古くの論説記事の何度目かの引っ越し保管と改訂 ;
物体内空間 ≒ 空間だらけの物体。 力らの交差する位置な物質ら
2015/10/09 3:48:43
元blogへの記事発信が出来なくなったので、
後発のblogらに元記事を移して保管する事にした。 :
諸々の物質らには、 色々な力らの交差し合う、 動的な位置を、 我々へ示す、 標 シルベ として、
我々の心域 ( うれいき ) の 、
動的な枠組みらにおいて、意味付けられる、 という以外には、
さしたる役割は無いが、
物体らは、 それでも、 ほとんど全ての人々において、 主として、 物質らの塊である、と、 勘違いされたままであり、 ;
我々に、 我々自らの存在を実感させる類の、 諸々の感覚らと、
それらの組み合わせられた感覚ら、等とが、
諸々の物体らに対応して喚起される、 と、思しき形で、
我々の意識の内外の心域において、
それ自らの成り立ちを得る事から、 :
それらの現 ( うつ ) し身らが、
まるで、 物質らの塊その物へ対応する形で、
我々の心域に起ち興るかのように思い込まれ、
それとともに、
余り、意識的に明確化される事を無く、
それらの実感型の感覚らが、
その観念設定上の 「 諸物質の塊 」、 といったものと、 緊密に結び付けられ、
それらの実感型の感覚らが覚え起こされる度に、 観念的な 「 諸物質の塊 」 と、
それらとの動的な対応図式をなす事項らが、
観念設定の場に控え置かれ、
その事に慣れれば、慣れる程、
それだけ、 それらの両者が混一視され易い、
恒常的な状況が、繰り起こされる形で、心構えられてしまうせいもあって、 :
物質らそのものは、
重力だの、 電磁力だのといった、何の力でも無く、 力において、全く、無なるものであり、 :
従ってまた、
何の働きをも為し得ない ≒ 働きにおいても、
全く、無なる物である 、 にも関わらず、 :
むしろ、 そういった属性らを全く欠いている事が、妙に作用して、
我々に、 実在の根拠たる、 何物かででもあるかの様に、思い込まれ易い、立場を占めるに至っている。 :
:
我々が、 壁などの物体へ触れ当たって、
それ以上は、 歩を進める事が、困難になったり、
石などの物体らを握りしめたりして、
その、実在、を感じ覚える際には、
我々は、 主として、 「 物質らの塊 」 に対して居るのでは、無く、
主として、 無いに等しい領域らを占めている、
諸物質を、
その各々の交差点とし得ている、力ら、と、
物体内空間 、とに対し得ているだけであり、 :
そこにおける、物質ら、などは、 無、に等しい、 ただの位置らでしかない。
☆ 物体内空間 ≒ 空間だらけの物体。
力らの交差する位置な物質ら
2015/10/09 3:48:43
:
古記事の引越保管+ :
どういった物として、
粒子 ≒ 物質 、 を想い構えて観ているのか、
というと、
何度も、記述して来た事だが、
まず、 物体というものから、
その観念としての設定上の在り様らを、
改めて、 思い分けて観てゆく事にすると、
触れ心地に、 手触り感、や、 圧し応え感に、
見た目の映像感、 等といった物らの、
記憶化されたものらと、
それらに加えて、
それらの感覚らの現役 ゲンエキ の、今現在に現前する物らとを包含する形で、
石ころや、道具などの、 何らかの物体らを使って観た、場合などの、
動的な図式事項らを構成する事らが、
観念上に設定された後に、
その事項ら ≒ 何らかの基準により、 後から、分けて観られ得る事柄らのそれぞれら 、 を、
より、静態の物らについて、
特に、それらを分けて取り出す様にして観直すと、
その観念の場には、
物体 、 と、されるに至るものらが、
上記の属性らから構成される所の在るものとして、 それ自らの成立ちを得る形をとらされており、
そのままだと、
物体らの中にある、 空間の存在性 ≒ 存在する物 、 存在する事 、 が、
その観念設定の主に意識される所は、
