根途記事+論弁群 ;
@ NHKでやってたよな
飽食の時代になっても、 縄文時代の日本人たちは、 選んで、どんぐりを食べてたって
@ 草食動物らは、 草と一緒に、
それに付いてる虫も一緒に食べてるみたいで
そうやって、 タンパク質を補ってるのでは?
って説を読んだことあるよ
@ 子供が拾って来た、どんぐりを育てて、
盆栽に
@ ドングリの中に居る虫は、
ゾウムシの幼虫
栗の中にいる虫も、同じゾウムシ
@ 栃の実は、 餅の中に入れて、 毎年食ってるぞ
@ 米づくりって、異常だよな
あんなに複雑な技術と手順を、大勢が納得してやるようになったって、すごすぎる
よっぽど、うまかったんだろう
どんぐりよりw
@ ある程度は、安定した収穫が見込めるってのが、大きいんだろさ
ドングリじゃ、収穫量は、たかが知れてるし
収量を増やそうとすると、 コメより、
手間も時間もかかる
@ 稲作をしていた登呂遺跡の跡からも、
どんぐりの入った甕 ミカ 、が発掘されてる
@ 科学文明やテクノロジーは、発達しまくったけど、 俺たちは、どんどりの民だと思うと、
心が安らぐよね
平和で、ぽかぽかした気持ちになる
@ 昔の日本の沿岸は、 アワビが豊富で
縄文人らは、 毎日、バグついてた模様
平安貴族も、 献立記録に、
毎日、 アワビが出ていたのが残ってる
@ どんぐりとか、アワビとかって
アゴが強い奴は、好むよね
縄文人とかは、アゴが強かったんだろうな
@ マテバ 椎 シイは、 タンニン
( 渋み ) が、 0.5% しかなく、
甘みがあって、 そこら中に生えてるので
食用に一番向いてる
@ シイノキの実の方が、 アクは少ないんだが、 小さいからなあ
マテバシイは大きいから、堅い皮も、剥き易い
@ 太平洋の諸島では、イモを食っているな
イモといっても、 サトイモ
( または、 それに近い、 タロイモ ) や、
ヤマイモ ( または、 それに近い、 ヤムイモ ) を食べている
ただし、何故か、本来は、 中南米原産の筈の、
サツマイモが、
太平洋諸島の各地で栽培されており、
ポリネシア ≒ 多い島 、 人らが、
カヌーで漂着して、採取して持ち帰ったのでは、
などと言われている
@ リスさんが可哀想だろ
@ リスちゃんは、 クルミや、松ぼっくりの方が、好物
@ リスなんか、ひまわりの種でも食わせとけ
@ どんぐりが、品種改良されて、
皮のまま食べれたり、 めっちゃジューシーだったりすれば、 生き残れたのに
@ 気候変動による海面の上昇で
現在は、内陸部にある、
貝塚がある、 茨城県に残る資料で
それを分析した平安時代の資料と
江戸時代の資料が残っている
@ 田舎の道の駅なんかに行くと、
どんぐりの粉を売ってたりするから
そういうの小麦粉に混ぜると、いい
☆ 中国の古都は、 西安で見つかった墓誌
( 故人の事績を刻んで、墓に収めた石板 )に、
「 日本 」 、との文字があることを紹介する論文が、 中国で発表された。
墓誌は、 『 678年の作と考えられる 』 、 としている。
日本と名乗るようになったのは、
いつからなのかは、 古代史の大きななぞだ。
701 名 ナ 、は、 一 イチ 番に良い 、 の、 701年 、 に、 施行された、
大宝律令 タイホウリツリョウ 、から、
との見方が、有力だったが、
墓誌が本物なら、 さらにさかのぼることになる。
中国の墓誌を研究する、
明治大の気賀沢保規教授 ( 中国史 ) によると、
論文は、 吉林大古籍研究所の王連竜氏が、
学術雑誌の、 「社会科学戦線」の7月号に発表した。
祢軍 ( でいぐん ) 、という、
百済 ( くだら ) 人の軍人の墓誌で、
1辺が、 59センチの正方形。
884文字があり、
678年の2月に死に、
同年の十月に、 葬られた、 と記されている。
日本人たちも混在し、 王家らも出した、
百済を救うために、
日本は、
日本領の任那 ミマナ 、 が、
その南部にあつた、 朝鮮半島に出兵したが、
663年に、
白村江 シラスキノエ ( はくそんこう ) の戦いで、
唐と、 新羅( しらぎ ) の連合軍に、
水上で、 敗れる。
その後の状況を、 墓誌は、
「 日本餘 ● ( ●は、 口へんに焦 )
拠扶桑以逋誅 」 、 と記述。
「 生き残った日本は、
扶桑 ( 東の大海にある島、 日本の別称 ) に閉じこもり、 罰を逃れている 」
、 という意味で、
そうした状況を打開するために、
今の朝鮮人らとは、 直接の血縁関係の無い、
百済の 将軍だった祢軍氏が、
日本に派遣された、 と記していると、
気賀沢教授は、説明する。
http://www.asahi.com/culture/update/1022/TKY201110220586.html
上の方に「日本」の文字が見える。
「最古の日本」の可能性が高い
=「社会科学戦線」7月号、王連竜氏の論文の、「百済人祢軍墓誌考論」から
http://www.asahi.com/culture/update/1023/images/TKY201110220633.jpg
@ 小野妹子氏が、 隋に持っていった、
「 日出處天子致書日沒處天子無恙云云
≒ 日いずるところの天子、 書を、 日が没すするところの天子へいたす、 つつがなきや、
うんぬん 」 、の、
いわゆる、 聖徳太子の国書が、
『 607年 』 で、
第2代の皇帝の、 煬帝の隋からの答礼使の、
裴世清に持たせた返書の、
「 東天皇敬白西皇帝 」 が、 その2年後だ。
東=日の本なんて、古代人においては、
普通の発想でしか無い。
@ また、意外なとこから出てきたね。
白村江の敗戦のショックで、 わずか15年の間に、
大急ぎで、改名したんだろうな。
@ 701年に、 対馬で、 金が採れた
( 実は、 嘘だったらしいが ) ときに、
途絶えていた元号を復活させて、
「 大宝 」 、 とした。
その後は、 元号は途絶えることなく、
「 平成 」 に至る。
674年の銀も、 全ての神々に捧げ、
全ての官吏らに配る、 という、
大騒ぎをしたのに、
改めて、元号を立てた記事が、無い。
国号を変更したのなら、
黄金のジパング = ジャパン = ジッポン
= 日本の出発点か。
@ 倭から、 日本ってのは、
白村江の敗戦のあとに、
王朝の交代があったかのようにみせたかったのではないかな
隋から唐に変わったみたくさ
@ 天武天皇は、
673 胸騒 ムナサ わぎ、 の、
673年、に、 耽羅の使者に、
天命が革まって、 王朝が代わる事である、
革命を宣言している。
【 王朝が、 交代したから、
唐帝国から、 攻められる筋合いが無くなった、
という事にする為に、
天武天皇側が、
その先代で、 兄の、 天智天皇との関係性を、
兄と弟では無いかの様に、
外国人ら等へ、述べ伝える場面らを成した事も、
あって、
それが、 日本側の歴史書らにも、
反映されたのではないか? 】
@ 耽羅からの渡来人の、
坂上 田村麻呂 サカノウエのタムラマロ どんを、
多賀城に遣わし、
蝦夷 エミシ 達を討ったのだろう?
@ 坂上田村麻呂どんは、
東漢 ヒガシノアヤ 氏だろう?たしか。
だから、応神天皇時代の前後くらいに、
日本に移民してきた出自をもつ豪族だよ。
@ 「新羅」⇒「しらぎ」
「百済」⇒「くだら」
「任那」⇒「みまな」
「白村江の戦い」⇒「はくすきのえのたたかい」
でも、今の中学生や高校生の教科書には
「新羅」⇒「しんら」
「百済」⇒「ひゃくさい」
「任那」⇒ 「 伽耶諸国 ( かやしょこく 」
「白村江の戦い」⇒「はくそんこうのたたかい」
に成っている件について…。
これも、朝鮮人どもの影響だろうか…??
