根途記事+論弁群 ;    

  @       NHKでやってたよな
飽食の時代になっても、 縄文時代の日本人たちは、 選んで、どんぐりを食べてたって


  @      草食動物らは、  草と一緒に、  
それに付いてる虫も一緒に食べてるみたいで
そうやって、 タンパク質を補ってるのでは?
って説を読んだことあるよ


  @     子供が拾って来た、どんぐりを育てて、
盆栽に

 @      ドングリの中に居る虫は、
ゾウムシの幼虫
栗の中にいる虫も、同じゾウムシ


 @     栃の実は、 餅の中に入れて、 毎年食ってるぞ

  @    米づくりって、異常だよな
あんなに複雑な技術と手順を、大勢が納得してやるようになったって、すごすぎる
よっぽど、うまかったんだろう
どんぐりよりw

  @       ある程度は、安定した収穫が見込めるってのが、大きいんだろさ
ドングリじゃ、収穫量は、たかが知れてるし
収量を増やそうとすると、 コメより、
手間も時間もかかる


  @       稲作をしていた登呂遺跡の跡からも、
どんぐりの入った甕 ミカ 、が発掘されてる

 @      科学文明やテクノロジーは、発達しまくったけど、    俺たちは、どんどりの民だと思うと、
心が安らぐよね
平和で、ぽかぽかした気持ちになる

 @     昔の日本の沿岸は、 アワビが豊富で
縄文人らは、 毎日、バグついてた模様
平安貴族も、 献立記録に、
毎日、 アワビが出ていたのが残ってる

  @     どんぐりとか、アワビとかって

アゴが強い奴は、好むよね
縄文人とかは、アゴが強かったんだろうな

 @      マテバ   椎   シイは、    タンニン
(  渋み  ) が、   0.5%  しかなく、  
甘みがあって、 そこら中に生えてるので
食用に一番向いてる

  @     シイノキの実の方が、 アクは少ないんだが、  小さいからなあ
マテバシイは大きいから、堅い皮も、剥き易い

  @     太平洋の諸島では、イモを食っているな
イモといっても、  サトイモ
(   または、 それに近い、 タロイモ  ) や、  
ヤマイモ  (  または、 それに近い、 ヤムイモ  )  を食べている

ただし、何故か、本来は、 中南米原産の筈の、
サツマイモが、  
太平洋諸島の各地で栽培されており、
ポリネシア    ≒    多い島    、 人らが、  
カヌーで漂着して、採取して持ち帰ったのでは、
などと言われている


 @     リスさんが可哀想だろ

 @     リスちゃんは、 クルミや、松ぼっくりの方が、好物

 @     リスなんか、ひまわりの種でも食わせとけ

 @     どんぐりが、品種改良されて、
皮のまま食べれたり、 めっちゃジューシーだったりすれば、 生き残れたのに


  @    気候変動による海面の上昇で
現在は、内陸部にある、
貝塚がある、 茨城県に残る資料で
それを分析した平安時代の資料と
江戸時代の資料が残っている

 @     田舎の道の駅なんかに行くと、  
どんぐりの粉を売ってたりするから
そういうの小麦粉に混ぜると、いい


  ☆  中国の古都は、 西安で見つかった墓誌
(   故人の事績を刻んで、墓に収めた石板  )に、
 「  日本  」   、との文字があることを紹介する論文が、 中国で発表された。

    墓誌は、    『  678年の作と考えられる  』   、 としている。

    日本と名乗るようになったのは、
いつからなのかは、 古代史の大きななぞだ。

     701    名   ナ 、は、  一  イチ  番に良い    、 の、      701年   、  に、 施行された、    
  大宝律令   タイホウリツリョウ    、から、
との見方が、有力だったが、    
墓誌が本物なら、 さらにさかのぼることになる。

 中国の墓誌を研究する、
明治大の気賀沢保規教授 (  中国史  ) によると、  
   論文は、   吉林大古籍研究所の王連竜氏が、
学術雑誌の、 「社会科学戦線」の7月号に発表した。
祢軍 (  でいぐん  ) 、という、    
百済 (  くだら  ) 人の軍人の墓誌で、  
1辺が、   59センチの正方形。

