6/9(土)に大磯町ガイド協会の明治150年記念イベントの参加した。

今年で明治150年となるそうだ!!!

 

現在の政治権力の病弊に接し、特に明治の立憲政治、特に薩長土肥の藩閥政治から

自由民権(選挙権確立)の政友政治に至る過程で活躍した政治家が多くいることに心強さを感じた。

 

そして、その多くが湘南の大磯町に別荘を構えた。

その史跡を散策し、日本の立憲政治を模索した有力者の思いを知れればと思い、

かのイベントに参加してみた。

 

約5キロに渡る別荘地。そこに居住した政治家は11名。

 

中島信行(土佐藩)・・・海援隊幹部、板垣退助の自由党副総理、明治23年初代衆議院議長、明治31年に別荘構える。

伊藤博文と親交、最初の妻は陸奥宗光の妹。菩提寺大雲寺。

 

後藤象二郎(土佐藩)・・・藩主山之内容堂の信厚く藩政の枢軸。吉田東洋の弟子、龍馬と親しく、大政奉還を提議。

板垣らと自由民権運動を推進、第2次伊藤内閣の農商務大臣、明治23~33年別荘を構える。

 

原敬(盛岡藩)・・・家老職から分家して平民となる。外務省に入り、陸奥宗光の信を得て大正7年(1918)第19代内閣総理大臣。

(初の政党内閣)明治29年大磯に別荘を構える。大正10年東京駅で暗殺される。

 

樺山資紀(薩摩藩)・・・白洲正子の祖父。明治28年海軍大将、第一次山縣内閣海軍大臣、第二次山縣内閣文相、

薩長藩閥政府の正当性を主張した蛮勇演説で有名。明治23年大磯に別荘(二松庵)、現在は、アマダ会長宅、ライオンズマンション。

博文が自然亭と命名。

 

林董(ハヤシタダス、幕臣)・・・初代陸軍軍医総監松本順の実弟。兄の紹介で陸奥と懇意になる。

岩倉使節団に参加、博文に認められる。明治39年第一次西園寺内閣の外相、第ニ次西園寺内閣の逓信大臣、明治28年に別荘構える。(鴫立庵)平安末期の歌人・西行法師が大磯あたりの海岸を吟遊して詠んだといわれている歌「心なき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」で有名、大磯町役場内。

 

山縣有朋(長州藩)・・・松下村塾、奇兵隊に参加、頭角を現す。維新後陸軍の基礎を作る(国軍の父)、第三代、九代の内閣総理大臣。

藩閥政治、元老として影響力を持つ。明治20年小淘庵(こゆるぎあん)を構える。現大磯中学校運動場(4000坪)、校名は吉田茂書。

 

陸奥宗光(和歌山藩)・・・海援隊で活躍、博文の勧めで欧米を視察し立憲政治を研究帰国。明治23年山縣内閣で農商務相、25年第二次伊藤内閣で外相、不平等条約改正。1894年(明治27年)に朝鮮で起きた(東学党の乱)から、1895年(明治28年)の三国干渉までの自身の外交の経験・苦労・感想が書かれている蹇蹇録(けんけんろく)がある。明治27年に聴漁荘を構える。今秋公開予定。

 

大隈重信(佐賀藩)・・・明治31年薩長藩閥以外で初の総理大臣(第八代、17代)。現早稲田大学を創設。明治27年に別荘(嚝龍居)を持つ。陸奥宅とは隣組、現古川電工大磯荘)、今秋公開予定。83歳で逝去、葬儀は国民葬、30万人が見送ったと伝えられる。

 

伊藤博文(長州藩)・・・松下村塾、大久保利通亡き後政界の中心となる。内閣制度を創設(明治18年)、第一代、五代、七代、十代内閣総理大臣。明治22年の大日本帝国憲法発布に尽力、明治29年に滄浪閣(転居して本宅、戸籍も移す)を建てる。

 

西園寺公望(公家)・・・徳大寺家から西園寺家へ養子に。フランスソルボンヌ大学に留学(10年間)、博文の知遇を得て政界へ。博文の後第二代立憲政友会総裁。第十二代、十四代内閣総理大臣。明治22年、隣荘を建てる(博文の隣家)。

 

加藤高明(尾張藩)・・・東大卒業後三菱に入社。岩崎弥太郎の娘(ハルジ)婿、明治20年ごろ政界に転ずる。外相を歴任、大隈の後継者。大正13年第二十四代内閣総理大臣、在職中に逝去(大正15年)。明治35年松本順宅を買い取る。

 

西郷従道(薩摩藩)・・・隆盛の実弟。明治2年山縣と共に渡欧、軍政の研究。海軍大将、元帥。日清・日露戦争の勝利に貢献。伊藤、山縣、大隈内閣で海軍大臣。山縣内閣で内務大臣。明治初年に大磯に別荘を構える。

 

 

別荘地めぐりで、日本政界への足掛かりと、大磯が日本初の海水浴場、牛乳の飲食の普及への貢献など、

新しい日本へのかかわりを学ぶことができた。

暑い中、ご案内をしてくれた大磯ガイド協会の関係者に感謝したい。

索引文は、ガイド協会パンフを引用させていただいた。