余り無く、
科学の物語って観せる事柄らにより、
物体を構成する、とされる、 原子らが、
それを構成する、粒子らの各々の枠組み領域に対して、
その何万倍もの領域を占める、空間に包み込まれており、
物体、というものらは、
実際には、 その存在領域については、
その圧倒的な大部分を、 空間として、在る、ものらであり、
物体には、
【 物体内空間 】 、 とでも呼ぶべき物が、
その外観の向こうの内側に包み込まれて在り、
しかも、 その圧倒的な大部分を占めて在る、
という事を、
それとなく、伝えられる、だけなので ≒
なぜ、 それとなく、伝えられるのか、というと、 原子らが、 それ自らを構成する、粒子らと共に、 種々 クサグサ な力らの動的な交差点として、いかに在り得ているか、 という事を中心に、
科学は、 事柄らを物語って観せる事が、通例で、
【 物体内空間 】の在る事については、
それが、ただ、在る、という事を述べる位で済ませて来ているからだ。
我々の体が、 粒らから成る霧の様に、 すかすかなだけではなく、
あらゆる物体らは、 色々な力らの働きらが重なり合っている、動的な位置でしかない、物質らを、
一定の領域を占める形で、
それ自らの成り立ちを得て在る物であるかの様に、
我々に、観念させしめて来てもいる、
その場の力らの働き合いようらが、
我々に観念させている、
その、本当は、無である、 物質自らの存在領域の、 何万倍もある領域を自らとしている、 物体内の空間に占められる形で、 成り立たってある、
すかすかな、ある領域でしかない。
実際には、 その様な、一定の、あるスカスカな立体領域などでしかない、物体らをして、
ぎっしりと、 何彼らが詰まってある様に、
我々に、思い扱わせしめるに至る、ものは、
我々の、感らや、感らの記憶化された物らからも、成る、 我々の各々の観念らの成る働きであり、
握り応え感ら、などを含む、 認識の系らを成して、 それ自らの成り立ちを得る、観念ら、だ。
物体内空間 ≒ 空間だらけの物体。 力らの交差する位置な物質ら
2015/10/09 3:48:43
元blogへの記事発信が出来なくなったので、
後発のblogらに元記事を移して保管する事にした。 :
諸々の物質らには、 色々な力らの交差し合う、 動的な位置を、 我々へ示す、 標 シルベ として、
我々の心域 ( うれいき ) の 、
動的な枠組みらにおいて、意味付けられる、 という以外には、
さしたる役割は無いが、
物体らは、 それでも、 ほとんど全ての人々において、 主として、 物質らの塊である、と、 勘違いされたままであり、 ;
我々に、 我々自らの存在を実感させる類の、 諸々の感覚らと、
それらの組み合わせられた感覚ら、等とが、
諸々の物体らに対応して喚起される、 と、思しき形で、
我々の意識の内外の心域において、
それ自らの成り立ちを得る事から、 :
それらの現 ( うつ ) し身らが、
まるで、 物質らの塊その物へ対応する形で、
我々の心域に起ち興るかのように思い込まれ、
それとともに、
余り、意識的に明確化される事を無く、
それらの実感型の感覚らが、
その観念設定上の 「 諸物質の塊 」、 といったものと、 緊密に結び付けられ、
それらの実感型の感覚らが覚え起こされる度に、 観念的な 「 諸物質の塊 」 と、
それらとの動的な対応図式をなす事項らが、
観念設定の場に控え置かれ、
その事に慣れれば、慣れる程、
それだけ、 それらの両者が混一視され易い、
恒常的な状況が、繰り起こされる形で、心構えられてしまうせいもあって、 :
物質らそのものは、
重力だの、 電磁力だのといった、何の力でも無く、 力において、全く、無なるものであり、 :
従ってまた、
何の働きをも為し得ない ≒ 働きにおいても、
全く、無なる物である 、 にも関わらず、 :
むしろ、 そういった属性らを全く欠いている事が、妙に作用して、