    884文字があり、    
  678年の2月に死に、  
同年の十月に、 葬られた、 と記されている。

    日本人たちも混在し、 王家らも出した、
百済を救うために、  
  日本は、  
  日本領の任那   ミマナ   、 が、  
その南部にあつた、 朝鮮半島に出兵したが、

      663年に、  
  白村江    シラスキノエ (  はくそんこう  ) の戦いで、    
  唐と、 新羅(  しらぎ  ) の連合軍に、  
水上で、 敗れる。

    その後の状況を、  墓誌は、  
「   日本餘  ●   (   ●は、  口へんに焦  )
 拠扶桑以逋誅   」  、 と記述。

  「   生き残った日本は、      
  扶桑  (    東の大海にある島、   日本の別称  )  に閉じこもり、   罰を逃れている  」  
、  という意味で、    
そうした状況を打開するために、  
   今の朝鮮人らとは、  直接の血縁関係の無い、
百済の 将軍だった祢軍氏が、
 日本に派遣された、 と記していると、  
気賀沢教授は、説明する。

http://www.asahi.com/culture/update/1022/TKY201110220586.html

上の方に「日本」の文字が見える。
「最古の日本」の可能性が高い
=「社会科学戦線」7月号、王連竜氏の論文の、「百済人祢軍墓誌考論」から
http://www.asahi.com/culture/update/1023/images/TKY201110220633.jpg

 @       小野妹子氏が、 隋に持っていった、
「   日出處天子致書日沒處天子無恙云云    
  ≒      日いずるところの天子、  書を、 日が没すするところの天子へいたす、 つつがなきや、
うんぬん  」   、の、  
いわゆる、 聖徳太子の国書が、  
  『   607年  』  で、    
 第2代の皇帝の、 煬帝の隋からの答礼使の、
裴世清に持たせた返書の、
「  東天皇敬白西皇帝  」 が、  その2年後だ。

東=日の本なんて、古代人においては、
普通の発想でしか無い。


  @    また、意外なとこから出てきたね。
白村江の敗戦のショックで、 わずか15年の間に、
大急ぎで、改名したんだろうな。


  @     701年に、  対馬で、 金が採れた
(   実は、  嘘だったらしいが  )  ときに、
途絶えていた元号を復活させて、
「  大宝  」  、 とした。

   その後は、  元号は途絶えることなく、
「  平成  」 に至る。

     674年の銀も、  全ての神々に捧げ、
全ての官吏らに配る、 という、
大騒ぎをしたのに、
  改めて、元号を立てた記事が、無い。

  国号を変更したのなら、    
黄金のジパング  =  ジャパン  =  ジッポン
 =   日本の出発点か。

  @      倭から、 日本ってのは、  
白村江の敗戦のあとに、
王朝の交代があったかのようにみせたかったのではないかな
隋から唐に変わったみたくさ

  @      天武天皇は、  
  673   胸騒  ムナサ わぎ、 の、  
 673年、に、  耽羅の使者に、
天命が革まって、 王朝が代わる事である、
革命を宣言している。

  【       王朝が、 交代したから、  
唐帝国から、 攻められる筋合いが無くなった、
という事にする為に、  
  天武天皇側が、
その先代で、 兄の、 天智天皇との関係性を、
兄と弟では無いかの様に、
外国人ら等へ、述べ伝える場面らを成した事も、
あって、  
  それが、 日本側の歴史書らにも、
反映されたのではないか?     】


  @       耽羅からの渡来人の、
坂上 田村麻呂   サカノウエのタムラマロ  どんを、
多賀城に遣わし、
蝦夷   エミシ  達を討ったのだろう?

  @      坂上田村麻呂どんは、  
東漢   ヒガシノアヤ   氏だろう?たしか。
だから、応神天皇時代の前後くらいに、
日本に移民してきた出自をもつ豪族だよ。


 @     「新羅」⇒「しらぎ」
「百済」⇒「くだら」
「任那」⇒「みまな」
「白村江の戦い」⇒「はくすきのえのたたかい」

でも、今の中学生や高校生の教科書には
「新羅」⇒「しんら」
「百済」⇒「ひゃくさい」
「任那」⇒  「  伽耶諸国    (  かやしょこく  」
「白村江の戦い」⇒「はくそんこうのたたかい」

に成っている件について…。
これも、朝鮮人どもの影響だろうか…??


