第119代 光格天皇 後月輪陵 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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【平成29年11月16日(木)参拝】

 

数えたら13回目の月輪陵。(今日から後月輪陵です。)

 

光格(こうかく)天皇陵 御陵名:後月輪陵 陵形:九重塔  所在地:京都市東山区今熊野泉山町泉涌寺

                                

 

                                

 

               

 

このあと雲龍院の治定墓に行くのですが、久々に月輪陵の裏側へ…唐門の裏側も金ピカ!

               

 

光格天皇(こうかくてんのう、明和8年8月15日(1771年9月23日) - 天保11年11月18日(1840年12月11日))は、江戸時代の第119代天皇(在位:安永8年11月25日(1780年1月1日) - 文化14年3月22日(1817年5月7日))。幼名を祐宮(さちのみや)という。諱は初め師仁(もろひと)としたが、死人(しにん)に音が通じるのを忌み、践祚と同時に兼仁(ともひと)に改めた。傍系の閑院宮家から即位したためか、中世以来絶えていた朝儀の再興、朝権の回復に熱心であり、朝廷近代天皇制へ移行する下地を作ったと評価されている。実父閑院宮典仁親王と同じく歌道の達人でもあった。

閑院宮典仁親王慶光天皇)の第六皇子。母は大江磐代(鳥取藩倉吉出身の医師岩室宗賢の娘)。曽祖父に東山天皇(第113代)。前帝・後桃園天皇(第118代)の父の再従兄弟である。

践祚前の安永8年11月8日(1779年12月15日)に危篤の後桃園天皇の養子となり、儲君に治定される(実際には天皇は前月中既に崩御しており、空位を避けるために公表されていなかった)。桃園天皇後桜町天皇はまたいとこである。また、江戸幕府将軍徳川家治の御台所倫子女王は実の叔母(実父の妹)に当たる。つまり、光格天皇は家治の義理の甥でもある。

元々は、閑院宮家から聖護院に入寺し出家する予定であったが、安永8年10月29日(1779年12月6日)、後桃園天皇崩御したときに内親王しかおらず、皇子がいなかったため、世襲親王家から新帝を迎えることになった。当時、後継候補者として伏見宮貞敬親王閑院宮美仁親王と美仁親王の弟・祐宮師仁親王の3人がいたが、先帝の唯一の遺児欣子内親王を新帝の妃にするという構想から既婚の美仁親王が候補から消え、残り2人のうち近衛内前は貞敬親王を、九条尚実は師仁親王を推薦した。会議の結果、貞敬親王の方が年下で内親王とも年が近いものの、世襲親王家の中で創設が最近で、天皇と血筋が近い師仁親王が選ばれ、急遽養子として迎え入れられた。安永8年11月25日(1780年1月1日)、践祚。直前に儲君に治定されていたものの、立太子はなされなかった。なお、この時に先々帝後桜町上皇は皇嗣継承のために伏見宮と接触、近衛内前と共に貞敬親王を推薦したが、貞敬親王が皇位に就くことはなかった。安永9年12月4日(1780年12月29日)、即位

寛政6年3月7日(1794年4月6日)、欣子内親王中宮に冊立した。寛政12年1月22日(1800年2月15日)に2人の間に生まれたばかりの温仁親王を、早くも同年3月7日(3月31日)に儲君に治定するも、翌月4月4日(4月27日)に薨去。これを受け、恵仁親王(のちの仁孝天皇)を文化4年7月18日(1807年8月21日)に儲君に治定し、文化6年3月24日(1809年5月8日)に皇太子とした。

文化14年3月22日(1817年5月7日)、仁孝天皇譲位。翌々日の3月24日(5月9日)に太上天皇となる。平成29年(西暦2017年)3月時点で最後の上皇である。天保11年11月18日(1840年12月11日)、崩御。宝算69歳。

天保12年1月27日(1841年2月18日)、第58代光孝天皇以来1000年近く絶えていた漢風諡号選定(但し、崇徳安徳順徳の各天皇を除く)及び第62代村上天皇以来900年近く絶えていた天皇号(但し、安徳後醍醐両天皇を除く)を復活させ、「光格天皇」と諡された。それまでは「追号+院」という形であった。以後、仁孝天皇孝明天皇の2代 にも諡号が用いられた。

【系譜】

中宮欣子内親王(新清和院、1779-1846) - 後桃園天皇皇女

典侍葉室頼子(民部卿典侍、1773-1846) - 葉室頼熙

典侍勧修寺婧子(東京極院、1780-1843) - 勧修寺経逸

 ・第四皇子:恵仁親王(寛宮、仁孝天皇、1800-1846)

典侍高野正子(督典侍、1774-1846) - 高野保香女、園基理養女

典侍姉小路聡子(新典侍、1794-1888) - 姉小路公聡

掌侍東坊城和子(新内侍、1782-1811) - 東坊城益長

掌侍富小路明子(右衛門掌侍、?-1828) - 富小路貞直

 

(参考文献:2017年9月26日ウィキ参照)

 

光格天皇御胞塚