できそこないの哲学 -2ページ目

できそこないの哲学

毎日くすぶっております。

今回は巷で話題の「ホモが世界を動かしている」という言説について論じたいと思います(そんなに期待しないでね)。
そんな言説聞いたことがないという方もいらっしゃるかもしれません。
ネットでたまに見かけるような、見かけないような気がしますが、僕がこの言説に最近出会ったのは、友人との会話の中ででした。
どのような会話だったかは忘れましたが、その友人は確かに
「ホモが世界を動かしている」
そう言ったのです。
彼が何を意図して言ったのかはわかりません。ジョークのつもりで言ったのかもしれません。
ただ考えるとホモ、この場合、「男性の同性愛者」、ゲイGAYの事でしょうが、ホモの代表例を挙げてみるとフレディ―マーキュリー、フーコー、ダヴィンチなどそうそうたる顔ぶれです。
そう考えるとホモというのは才能豊かな人たちのように思えてきます。
確かに彼らにしかない視点、発想というものが存在するかもしれません。そんな「選ばれし」彼らが世界を動かしていると考えても良いのかもしれません。
しかしながら、そう考えるのは早計でしょう。

明確な統計データを持っておりませんし、こういった統計自体非常に数値を出しにくいものでしょうから、いくらブログとはいえ勝手なことを言うのは気が引けるのですが、話に聞くところによると同性愛者というのは全人口の約5%を占めるそうです(女性も含むので男性だけだと、ゲイは全人口の2.5%を占めるということになるのでしょうか)。同性愛者は20人に一人、一クラスに一人ないしは二人ほどいる割合です。
日本の人口が一億二千万人ですから、日本には600万人が同性愛者がいるいうことになります。労働人口を持ってくるのはもう面倒ですからしませんがそれでも同性愛者の数百万人が日本で働いていることになります。
そんな彼らが、ごっそり日本から姿を消してしまえば、日本社会は回っていくでしょうか?
答えはおそらくNOでしょう。

私が何を言いたいかと言えば同性愛者だからと言って彼らは別に才能豊かなわけではありません(もちろんそういう方はいるでしょう)。たまたま同性愛者の中にそういった人たちがいて、たまたま目立つだけであって、それは同性愛者ではない人たちの中の才能がある人が存在するのと同じことであって、同性愛者が特別な存在というわけではないのです。
声には出さないけれども(出してる人もいるけど)あなたの身の回りには、そのような方々がたくさんいるのです。
同性愛者のなかの一部の天才が世界を動かしているのではなく、それ以外の人たちと同じように「人」を愛し、ご飯を食べて、笑って、泣く同性愛者が、それ以外の人たちと同じように働いているだけなのです。同じ社会の構成員だということです。
そんな彼らが抜けてしまえば、世界は回っていきません。
そういう意味で「ホモ『も』(それ以外の人たちと同じように)世界を動かしている」という表現が正しいのでしょう。

なんか当たり前のことを言ってしまいました。当たり前のことを論じてしまいましたが、当たり前のことを当たり前のように語ることも時には大切でしょう。ここまで読み進めてくれた方はありがとうございました。
昨今の、日本国内での「渋谷区」の例のようにLGBTの方々の権利拡大の動きがあることをうれしく思います。

以上、屑のなんだか当たり前の話をしてしまったブログです。
四月の頭に姫路城に行ったので、少しお話します。
感想を言いますと「しゅんごい!!!!」
何に対して凄いと言ってると思います?姫路城そのものに対してではないのです。
姫路の街が「しゅんごい!!!!」のです。
まず私は上りで山陽本線から姫路駅に行きました。つまり広島方面から。
すると電車の中から、進行方向向かって左側の窓からすでに真っ白に輝く姫路城がこんにちはしたのです。
そのとき私は不覚にも電車内で「んあぁ」と声を漏らしてしまったのです。
感嘆のため息です。
それから電車を降りて姫路城方面へと早歩きで歩を進めていったのです。
「あああああああああああああああ」
駅舎(これもそこそこ大きくて興奮した)を出ると、街を東西に分断する巨大な一本(片側三車線?四車線?)の道路のその先に、真っ白な(本当に真っ白)姫路城が鎮座していたのです。
私は悟りました。姫路城のためにこの街は存在するのだ、と(違ったらごめんなさい)。
圧倒的な都市づくりでした。街は引き立て役なのです。