  @     「しらぎ」とか「くだら」ってのは、
倭国側での読み方で、  
当時、彼らが、 何というふうに、  
自分たちの国名を読んでいたのか、
分からんのだよ。
漢字というのは、時代によって、音韻が絶えず変化するからね。
 
 @      日本で、  日本側の呼び方をする事は、  
当たり前な事なので、  
クダラは、 クダラで、いいし、  
シラギは、  シラギで、 いい。


  @    「新羅」は、「シラギ」、
 「百済」は、 「クダラ」、
  「任那」は、  「ミマナ」なのに、
なぜ、 「高句麗」は、「コマ」じゃなくて、
「コウクリ」なの?


  @      たしか、 日本書紀とか六国史に、  
「高句麗」は、 出て来ないよ。
「高麗」と表記し、「コマ」と訓んでるはず。


   @      山梨には、   巨摩  (  こま  )    っていう地域があるんだけど、
    高麗からの渡来人が住んでいたから、  
「  こま  」 って読むんだよ
って、   中学で習った。


    @       ヤマトも、 畿内の地名だよね
地名が、国名になるのは、 結構大規模な軍事統一が必要なんじゃないだろうか

 @    「ヤマト」が、 国号になったことはないんじゃないか。
6世紀以前には、 中国から、
「倭国」と、一方的に呼ばれていたものが
6世紀前後に、 日本側から、  
「日本」という国号を中国に伝えている。
日本で初めてできた国号が、 日本。
それ以前にはまだ、
畿内を中心とする小国連合であって
一つの国という概念が、 国内にあったかどうかは、
分からない。

  @      倭も、 日本も、 国内での訓みは、  
やまと。
漢字での新しい表記法が増えたにすぎない。

  あすか→   飛鳥・明日香
  なら→   那羅・平城
  はつせ→   泊瀬・長谷
 しき→   志貴・磯城
 うじ→   宇治・菟道
 なにわ→   難波・浪速
  やまと→   倭・日本


   @      教科書とかテレビの歴史番組とかで、
「   中央集権国家を確立し、  
倭国から、 日本国に国名を改めた云々   」
て刷り込ませた過ぎたんだと思うね。

   実際は、  漢字での書き方が増えただけの話で、

    倭国・日本国は、 どっちとも、  
国内的には、  「  やまとのくに  」  だったんだ、
と思うんだよね。

    奈良時代以降は、  
 「   やまとねこ   」 の表記には、    
倭根子も、 日本根子も、 使われるし、

    万葉集でも、  
「  日本  」 は、  「  やまと  」   、 と読まれ、  
 大方、   奈良県のことを指すわけだから、

  「   国号を、  『  わ  』  から、  
『  にほん  』  、 に改めた    」    云々てのは、    
ちょっと違うんじゃないかなあと思う。


  @        気がついたら、  
日本   =   にほん   、 になってたってことか。


  @      大陸   (  漢風   )    文化の影響かな。
平城京の、  「  ならのみやこ   」、
  平安京の、  「   たいらのみやこ   」 も、

  「    へいじょうきょう   」、    
 「   へいあんきょう   」   、 になっちゃったしな。


  @     「    日本   餘 ●
(   ●は、 口へんに、 焦  ) 拠扶桑以逋誅   」  、の、  日本って、   「国号」というより
もっとくだけた、 異民族の俗称が入りそうな文脈だ。

 白村江の戦いに破れた後に、    
  日本の天武天皇側が、   あわてて、  
国号をたてて、
   その直後に、   旧敵国側の人間が、
日本の立場を尊重して、 日本の新国号を、御丁寧につかってくれそうな文脈じゃない。

    ひょっとすると、   「日本」というのが、  
当時の倭国への蔑称とまではいかなくても
俗称だった可能性があるのでは?

