生きるとは、嫌われ疎まれ続ける事である


どうも。本日は俺が病む理由が判明したのでそれについて綴ります。少しキツい表現が入っていますが、避ける事はできないし、前後の流れはありますのでどうぞよろしくお願い致します。


俺が病む理由。それを単刀直入に言うと、自分が真っ当に生きても周りがネガキャンなどで妨害してくるからです。


まず俺は幼少期から他人に囮として利用されてきました。これは被害妄想でもなんでもないです。


俺の父と母方の祖父と叔父はかなり仲が悪く、理由は父が母方の祖父に対して謝罪を強要し、土下座させた出来事があり、それを叔父は疎ましく思うようになりました。しかし、叔父はクズで打算的でした。その後の叔父は、父に腕力や怒鳴り声の大きさで敵わないのを認識していた為、まだ当時2歳の俺を父親似だからという理由で標的にしたのです。


幼い姉二人と俺の三人で祖母の家で楽しく正月を過ごしていたところを叔父は俺だけ狙って祖母の家の外に追い出し、寒空の下俺に罵声を浴びせました。俺は訳もわからず恐怖で涙し、しかもその時その場に居合わせた祖母も助けてくれませんでした。その時の俺はガキでしたが、子供心に孫より息子の方が優先順位が高いと認識し、それにショックを受けました。


小学生の頃には自分に対する根も葉もない悪評を流され、上級生が俺を攻撃対象にしてきました。殴る蹴るはされませんでしたが、人通りの多いところに呼び出されて晒し者のように罵声を浴びせられ…同じ上級生が通りかかり助けられて事なきを得ましたが、早く学校を卒業して消えろと思うように。ただ、俺が4年生の始まり頃に俺が転校する事が決まり、その上級生達とはおさらばできました。まあ、この転校の理由は後に父親が借金して自己破産した事が原因だと後に知る事になるのですが…。


その後、小学校4年生から6年生までは俺の唯一の黄金期でした。

個人塾の講師である高齢の女性教師と知り合えたおかげで苦手科目の算数や数学を中学卒業まで教われる事になったほか、その教師が小学校の運動会に来てくれたおかげで楽しい時間を過ごせたりなど本当にお世話になりました。ソーラン節や鼓笛を見てくれたのも嬉しかったなって。その恩師のおかげで高校卒業までは漕ぎ着けたようなものです。


しかし、その教師も3年前、俺が22歳の時に肺癌で84歳で亡くなってしまいました。その上職場の上司から位牌すら拝めないように封殺され、その恩師の死に目に会えず、恩師を見送る事もゆるされませんでした。その上、その上司はあんたと恩師の関係はおかしいよ。普通塾講師とそんなに仲良くなんねーだろとバッサリ切り捨てられ、思い出を踏み躙られました。


高校生くらいの頃から俺の人生は下り坂の一途を辿り、バイト先ではいびられ、家では両親が攻撃的な鬱病になり、ネットでもイラストの交流企画に参加するも居場所は無く、高校ではいじめられませんでしたが友達もおらず…


そして高校卒業後、ついに正社員2年、派遣社員1年の計3年の月日の中で俺も遂に鬱病に。そして現在に至るという訳です。


なんと言いますか、俺は完璧に清く正しく生きてはいませんが、法に触れるような行為はする事なくここまで来たのに、周囲の碌でもない人間がそれを邪魔し、妨害され、根も葉もない悪評を流され、攻撃対象に設定されて集中砲火を受ける。これじゃ鬱病になってもおかしくないです。


結局、生きる事とは嫌われ、疎まれ続けるものだと知りました。そしてそのルールは拒否できず、万人に与えられる。なんなら、自分を産んだ親でさえも、赤ん坊の頃に親が疲れてる時に泣けばこいつ邪魔だなと思われて疎まれていく。


俺は生まれてきたくなかったよ。