昨年に小田原市民学校の基礎課程を1年かけて終えた。

今年に入ってコロナが流行して、終了証書を郵送され、1年目の全課程を終えた。

その感想は、小田原市のH/Pに載っているので以下に記しておく。

 

【横浜市から移住して8年。市内の史跡巡りやツーデーマーチに毎年参加し町の歴史に触れてきた。

地方都市の少子高齢化は猛スピードで進む。夢が持てる社会には何が必要なのか?

そんなヒントを得るために、まず小田原市を知ろう。もっと好きになるヒントを得ようと思い立った入校だった。

様々なテーマを学び、町の良さを知り、新しい友を得て新発見の楽しい一年だった。

学びの機会を得たことに感謝したい。

お世話になったすべての方々にありがとう!次はあなたが入校して実感する番です。】

 

小田原に移住して9年目に入る今年。。。

2年目の教養課程に進み、コロナ禍を避け乍ら、

『二宮尊徳の教えを継承する』が、遅れたが10月12日に開校した。

 

第1回『尊徳翁の一生と実践』①生い立ち~服部家時代~桜町時代(下野国桜町)

について、立正大学文学部非常勤講師「松尾公就先生」から講義を受けた。

 

金治郎は、1787(天明7年)7月23日に相模国足柄上郡栢山村(現小田原市栢山)生を受ける。

男3人の長男。父利衛門(48歳没)、母よし(36歳没)。14歳で山で薪を伐り、深夜まで草鞋を作り

城下で売り生計を支えた。

 

母方の生家が下曽我の川久保家であり、小生宅から散歩コース範囲内にある。

現在、尊徳翁の遺髪塚がある。

 

彼には数々の逸話や伝承が残されている。

12歳でわらじ推譲の逸話。13歳で酒匂川堤防に植えた松苗の伝承。14歳時久野の山で薪を伐り城下で売る逸話。

16歳時仙了川近くに油菜を植えた逸話(菜種を収穫し夜学の明かりに使う)。

18歳時飯泉観音での観音経再読の逸話。。。

 

20歳で生家近くに小屋を建て独立する。

26歳で小田原藩家老服部家へ若党として奉公、同家子息と修学を共にする。

経世の才能に磨きがかかる。

 

29歳時服部家の「御家政御取直趣法帳」草稿。32歳時同家の「御賄方趣法割合帳」を作成、お家の財政再建を

任される。藩主大久保忠真が老中に昇進。藩主から耕作出精人として表彰される。

 

31歳で堀之内村きぬと結婚、長男と死別、33歳で離婚。34歳で飯泉村なみと再婚。1男2女を授かる。

年貢枡の改良、藩士への低利貸付法を実施。

36歳時名主格で桜町領(旗本宇津家の地行)復興仕法を命じられる。(10年間)

 

尊徳翁は、幼少時は「金治郎」「金次郎」の呼び名があるが、自筆文書は「金治郎」の署名例が多いようだ。

小生が小学校時代、校庭の隅に薪を背負い、手に本(大学)を持って歩く青銅像があった。これは昭和3年に

尺貫法がメートル法に変わったのを機会に、それを子供たちに教えようとして

1メートルの像が約1000体ほど全国に配布されたようである。