我々に、 実在の根拠たる、 何物かででもあるかの様に、思い込まれ易い、立場を占めるに至っている。 :
:
我々が、 壁などの物体へ触れ当たって、
それ以上は、 歩を進める事が、困難になったり、
石などの物体らを握りしめたりして、
その、実在、を感じ覚える際には、
我々は、 主として、 「 物質らの塊 」 に対して居るのでは、無く、
主として、 無いに等しい領域らを占めている、
諸物質を、
その各々の交差点とし得ている、力ら、と、
物体内空間 、とに対し得ているだけであり、 :
そこにおける、物質ら、などは、 無、に等しい、 ただの位置らでしかない。
☆ 物体内空間 ≒ 空間だらけの物体。
力らの交差する位置な物質ら
2015/10/09 3:48:43
:
古記事の引越保管+ :
どういった物として、
粒子 ≒ 物質 、 を想い構えて観ているのか、
というと、
何度も、記述して来た事だが、
まず、 物体というものから、
その観念としての設定上の在り様らを、
改めて、 思い分けて観てゆく事にすると、
触れ心地に、 手触り感、や、 圧し応え感に、
見た目の映像感、 等といった物らの、
記憶化されたものらと、
それらに加えて、
それらの感覚らの現役 ゲンエキ の、今現在に現前する物らとを包含する形で、
石ころや、道具などの、 何らかの物体らを使って観た、場合などの、
動的な図式事項らを構成する事らが、
観念上に設定された後に、
その事項ら ≒ 何らかの基準により、 後から、分けて観られ得る事柄らのそれぞれら 、 を、
より、静態の物らについて、
特に、それらを分けて取り出す様にして観直すと、
その観念の場には、
物体 、 と、されるに至るものらが、
上記の属性らから構成される所の在るものとして、 それ自らの成立ちを得る形をとらされており、
そのままだと、
物体らの中にある、 空間の存在性 ≒ 存在する物 、 存在する事 、 が、
その観念設定の主に意識される所は、
余り無く、
科学の物語って観せる事柄らにより、
物体を構成する、とされる、 原子らが、
それを構成する、粒子らの各々の枠組み領域に対して、
その何万倍もの領域を占める、空間に包み込まれており、
物体、というものらは、
実際には、 その存在領域については、
その圧倒的な大部分を、 空間として、在る、ものらであり、
物体には、
【 物体内空間 】 、 とでも呼ぶべき物が、
その外観の向こうの内側に包み込まれて在り、
しかも、 その圧倒的な大部分を占めて在る、
という事を、
それとなく、伝えられる、だけなので ≒
なぜ、 それとなく、伝えられるのか、というと、 原子らが、 それ自らを構成する、粒子らと共に、 種々 クサグサ な力らの動的な交差点として、いかに在り得ているか、 という事を中心に、
科学は、 事柄らを物語って観せる事が、通例で、
【 物体内空間 】の在る事については、
それが、ただ、在る、という事を述べる位で済ませて来ているからだ。
我々の体が、 粒らから成る霧の様に、 すかすかなだけではなく、
あらゆる物体らは、 色々な力らの働きらが重なり合っている、動的な位置でしかない、物質らを、
一定の領域を占める形で、
それ自らの成り立ちを得て在る物であるかの様に、
我々に、観念させしめて来てもいる、
その場の力らの働き合いようらが、
我々に観念させている、
その、本当は、無である、 物質自らの存在領域の、 何万倍もある領域を自らとしている、 物体内の空間に占められる形で、 成り立たってある、
すかすかな、ある領域でしかない。
実際には、 その様な、一定の、あるスカスカな立体領域などでしかない、物体らをして、
ぎっしりと、 何彼らが詰まってある様に、
我々に、思い扱わせしめるに至る、ものは、
我々の、感らや、感らの記憶化された物らからも、成る、 我々の各々の観念らの成る働きであり、
握り応え感ら、などを含む、 認識の系らを成して、 それ自らの成り立ちを得る、観念ら、だ。