アイラブ、姫路。
レンタルビデオ屋さんで、ケイト・ウィンスレット主演の「愛を読むひと」を見ました。
小説『朗読者』を映画化したものです。

 その中のワンシーン、ナチスの残党であるケイト・ウィンスレット演じるハンナが裁判を受け、ユダヤ人殺しについて裁判官とのやり取りをしているシーンがあります。
 このシーンはざっくりと言って、ハンナが犯した行為、ユダヤ人収容所の看守をしていたハンナが収容所に空きがないため次々と送り込まれてくるユダヤ人を収容するために、すでに収容されているユダヤ人を、これまた次々とアウシュビッツに送り込んで何とか収容所の空きを作り、ユダヤ人を受け入れていったという行為です。アウシュビッツに送り込まれたユダヤ人たちは殺されてしまいます。
 こうすればユダヤ人が死んでしまうとわかりながらもそのユダヤ人をアウシュビッツに送り込んだハンナに対して、語気を荒げないながらも淡々と怒りを抑えながら、裁判官はハンナを問い詰めていきます。
そこで逆に裁判官にして問うたハンナの言葉がとても印象的でした。
「もしあなたならどうしましたか?」
ハンナの心の奥底から出た言葉のようでした。こう聞かれた裁判官は口を閉ざしてしまいました。

歴史を学ぶとき、歴史について考察するときに最も大事なことは、「もし私ならどうしたか」を考えることではないでしょうか。
ナチスの行為が許されることではないということは多くの人の認識していることろでしょう。
ユダヤ人問題に関しては知っている人も多いかと思いますが、ナチスさえいなければユダヤ人のこのような問題は起こらなかったというような単純なものではありません。しかしここではそのことについて語りません。

私たちがよく犯してしまいそうな過ち。今の価値観で当時の歴史的事象を判断してしまうということを私たちは考えなければなりません。
「こいつらはよくこんなひどいことができたな。私は許せない」そう言うのは簡単です。


100年後世の中から化粧が無くなるとしましょう。理由は、化粧をする時間がもったいない。そんなことをしている時間があるなら、化粧をせずに作った時間で仕事をしたり勉強したりもっと合理的なことをしようという考え方の世の中になるとしましょう。
そんな百年後の彼らが、今の私たちの生活している様子を見て、「うわ~化粧なんて馬鹿なことやってるな~、愚かだな~時間の無駄なのに~」という意見を持って私たちの生活を判断することに意味はあるでしょうか?私たちからすれば「は?」です。
化粧が存在する世界で、その当時の人々がどのような行動をとっていたのか、どのような影響を受けていたのか、生活を規定されていたのかを考えることが大事なのです。

まぁ昨日の文脈の流れから先の戦争を念頭においてこの文章を書いております。
今の価値観からは許されなかった行為がその当時もいくつも行われていたでしょう。
そういった歴史事象に向き合う時には「私ならどうしたのか」という問いをまず立て、そこから考察していってほしいのです。そして当時は許されていた行為なんだから、まぁいいじゃん。というところに意見を収斂させていくのでもなく、ではそのようなことが起こった背景をしっかりみつめて、そのような状況を作らないためにはどうすればよいのかを考えなければならないのです。


ハンナの裁判を公聴していた法学生が、俺はあのナチスの残党の女たち(ハンナ以外にも複数人の女性が同じ裁判を受けていました)を銃で撃ち殺したいというようなことを言っていました。
その怒りがわからなくもないのですが、怒りのせいで見えなくなるものがあるのではないかと思えるのです。当時の文化・経済・政治など様々な状況、その当人が置かれたその行為を行ったそのまさにその瞬間の状況をしっかり深く丹念に分析し自分の中に内在化して、そこまでして初めて「それでも俺はこんなことはしない」と怒ってもよいのだろうと思います。