@ 「しらぎ」とか「くだら」ってのは、
倭国側での読み方で、
当時、彼らが、 何というふうに、
自分たちの国名を読んでいたのか、
分からんのだよ。
漢字というのは、時代によって、音韻が絶えず変化するからね。
@ 日本で、 日本側の呼び方をする事は、
当たり前な事なので、
クダラは、 クダラで、いいし、
シラギは、 シラギで、 いい。
@ 「新羅」は、「シラギ」、
「百済」は、 「クダラ」、
「任那」は、 「ミマナ」なのに、
なぜ、 「高句麗」は、「コマ」じゃなくて、
「コウクリ」なの?
@ たしか、 日本書紀とか六国史に、
「高句麗」は、 出て来ないよ。
「高麗」と表記し、「コマ」と訓んでるはず。
@ 山梨には、 巨摩 ( こま ) っていう地域があるんだけど、
高麗からの渡来人が住んでいたから、
「 こま 」 って読むんだよ
って、 中学で習った。
@ ヤマトも、 畿内の地名だよね
地名が、国名になるのは、 結構大規模な軍事統一が必要なんじゃないだろうか
@ 「ヤマト」が、 国号になったことはないんじゃないか。
6世紀以前には、 中国から、
「倭国」と、一方的に呼ばれていたものが
6世紀前後に、 日本側から、
「日本」という国号を中国に伝えている。
日本で初めてできた国号が、 日本。
それ以前にはまだ、
畿内を中心とする小国連合であって
一つの国という概念が、 国内にあったかどうかは、
分からない。
@ 倭も、 日本も、 国内での訓みは、
やまと。
漢字での新しい表記法が増えたにすぎない。
あすか→ 飛鳥・明日香
なら→ 那羅・平城
はつせ→ 泊瀬・長谷
しき→ 志貴・磯城
うじ→ 宇治・菟道
なにわ→ 難波・浪速
やまと→ 倭・日本
@ 教科書とかテレビの歴史番組とかで、
「 中央集権国家を確立し、
倭国から、 日本国に国名を改めた云々 」
て刷り込ませた過ぎたんだと思うね。
実際は、 漢字での書き方が増えただけの話で、
倭国・日本国は、 どっちとも、
国内的には、 「 やまとのくに 」 だったんだ、
と思うんだよね。
奈良時代以降は、
「 やまとねこ 」 の表記には、
倭根子も、 日本根子も、 使われるし、
万葉集でも、
「 日本 」 は、 「 やまと 」 、 と読まれ、
大方、 奈良県のことを指すわけだから、
「 国号を、 『 わ 』 から、
『 にほん 』 、 に改めた 」 云々てのは、
ちょっと違うんじゃないかなあと思う。
@ 気がついたら、
日本 = にほん 、 になってたってことか。
@ 大陸 ( 漢風 ) 文化の影響かな。
平城京の、 「 ならのみやこ 」、
平安京の、 「 たいらのみやこ 」 も、
「 へいじょうきょう 」、
「 へいあんきょう 」 、 になっちゃったしな。
@ 「 日本 餘 ●
( ●は、 口へんに、 焦 ) 拠扶桑以逋誅 」 、の、 日本って、 「国号」というより
もっとくだけた、 異民族の俗称が入りそうな文脈だ。
白村江の戦いに破れた後に、
日本の天武天皇側が、 あわてて、
国号をたてて、
その直後に、 旧敵国側の人間が、
日本の立場を尊重して、 日本の新国号を、御丁寧につかってくれそうな文脈じゃない。
ひょっとすると、 「日本」というのが、
当時の倭国への蔑称とまではいかなくても
俗称だった可能性があるのでは?
で、 倭国政府は、
大陸や半島での、 「 日本 」、 という、
「倭」への俗称を、 何らかの誤解の下に
正式国号としてしまったのでは?
@ 墓の主が、 日本人らによって、助けられ、
日本人らを先祖とする、王家らと、住民らのいた、 百済の人間だから、
こっそりと、 日本に義理立てした可能性も、
無くはない。
墓誌は、埋めてしまうから、
シナの役人の目に触れる危険も無いだろう。
@ ああ。 旧百済の人間として、 百済を援助してくれた倭が、
海の向こうで、 「日本」とか名乗って健在なのを、 内心喜んでいる、
てな文脈なのかなあ。
どのみち、朝日の記事だけじゃ何もわからないや。
@ ひょっとすると、
日本に亡命した百済貴族らが、
唐に帰服した、 この墓主に対して、
縁故を辿って、
天武政府からの依頼を受けて、
「 今度、 "日本"、 という新国号にしました。
この新しい名前で、 唐との外交関係を改善できないか、 瀬踏みしてくれませんか? 」 、とか、 働きかけていたのかも。
@ 「 日本国の残余兵は、
国内の東方に逃亡した 」 、 という意味。
扶桑 ( ふそう ) とは、
日本の東域 ( 正確には、 関東方面 ) のこと。
@ 扶桑 ( ちゃんと調べてみたよ )
原義は、 東海の日の出るところにあるという、
巨大な神木。
転じて、
東方の海上にある、 島国。
扶桑・扶桑国は、 日本の異称ともなった。
@ 調べたら、何でも分かると思っちゃ、
いかんぞ。
扶桑というのは、語義がまだ、不安定な言葉だからな。
@ 日本人がいう、 扶桑じゃないぜ。
日本国内での、 純正仕様の解釈ではなく、
「 6百年代の、 7世紀の中国人ら 」が、
扶桑といったら、 何の意味があるかの問題だ。
この文章では、 「 大海の中の島 」 、
という意味で使われているのは、 明白だ。
@ ?は、 「噛む」という意味のやうですが。
@ 扶桑=日本、の意味となったのは、
平安・鎌倉時代以降だろうな
@ 「 日下 ( くさか 」 とは関係ないの?
@ それは、枕詞に由来すると考えられている。
@ 日本ぐらいは、 使ってても、
おかしくないんじゃないか?
日の本の国→日本だろ
おまいらも、 「お彼岸」ぐらいは知ってるだろうが、 あれは、 「むこう岸」という意味だ
つまり、 「ひノもとノくに」とは、
半島倭人らからすると、
日本海を見ながら、
「むこう側の本国」=『ひの本の国』だ。
和語の音に当てる漢字を、
倭→和と改めたように、
「 ヒに、 日をあてた 」 ってわけだよ
@ 国内向けに使われていたのかな?
