京都を離れて、まだ2年?、もう2年?たちます。

新しい生活が楽しみで、生まれ育った土地を離れることに何のためらいもありませんでしたが、やはりそれでも折々で、もし今も京都での生活だったら・・・と思うことも少なくありません。違う環境に順応することが苦手だとか、変化を望まないことを、若かりし自分は嫌っていたので、あまりこういうことは人に言いたくないと強がっていましたが、やっぱりこちらが100%気に入っているとは言えません。



昨日、職場で年上の男性に「どちらの出身ですか?」と尋ねられました。関西弁丸出しなので、興味を持って尋ねられることはしばしばなので、いつもどおりの別府へ来たいきさつを説明します。「2年もたつのに、なまりがきついね」と言われました。これ自体には何の悪気も無い単なる感想なのですが、少しめげました。私は、こちらで暮らしていて自然に身につくまでは、自分の使い慣れた言葉を話せばいいと、ずっと関西弁でした。家庭でも関西弁だし、大分弁のシャワーを浴びる環境にもいませんでいた。自分は関西弁でいいと思っていても、外ではあまり激しい関西弁を使わないし、口数自体も減りました。やっぱり耳障りかなとか、浮くかなと心配で遠慮してしまうのです。私は京都にいるときでも、他の地方の言葉を話す人に関西弁を強要したり期待することも当然しませんでした。でも、溶けこみたいと思うなら、相手の懐に飛び込みたいのなら、その地方の言葉を話すべきなのでしょうか?結婚で自分の姓が変わり、自分の親しんだ言葉すら取り上げてしまうのは、なんだか悔しいし寂しいです。



職場の窓口には外国人も手続きによく訪れます。留学生数を誇る自治体の割には、外国語を話せる人を配置するなどといった配慮はなされていません。日本語をあまり理解しない外国人が困っていても、職員は日本語を繰り返すだけで、なんの手立ても講じません。日本に来るなら日本語を話せと言う日本人側の空気が、傍らにも伝わります。先日そういう場面があり、英語だったので思い余って通訳を買って出ました。簡単な質問や説明だけなので私でも何とかなります。



よその土地に出たことが無い人には決してわかってもらえませんが、言葉が違うというそんな些細なことでも、外国語でなくて同じ日本語なのに、疎外感や孤独感を感じさせられてしまうのです。でも、こういう問題も含めて、そこを乗り越えることが、見知らぬ土地に飛び出す醍醐味なのでしょう。



言葉の話題としてもう一つ。

ワカメは食事中ちっとも座り続けてくれず、保育所ではちゃんと座っているらしいのに、困っていました。「ちゃんとお座りしなさい」「おっちん」と言っても耳を素通り。もしやと思い「ちゃんこして」と言うと・・・自分で椅子によじ登り座るではないですか!これには、夫と二人、驚き、そして苦笑。保育所で教わった大分弁「ちゃんこ」が親が話す言葉より勝って記憶されていたのです。こういうランゲージギャップが、これから私たちとワカメの間で起こるのでしょう。



スケールが全く違いますが、移民の親が子供は母国で教育を受けさせたい願う気持ちが、少しわかりました。親世代は、生活のためだけに渡った土地の文化や教育を信頼しておらず、母国のそれらを愛しているのです。私たちも、大分の教育水準は低いので心配しているし、せめて大学からでも京都に行かせたいといつも話しています。でも、ワカメ本人は、京都よりも大分に愛着を持ち私たちに反発したりするのでしょう。



今いる土地を否定し故郷だけを思うのはいや。でも、どこまで故郷を捨て今いる土地になじむべきなのか、そこまでする必要はないといわれても、こちらの人に認められ好かれたいと思わないわけが無い。難しいです。