   で、  倭国政府は、    
大陸や半島での、   「  日本  」、 という、
「倭」への俗称を、 何らかの誤解の下に
正式国号としてしまったのでは?

  @     墓の主が、   日本人らによって、助けられ、
日本人らを先祖とする、王家らと、住民らのいた、 百済の人間だから、  
こっそりと、 日本に義理立てした可能性も、
無くはない。
墓誌は、埋めてしまうから、
シナの役人の目に触れる危険も無いだろう。


  @     ああ。    旧百済の人間として、    百済を援助してくれた倭が、
  海の向こうで、   「日本」とか名乗って健在なのを、 内心喜んでいる、
てな文脈なのかなあ。

どのみち、朝日の記事だけじゃ何もわからないや。


  @       ひょっとすると、  
日本に亡命した百済貴族らが、  
唐に帰服した、 この墓主に対して、
縁故を辿って、
天武政府からの依頼を受けて、
「    今度、    "日本"、 という新国号にしました。
    この新しい名前で、  唐との外交関係を改善できないか、 瀬踏みしてくれませんか?   」   、とか、 働きかけていたのかも。


  @      「    日本国の残余兵は、  
国内の東方に逃亡した   」   、  という意味。

  扶桑 (  ふそう   ) とは、  
日本の東域   (   正確には、  関東方面   )  のこと。


  @       扶桑   (   ちゃんと調べてみたよ   )
原義は、 東海の日の出るところにあるという、
巨大な神木。
転じて、  
東方の海上にある、 島国。    
扶桑・扶桑国は、  日本の異称ともなった。


  @     調べたら、何でも分かると思っちゃ、
いかんぞ。
扶桑というのは、語義がまだ、不安定な言葉だからな。

 @       日本人がいう、 扶桑じゃないぜ。

日本国内での、  純正仕様の解釈ではなく、

「  6百年代の、 7世紀の中国人ら  」が、  
扶桑といったら、 何の意味があるかの問題だ。

    この文章では、   「  大海の中の島   」  、
という意味で使われているのは、 明白だ。

 @     ?は、 「噛む」という意味のやうですが。


 @      扶桑=日本、の意味となったのは、
平安・鎌倉時代以降だろうな

 @    「   日下 (   くさか   」 とは関係ないの?

 @      それは、枕詞に由来すると考えられている。


  @      日本ぐらいは、 使ってても、
おかしくないんじゃないか?
日の本の国→日本だろ

おまいらも、 「お彼岸」ぐらいは知ってるだろうが、    あれは、 「むこう岸」という意味だ

   つまり、   「ひノもとノくに」とは、
半島倭人らからすると、  
日本海を見ながら、
「むこう側の本国」=『ひの本の国』だ。    

   和語の音に当てる漢字を、  
倭→和と改めたように、
「   ヒに、 日をあてた   」  ってわけだよ


  @      国内向けに使われていたのかな?
中国向けには、  倭国でさ

   @      ちがう
中国向けに、 「倭」だったのを、  
中国向けに、  「日本」に変更したってこと。
国内では、   ヤマトのままで、 かわりはない。


   @      墓碑の全面写真を見たけど、
扶桑の「扶」の部分は、欠けてるみたいだなあ。
扶桑とは、読めんぞ。

  @      670年が、  近江令、    
日本建国の年だと思う。

  @     たかが、 法律だろ
なんで、 日本がなかった
ことになるんだよ

  @      禰軍は、   665年に、  
唐の使者として、 倭国に来た。
日本書紀に、 しっかり出ている。


  @       日本人たちを先祖とする王家らが出て、  
日本人たちが住んでもいた、  
 新羅   、  の記録では、    
 倭が、 日本になったのは、   670年。