中国向けには、 倭国でさ
@ ちがう
中国向けに、 「倭」だったのを、
中国向けに、 「日本」に変更したってこと。
国内では、 ヤマトのままで、 かわりはない。
@ 墓碑の全面写真を見たけど、
扶桑の「扶」の部分は、欠けてるみたいだなあ。
扶桑とは、読めんぞ。
@ 670年が、 近江令、
日本建国の年だと思う。
@ たかが、 法律だろ
なんで、 日本がなかった
ことになるんだよ
@ 禰軍は、 665年に、
唐の使者として、 倭国に来た。
日本書紀に、 しっかり出ている。
@ 日本人たちを先祖とする王家らが出て、
日本人たちが住んでもいた、
新羅 、 の記録では、
倭が、 日本になったのは、 670年。
禰軍どんは、 672年まで、 新羅にいた。
@ 天武天皇3 ( 674 ) 年の3月に、
対馬で、 銀が採れたが、
これは、 「 倭国では、 初めて 」 のことだと、 日本書紀は、記している。
この「倭国」は、
狭義の「倭国」 = 奈良県でなく、
明らかに、 対馬を含む、
広義の「倭国」 = 「大倭国」であるので
この時はまだ、 「日本国」でなく、
「倭国」だったが、
この事件を契機に、 「倭国」は、
「日本国」に変わったのではないか。
根拠は、三つ。
① 天武天皇4 ( 675 ) 年の1月に、
奈良県を、 「倭」でなく、
「大倭」と記した記事が現れる。
狭義の「倭国」 = 奈良県を、 「大倭」と記した例は, 宣化天皇以前に数例しかない。
これは、 広義の「倭国」の国名の変更を暗示している。
② 674年とも重なる、 天武天皇3年は、
前後の年に比べて、 極端に記事が少ない。
「日本」を神代に遡らせるために、
国名の変更の記事を省略したか。
③ 675年とも重なる、 天武天皇4年は、
祝賀ムードが高まり、
新羅の王子の、 忠元どんや、 耽羅 ( 済州島 )の王の、 姑如どんが、 日本に来ている。
ここで、 両国に、国名の変更を伝えたのだろう。
@ ていうか、倭も日本も、やまと。
飛鳥と明日香(あすか)
平城と奈良(なら)
長谷と泊瀬(はつせ)
みたいなもんで、基本的には、新しい表記法が増えたということ。
確かに、 奈良時代以降、
対外的にも、 日本全国としての国名を、
「日本」としている節はあるけど、
一方で、 称徳天皇の詔や万葉集などは、
奈良県のやまとのことを、
「日本」、 と表記している例もある。
@ 菩薩の居所は、 空居天である、
兜率天 、 とされるが、
地蔵菩薩は、 地居天である、 忉利天に在って、
釈迦仏の付属を受け、
毎朝に、 禅定に入りて、 衆生の機根
( 性格や教えを聞ける器 ) を感じ、
釈迦の入滅後の、 56億7000万年後に、
弥勒菩薩が出現するまでの間は、
現世に、 仏が不在となってしまうために、
その間を、
六道 ( 地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道 ) を輪廻する衆生を救う、
菩薩である、 とされる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/地蔵菩薩
@ 日本では、 神仏らは、一体だから
@ 付喪神 ツクモガミ 、 って言って,
針にすら、神が宿るってことになってる
@ それは、 喋ることも見ることも感じることも、できない
それら人間が作った像らを崇拝する者らは、
いずれ、 それらと同じようになる
( 聖書より )
@ お地蔵さんのいる場所で、 悪いことをする気にならない
@ 言われてみれば、 確かに
@ 菩薩というのは、 既に悟りを開いているが、 現世の人々の為に、
如来とならずにいてくださる存在なのです
地蔵菩薩をなめてはいかん
@ 如来って、 もう仏なのに、
人々を救うために、あえて来た人じゃなかったっけ
@ 日本の、 本地垂迹思想 ;
仏教が興隆した時代に発生した、
神仏らを習合する思想らの一つで、
日本の八百万の神々は、
実は、 様々な仏ら
( 菩薩や天部なども含む )が、 化身として、
日本の地に現れた権現 ( ごんげん ≒ 仮の姿や在りようの者 ) である、 とする考えである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/本地垂迹
@ 昔、どっかの寺から仏像を盗んだ奴らがいたんだが
全員が、事故で死んだというニュースがあった
@ 道端のお地蔵さんに蹴りいれる奴と、
手を合わせる人と、
どっちと仲良くしたい?と考えたら
やっぱ後者だよなぁ…
@ 石の塊に手を合わせる変人と、
蹴り入れる野蛮人となら、
どっちとも、仲良くしたくないわw
@ お地蔵さんを、 ただの石の塊という奴とも、友達になりたくないな
@ 神仏がどうこうじゃなくて、
地蔵を彫った人のこと考えると、
蹴りなんか入れられんよ
@ 石の塊ではないわな
少なくとも、 お地蔵さんの形にした彫刻士がいて
、 その人の念は入ってると思う
@ 念とか、ないから
@ あるから、 言葉になってるんやで
@ 如来
菩薩
明王
天 ← 神は、 ここ
悟りの度合いに応じた、
人々を救う能力性の度合いが高い、
偉い順に並べると、 こうだ。
☆ 豊臣政権を存続させる上で、 効果を成した事は、 何か❓
@ 極論すれば、 秀吉氏が若いうちに、
優秀な男児が出来てれば、
何の問題も無かったんだよな。
しかも、 ねねさんか、実母で。
父母のどちらの遺伝でも、基本的に、優秀。
叔父が、 堅物の秀長どん。
兄貴分が、 マッチョな加藤清正氏と、
福島正則氏。
怪しい蜂須賀のオッサンが、
ガラの悪い手下とともに、家を出入りして、
竹中半兵衛氏とかが、 家庭教師格。
後の子分に、 石田氏。
すごく逞しく育ちそう。
出生は、 1562年頃で、初陣は、 1575年の長篠。
その後も、 各地を転戦し、 1582年の、 中国攻めと山崎の合戦では、 前線指揮官として奮戦。
この時点で、 二十歳くらい。
そして、 三兄弟は、 島津攻めや小田原征伐などでも活躍しつつ、叔父の秀長氏とともに、
利休氏から、 茶の湯を学んで、
雅とコネクションを強化し、
流行の切支丹も、 ハマりすぎない程度に、
ちょっとかじり、 半島への征伐で、無双し、
秀吉どんの死の時点で、 三十六歳、 という、
油の乗り切った年頃。
そんなチート後継者がいれば、
豊臣の家は、 安泰だったかも。
なんて都合の良い設定だけど、
毛利三兄弟とかの例があるからな。
@ 毛利三兄弟も、 母父 〔 吉川 〕一族の実績も、 優秀だもんなあ
@ 前田利家って、そこまで、 実力と義理堅さがあるかね?
歳をとって、 同年代の知り合いがいなくなった
秀吉どんが、 弱気になって、頼っただけで、
実際は、
柴田勝家氏に見切りつけた時みたいに、
時流に乗りそう。
@ 丹羽長秀氏が生きていれば…
関白豊臣秀吉は、 誕生せず、
お飾りだが、 三法師 ( 織田秀信氏 ) が、
天下人で、 羽柴秀吉氏は、
長秀氏や家康氏に、 信雄氏と並んだ、
筆頭ではあるが、 大老らの1人だろう。
@ 東播磨の三木城を本拠とし、
覇を競ったものの、 毛利と織田の間に揺れ、
最後は、 秀吉どんに兵糧攻めをされて滅んだ、
別所氏について語りましょう。
別所長治氏 辞世の句
「 今はただ うらみもあらじ 諸人の
いのちにかはる 我身とおもへば 」 。
@ 別所氏 ( べっしょし ) は、
播磨の、 戦国大名を輩出した氏族。
播磨の守護大名・赤松氏の庶流で、
三木城を本拠とした。
室町時代の中期以降は、
1441年に、 室町幕府の、 第6代の征夷大将軍の、 足利義教氏が、 赤松満佑の屋敷での、宴の最中に、暗殺された、 『 嘉吉の変 』 により、
主家の赤松氏と共に、
別所氏も、 一時は、 衰退したが、
1467年に始まった、 応仁の乱により、
赤松氏が勢力を回復すると、
別所則治氏は、 三木城を築き、
初代城主となった。
それがために、 則治氏は、
別所氏中興の祖と言われる。
則治氏の孫の、 就治氏の代に、
主家の赤松氏と、 その守護代である、
浦上氏が対立して、
赤松氏の勢力が衰退の一途をたどり始めると、
就治氏は、 東播三郡を支配下に置いていたことを背景に、 赤松氏から独立し、
戦国大名として、名乗りを上げる。
就治氏は、 武勇に秀でたことから、
その後は、 三好氏や尼子氏の侵攻を次々と撃退して、 勢力を拡大し、
東播八郡 ( 美嚢郡、明石郡、加古郡、印南郡、加西郡、加東郡、多可郡 、神東郡 ) を支配する、 別所氏の最盛期を築き上げた。
しかし、 就治氏の孫の、 長治氏のときに、
織田信長氏の命を受けた、羽柴秀吉氏によって、
有名な「三木の干殺し」にあう ( 三木合戦 )。
長治氏は、 2年間近く抵抗する、 という、
しぶとさを見せたが、 力尽きて、
本能寺の変の2年前の、 1580年
( 天正8年 ) に自害し、 ここに、
戦国大名としての別所氏は、 滅亡した。
@ 旗本の別所信治どんって、
やっぱり、 一族だよね?
