Benjamin

Benjamin

わたしのあたまのなか。

≪大学受験編≫

3年前の今頃は何してたかな。

毎日せかせかした日々を送っていたんじゃなかったか。
自分で設定した勉強量をこなす日々。
次から次へと湧き上がる課題。

でも嫌じゃなかったのはそこに第三者としての私がいたからだろう。
大学受験をするときにもう一人の自分を頭の中で形成した。
なぜなら高校受験で心の余裕がなくて失敗したから。
受験をする年相応の私と毎日ヒイヒイ言って大変だね~と同情しながらも俯瞰する教頭先生みたいな私を自分の中に拵えて挑んだ大学受験。

だから少しだけ一歩引いてみられたんだと思うし、大変だった時に俯瞰する私は心の安定剤になってくれた。

2022年12月3日の手記

・つらいやりたくないむりという殴り書き
・模試の結果に落ち込む
・過去に人から言われた言葉の回想
・悔しいけど後悔はしてない
・弱音が吐きたい
・やる人はやる、やらない人はやらない、そんなことは尻目に周りは進む
・できてないことからの逃避
・だからといってやめるかと言われればそれはない。続ける。でも絶望中。


このような内容だった。

次の手記は5日。
取り乱しから回復してやり方の見直しについて書かれていた。


総じて言えるのは、当時の受験期の自分には何を言っても響かなかっただろうということである。自分で決めたことに全力で打ち込んで打ちひしがれて、でもまた立ち上がって進む様子が波動のように繰り返されてる。誰かに助けてほしいようでいて、とってもつらいようでいて、実は全く喰らってない。だから濃密な時間ではあったよな。またそこに戻るなら相当の覚悟と労力がないと戻れないくらいにはひたむきでがむしゃらに頑張っていたんだと思う。

もし私が今の受験生に声をかけるなら…
何も言葉をかけないというのが私がしうる一番の答えだと思う。

実際私は合格体験記なんてくそくらえと思っているし、受験期に読んでも何のモチベーションにもならなかった。だから、”なるようにしかならない”という気持ちでいたほうが自衛できそうな気がする。そのうえで自分が何をするのか・何がしたいのか、そんな気持ちで毎日を生きていたと思う。

合格体験記を読んでげっそりする受験生にはぜひ私の不合格体験記を届けたい。
落ちても死にゃあせん。
その時は第一志望しか正解に見えないけれど。
落ちてから正解にしていくというスタイルもありかもしれない。
どうせ人生長く生きることになってるみたいだから、それくらいはやることがないと退屈でしょう。


 人は弱い。

 私は弱い。

 ずっとチワワみたいに、強くないから吠えてるだけ。

 本当に強い人はじっとしているシェパードみたいなんだ。

 その分野においては。

 もしかしたらそのシェパードは何も考えてないだけかもしれない。

 それとも本当にそんなもの恐るるに足らずと思っているのかもしれない。

 ただ、そんなシェパードだって大好きなあのインコちゃんの前では、チワワかもしれない。

 チワワは反対にそのインコちゃんなんてみみっちいとみなして、威厳を持って振る舞えるシェパードかもしれない。

 どの側面を切り取るかによって人はチワワにもシェパードにも見える。

 大人から見る子供だって、子供から見る大人だって、ある意味ではシェパードであり、ある意味ではチワワなのである。

 私は弱い。

 自分のチワワの部分を認めてあげることができないから。

 シェパードの部分だけ自分だと思ってしまうから。そして思いたいから。

 チワワの私を見ると嫌悪してしまうから。

 本当にやさしい人というのは、自分の中のそんなチワワにまできちんと愛情を注ぐことのできる人だと思う。

 自分のチワワを愛してあげることのできた人から、きっと本当の意味で大人になれるのだろう。

 大人になるということは、他者を思うことができるということだと誰かが言っていた。

 自分の弱さを認められない人は、他者のを弱さを心の底から認めてあげることができない。

 心のどこかでそれは甘えだろう・もっと頑張れと思ってしまう。

 それは言い返せば自分にもその刃を向けてしまっている、ある種の子羊さんなのかもしれない。

 人はみんな弱いところを持っているし、持っているのは悪いことじゃない。


 、、、と言葉にすれば分かっているはずなのに実態が伴わない。

 先生、私が大人になれるのはもう少し先のようです。


 PS:何種類の生き物がいたかな。4だ。動物あんまり興味ないけど。
   久しぶりに書いていて楽しいと思った。楽しい時は筆が進む。

 

 

 

 また恋愛の話だ。

 本来なら自分の恋愛に介入されるのも、人の恋愛に介入するのも大嫌いでほっといてほしい、勝手にさせてほしいと毛嫌いする分野だが、やってみよう。

 今日の恋愛話のテーマは”彼氏ができないこと”についてである。

 がその前に。だいぶ久々にブログを整った環境で書いている気がする。

 最近の生活といえば、そろそろ期限の切れそうな自動車学校に泣く泣く強制送還されたり、就活という名の型ハメ作業に追われたり、エッセイコンテストの作品を仕上げたりと、かなり多忙な日々を送っている。

 そんな時は自分が思考することを止められているような感覚になるので文章を自由にかけている気はしない。一日の中のタスクのような気持ちで思考を動かしている。

 さて、そんな日々を送っているが、私の友人から最近毎晩のように電話がかかってくる。その内容は学校にいる好きな人がかっこいいという内容である。
「今日は〇〇さんのここがカッコよかった」とか「〇〇さん私にニコってしてくれた」という報告です。みなさま人肌恋しくなる季節なのだろう。