   禰軍どんは、  672年まで、  新羅にいた。


  @       天武天皇3  (   674   )   年の3月に、

   対馬で、  銀が採れたが、
  これは、   「   倭国では、 初めて  」   のことだと、    日本書紀は、記している。

  この「倭国」は、  
狭義の「倭国」 =     奈良県でなく、

   明らかに、   対馬を含む、    
広義の「倭国」 =   「大倭国」であるので

   この時はまだ、 「日本国」でなく、  
「倭国」だったが、
   この事件を契機に、  「倭国」は、
「日本国」に変わったのではないか。
根拠は、三つ。

   ①     天武天皇4 (   675  )  年の1月に、  

    奈良県を、 「倭」でなく、
「大倭」と記した記事が現れる。

     狭義の「倭国」  =    奈良県を、   「大倭」と記した例は,   宣化天皇以前に数例しかない。

   これは、   広義の「倭国」の国名の変更を暗示している。

  ②       674年とも重なる、   天武天皇3年は、  

    前後の年に比べて、 極端に記事が少ない。

   「日本」を神代に遡らせるために、    
国名の変更の記事を省略したか。

   ③     675年とも重なる、   天武天皇4年は、  

    祝賀ムードが高まり、  
新羅の王子の、 忠元どんや、   耽羅 (   済州島   )の王の、 姑如どんが、  日本に来ている。

 ここで、  両国に、国名の変更を伝えたのだろう。


  @      ていうか、倭も日本も、やまと。
飛鳥と明日香(あすか)
平城と奈良(なら)
長谷と泊瀬(はつせ)
みたいなもんで、基本的には、新しい表記法が増えたということ。
確かに、 奈良時代以降、
  対外的にも、 日本全国としての国名を、
「日本」としている節はあるけど、
一方で、  称徳天皇の詔や万葉集などは、
  奈良県のやまとのことを、
「日本」、 と表記している例もある。


   @       菩薩の居所は、   空居天である、  
兜率天  、   とされるが、
     地蔵菩薩は、   地居天である、 忉利天に在って、
     釈迦仏の付属を受け、  
毎朝に、   禅定に入りて、   衆生の機根  
(   性格や教えを聞ける器   )   を感じ、          
 釈迦の入滅後の、   56億7000万年後に、  
  弥勒菩薩が出現するまでの間は、    
  現世に、 仏が不在となってしまうために、
    その間を、    
  六道   (    地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道   )   を輪廻する衆生を救う、
菩薩である、   とされる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/地蔵菩薩

   @     日本では、  神仏らは、一体だから

  @       付喪神   ツクモガミ    、 って言って,
 針にすら、神が宿るってことになってる


  @       それは、   喋ることも見ることも感じることも、できない
それら人間が作った像らを崇拝する者らは、
いずれ、 それらと同じようになる
(  聖書より   )


  @      お地蔵さんのいる場所で、 悪いことをする気にならない

  @      言われてみれば、 確かに

  @      菩薩というのは、   既に悟りを開いているが、    現世の人々の為に、  
如来とならずにいてくださる存在なのです
地蔵菩薩をなめてはいかん

  @      如来って、  もう仏なのに、
人々を救うために、あえて来た人じゃなかったっけ


  @      日本の、  本地垂迹思想    ;        
    仏教が興隆した時代に発生した、
神仏らを習合する思想らの一つで、    
日本の八百万の神々は、
  実は、  様々な仏ら  
(   菩薩や天部なども含む  )が、   化身として、
日本の地に現れた権現  (  ごんげん    ≒     仮の姿や在りようの者    )   である、   とする考えである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/本地垂迹