@ おそらく、 別所長治氏の叔父で、
秀吉どん側についた、 重宗氏の系統でしょう。
子の吉治氏は、 実は、 長治氏の子、とかって、
嘘くさい説がある。
吉治氏は、 関ヶ原の後に、 丹波だか
但馬あたりに、 3万石程度をもらって、
大名になるが、 参産勤交代をさぼるかなんかやって、 改易になったんだっけ?
@ 長期間を籠城出来るほど、
三木城の付近って、険しい場所だったのか?
すぐ横に川が流れてるから、そこから、 兵糧を逐次補給出来そうだが。
@ 行ってみると分かるけど、
意外に、 山も低いし、 険しいって程じゃないんだけど、 何か守りやすかったみたい。
川は、 上流を、 秀吉どんに押さえられてるので、
使えないでしょう。
明石の方から、 こっそり、 山を越えて、
兵糧を運びこんでたみたいだけど、
かなり、 命がけ。
@ 東播磨って、 別所氏以外だと、どんな連中がいる?
「明石」「魚住」「孝橋」とかぐらいか。
@ 別所氏の長年のライバル依藤氏。
三木のお隣、豊地城主。
赤松家中での勢力争いから、主家が内紛状態になると、 武力衝突に発展し、 依藤氏は、
浦上村宗・細川高国氏と組み、
別所氏を、三木城から追い出した。
三木城が落城したのは、 この時と、
秀吉どんのとの、二度だけ。
@ 普通は、 一度落城したら、 その家は、滅びるもんだと思っていたが… どこに潜んでいたんだろう
@ 別所政権の滅亡の原因は、 2人のアホな叔父さんのせい
長治パパが、もうちょっと長生きしてたらなぁ…
@ 別所吉親どんですか……。
https://ja.wikipedia.org/wiki/別所吉親
別所 吉親 ( べっしょ よしちか ) 氏は、
戦国時代から、安土桃山時代にかけての武将。
兄・別所安治氏が亡くなった後は、
弟・重宗氏と共に、 甥 ( 安治氏の子 )の、
長治氏の後見を務めた。
播磨国に、 織田信長氏の部将の、
羽柴秀吉氏が進出して来ると、
長治氏は、 信長氏に従属したが、
吉親氏は、 加古川城での会談で、
秀吉氏と衝突、 長治氏を説得して、
信長氏に反乱を起こした。
親織田派であった重宗氏は、浪人となっている。
天正8年 ( 1580年 )、に、
秀吉氏から長治氏に、 降伏の引き換えに、
長治氏とその弟の友之氏、に、 吉親氏らの3人の切腹で、 城兵を助ける、 という旨を伝えられた。
しかし、 吉親氏は反対し、あくまで、 城に火をつけて、 信長氏に首を渡さずに、 自らの体を灰にしてしまうと言い、自分の家を放火してしまった。
これを見て激怒した城兵に殺されて、
首は、 安土に運ばれてしまった。
@ 「 秀吉氏との個人的不和で毛利方に 」 ってのは、 別所に限らず、 中国戦線のいたるところで
聞かれる話だな。 秀吉はどんは、 よほど、
地元豪族に、占領軍然とした高圧的な態度で接していたようで。
@ 長治氏の叔父の、 吉親氏と重宗氏は、
仲が悪く、 重宗氏が、 織田方に接近したのも、
先見の明があったというよりは、
元々、 親・毛利派の兄を出し抜いてやろうとしただけでしょう。
重宗氏の説得で、 織田につく事が決まった事が、
内心では、面白くない吉親氏が、
加古川評定での秀吉氏の態度の悪さを理由に、
反旗を翻したのではないでしょーか?
@ 吉親氏のヨメは、 巴御前ばりの女豪傑で、
戦場で大活躍したらしいっス
@ 地元豪族で思い出したけど、
淡河城の淡河氏って、別所一族なの?
自分の城を捨てて、三木に合流するなんて、従順だな
@ 淡河定範氏は、 別所家一の知恵者と言われた人物で、 祖先は、 北条氏ですが、
別所に従属してました。
馬を沢山集めて、 織田軍に向かって放つ奇襲で、
緒戦は、 大勝したものの、
淡河城では、 とても支えきれないので、
さっさと火を放って、三木城に引き上げました。
合流後の戦いで、すぐ死んでしまったのが、
もったいない…。
@ ありがとう。 牝馬を放して、 敵を混乱させたって話は聞いた事ある。
で、北条氏って執権の? 出先機関の長ってことかな。 元々は、別所氏より格が上だったのかも。
@ 淡河氏は、 北条一門で、
淡河の地頭職でした。
鎌倉末期ごろの播磨は、
北条氏のテリトリーでした。
その頃は、 別所氏の祖先の赤松氏は、
悪党とよばれた、
反権力武装ゲリラみたいな存在で、
淡河氏も、散々に苦しめられました。
鎌倉幕府の滅亡後は、ジリ貧状態になりましたが、大出世した赤松円心どんと、 姻戚関係を結び、
一安心、と思いきや、
赤松満祐が、 嘉吉の乱を起こし、 滅亡した、
とばっちりで、 またも、 ジリ貧状態に舞い戻りました。
それでも、 粘り強く生き残り、 戦国期には、
別所氏に従いました。
…て、なんだか救われない一族ですね(T_T)
@ 淡河城へ行ったことあるけど、
内堀とかが残ってて、良い感じだったなぁ。
二回目行った時は、変な櫓が建ってたけど…
三木城も行ったことあるけど、
遺構的なものは、見つけられなかったけど、
何か残ってるのかな…
@ 淡河城って、 ひょっとして、
道の駅の上のところですか?
@ そうです。 道の駅の裏の山です。
山って言ったけど、 上に上がると、
台地みたいな感じかな。
全体の規模は、よくわからないけど、
内郭は、 ホント小さな城です。
@ 淡河城は、 内郭は小さいけど、
地形を利用した、 かなり広大な堅城だったらしいです。
今では、 まったく、ピンと来ませんが
( 失礼! ) 、 当時は、
播磨と摂津の国境に位置し、
街道沿いの交通の要衝だったそうです。
@ 三木城跡へは行った事ないのに、
平井山本陣跡には行った事がある。
なんかプラスチック製ベンチと灰皿があって、
地元老人の憩いの場なのか?って思った。
あとは、 その近所の半兵衛重治どんの墓か。
@ 平井山や半兵衛どんのお墓のあたりは、
今や、すっかり、 葡萄畑ですねー。
@ 別所重棟氏に、 福島正則氏の姉が嫁いで
生まれたのが、 福島正之氏というのが、
定説だが、 嫁いだのは、
姉じゃなく、 妹だとか、
嫁いだ相手も、 重棟氏ではなく、
別の人物だとか
生まれたのも、 正之氏じゃなくて、
別人だとか、色んな説があるらしい
@ 別所重棟 ( 宗? ) 氏って、
三木落城後も、 秀吉氏に仕えたそうだけど、
主家を滅ぼした裏切り者、みたいに、
白い目で見られて、 肩身が狭かったりしたのかなぁ? 小早川秀秋氏みたいに。
@ 別所って、 毛利と似ているよね。
当主を補佐する二人の叔父が、兄は、反織田羽柴、弟は、 親織田羽柴に分かれて
@ NHKでやってたよな
飽食の時代になっても、 縄文時代の日本人たちは、 選んで、どんぐりを食べてたって
@ 草食動物らは、 草と一緒に、
それに付いてる虫も一緒に食べてるみたいで
そうやって、 タンパク質を補ってるのでは?