「愛を読むひと」はナチス・ユダヤ問題を主題にした作品ではございません。
これはラブストーリーです。裁判も物語の中盤に出てくるものであって、主題は年の離れた男女の愛の物語です(しかしそれだけに終わらないさまざまな要素が絡み合っているからこの作品はとても面白い!!!!)。ぜひぜひ皆さんも見てみてください。

以上、屑の映画評論?でした。
屑が政治的発言をします。

最近国立大学で教員が国旗掲揚・国歌斉唱を入学式や卒業式で義務付けることになりそうな勢いでございます。
公立の小中高校ではすでに教職員法律で定められております。このことでも揉めたりしております。


ここで君が代・日の丸がどういった歴史的な意味を持つものかという話をする気はありません。

どのようなことを話するかと言えば、

「日本人全員が、いわゆる保守だろうが革新だろうがウヨクだろうがサヨクだろうが思想・信条にかかわらず、日の丸という国旗を掲揚して、君が代という国歌を斉唱『できる』」ということについてです。



 ここでは日の丸を日本国の国旗として、君が代を日本国の国歌として「自明のもの・議論の余地を挟まないもの」との前提をおいて論を進めていきます。
そこに引っかかる人はこの先読み進めても意味がないかもしれません。


 一般的に保守・ウヨクの人は君が代・日の丸を素晴らしいものとして捉え、戦争と日の丸・君が代の結びつきを否定する傾向があります(と私は考えます)。彼らは日の丸を進んで掲揚し、君が代を快く斉唱するでしょう。なので彼らについては言及しません。
 一般的に保守・ウヨクでも、革新・サヨクでもない人たち、それほどこの問題に関心がない人たちは日の丸・君が代を掲揚・斉唱しろと言われればするだろうし、しないと言われればしないでしょう(と私は考えます)。どちらでもなさそうなので、『できる』側の人間と言ってもよさそうです。

ここで議論したいのは革新・サヨクについてです。
 一般的に革新・サヨクの人は君が代・日の丸のもとで日本・日本人はアジアを侵略し、戦争を起こし、人々を殺してきたため、「君が代・日の丸」に対して敬意を持たず、時には憎悪を持って、日の丸・君が代を掲揚・斉唱しない傾向がある(と私は考えます)。

そしてここでいったん「君が代・日の丸のもとで日本・日本人はアジアを侵略し、戦争を起こし、人々を殺してきたため、「君が代・日の丸」に対して敬意を持たず、時には憎悪を持って」いる革新・サヨクの方々の考え方を自分の中に受け入れてください。
これを受け入れられない人は読み進めても意味がありません。ここからはそれを前提に話を進めます。
私はこの視点に立っても、「日の丸・君が代」を掲揚・斉唱できるということを論じたいと思います。

先の大戦で日本は世界に甚大な被害を与えました。多くの血が流れました。
日の丸・君が代は赤く血に染まっています。それを嫌いになるのは仕方がないかもしれません。
でもこれを拒否していいのでしょうか?
拒否することは先の大戦を否定すること、忘却することにはなりませんか?
もし日本が犯した「過ち」を正していきたいなら、嫌いな憎むべき日の丸・君が代とむしろ積極的に向き合って、それを「超克」していくべきではないでしょうか。そのたびに歴史を振り返って猛省すべきではないのでしょうか。
小中高の公立学校の教員ならば入学式があるたびに日の丸・君が代と向き合い、二度と戦争を起こさない、教え子を戦地へ送らないと毎年毎年心に刻むべきではないでしょうか?卒業式があるたびに日の丸・君が代と向き合い、この一年戦争がなく平和に過ごせたことを誇りに思い、これからも平和を希求し続けようと思いを新たにすべきではないでしょうか?
日の丸・君が代に背を向けることがはたしてアクションになるのでしょうか。
日の丸・君が代に積極的に「そのような思想・信条」を持った人たちがアクションを起こしていくべきなのです。