  @     昔、どっかの寺から仏像を盗んだ奴らがいたんだが
全員が、事故で死んだというニュースがあった

     @      道端のお地蔵さんに蹴りいれる奴と、
手を合わせる人と、
どっちと仲良くしたい?と考えたら
やっぱ後者だよなぁ…

   @       石の塊に手を合わせる変人と、
蹴り入れる野蛮人となら、
どっちとも、仲良くしたくないわw

      @      お地蔵さんを、 ただの石の塊という奴とも、友達になりたくないな

 @     神仏がどうこうじゃなくて、
地蔵を彫った人のこと考えると、
蹴りなんか入れられんよ

  @      石の塊ではないわな
少なくとも、 お地蔵さんの形にした彫刻士がいて
、 その人の念は入ってると思う

  @      念とか、ないから

  @     あるから、 言葉になってるんやで

   @     如来
菩薩
明王
天 ← 神は、 ここ

 悟りの度合いに応じた、
人々を救う能力性の度合いが高い、
偉い順に並べると、 こうだ。


   ☆      豊臣政権を存続させる上で、 効果を成した事は、 何か❓    

  @          極論すれば、   秀吉氏が若いうちに、  
優秀な男児が出来てれば、
何の問題も無かったんだよな。
しかも、  ねねさんか、実母で。
父母のどちらの遺伝でも、基本的に、優秀。
   叔父が、 堅物の秀長どん。
    兄貴分が、 マッチョな加藤清正氏と、
福島正則氏。
    怪しい蜂須賀のオッサンが、
ガラの悪い手下とともに、家を出入りして、
   竹中半兵衛氏とかが、 家庭教師格。
   後の子分に、  石田氏。
すごく逞しく育ちそう。
出生は、   1562年頃で、初陣は、 1575年の長篠。
   その後も、 各地を転戦し、  1582年の、 中国攻めと山崎の合戦では、 前線指揮官として奮戦。
  この時点で、 二十歳くらい。
そして、  三兄弟は、  島津攻めや小田原征伐などでも活躍しつつ、叔父の秀長氏とともに、
利休氏から、 茶の湯を学んで、
雅とコネクションを強化し、
   流行の切支丹も、 ハマりすぎない程度に、
ちょっとかじり、  半島への征伐で、無双し、
  秀吉どんの死の時点で、 三十六歳、 という、
油の乗り切った年頃。
そんなチート後継者がいれば、
豊臣の家は、 安泰だったかも。

なんて都合の良い設定だけど、
毛利三兄弟とかの例があるからな。

   @      毛利三兄弟も、  母父  〔  吉川  〕一族の実績も、 優秀だもんなあ

  @       前田利家って、そこまで、 実力と義理堅さがあるかね?
    歳をとって、 同年代の知り合いがいなくなった
秀吉どんが、 弱気になって、頼っただけで、
  実際は、
  柴田勝家氏に見切りつけた時みたいに、
 時流に乗りそう。

  @     丹羽長秀氏が生きていれば…
    関白豊臣秀吉は、 誕生せず、
   お飾りだが、  三法師  (   織田秀信氏  )   が、
天下人で、    羽柴秀吉氏は、  
長秀氏や家康氏に、 信雄氏と並んだ、
筆頭ではあるが、 大老らの1人だろう。

   

   @        東播磨の三木城を本拠とし、
覇を競ったものの、   毛利と織田の間に揺れ、
最後は、  秀吉どんに兵糧攻めをされて滅んだ、
別所氏について語りましょう。

別所長治氏 辞世の句
「  今はただ      うらみもあらじ      諸人の      
いのちにかはる      我身とおもへば   」 。

   @      別所氏 (   べっしょし   )  は、
  播磨の、 戦国大名を輩出した氏族。

播磨の守護大名・赤松氏の庶流で、
三木城を本拠とした。

室町時代の中期以降は、
  1441年に、   室町幕府の、 第6代の征夷大将軍の、 足利義教氏が、 赤松満佑の屋敷での、宴の最中に、暗殺された、  『   嘉吉の変  』   により、  
  主家の赤松氏と共に、  
別所氏も、 一時は、 衰退したが、
   1467年に始まった、  応仁の乱により、    
赤松氏が勢力を回復すると、  
 別所則治氏は、 三木城を築き、
初代城主となった。
それがために、 則治氏は、
別所氏中興の祖と言われる。

    則治氏の孫の、 就治氏の代に、  
主家の赤松氏と、 その守護代である、
浦上氏が対立して、  
  赤松氏の勢力が衰退の一途をたどり始めると、
   就治氏は、  東播三郡を支配下に置いていたことを背景に、 赤松氏から独立し、
戦国大名として、名乗りを上げる。

   就治氏は、  武勇に秀でたことから、
   その後は、 三好氏や尼子氏の侵攻を次々と撃退して、 勢力を拡大し、
  東播八郡   (  美嚢郡、明石郡、加古郡、印南郡、加西郡、加東郡、多可郡 、神東郡  )  を支配する、 別所氏の最盛期を築き上げた。

