携して、 日本国民らへの、
侵略行為らを本格的に成す前に、
在り得る、 現地らでの、足しに成る情報らを得る為にも、 押さえ得て置くべき必要性の度合があった。
秀吉氏らの行動らの歴史的な背景には、
繰り返されて来ていた、 シナ朝鮮人らの、
日本国民らへの甚だしい非道性を伴う侵略行為らがあり、 秀吉氏が、 その触れに置いても、
述べている様に、 神社仏閣らを信者らに破壊させ、
人々へ、信仰を成す事を強制し、 人を鎖につないで、 奴隷として、売り飛ばす、 という、
許すべからざる、反社会性をなして観せていた、
南蛮人という、 西洋人らの悪行らがあり、
それらが、 将来に、 日本へ押し寄せて来る、
可能的な事態らへの思案らがあった 。
秀吉親族の加藤・福島の行動を見れば、
小早川を攻められないだろうし。
小早川秀秋氏は、 秀吉氏の養子というだけで、
秀吉氏の血は、一切引いていない。
( 秀吉氏の室の、北政所の甥にすぎない )。
秀吉氏が、 利休氏を殺さずにいたら、
天下に影響があったのかな?
「 内々のことは、 宗易 」 、 といわれていた
実力は?
豊臣家の家老格として、政治力で、
家康側の攻勢をカバーしたりとかできたんだろうか?
あるいは、 三成氏と、 他の大名らとの関係を調整したりとか。
独自の軍事力が無いから、 政治的な立ち回りが、 どれほど出来たかってことだろうけど。
@ 秀吉氏が、 毛利と徳川を滅ぼしてれば、
何でもなかった。たやすいことだった。
秀次関白を殺すとか、 朝鮮の役やるとかに比べれば。
大坂の陣での難癖に比べれば、 何でもない。
やっちまえば、 あの時代の豊臣に逆らえる奴はいない。
明日は我が身で、 みな縮こまる。
@ 秀吉氏に、 取り潰しの隙を与えなかった
家康氏が偉い、まで読んだ。
☆ 5千年以上前のイラクの会計士の話題から ;
@ 一説によると、 神殿娼婦の義務は、
妊娠・出産するまで、だったそうな。
それによって、 「 出産能力あり 」 、
という証明がなされ、 そこで、 初めて、
堂々と、 嫁に行く権利
( と、夫の親族には、 所有権がない、
彼女自身の子 ) が持てた。
今でさえ、 「 子供の生めない嫁は欲しくない。
そして、生まれた子供は、 当然、父親に所有権がある 」、 と考える男 ( と、その親族 )
がいるのだから、 当時の一部の地域らの人々としては、 合理的なやり方だったのだろう。
それに、夫婦間に子が生まれない場合は、
100%で、 夫のせいだ、ということが明確であるため、男のほうも、 子がないことを理由に、
女を離縁したり、第二、第三夫人を無駄に娶ったりする必要がなくなる。
@ RCは、 首都高のように、
100年を放置できない。
陸屋根防水層は、 50年を持てばいい。
でも、 確率を考えれば、 現在のRC建築物の基礎やコア、地下施設が幾つかが残る。
母数が多いからね。 木造だって、 山田寺の回廊のように、 1000年を保存されたりするんだから、必ず、幾つかは、残る、と思う。
仮に、丸ビルが残るとすると、、、スラブや柱と、、カーテンウォールは、消え去り、
敷地の全体は、 地下が崩落し、沼となり、
中心に、 高さが、20メートルくらいまで削られたビルのコアが残り、ツタが絡んで、 緑の塔として屹立する。そんな感じかな。
そこに残る歴史的な資料は、、、、三菱銀行の金庫よりも、ビルのトイレの清掃員記録
( トイレは、 必ず、 コアの内部にある )
だったりするかもしれないけどね。
2016年08月10日 18:19
@ 宗教儀礼として、 職業巫女と性行為をするというのが、 古代にはあったから、
それが、 先史時代から引き継がれてきた風習であれば、 娼婦ではなく、
宗教技能者として、 集団に抱えられていたと思う。
古い時代の遊女の名に、 ○○御前というのが多いのは、古代に性奉仕していた場所が、
まさに、 神様の御前だったから。
寺社の運営が営利的になると、
これで、儲けようとする輩が現れ、
女性を穢れたものとする、 本来の思想とは、かけ離れた側の、仏教の諸派の流布とともに、
それらの巫女たちは、遊女と化していった。
2016年08月10日 19:33