って説を読んだことあるよ
@ 子供が拾って来た、どんぐりを育てて、
盆栽に
@ ドングリの中に居る虫は、
ゾウムシの幼虫
栗の中にいる虫も、同じゾウムシ
@ 栃の実は、 餅の中に入れて、 毎年食ってるぞ
@ 米づくりって、異常だよな
あんなに複雑な技術と手順を、大勢が納得してやるようになったって、すごすぎる
よっぽど、うまかったんだろう
どんぐりよりw
@ ある程度は、安定した収穫が見込めるってのが、大きいんだろさ
ドングリじゃ、収穫量は、たかが知れてるし
収量を増やそうとすると、 コメより、
手間も時間もかかる
@ 稲作をしていた登呂遺跡の跡からも、
どんぐりの入った甕 ミカ 、が発掘されてる
@ 科学文明やテクノロジーは、発達しまくったけど、 俺たちは、どんどりの民だと思うと、
心が安らぐよね
平和で、ぽかぽかした気持ちになる
@ 昔の日本の沿岸は、 アワビが豊富で
縄文人らは、 毎日、バグついてた模様
平安貴族も、 献立記録に、
毎日、 アワビが出ていたのが残ってる
@ どんぐりとか、アワビとかって
アゴが強い奴は、好むよね
縄文人とかは、アゴが強かったんだろうな
@ マテバ 椎 シイは、 タンニン
( 渋み ) が、 0.5% しかなく、
甘みがあって、 そこら中に生えてるので
食用に一番向いてる
@ シイノキの実の方が、 アクは少ないんだが、 小さいからなあ
マテバシイは大きいから、堅い皮も、剥き易い
@ 太平洋の諸島では、イモを食っているな
イモといっても、 サトイモ
( または、 それに近い、 タロイモ ) や、
ヤマイモ ( または、 それに近い、 ヤムイモ ) を食べている
ただし、何故か、本来は、 中南米原産の筈の、
サツマイモが、
太平洋諸島の各地で栽培されており、
ポリネシア ≒ 多い島 、 人らが、
カヌーで漂着して、採取して持ち帰ったのでは、
などと言われている
@ リスさんが可哀想だろ
@ リスちゃんは、 クルミや、松ぼっくりの方が、好物
@ リスなんか、ひまわりの種でも食わせとけ
@ どんぐりが、品種改良されて、
皮のまま食べれたり、 めっちゃジューシーだったりすれば、 生き残れたのに
@ 気候変動による海面の上昇で
現在は、内陸部にある、
貝塚がある、 茨城県に残る資料で
それを分析した平安時代の資料と
江戸時代の資料が残っている
@ 田舎の道の駅なんかに行くと、
どんぐりの粉を売ってたりするから
そういうの小麦粉に混ぜると、いい
☆ 中国の古都は、 西安で見つかった墓誌
( 故人の事績を刻んで、墓に収めた石板 )に、
「 日本 」 、との文字があることを紹介する論文が、 中国で発表された。
墓誌は、 『 678年の作と考えられる 』 、 としている。
日本と名乗るようになったのは、
いつからなのかは、 古代史の大きななぞだ。
701 名 ナ 、は、 一 イチ 番に良い 、 の、 701年 、 に、 施行された、
大宝律令 タイホウリツリョウ 、から、
との見方が、有力だったが、
墓誌が本物なら、 さらにさかのぼることになる。
中国の墓誌を研究する、
明治大の気賀沢保規教授 ( 中国史 ) によると、
論文は、 吉林大古籍研究所の王連竜氏が、
学術雑誌の、 「社会科学戦線」の7月号に発表した。
祢軍 ( でいぐん ) 、という、
百済 ( くだら ) 人の軍人の墓誌で、
1辺が、 59センチの正方形。
884文字があり、
678年の2月に死に、
同年の十月に、 葬られた、 と記されている。
日本人たちも混在し、 王家らも出した、
百済を救うために、
日本は、
日本領の任那 ミマナ 、 が、
その南部にあつた、 朝鮮半島に出兵したが、
663年に、
白村江 シラスキノエ ( はくそんこう ) の戦いで、
唐と、 新羅( しらぎ ) の連合軍に、
水上で、 敗れる。
その後の状況を、 墓誌は、
「 日本餘 ● ( ●は、 口へんに焦 )
拠扶桑以逋誅 」 、 と記述。
「 生き残った日本は、
扶桑 ( 東の大海にある島、 日本の別称 ) に閉じこもり、 罰を逃れている 」
、 という意味で、
そうした状況を打開するために、
今の朝鮮人らとは、 直接の血縁関係の無い、
百済の 将軍だった祢軍氏が、
日本に派遣された、 と記していると、
気賀沢教授は、説明する。
http://www.asahi.com/culture/update/1022/TKY201110220586.html
上の方に「日本」の文字が見える。
「最古の日本」の可能性が高い
=「社会科学戦線」7月号、王連竜氏の論文の、「百済人祢軍墓誌考論」から
http://www.asahi.com/culture/update/1023/images/TKY201110220633.jpg
@ 小野妹子氏が、 隋に持っていった、
「 日出處天子致書日沒處天子無恙云云
≒ 日いずるところの天子、 書を、 日が没すするところの天子へいたす、 つつがなきや、
うんぬん 」 、の、
いわゆる、 聖徳太子の国書が、
『 607年 』 で、
第2代の皇帝の、 煬帝の隋からの答礼使の、
裴世清に持たせた返書の、
「 東天皇敬白西皇帝 」 が、 その2年後だ。
東=日の本なんて、古代人においては、
普通の発想でしか無い。
@ また、意外なとこから出てきたね。
白村江の敗戦のショックで、 わずか15年の間に、
大急ぎで、改名したんだろうな。
@ 701年に、 対馬で、 金が採れた
( 実は、 嘘だったらしいが ) ときに、
途絶えていた元号を復活させて、
「 大宝 」 、 とした。
その後は、 元号は途絶えることなく、
「 平成 」 に至る。
674年の銀も、 全ての神々に捧げ、
全ての官吏らに配る、 という、
大騒ぎをしたのに、
改めて、元号を立てた記事が、無い。
国号を変更したのなら、
黄金のジパング = ジャパン = ジッポン
= 日本の出発点か。
@ 倭から、 日本ってのは、
白村江の敗戦のあとに、
王朝の交代があったかのようにみせたかったのではないかな
隋から唐に変わったみたくさ
@ 天武天皇は、
673 胸騒 ムナサ わぎ、 の、
673年、に、 耽羅の使者に、
天命が革まって、 王朝が代わる事である、
革命を宣言している。
【 王朝が、 交代したから、
唐帝国から、 攻められる筋合いが無くなった、
という事にする為に、
天武天皇側が、
その先代で、 兄の、 天智天皇との関係性を、
兄と弟では無いかの様に、
外国人ら等へ、述べ伝える場面らを成した事も、
あって、
それが、 日本側の歴史書らにも、
反映されたのではないか? 】
@ 耽羅からの渡来人の、
坂上 田村麻呂 サカノウエのタムラマロ どんを、
多賀城に遣わし、
蝦夷 エミシ 達を討ったのだろう?
@ 坂上田村麻呂どんは、
東漢 ヒガシノアヤ 氏だろう?たしか。
だから、応神天皇時代の前後くらいに、
日本に移民してきた出自をもつ豪族だよ。
@ 「新羅」⇒「しらぎ」
「百済」⇒「くだら」
「任那」⇒「みまな」
「白村江の戦い」⇒「はくすきのえのたたかい」
でも、今の中学生や高校生の教科書には
「新羅」⇒「しんら」
「百済」⇒「ひゃくさい」
「任那」⇒ 「 伽耶諸国 ( かやしょこく 」
「白村江の戦い」⇒「はくそんこうのたたかい」
に成っている件について…。
これも、朝鮮人どもの影響だろうか…??
