おだわら市民学校の「尊徳の足跡に学ぶ」は5回目を迎えた。

今回は、翁の生家がある小田原市栢山周辺で

彼の功績が残る遺跡をボランティアガイドの案内で散策した。

 

生家の建築・・・1742年(寛保2年)北隣(万兵衛家)の二宮家から分家した祖父銀右衛門が建築。

一家が離散後、西栢山の奥津家~(明治22年)柳新田の渡辺家~尊徳没後100年祭時(昭和35年)

小田原市が譲り受け、現在地へ。

誕生地・・・御木本幸吉翁(真珠王)が明治22年万兵衛家から誕生地を買い取り、石垣を築き、公園に整備し中央報徳会に寄贈。昭和36年報徳会から小田原市へ。

50代の等身大の尊徳回村の像、

身長180cm、体重90kg強の大柄ながっちりとした体躯だったようである。

 

善永寺・・・二宮総家、尊徳の菩提寺。小田原市栢山の善栄寺は、1215年(建保3年)、巴御前木曽義仲と和田義盛の菩提を弔うために創建したと伝えられる。開山は善法真栄、創建当初は律宗の寺だったが、1336年(延元3年)、鎌倉円覚寺の東明恵日が足柄の地に隠棲したときに再建され臨済宗となり、1554年(天文23年)には小田原北条氏三代氏康夫人瑞渓院が帰依し再興し、曹洞宗に改められた。巴御前と義仲の五輪塔、氏康夫人瑞渓院の墓、医師村田道仙(尊徳の父の医者)の墓、二宮尊徳や一族の墓がある。尊徳の遺骨は、善栄寺にはなく、日光市(旧今市市)の如来寺に埋葬されている。善栄寺には、遺髪と遺歯が埋葬されている。

 

尊徳の遺言;私を葬るに、分を越えるでない。墓石を建てるでない。碑も建てるでない。ただ土を盛り上げて、そのそばに松か杉を1本植えておけば、それでよろしい。決して私の言葉にたがってはならぬ。

 

 勉学の像

 

善栄寺を後にして、二宮家総本家屋敷跡~村田道仙屋敷跡~栢山神社を巡る。

 

尊徳の農政家としての活躍の史跡を巡っていく。

酒匂川の坂口堤は、尊徳が堤防補強のために松苗を植えた松苗植栽地跡。

竹で編んだ籠状のものに石を抱かせ堤防補強をした跡地など。

 

曽比の報徳掘・・・酒匂川の水が地層を巡り地下水となり、夏冷たく(稲作が適さない)、

冬暖かく(雑草が冬も成長する)、米の栽培に適さない地域で、上流から用水路を作り

地下水を下流に流し、稲作の適する土に改良する。

これらに事業を農民と共に作り上げて実績を作った。このような例が小田原には多くある。

それらを報徳掘りと呼び、今も現存する。

 

 

櫻井小学校・・・昭和三年に贈られた金次郎像があった。その後、金次郎の思想を表す

「積小為大」石碑、「報徳・至誠・勤労・分度・推譲」の噴水彫刻など。

 

捨苗栽培跡地跡・・・米の苗を田んぼに植えた残りは捨て苗地に捨てられていた。尊徳翁は

それらを集め、植えて収穫した。小さな積み重ねが大きな収穫を成すということを実証した。

 

油菜栽培地跡・・・幼少の頃、夜学の明かりを得るための油菜を蒔き、それを売って灯油を

得た。(幸田露伴の絵本にも紹介されている)

 

これらの尊徳翁に纏わる逸話や遺跡を見ていくと、彼が農政や土地改良や災害土木を

身に付けた 『実務家』 であることが分かる。