小田原市民学校教養課程の第2回講座が19日に尊徳記念館で開催された。

尊徳翁の桜町時代・幕臣時代・晩年①にわたる実践を省みる内容である。

 

貧農の幼少から勉学に励み、農業のみが産業の時代に在って、

農地と人とその暮らしに目を注ぎ、開拓と村の経営に一生をかけた人生だったようである。

尊徳思想とうたわれ、現在でも新鮮な経営思想として息づいている。

その年譜を講師の資料を基に綴ってみた。継承する弟子たちの話は、後日に譲る。

 

尊徳の足跡

1822年(文政5年) 36歳 桜町領(小田原藩主大久保忠真(ただざね)、後に老中実家の宇津家領)復興仕法を10年を命じられる。小田原藩と宇津家から尊徳宛に、10年間の仕法の条件(年貢と費用捻出)を決めた契約(命令書)が発布されている。農民の生活を守るための尊徳仕法への信頼を醸し出す資料である。

40歳 組徒格に昇進

43歳 復興仕法が順調に進む。

45歳 藩主忠真より「以徳報徳」の賞詞を受ける。仕法は5年間延長。 常陸国青木村(茨城県)の復興仕法を懇願される。

46歳 尊徳の報徳仕法の原点となる哲理を説いた『天徳無尽現量鏡』『地徳開倉積』を作る。

1833年(天保4年) 47歳 常盤国真壁郡青木村(旗本川副勝三郎知行)の桜川堰の普請、青木村の復興仕法に着手。天保飢饉が始まる(~天保8年)

48歳 徒士格に昇進三才報徳金毛録等を著す。三才とは、天地人の三つの働きを意味し、宇宙と人間存在の究極的意義を追い求めた尊徳の一貫した姿勢を指し、報徳思想(ほうとくしそう)と呼ばれる。 三才報徳金毛録とは、尊徳が説き広めた経済思想、経済学説集。 目次. 1 概要; 2 報徳の教え; 3 至誠・勤労・分度・推譲; 4 実践を説いたもの。

49歳 矢田部藩の財政再建・農村復興仕法着手。

50歳 天保飢饉で、大磯で打ち壊し、下野国烏山藩領に米穀を送り飢民救済を行う。翌年、復興仕法着手。

 小田原藩から出府の命下る。小田原も飢民救済を求めた。

51歳 藩主忠真から小田原領内の飢民救済の直書が出る。翌年復興仕法に着手。下館藩領の復興仕法着手。

53歳 旗本川副勝三郎知行所9か村の仕法を懇願される。

54歳 小田原領曽比村、竹松村の復興仕法実施。伊豆韮山代官所支配所の多田家、朝日家の借財整理の仕法に着手。翌年(1841年)から天保の改革が始まる。

55歳 幕臣に登用される。(ご普請役格)利根川分水路調査。

57歳 小田原宿報徳社、下野信友講発足。小名浜・真岡・東郷陣屋手附に命じられる。

58歳 日光神領荒地開拓調査見込み(日光仕法ひな形)の作成を下命。相馬中村藩の年貢収納量の調査(180年間分)、翌年同藩領の復興仕法に着手。

60歳 下館領灰塚・下岡崎・蕨村の仕法着手。日光仕法雛形60巻を幕府勘定所に提出。

61歳 遠州下石田神谷に下石田報徳社設立。

62歳 東郷陣屋管内桑野川村新田開発完了。小田原宿報徳社再建(福山滝助ら)

63歳 東郷陣屋管内棹ケ島村仕法開始。常州花田村等(山内代官所支配所の14か村)仕法開始。

66歳 相州岡村仕法主体を克中譲社とする。

1853年 嘉永6年 67歳 小田原大地震。日光神領の復興仕法を命じられる。

68歳 嫡子弥太郎、御普請役見習。日光神領轟村に復興仕法着手。

69歳 今市の報徳所に移る。12月末日の日記に「千秋万歳楽、予が足を開け、予が手を開け、予が日記を見よ、戦々恐々深淵に臨むが如く、薄氷を踏むが如し」と記す。

1856年 安政3年 70歳 御普請役に昇進 (30俵3人扶持)、10月20日没。今市星顕山如来寺に埋葬。遺髪・遺歯を小田原市栢山善栄寺に葬る。翌年嫡子弥太郎が御普請役となり、日光神領の復興仕法を継続する。