おろかなるひとりごと 熊本の弾き語り好きオヤジ「ケンジ」のブログ -4ページ目

 こんばんは。今夜も23時前に、ふと思いついて書いてます。先日からのシリーズもの?で、かつ突然で恐縮ですが、子供の頃の話をします。

 

 僕は子供の頃は人一倍苦労してきました。

 

 ウチの家系はもともと地元ではそれなりの農地を持った農家です(父方も母方も)。両親とも昭和一桁生まれ、お互いに隣の集落に住んでいたところを、祖父母の勧めて結婚したようです。(当時はそれが当たり前だったようです)ちなみに、僕の親父は肥後のイケメンです。羨ましいくらい。そして、ウチのお袋は僕の初恋の女の子にソックリです(小学校の頃の母の写真を見せてもらって驚いた)。

 

 最初は、父方の本家で過ごしていたらしいのですが、何せ金遣いが、、、父は自営業でしたが、結局は勘当同然となり、母方の伯母を頼って、隣町で僕は生まれたそうです。ちなみに父は任侠の雰囲気があり(実際はそうではなかった)、「仁義を大切にしろ」というのが口癖でした。

 

 親戚の助けもなく、母は事実上たった一人で家計を支えました。土木作業員やホテルの厨房、掃除作業員など、体力を使う仕事に従事し続けました。特に週末は母は朝5時から仕事、父は、、、どこかに行ってました。僕には兄弟がいなかったので、山奥の家(母方の叔母が住んでいた中古の農家住宅に引っ越した)にぽつんとひとりっきり。家にいる時は自然とテレビやラジオに向かいました。あるいは、学校の図書室から借りる、アルセーヌルパンの推理小説集とかが唯一の楽しみでした。でも、隣に住む先輩からは洋楽を教えてもらい、近くに住む従兄弟からはギターも触れさせてもらったので、これが僕の原体験になったのは間違いないです。

 

 こんな両親ですから、親戚からは離婚の提案もしばしばありました。でも、「子供(僕)のために」という思いゆえ、最後まで離れませんでした。(後日になって、両親の介護が大変だった。カミさんには感謝しています。)

 

 昭和50年代当時ですから、血気盛んな親父は毎晩のように焼酎を飲み、母が諌めようとすると父が反発し、、、僕自身家から出たいと思うこともありました。それでも、苦労している母を助けたい、母を楽にさせてあげたい、その思いが勝りました。

 

 僕は当時から身長はありましたが、運動神経(特に球技)はあまりなく、ルックスもそんなにパッとせず、貧しい環境の中にいたので、同級生には少し負い目を感じていました。唯一、読書に救われたので、勉強はできました。それと、小学校高学年から足が速くなり(これは父方の家系の影響)、少し自信がついてきました。そんな中で出会ったのが、結果的に初めて恋した女の子。同級生の中で、彼女だけが僕に対して偏見なく、普通に接してくれました。感謝してます。

 

 職を転々としながらも僕を守ってくれる母に報いるためにも、僕は大学を出ていい企業に就職することを、中2の頃に決意したのです。大学の進学先で揉めることがありましたが、結局地元の大学を出て、今は地元の組織で働いています。大学に合格、卒業する頃には父の奢りでお酒を飲んだり(卒業の時だけね)、母は僕の就職を喜んでました。

 

 結局両親とも10年前に他界しましたが、孫の姿を見せることができ、かつ、両親ともに最期に立ち会えて、僕なりに親孝行できたかな、と自負しています。今も、両親の遺影に毎朝お参りしています。生前は全く二人とも笑わなかったのですが、遺影は、唯一笑顔があった写真を使いました。

 

 こうした話をカミさんにしたら、カミさんは優しく声をかけてくれました。僕は間違いなく人一倍苦労しましたが、その分、優しくなれる気がします。

 

 今は、当時の経済的事情などでできなかったことを、カミさんと共に、取り戻すようにしています。そして、夢に向かって、再び歩こうと思います。

 

 超長文になりましたが、最後までお読みいただき、ありがとうございました。