第124代 昭和天皇 武蔵野陵 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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3年半かけて天皇陵、皇后陵を歴代順に廻りました。
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【平成30年2月7日(水)参拝】

 

貞明皇后陵から西参道、新参道を経て歴代最後の天皇陵、昭和天皇陵

 

昭和(しょうわ)天皇陵 御陵名:武蔵野陵 陵形:上円下方  所在地:東京都八王子市長房町武蔵陵墓地

 

             

                                      西参道

 

             

新参道からは2つの鳥居が見える。               まずは左の武蔵野陵へ

 

             

 

             

 

             

                                      よく見ると中にも小さな鳥居。

 

             

 

             

 

これは手水舎でしょうか? 雪で判らない…。

 

昭和天皇(しょうわてんのう、1901年〈明治34年〉4月29日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)は、日本の第124代天皇(在位: 1926年〈昭和元年〉12月25日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)。

幼少時の称号は迪宮(みちのみや)・諱は裕仁(ひろひと)。お印は若竹(わかたけ)。

1901年(明治34年)4月29日(午後10時10分)東京都港区元赤坂の青山御所(東宮御所)において明治天皇皇太子嘉仁親王(後に践祚して大正天皇)と節子妃(後に立后して貞明皇后)の第一男子(後に、第一皇男子→大正天皇第一皇男子)として誕生。

1912年(明治45年)7月30日、祖父・明治天皇崩御し、父・嘉仁親王践祚したことに伴い、皇太子となる。大正と改元された後の同年(大正元年)9月9日、皇族身位令の定めにより陸海軍少尉に任官し、近衛歩兵第1連隊附および第一艦隊附となった。翌1913年(大正2年)3月、高輪東宮御所へ移る。1914年(大正3年)3月に学習院初等科を卒業し、翌4月から東郷平八郎総裁(海軍大将)の東宮御学問所に入る。1915年(大正4年)10月、陸海軍中尉に昇任。1916年(大正5年)10月には陸海軍大尉に昇任し、同年11月3日に宮中賢所立太子礼を行い、正式に皇太子となった。

1918年(大正7年)1月、久邇宮邦彦王の第一王女・良子女王皇太子妃に内定。

1924年(大正13年)に、良子女王結婚した。翌25年12月、第一女子・照宮成子内親王が誕生。

1926年(大正15年)12月25日、父・大正天皇崩御を受け、葉山御用邸において践祚して第124代天皇となり、昭和と改元。1927年(昭和2年)2月7日に大正天皇大喪を執り行った。同年9月10日、第二皇女・久宮祐子内親王が誕生。1928年(昭和3年)3月8日、久宮祐子内親王薨去。9月14日に赤坂離宮から宮城内へ移住した。11月10日、京都御所即位の大礼を挙行。1929年(昭和4年)4月、即位後初の靖国神社親拝。9月30日、第三皇女・孝宮和子内親王が誕生した。

1931年(昭和6年)3月7日、第四皇女・順宮厚子内親王が誕生する。1933年(昭和8年)12月23日、待望の第一皇子・継宮明仁親王(現:今上天皇)が誕生し祝賀される。1935年(昭和10年)11月28日には、第二皇子・義宮正仁親王(後の常陸宮)が誕生した。

1987年(昭和62年)4月29日、天皇誕生日の祝宴・昼食会中に嘔吐症状で中座する。その後同年8月以降になると何度も吐瀉の繰り返しや、体重が減少する等体調不良が顕著に。検査の結果、十二指腸から小腸の辺りに通過障害が見られ、「腸閉塞」と判明。食物を腸へ通過させるバイパス手術を受ける必要性がある為、9月22日に歴代天皇では初めての開腹手術を受けた。病名は「慢性膵臓炎」と発表された。同年12月には公務に復帰し、回復したかに見えた。

しかし1988年(昭和63年)に入ると、体重はさらに激減。同年8月15日、全国戦没者追悼式が最後の公式行事出席となった。同年9月8日、那須御用邸から皇居に戻る最中、車内に映し出されたのが最後の公の姿となった。同年9月18日、大相撲9月場所を観戦予定だったが、高熱が続くため急遽中止に。その翌9月19日の午後10時頃、突然大量吐血により救急車が出動、緊急輸血を行う。その後も吐血・下血を繰り返し、マスコミ陣はこぞって「天皇陛下ご重体」と大きく報道され、さらに日本各地では「自粛」の動きが広がった。

十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺癌)のため長く療養していたが1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分崩御(宝算87)。神代を除く歴代の天皇で最も長寿。同日午前7時55分に宮内庁長官・藤森昭一と内閣官房長官・小渕恵三がそれぞれ会見を行い崩御を公表。

1989年(平成元年)1月31日、今上天皇明仁)が、在位中の元号から採り昭和天皇追号した。2月24日、新宿御苑において大喪の礼が行われ、武蔵野陵に埋葬された。愛用の品100点余りが、副葬品として共に納められたとされる。

【象徴天皇として】

1946年(昭和21年)1月1日の年頭詔書(いわゆる人間宣言)により、天皇の神格性や「世界ヲ支配スベキ運命」などを否定し、新日本建設への希望を述べた。2月19日、戦災地復興視察のため横浜へ行幸(1949年(昭和29年)まで全国各地を巡幸した)。11月3日、日本国憲法を公布した。1947年(昭和22年)5月3日、日本国憲法が施行され、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(第1条)と位置づけられた。6月23日、第1回国会(特別会)の開会式に出席し、勅語で初めて「わたくし」を使う。1950年(昭和25年)7月13日、第8回国会(臨時会)の開会式に出御し、従来の「勅語」から「お言葉」に改めた。1952年(昭和27年)4月28日に日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が発効し、同年5月3日に皇居外苑で行われた主権回復記念式典で天皇退位説を否定する。また同年には、伊勢神宮と神武天皇の畝傍山陵、明治天皇の伏見桃山陵にそれぞれ親拝し、日本の国家主権回復を報告した。10月16日、初めて天皇・皇后が揃って靖国神社に親拝した。

1971年(昭和46年)、皇后と共にイギリス・オランダなどヨーロッパ各国を歴訪。1975年(昭和50年)、皇后と共にアメリカ合衆国を訪問した。帰国後の10月31日には、日本記者クラブ主催で皇居「石橋の間」で史上初の正式な記者会見が行われた。

 

(参考文献: 2018年2月12日付ウィキ抜粋)

 

そしてオーラスは香淳皇后陵