【震災を歩く】「警神」たちへ 無残な交番に感謝の合掌


 「大きな津波が来ます。高台に避難してください」
 
 「津波が来ます。急いで避難してください」


 震災発生直後のようすをとらえた映像で、轟音(ごうおん)や悲鳴に混じって途切れ途切れに聞こえる拡声器の警察官の声が耳に残る。

最後の最後まで住民に避難を呼びかけていた、あの警察官は無事でいるのだろうか。

 映像には、車のない港の堤防沿いの道を走るパトカーもあった。

アナウンスしながら逃げ遅れた者がいないか確認しているようだった。
あのパトカーは津波から逃げ延びたのだろうか。

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 岩手県宮古市鍬ケ崎(くわがさき)の宮古漁港は損壊した跡は残るものの、魚の積み込み作業が行われ、活気が戻っていた。

その傍らにある宮古署港町交番は今も無残な姿をさらしている。

 勤務していた2人の警察官は津波にのみ込まれ、殉職した。


 交番には花束が手向けられ、国旗が掲げられている。

誰が津波で汚れた国旗を洗ったのだろう。

 「お勤め、お疲れさまです。安らかにお眠りください」。
 
折り鶴とともに高校生のメッセージ。
「鍬ケ崎のためにありがとうございました」という書き置き。
一つ一つ読んでいると、がれきの向こうから路線バスがゆっくりと走ってきた。
前から2列目に座る老女が窓越しに交番に向かって、静かに手を合わせるのが見えた。

 5人体制の港町交番で、中村邦雄さん(54)村上洋巳さん(43)は、その日非番だった。

地震発生で2人は官舎から自主参集で署に上がった。
制服に着替えた中村さんは家族に「じゃあ、行ってくる」と軽く声をかけた。

 2人は津波警報でごった返す署からパトカーで漁港周辺に向かった。

小野寺勝善副署長は「自らの判断で持ち場の住民誘導を行っていたのでしょう」。

 中村さんと村上さんが激しい口調で高台への避難を呼びかける姿が多くの人に目撃されている。

港に防潮堤はなく、第1波で周辺が浸水した。

 立ち往生した救急車から搬送中の病人を救助しているところを第2波が襲った-。


 3月14日パトカー発見、4月4日に村上さんの遺体が発見された。

中村さんの遺体はいまだに見つかっていない。

 住民が供える花や飲み物が絶えぬ港町交番。

すでに取り壊しが決まっている。

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 2年前の夏、佐賀県唐津市肥前町高串の増田神社を訪ねた。

JR唐津駅からレンタカーで山道を抜けると、目の前は海を挟んで長崎県だ。
山にへばりついたような高串は小さな漁港と温泉以外、何もないように思えた。
中学生だろうか、釣り竿(ざお)を持つ男の子に増田神社の場所を聞くと、「『増田さま』は先の二股を右です」と教えてくれた。

 明治28(1895)年、新米の増田敬太郎巡査はコレラが流行していた高串に赴任する。

当時は防疫も警察の任務だ。
現場を一目見た増田巡査は感染拡大の原因は隔離の不徹底と判断した。
すぐさま感染者を隔離し、交通を遮断、誰も手を出そうとしない遺体を背負い、埋葬した。
そして、赴任3日目に発病する。

 「村人の世話をするために来た私がかえってお世話になるようになり、申し訳ありません。高串のコレラは私が背負っていきますからご安心ください」。
 
その翌日、増田巡査はこう言い残して死亡、25歳だった。

 遺言通りコレラは収束、以来、高串で伝染病の流行はなく、地元の人々は感謝の思いで巡査を神様とあがめるようになった。
 
巡査を火葬した小松島は神聖な島とされ、漁師は島に一礼してから沖合に向かう。

 毎年7月の夏祭りでは、白馬にまたがる巡査の山車が繰り出される。

最期まで住民の命を守る使命を全うした巡査は「警神」と呼ばれている。

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 今回の震災で多くの警察官が警神となった。
 
死亡・行方不明は宮城県警14人、岩手県警11人、福島県警5人。
女性警察官もいる。
多くは避難する住民の最後尾で任務を全うした。

 私たちは、父を失った子に、夫を失った妻に、子を失った父母に何ができるだろうか。

神社とは言わないが、最後の任務をできる限り詳細に記録し、遺族に残しておきたい。

 「みんなを助けようとして最期まで『みんな逃げて』と叫んでいたんだよ。最期まで警察官だったんだよ」。

遺(のこ)された幼い子にそう言い聞かせることができるように。
警察官だった父を、夫を、子を自慢できるように。
いつまでも遺族や住民の胸に残る警神であってほしい。
いくら感謝しても足りない一国民の願いである。

(将口泰浩)




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