@ 「しらぎ」とか「くだら」ってのは、
倭国側での読み方で、
当時、彼らが、 何というふうに、
自分たちの国名を読んでいたのか、
分からんのだよ。
漢字というのは、時代によって、音韻が絶えず変化するからね。
@ 日本で、 日本側の呼び方をする事は、
当たり前な事なので、
クダラは、 クダラで、いいし、
シラギは、 シラギで、 いい。
@ 「新羅」は、「シラギ」、
「百済」は、 「クダラ」、
「任那」は、 「ミマナ」なのに、
なぜ、 「高句麗」は、「コマ」じゃなくて、
「コウクリ」なの?
@ たしか、 日本書紀とか六国史に、
「高句麗」は、 出て来ないよ。
「高麗」と表記し、「コマ」と訓んでるはず。
@ 山梨には、 巨摩 ( こま ) っていう地域があるんだけど、
高麗からの渡来人が住んでいたから、
「 こま 」 って読むんだよ
って、 中学で習った。
@ ヤマトも、 畿内の地名だよね
地名が、国名になるのは、 結構大規模な軍事統一が必要なんじゃないだろうか
@ 「ヤマト」が、 国号になったことはないんじゃないか。
6世紀以前には、 中国から、
「倭国」と、一方的に呼ばれていたものが
6世紀前後に、 日本側から、
「日本」という国号を中国に伝えている。
日本で初めてできた国号が、 日本。
それ以前にはまだ、
畿内を中心とする小国連合であって
一つの国という概念が、 国内にあったかどうかは、
分からない。
@ 倭も、 日本も、 国内での訓みは、
やまと。
漢字での新しい表記法が増えたにすぎない。
あすか→ 飛鳥・明日香
なら→ 那羅・平城
はつせ→ 泊瀬・長谷
しき→ 志貴・磯城
うじ→ 宇治・菟道
なにわ→ 難波・浪速
やまと→ 倭・日本
@ 教科書とかテレビの歴史番組とかで、
「 中央集権国家を確立し、
倭国から、 日本国に国名を改めた云々 」
て刷り込ませた過ぎたんだと思うね。
実際は、 漢字での書き方が増えただけの話で、
倭国・日本国は、 どっちとも、
国内的には、 「 やまとのくに 」 だったんだ、
と思うんだよね。
奈良時代以降は、
「 やまとねこ 」 の表記には、
倭根子も、 日本根子も、 使われるし、
万葉集でも、
「 日本 」 は、 「 やまと 」 、 と読まれ、
大方、 奈良県のことを指すわけだから、
「 国号を、 『 わ 』 から、
『 にほん 』 、 に改めた 」 云々てのは、
ちょっと違うんじゃないかなあと思う。
@ 気がついたら、
日本 = にほん 、 になってたってことか。
@ 大陸 ( 漢風 ) 文化の影響かな。
平城京の、 「 ならのみやこ 」、
平安京の、 「 たいらのみやこ 」 も、
「 へいじょうきょう 」、
「 へいあんきょう 」 、 になっちゃったしな。
@ 「 日本 餘 ●
( ●は、 口へんに、 焦 ) 拠扶桑以逋誅 」 、の、 日本って、 「国号」というより
もっとくだけた、 異民族の俗称が入りそうな文脈だ。
白村江の戦いに破れた後に、
日本の天武天皇側が、 あわてて、
国号をたてて、
その直後に、 旧敵国側の人間が、
日本の立場を尊重して、 日本の新国号を、御丁寧につかってくれそうな文脈じゃない。
ひょっとすると、 「日本」というのが、
当時の倭国への蔑称とまではいかなくても
俗称だった可能性があるのでは?
で、 倭国政府は、
大陸や半島での、 「 日本 」、 という、
「倭」への俗称を、 何らかの誤解の下に
正式国号としてしまったのでは?
@ 墓の主が、 日本人らによって、助けられ、
日本人らを先祖とする、王家らと、住民らのいた、 百済の人間だから、
こっそりと、 日本に義理立てした可能性も、
無くはない。
墓誌は、埋めてしまうから、
シナの役人の目に触れる危険も無いだろう。
@ ああ。 旧百済の人間として、 百済を援助してくれた倭が、
海の向こうで、 「日本」とか名乗って健在なのを、 内心喜んでいる、
てな文脈なのかなあ。
どのみち、朝日の記事だけじゃ何もわからないや。
@ ひょっとすると、
日本に亡命した百済貴族らが、
唐に帰服した、 この墓主に対して、
縁故を辿って、
天武政府からの依頼を受けて、
「 今度、 "日本"、 という新国号にしました。
この新しい名前で、 唐との外交関係を改善できないか、 瀬踏みしてくれませんか? 」 、とか、 働きかけていたのかも。
@ 「 日本国の残余兵は、
国内の東方に逃亡した 」 、 という意味。
扶桑 ( ふそう ) とは、
日本の東域 ( 正確には、 関東方面 ) のこと。
@ 扶桑 ( ちゃんと調べてみたよ )
原義は、 東海の日の出るところにあるという、
巨大な神木。
転じて、
東方の海上にある、 島国。
扶桑・扶桑国は、 日本の異称ともなった。
@ 調べたら、何でも分かると思っちゃ、
いかんぞ。
扶桑というのは、語義がまだ、不安定な言葉だからな。
@ 日本人がいう、 扶桑じゃないぜ。
日本国内での、 純正仕様の解釈ではなく、
「 6百年代の、 7世紀の中国人ら 」が、
扶桑といったら、 何の意味があるかの問題だ。
この文章では、 「 大海の中の島 」 、
という意味で使われているのは、 明白だ。
@ ?は、 「噛む」という意味のやうですが。
@ 扶桑=日本、の意味となったのは、
平安・鎌倉時代以降だろうな
@ 「 日下 ( くさか 」 とは関係ないの?
@ それは、枕詞に由来すると考えられている。
@ 日本ぐらいは、 使ってても、
おかしくないんじゃないか?
日の本の国→日本だろ
おまいらも、 「お彼岸」ぐらいは知ってるだろうが、 あれは、 「むこう岸」という意味だ
つまり、 「ひノもとノくに」とは、
半島倭人らからすると、
日本海を見ながら、
「むこう側の本国」=『ひの本の国』だ。
和語の音に当てる漢字を、
倭→和と改めたように、
「 ヒに、 日をあてた 」 ってわけだよ
@ 国内向けに使われていたのかな?