    しかし、    就治氏の孫の、 長治氏のときに、  
織田信長氏の命を受けた、羽柴秀吉氏によって、
 有名な「三木の干殺し」にあう  (   三木合戦   )。

   長治氏は、   2年間近く抵抗する、 という、  
しぶとさを見せたが、 力尽きて、  
  本能寺の変の2年前の、  1580年
 (  天正8年   )   に自害し、   ここに、  
戦国大名としての別所氏は、 滅亡した。


 @      旗本の別所信治どんって、
やっぱり、 一族だよね?

  @      おそらく、  別所長治氏の叔父で、
秀吉どん側についた、 重宗氏の系統でしょう。
    子の吉治氏は、  実は、  長治氏の子、とかって、
嘘くさい説がある。
吉治氏は、  関ヶ原の後に、  丹波だか
但馬あたりに、  3万石程度をもらって、
大名になるが、  参産勤交代をさぼるかなんかやって、 改易になったんだっけ?

  @      長期間を籠城出来るほど、  
三木城の付近って、険しい場所だったのか?
すぐ横に川が流れてるから、そこから、 兵糧を逐次補給出来そうだが。


  @       行ってみると分かるけど、  
意外に、  山も低いし、 険しいって程じゃないんだけど、  何か守りやすかったみたい。
川は、 上流を、  秀吉どんに押さえられてるので、
使えないでしょう。
   明石の方から、 こっそり、 山を越えて、
兵糧を運びこんでたみたいだけど、
かなり、 命がけ。

  @     東播磨って、 別所氏以外だと、どんな連中がいる?
「明石」「魚住」「孝橋」とかぐらいか。

  @       別所氏の長年のライバル依藤氏。  
三木のお隣、豊地城主。
赤松家中での勢力争いから、主家が内紛状態になると、 武力衝突に発展し、   依藤氏は、  
浦上村宗・細川高国氏と組み、
 別所氏を、三木城から追い出した。
三木城が落城したのは、 この時と、
秀吉どんのとの、二度だけ。

  @     普通は、 一度落城したら、  その家は、滅びるもんだと思っていたが… どこに潜んでいたんだろう

   @      別所政権の滅亡の原因は、 2人のアホな叔父さんのせい
長治パパが、もうちょっと長生きしてたらなぁ…

  @      別所吉親どんですか……。
https://ja.wikipedia.org/wiki/別所吉親

   別所 吉親  (  べっしょ よしちか   )  氏は、  
戦国時代から、安土桃山時代にかけての武将。

兄・別所安治氏が亡くなった後は、
  弟・重宗氏と共に、   甥 (  安治氏の子  )の、
長治氏の後見を務めた。
    播磨国に、   織田信長氏の部将の、
羽柴秀吉氏が進出して来ると、
  長治氏は、  信長氏に従属したが、
   吉親氏は、   加古川城での会談で、
秀吉氏と衝突、  長治氏を説得して、
信長氏に反乱を起こした。
 親織田派であった重宗氏は、浪人となっている。

  天正8年 (  1580年  )、に、  
秀吉氏から長治氏に、  降伏の引き換えに、
長治氏とその弟の友之氏、に、 吉親氏らの3人の切腹で、  城兵を助ける、 という旨を伝えられた。

    しかし、    吉親氏は反対し、あくまで、 城に火をつけて、 信長氏に首を渡さずに、 自らの体を灰にしてしまうと言い、自分の家を放火してしまった。
   これを見て激怒した城兵に殺されて、
首は、 安土に運ばれてしまった。

  @    「   秀吉氏との個人的不和で毛利方に  」 ってのは、   別所に限らず、  中国戦線のいたるところで
聞かれる話だな。     秀吉はどんは、 よほど、
地元豪族に、占領軍然とした高圧的な態度で接していたようで。

  @     長治氏の叔父の、 吉親氏と重宗氏は、
仲が悪く、   重宗氏が、 織田方に接近したのも、
先見の明があったというよりは、
  元々、 親・毛利派の兄を出し抜いてやろうとしただけでしょう。
重宗氏の説得で、 織田につく事が決まった事が、
内心では、面白くない吉親氏が、
加古川評定での秀吉氏の態度の悪さを理由に、
反旗を翻したのではないでしょーか?