 ちなみに言っておくと、大学生のイロコイ事情はすごい。熱量もエネルギーも。ネットであった人に一目会うためだけに飛行機に乗ったり、脈もない人に告白できたり、居酒屋で逆なんして連れて二人で出かけたら彼女持ちで裏切られた…と悲しんだり。あとはイケメン至上主義も避けては通れないのが私の周りを見ていて感じるJDのリアルな恋愛観である。


 そんなことはさておき、彼氏のできない人は、一向に彼氏ができない。
 よくわかる、その気持ち。

 彼氏ができないときって、男の候補がいる子は別として、このまま一生独り身なのかなとか、私は誰の特別でもないんだ、と悲しくなる。

 気の強い子と言うか、自身がある子は、いない間に自分磨きしてがんばろっ♪と思えるのかもしれないが、それは今まで一人も彼氏がいなかった子のそれではない。

 一番つらいのは初彼氏ができるまでの間だ。友達のインスタから流れてくるカップルストーリー、匂わせ投稿、彼氏がいるからといって先に帰ってしまう女友達。一人になってほっとした矢先、YouTubeのおすすめに出てくる彼氏の作り方動画を見てみるも、私これに当てはまっているはずなのになぁ…と妙に腑に落ちないどこぞのインフルエンサーからのアドバイス。

 結婚や出産もこれに似たような雰囲気を感じる。

 いなくても、一人でも、今が一番幸せで心から楽しいですと言っている人が果たしてどのくらいいるのだろうか。
 
 それらを持ってる人の前でいうと負け惜しみみたいに聞こえちゃうから言わないわ。と言っているあの人も、いる人のそれではない。なぜなら、自分がそれを持っていて満足に生きている人・俗にいうリア充はそもそもそんな周りのことや自分の幸せの尺度を持っていないもので測らないからである。

 だから、まだまだ社会は”持ってる人”への理想というか幻想というか神格化みたいなものを止めようとしていないのであろう。彼氏彼女がいなくても、今はコンテンツがたくさんあってソロ活が充実してるからとは言いつつも、青春YouTubeを開けば「俺には火力が強すぎる…」といったようなコメントが散見されるのだ。

 女性は今の時代子供がいないところも多いわ。結婚だってする人も減っているし。といえども、誰かのお嫁さんになることや結婚してから子供がいることは、バツのついていない人や新卒や大学生が抱く将来の理想像として今もまだなお根強く残っている。その証拠と言っていいのかは定かではないが、結婚相談所に入会する若い人が増えているというのもしぶとい理想を追い求める若者の見える化のひとつではないか。

 まだまだ、固められた正解や理想に執着している世の中である。
 だからこそ、かなしいかな彼氏が今までにいたことない人は年齢を重ねるにつれて焦りが生じ、ハードルを自身でも挙げるという悪循環に陥ってしまっているように感じる。

 ”妄女・盲目女”は存在するかもしれないが本来「喪女」なんて存在しないはずなのである。社会という理想を追い求めるシステムが生み出した哀しきクリーチャーなのかもしれない。

 
【要編集】
令和の時代になってもまだなお人を不快にさせるベクトルが昭和すぎる老害に遭遇した件について
【要編集】

社会全体で見たら基本的に気を遣える人って損してる。運転の時、就活の時、道を歩くとき
ただ圧倒的に得をするときがある
対個人の時

 のどぼとけの奥がつっかえるような苦しくてたまらない時間。
 ふとこみあげてくるそいつのその瞬間はいつだって急に襲ってくる。
 誰が隣にいようともきっとずっとそこにいて、気分次第で顔を出してくる。
 
 
 温かな気持ちになる感情はじんわりと、そしてゆっくりと私のそれを満たしていってくれるのに、負の感情とは残酷で、いつもは様子をうかがっていざという一撃のタイミングで姿を現し私を飲み込んでしまう。

 今日、そいつが顔を出した。
 今日は死にたかった。

 死にたいと思ったこと。伝えた相手のほうが眩しくて、自分が哀れでみじめな存在に感じたこと。それでもそう思った気持ちは嘘じゃないと思ったこと。頭じゃわかっていても他人はどこまでも他人なのだということ。
 そのような事実の羅列が絶好の餌食だったのだろう。

 ここぞとばかりに独壇場にしてくる。
 私を悲劇のヒロインへと追いやる。
 衣の袖を濡らす女へと拉致する。


 じんわりと、でも確実にその色に染め上げてくるその様はまるで、私の中に一滴の墨汁を垂らしたみたい。

 ひとたび落とされたたかが墨汁が、たちまち私を奪ってくる。

 あることないことで事実への感情を増幅させてくる。


 自分の中で喉から手が出るくらいに欲しくなりそうな何かが生まれたとき。
 自分ではどうしようもないくらいの十字架を背負ったとき。
 今まで持っていたものの大切さを失ってから気づいたとき。
 そのような強い感情がうごめくその場所を、そいつは我が物顔で転がしてくる。


 まずはとっても悲しくて。悲しくて悲しくてたまらない気持ちになる。
 死にたいと思うその事実がとっても悲しいことなのかもと耳元でやつがささやく。

 そうしてとっても寂しくて。寂しくて寂しくてたまらない気持ちになる。
 飲み込まれている自分ではない他者のぬくもりが痛いくらいに恋しくなる。
 きっと大きくて絶対的な他者の存在から、少しでも自分はそいつに抗えてると思いたいのかもしれない。

 最後はとっても悔しくて。これだから女は、と自分に言い聞かせざるを得ない。
 なんてみじめで愚かで厄介な生き物なんだろうと思えてくるのである。


 そんないろんな感情が、胸の奥でうごめいている。苦しくて寂しくて悲しくてつらい気持ち。それに呼応するように瞼の窓が開けて水は滴るのである。そうして私ののどぼとけの奥がじりじりとする。声にならないその声を外に出すことで、やつではない自分の存在を保とうとしているのかもしれない。