中国向けには、 倭国でさ
@ ちがう
中国向けに、 「倭」だったのを、
中国向けに、 「日本」に変更したってこと。
国内では、 ヤマトのままで、 かわりはない。
@ 墓碑の全面写真を見たけど、
扶桑の「扶」の部分は、欠けてるみたいだなあ。
扶桑とは、読めんぞ。
@ 670年が、 近江令、
日本建国の年だと思う。
@ たかが、 法律だろ
なんで、 日本がなかった
ことになるんだよ
@ 禰軍は、 665年に、
唐の使者として、 倭国に来た。
日本書紀に、 しっかり出ている。
@ 日本人たちを先祖とする王家らが出て、
日本人たちが住んでもいた、
新羅 、 の記録では、
倭が、 日本になったのは、 670年。
禰軍どんは、 672年まで、 新羅にいた。
@ 天武天皇3 ( 674 ) 年の3月に、
対馬で、 銀が採れたが、
これは、 「 倭国では、 初めて 」 のことだと、 日本書紀は、記している。
この「倭国」は、
狭義の「倭国」 = 奈良県でなく、
明らかに、 対馬を含む、
広義の「倭国」 = 「大倭国」であるので
この時はまだ、 「日本国」でなく、
「倭国」だったが、
この事件を契機に、 「倭国」は、
「日本国」に変わったのではないか。
根拠は、三つ。
① 天武天皇4 ( 675 ) 年の1月に、
奈良県を、 「倭」でなく、
「大倭」と記した記事が現れる。
狭義の「倭国」 = 奈良県を、 「大倭」と記した例は, 宣化天皇以前に数例しかない。
これは、 広義の「倭国」の国名の変更を暗示している。
② 674年とも重なる、 天武天皇3年は、
前後の年に比べて、 極端に記事が少ない。
「日本」を神代に遡らせるために、
国名の変更の記事を省略したか。
③ 675年とも重なる、 天武天皇4年は、
祝賀ムードが高まり、
新羅の王子の、 忠元どんや、 耽羅 ( 済州島 )の王の、 姑如どんが、 日本に来ている。
ここで、 両国に、国名の変更を伝えたのだろう。
@ ていうか、倭も日本も、やまと。
飛鳥と明日香(あすか)
平城と奈良(なら)
長谷と泊瀬(はつせ)
みたいなもんで、基本的には、新しい表記法が増えたということ。
確かに、 奈良時代以降、
対外的にも、 日本全国としての国名を、
「日本」としている節はあるけど、
一方で、 称徳天皇の詔や万葉集などは、
奈良県のやまとのことを、
「日本」、 と表記している例もある。
@ 菩薩の居所は、 空居天である、
兜率天 、 とされるが、
地蔵菩薩は、 地居天である、 忉利天に在って、
釈迦仏の付属を受け、
毎朝に、 禅定に入りて、 衆生の機根
( 性格や教えを聞ける器 ) を感じ、
釈迦の入滅後の、 56億7000万年後に、
弥勒菩薩が出現するまでの間は、
現世に、 仏が不在となってしまうために、
その間を、
六道 ( 地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道 ) を輪廻する衆生を救う、
菩薩である、 とされる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/地蔵菩薩
@ 日本では、 神仏らは、一体だから
@ 付喪神 ツクモガミ 、 って言って,
針にすら、神が宿るってことになってる
@ それは、 喋ることも見ることも感じることも、できない
それら人間が作った像らを崇拝する者らは、
いずれ、 それらと同じようになる
( 聖書より )
@ お地蔵さんのいる場所で、 悪いことをする気にならない
@ 言われてみれば、 確かに
@ 菩薩というのは、 既に悟りを開いているが、 現世の人々の為に、
如来とならずにいてくださる存在なのです
地蔵菩薩をなめてはいかん
@ 如来って、 もう仏なのに、
人々を救うために、あえて来た人じゃなかったっけ
@ 日本の、 本地垂迹思想 ;
仏教が興隆した時代に発生した、
神仏らを習合する思想らの一つで、
日本の八百万の神々は、
実は、 様々な仏ら
( 菩薩や天部なども含む )が、 化身として、
日本の地に現れた権現 ( ごんげん ≒ 仮の姿や在りようの者 ) である、 とする考えである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/本地垂迹
@ 昔、どっかの寺から仏像を盗んだ奴らがいたんだが
全員が、事故で死んだというニュースがあった
@ 道端のお地蔵さんに蹴りいれる奴と、
手を合わせる人と、
どっちと仲良くしたい?と考えたら
やっぱ後者だよなぁ…
@ 石の塊に手を合わせる変人と、
蹴り入れる野蛮人となら、
どっちとも、仲良くしたくないわw
@ お地蔵さんを、 ただの石の塊という奴とも、友達になりたくないな
@ 神仏がどうこうじゃなくて、
地蔵を彫った人のこと考えると、
蹴りなんか入れられんよ
@ 石の塊ではないわな
少なくとも、 お地蔵さんの形にした彫刻士がいて
、 その人の念は入ってると思う
@ 念とか、ないから
@ あるから、 言葉になってるんやで
@ 如来
菩薩
明王
天 ← 神は、 ここ
悟りの度合いに応じた、
人々を救う能力性の度合いが高い、
偉い順に並べると、 こうだ。
☆ 豊臣政権を存続させる上で、 効果を成した事は、 何か❓
@ 極論すれば、 秀吉氏が若いうちに、
優秀な男児が出来てれば、
何の問題も無かったんだよな。
しかも、 ねねさんか、実母で。
父母のどちらの遺伝でも、基本的に、優秀。
叔父が、 堅物の秀長どん。
兄貴分が、 マッチョな加藤清正氏と、
福島正則氏。
怪しい蜂須賀のオッサンが、
ガラの悪い手下とともに、家を出入りして、
竹中半兵衛氏とかが、 家庭教師格。
後の子分に、 石田氏。
すごく逞しく育ちそう。
出生は、 1562年頃で、初陣は、 1575年の長篠。
その後も、 各地を転戦し、 1582年の、 中国攻めと山崎の合戦では、 前線指揮官として奮戦。
この時点で、 二十歳くらい。
そして、 三兄弟は、 島津攻めや小田原征伐などでも活躍しつつ、叔父の秀長氏とともに、
利休氏から、 茶の湯を学んで、
雅とコネクションを強化し、
流行の切支丹も、 ハマりすぎない程度に、
ちょっとかじり、 半島への征伐で、無双し、
秀吉どんの死の時点で、 三十六歳、 という、
油の乗り切った年頃。
そんなチート後継者がいれば、
豊臣の家は、 安泰だったかも。
なんて都合の良い設定だけど、
毛利三兄弟とかの例があるからな。
@ 毛利三兄弟も、 母父 〔 吉川 〕一族の実績も、 優秀だもんなあ
@ 前田利家って、そこまで、 実力と義理堅さがあるかね?
歳をとって、 同年代の知り合いがいなくなった
秀吉どんが、 弱気になって、頼っただけで、
実際は、
柴田勝家氏に見切りつけた時みたいに、
時流に乗りそう。
@ 丹羽長秀氏が生きていれば…
関白豊臣秀吉は、 誕生せず、
お飾りだが、 三法師 ( 織田秀信氏 ) が、
天下人で、 羽柴秀吉氏は、
長秀氏や家康氏に、 信雄氏と並んだ、
筆頭ではあるが、 大老らの1人だろう。
@ 東播磨の三木城を本拠とし、
覇を競ったものの、 毛利と織田の間に揺れ、
最後は、 秀吉どんに兵糧攻めをされて滅んだ、
別所氏について語りましょう。
別所長治氏 辞世の句
「 今はただ うらみもあらじ 諸人の
いのちにかはる 我身とおもへば 」 。
@ 別所氏 ( べっしょし ) は、
播磨の、 戦国大名を輩出した氏族。
播磨の守護大名・赤松氏の庶流で、
三木城を本拠とした。
室町時代の中期以降は、
1441年に、 室町幕府の、 第6代の征夷大将軍の、 足利義教氏が、 赤松満佑の屋敷での、宴の最中に、暗殺された、 『 嘉吉の変 』 により、
主家の赤松氏と共に、
別所氏も、 一時は、 衰退したが、
1467年に始まった、 応仁の乱により、
赤松氏が勢力を回復すると、
別所則治氏は、 三木城を築き、
初代城主となった。
それがために、 則治氏は、
別所氏中興の祖と言われる。
則治氏の孫の、 就治氏の代に、
主家の赤松氏と、 その守護代である、
浦上氏が対立して、
赤松氏の勢力が衰退の一途をたどり始めると、
就治氏は、 東播三郡を支配下に置いていたことを背景に、 赤松氏から独立し、
戦国大名として、名乗りを上げる。
就治氏は、 武勇に秀でたことから、
その後は、 三好氏や尼子氏の侵攻を次々と撃退して、 勢力を拡大し、
東播八郡 ( 美嚢郡、明石郡、加古郡、印南郡、加西郡、加東郡、多可郡 、神東郡 ) を支配する、 別所氏の最盛期を築き上げた。
しかし、 就治氏の孫の、 長治氏のときに、
織田信長氏の命を受けた、羽柴秀吉氏によって、
有名な「三木の干殺し」にあう ( 三木合戦 )。
長治氏は、 2年間近く抵抗する、 という、
しぶとさを見せたが、 力尽きて、
本能寺の変の2年前の、 1580年
( 天正8年 ) に自害し、 ここに、
戦国大名としての別所氏は、 滅亡した。
@ 旗本の別所信治どんって、
やっぱり、 一族だよね?
