2/11(建国記念日)は例年どおり下曽我で『流鏑馬』の神事が行われた。

 

曽我梅林を含む一円の地域は、

鎌倉時代、幕府の御家人として活躍した曽我太郎祐信(すけのぶ)一族が居を構えていた。

祐信の奥方は、亡き河津三郎祐泰の忘れ形見、一萬、筥王(はこおう)

(後の十郎祐成、五郎時致(ときむね)を伴って再婚された方。

日本3大仇討の一つ『曽我兄弟の仇討』で有名。その経緯は「曽我物語」で歴史上有名なことである。

 

『吾妻鏡』によれば、祐信は弓馬の達人で、元暦元年(1184)「源平一の谷合戦」に加わり、

文治4年正月弓始めの四季に10名の射手の一番手として出場する腕前。

頼朝は、建久五年十月九日小山左衛門尉朝政の屋敷に祐信はじめ20名の弓馬の達人を集め、「流鏑馬談義」

を開催し、中原右京進仲業に作法を制定させた。これが曽我の里での流鏑馬神事の由来と言われる。

 

天下泰平・五穀豊穣を占う大いなる神事。。。

今年は、11日の前後に降雪予報があり、例年に比して見物客は1/3程度と少なかったが、

武田流・流鏑馬の射手たちの真剣さと的中の多さに大いに盛り上がった行事では有った。