  @     吉親氏のヨメは、  巴御前ばりの女豪傑で、
戦場で大活躍したらしいっス


   @       地元豪族で思い出したけど、
  淡河城の淡河氏って、別所一族なの?
   自分の城を捨てて、三木に合流するなんて、従順だな

  @       淡河定範氏は、   別所家一の知恵者と言われた人物で、   祖先は、 北条氏ですが、  
別所に従属してました。
馬を沢山集めて、 織田軍に向かって放つ奇襲で、
緒戦は、 大勝したものの、
  淡河城では、 とても支えきれないので、  
さっさと火を放って、三木城に引き上げました。
合流後の戦いで、すぐ死んでしまったのが、
もったいない…。

   @       ありがとう。     牝馬を放して、 敵を混乱させたって話は聞いた事ある。
   で、北条氏って執権の? 出先機関の長ってことかな。    元々は、別所氏より格が上だったのかも。

  @      淡河氏は、   北条一門で、  
淡河の地頭職でした。

    鎌倉末期ごろの播磨は、
北条氏のテリトリーでした。
その頃は、    別所氏の祖先の赤松氏は、
悪党とよばれた、
反権力武装ゲリラみたいな存在で、  
淡河氏も、散々に苦しめられました。

   鎌倉幕府の滅亡後は、ジリ貧状態になりましたが、大出世した赤松円心どんと、 姻戚関係を結び、
一安心、と思いきや、  
赤松満祐が、  嘉吉の乱を起こし、 滅亡した、  
とばっちりで、  またも、 ジリ貧状態に舞い戻りました。
それでも、 粘り強く生き残り、 戦国期には、
別所氏に従いました。

…て、なんだか救われない一族ですね(T_T)

  @       淡河城へ行ったことあるけど、
   内堀とかが残ってて、良い感じだったなぁ。

   二回目行った時は、変な櫓が建ってたけど…
   三木城も行ったことあるけど、
遺構的なものは、見つけられなかったけど、
何か残ってるのかな…

  @      淡河城って、 ひょっとして、
道の駅の上のところですか?


  @     そうです。   道の駅の裏の山です。        
  山って言ったけど、   上に上がると、  
台地みたいな感じかな。
  全体の規模は、よくわからないけど、    
内郭は、 ホント小さな城です。


  @      淡河城は、 内郭は小さいけど、
  地形を利用した、 かなり広大な堅城だったらしいです。
今では、 まったく、ピンと来ませんが
  (   失礼!  )      、     当時は、  
播磨と摂津の国境に位置し、  
街道沿いの交通の要衝だったそうです。

  @     三木城跡へは行った事ないのに、  
平井山本陣跡には行った事がある。
なんかプラスチック製ベンチと灰皿があって、
地元老人の憩いの場なのか?って思った。

あとは、 その近所の半兵衛重治どんの墓か。

 @      平井山や半兵衛どんのお墓のあたりは、
今や、すっかり、 葡萄畑ですねー。


  @      別所重棟氏に、 福島正則氏の姉が嫁いで
生まれたのが、   福島正之氏というのが、
 定説だが、    嫁いだのは、  
姉じゃなく、 妹だとか、
嫁いだ相手も、 重棟氏ではなく、
別の人物だとか
生まれたのも、 正之氏じゃなくて、
別人だとか、色んな説があるらしい

  @      別所重棟  (  宗?  )  氏って、  
三木落城後も、 秀吉氏に仕えたそうだけど、
  主家を滅ぼした裏切り者、みたいに、
白い目で見られて、 肩身が狭かったりしたのかなぁ?      小早川秀秋氏みたいに。

 @     別所って、 毛利と似ているよね。
当主を補佐する二人の叔父が、兄は、反織田羽柴、弟は、 親織田羽柴に分かれて