@ おそらく、 別所長治氏の叔父で、
秀吉どん側についた、 重宗氏の系統でしょう。
子の吉治氏は、 実は、 長治氏の子、とかって、
嘘くさい説がある。
吉治氏は、 関ヶ原の後に、 丹波だか
但馬あたりに、 3万石程度をもらって、
大名になるが、 参産勤交代をさぼるかなんかやって、 改易になったんだっけ?
@ 長期間を籠城出来るほど、
三木城の付近って、険しい場所だったのか?
すぐ横に川が流れてるから、そこから、 兵糧を逐次補給出来そうだが。
@ 行ってみると分かるけど、
意外に、 山も低いし、 険しいって程じゃないんだけど、 何か守りやすかったみたい。
川は、 上流を、 秀吉どんに押さえられてるので、
使えないでしょう。
明石の方から、 こっそり、 山を越えて、
兵糧を運びこんでたみたいだけど、
かなり、 命がけ。
@ 東播磨って、 別所氏以外だと、どんな連中がいる?
「明石」「魚住」「孝橋」とかぐらいか。
@ 別所氏の長年のライバル依藤氏。
三木のお隣、豊地城主。
赤松家中での勢力争いから、主家が内紛状態になると、 武力衝突に発展し、 依藤氏は、
浦上村宗・細川高国氏と組み、
別所氏を、三木城から追い出した。
三木城が落城したのは、 この時と、
秀吉どんのとの、二度だけ。
@ 普通は、 一度落城したら、 その家は、滅びるもんだと思っていたが… どこに潜んでいたんだろう
@ 別所政権の滅亡の原因は、 2人のアホな叔父さんのせい
長治パパが、もうちょっと長生きしてたらなぁ…
@ 別所吉親どんですか……。
https://ja.wikipedia.org/wiki/別所吉親
別所 吉親 ( べっしょ よしちか ) 氏は、
戦国時代から、安土桃山時代にかけての武将。
兄・別所安治氏が亡くなった後は、
弟・重宗氏と共に、 甥 ( 安治氏の子 )の、
長治氏の後見を務めた。
播磨国に、 織田信長氏の部将の、
羽柴秀吉氏が進出して来ると、
長治氏は、 信長氏に従属したが、
吉親氏は、 加古川城での会談で、
秀吉氏と衝突、 長治氏を説得して、
信長氏に反乱を起こした。
親織田派であった重宗氏は、浪人となっている。
天正8年 ( 1580年 )、に、
秀吉氏から長治氏に、 降伏の引き換えに、
長治氏とその弟の友之氏、に、 吉親氏らの3人の切腹で、 城兵を助ける、 という旨を伝えられた。
しかし、 吉親氏は反対し、あくまで、 城に火をつけて、 信長氏に首を渡さずに、 自らの体を灰にしてしまうと言い、自分の家を放火してしまった。
これを見て激怒した城兵に殺されて、
首は、 安土に運ばれてしまった。
@ 「 秀吉氏との個人的不和で毛利方に 」 ってのは、 別所に限らず、 中国戦線のいたるところで
聞かれる話だな。 秀吉はどんは、 よほど、
地元豪族に、占領軍然とした高圧的な態度で接していたようで。
@ 長治氏の叔父の、 吉親氏と重宗氏は、
仲が悪く、 重宗氏が、 織田方に接近したのも、
先見の明があったというよりは、
元々、 親・毛利派の兄を出し抜いてやろうとしただけでしょう。
重宗氏の説得で、 織田につく事が決まった事が、
内心では、面白くない吉親氏が、
加古川評定での秀吉氏の態度の悪さを理由に、
反旗を翻したのではないでしょーか?
@ 吉親氏のヨメは、 巴御前ばりの女豪傑で、
戦場で大活躍したらしいっス
@ 地元豪族で思い出したけど、
淡河城の淡河氏って、別所一族なの?
自分の城を捨てて、三木に合流するなんて、従順だな
@ 淡河定範氏は、 別所家一の知恵者と言われた人物で、 祖先は、 北条氏ですが、
別所に従属してました。
馬を沢山集めて、 織田軍に向かって放つ奇襲で、
緒戦は、 大勝したものの、
淡河城では、 とても支えきれないので、
さっさと火を放って、三木城に引き上げました。
合流後の戦いで、すぐ死んでしまったのが、
もったいない…。
@ ありがとう。 牝馬を放して、 敵を混乱させたって話は聞いた事ある。
で、北条氏って執権の? 出先機関の長ってことかな。 元々は、別所氏より格が上だったのかも。
@ 淡河氏は、 北条一門で、
淡河の地頭職でした。
鎌倉末期ごろの播磨は、
北条氏のテリトリーでした。
その頃は、 別所氏の祖先の赤松氏は、
悪党とよばれた、
反権力武装ゲリラみたいな存在で、
淡河氏も、散々に苦しめられました。
鎌倉幕府の滅亡後は、ジリ貧状態になりましたが、大出世した赤松円心どんと、 姻戚関係を結び、
一安心、と思いきや、
赤松満祐が、 嘉吉の乱を起こし、 滅亡した、
とばっちりで、 またも、 ジリ貧状態に舞い戻りました。
それでも、 粘り強く生き残り、 戦国期には、
別所氏に従いました。
…て、なんだか救われない一族ですね(T_T)
@ 淡河城へ行ったことあるけど、
内堀とかが残ってて、良い感じだったなぁ。
二回目行った時は、変な櫓が建ってたけど…
三木城も行ったことあるけど、
遺構的なものは、見つけられなかったけど、
何か残ってるのかな…
@ 淡河城って、 ひょっとして、
道の駅の上のところですか?
@ そうです。 道の駅の裏の山です。
山って言ったけど、 上に上がると、
台地みたいな感じかな。
全体の規模は、よくわからないけど、
内郭は、 ホント小さな城です。
@ 淡河城は、 内郭は小さいけど、
地形を利用した、 かなり広大な堅城だったらしいです。
今では、 まったく、ピンと来ませんが
( 失礼! ) 、 当時は、
播磨と摂津の国境に位置し、
街道沿いの交通の要衝だったそうです。
@ 三木城跡へは行った事ないのに、
平井山本陣跡には行った事がある。
なんかプラスチック製ベンチと灰皿があって、
地元老人の憩いの場なのか?って思った。
あとは、 その近所の半兵衛重治どんの墓か。
@ 平井山や半兵衛どんのお墓のあたりは、
今や、すっかり、 葡萄畑ですねー。
@ 別所重棟氏に、 福島正則氏の姉が嫁いで
生まれたのが、 福島正之氏というのが、
定説だが、 嫁いだのは、
姉じゃなく、 妹だとか、
嫁いだ相手も、 重棟氏ではなく、
別の人物だとか
生まれたのも、 正之氏じゃなくて、
別人だとか、色んな説があるらしい
@ 別所重棟 ( 宗? ) 氏って、
三木落城後も、 秀吉氏に仕えたそうだけど、
主家を滅ぼした裏切り者、みたいに、
白い目で見られて、 肩身が狭かったりしたのかなぁ? 小早川秀秋氏みたいに。
@ 別所って、 毛利と似ているよね。
当主を補佐する二人の叔父が、兄は、反織田羽柴、弟は、 親織田羽柴に分かれて