鈴木邦夫さんが本の一節で日の丸・君が代には「手垢」がついてるとおっしゃっていました。
戦争の手垢、おどろおどろしい手垢です。手垢が付いているからこそ、日の丸・君が代に触れることによって戦争が想起され、その分人々は戦争から遠ざかろうと努力します。
その日の丸・君が代を避けている人にそれができるでしょうか。
これも鈴木氏がおっしゃっていましたが、国旗・国歌を変えることは手垢の付いてない新品になってしまうということではないかというような発言を本でされていました。このきれいさが過去の戦争を無いものにしてしまわないでしょうか。

どの国にも美しい部分と醜い部分があります。この醜い部分を直視しながら、もう二度とこの日の丸・君が代のもとで戦争を起こさせないと誓いを立てることが重要ではないかと思います。
美しさも醜さもひっくるまった、日の丸・君が代を自分たちがこれ以上汚さないように努力をすべきなのです。


これは日本人に対して申し上げております。
外国人の多い国公立大学の入学式・卒業式とは分けて考えてください。また別の機会にお話しできればと思います。

雑な文章でしたが、この文の論旨は「日本人全員が、いわゆる保守だろうが革新だろうがウヨクだろうがサヨクだろうが思想・信条にかかわらず、日の丸という国旗を掲揚して、君が代という国歌を斉唱『できる』」でした。


もし間違いがあるなら、訂正お願いします(見ている人いるかな?)。
議論は受けつけません。私はインターネットで議論はしませんので、すみません。

以上、屑の政治?発言でした。
お久しぶりです。更新は一年ぶりでしょうか。
この一年はいろいろありました。更新できないくらいには良いことも悪いこともたくさんあったように思います。

今日は全く勉強と関係ないことをつらつらと書いていこうかと思います。


ぼくは大学四年生です。
今年は就職の年!とみんなががんばっている横で僕は就職活動をしておりません。
院に行く予定です。
勉強は嫌いではないので、それで何とかやっていくつもりですが、実際どうなるのかはわかりません。

就職しなかった大きな理由の一つは、働きたくないからです。これは掘り下げてお話をしません。
もう一つの理由は、まだ「僕が知らない素晴らしいもの」が世の中に転がっているはずで、それを見つけるまでは、就職なんぞしても長続きしないのではないか?というものです。

何とも馬鹿らしいというか子供っぽいというか、そのような理由で、もう少し社会に出て働くのはヤメテおこうと思っているのです。ただそのよう「僕が知らない素晴らしいもの」が存在しないということは薄々わかっているのです。

世の中には幸せがたくさん転がっていると思います。
大好きなテレビを見る、美味しいスイーツを友達と食べに行く、恋人と一緒に過ごす、家族とどこかへ出かける、、、など。
たくさん転がっているからといって簡単に手に入るわけではありませんが、実現不可能なことではない。またその上記の各幸福の事例の数もこの社会には膨大なはずです。
そういったものが何ともかけがえのないことだと知りつつも、そんなことには見向きもせず、まだ見ぬ何かを僕は欲しがっている。

存在しないと薄々分かりながらも、日々の鬱屈した生活の中でそのような潤いを求めている自分は何とも滑稽なんだろうと、自分を考察してみると思えてきます。
でも私はそのような事実を「知らない気」でいるのです。「知らないふり」とは少し違います。知らないふりをしながら、ある事象を避け続けて生きていくのでは違って、積極的にそのことについて無知になりきって、おそらくないであろう物事に向かってぶつかっていこうとしているのです。

そんな訳のわからない生き方をして、ああバカだったと思いながら死ぬのも悪くないのではないかと思うのです。
選択のミスは人生につきものです。失敗をしに行くのです。でもそれでいいのです。