矢島は取り上げた携帯電話を、そっと京子の前に置いた。
京子はその携帯電話に目をやると、恐る恐る矢島のほうに目をやった。その目は涙で潤んでいる。いまにも涙がこぼれおちそうだった。

矢島は静かに続けた。

「『約束』は誰かに対してするもの・・・・だから『約束』は守る義務が生じる。だから時としてそれは苦しくて、辛いものにもなる。それなら『誓い』をたてればいい・・・・『誓い』は自分に対してするものだから。そう教えてくれたのはマスターだった。今はそのマスターの言いたかった言葉の意味がはっきりと分かるよ。本当に今僕が大事なものが何か、今はっきりと分かっているから。今僕が失いたくないものは何なのか・・・。」

矢島は京子の目をしっかりと見ながら言った。京子も矢島の目をじっと見て、その視線をそらそうとしない。
矢島はそんな京子に、やさしくそっと促すように言った。

「開けてごらん・・・それが僕の答えだから・・。」

京子は震える手で携帯電話を取り上げた。
矢島の大切な携帯電話。それを開けばまひるの唯一の写真があるはずだ。やはり矢島はまひるを選んだのだろう。京子は覚悟を決め、ゆっくりと携帯電話を開けた。

美しい夜景をバックに、一人の女性が写っている。ライトアップされた光に照らされて、微笑む横顔が輝いて見える。しかし、以前見た待ち受け画面の写真とは違うように、京子の目には映った。涙で曇った目をぬぐうと、もう一度京子はその写真の人物をたしかめるように見入る。そして、その写真が何であるのかを京子が気が付いたとき、京子は驚きを隠せなかった。

「・・・先輩・・・!こ・・・これ・・・これって・・・・!」

由加利が、そっとその画面を覗き込む。由加利もしばらく写真に見入っていたが、やがてその表情が変わった。そして、由加利はそっぽを向いたままの早瀬の背中を乱暴に叩いた。早瀬も何事が起きたのかと振り返り、携帯の待ち受け画面に目をやった。早瀬は思わず自分の目を疑った。3人がほぼ同時に矢島の方を見る。矢島はいつもよりもずっと穏やかな笑みを見せていた。

「そう・・・写ってるのは、京子ちゃんだよ。」

あれほど大切にしていたまひるの写真が、いつの間にか京子の写真と入れ替わっていた。由加利と早瀬は言葉を失ったまま、ただ呆然と写真を見ている。京子は口に手を当てて、今にも泣き出しそうな表情だった。しかし、その涙はいましがたの涙とはまったく別のものだった。

「京子ちゃんが事故にあったとき、僕は必死で病院に向かった。そして、京子ちゃんの無事を確認したとき、僕ははっきりと自分の気持ちに気が付いたんだよ。僕が今失いたくないものは、京子ちゃんだってことを。そして、これから先もずっと守り続けたいものも、京子ちゃんだってことも。だから僕は『誓い』をたてた。何があっても京子ちゃんを守りたい・・・・守るんだって。まひるが僕に与えてくれた、僕の本当の気持ち、本当の意志に忠実に生きることが、きっとまひると交わした『約束』を守ることになるんだと今はそう思ってる。少したよりないかもしれないけれど、僕に京子ちゃんを守らせてもらえるかな?」

京子は言葉にならず、ただ携帯を握り締めながら、肩を震わせている。由加利の目にも、涙が光っている。由加利がそっと京子の肩に手を置いて、京子を促す。京子は目を真っ赤にしながら、由加利と目を合わせる。由加利が何も言わずに、そっと頷くと京子は矢島のほうに向き直り、搾り出すような声で言った。

「私・・・・先輩にそんなに思ってもらって、幸せです・・・。私も・・・・がんばりますから・・・・先輩を支えられるように・・がんばりますから。」

そこから先はもう言葉にならなかった。矢島は京子の肩をしっかりと抱き寄せる。京子は矢島の胸に、そっと顔をうずめながら泣いた。
由加利も自分の目にたまった涙をそっとぬぐう。早瀬はほっとしたように、ようやく肩の力を抜いた。

矢島の胸に顔をうずめていた京子が、ふと顔を上げる。

「・・・でも、まひるさんの写真は・・?」

矢島はしっかりとした声で、自分の胸の辺りを示しながら答えた。

「まひるは僕のここにいつでも居るよ。写真なんかなくたって、大丈夫。」

それを聞いてまた、京子の目に涙が浮かぶ。こんなにも自分を大切に思ってくれている矢島に、心のそこから感謝していた。

やがて由加利は気を取り直して、いつものような元気な声で言った。

「うん、今日はめでたい!みんなで乾杯しよう!今日はわたしのおごり!」

その言葉が終わらないうちに、由加利の前に大きなシャンパンのビンが、ドンと置かれた。よく見ると、ドン・ペリニヨンのシャンパンだ。由加利があっけに取られていると、そのビンを置いた人物が声をかけた。マスターの清水だった。

「いいえ、今日は私におごらせていただきますよ。きっと、矢島さんはいい答えを出してくれると信じてましたから。そろそろかと思って準備しておいたんです。」

清水はシャンパングラスを戸棚から取り出し、カウンターに並べた。それを見ていた矢島が清水に声をかける。

「マスターも一緒にお祝いしてくれますか?」

「はい、それではご一緒させていただきます。」

清水はいつもどおりの優しい笑顔で答える。

「よーし!じゃあ、景気よく私が栓をあける!」

由加利はシャンパンに手を伸ばし、その口に親指をあてがいながら言った。

「ハッピーバレンタイン!」

ポーンという大きな音が、カルバドスの店内に響き渡った。


=最終章へ=