霊元天皇掌侍 五条庸子石塔(本能寺) | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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【平成29年11月2日(木)参拝】

 

かの有名な本能寺霊元天皇掌侍五条庸子の墓があるので行ってきました。

 

霊元天皇掌侍 五条庸子石塔  所在地:京都府京都市中京区寺町通御池通下ル下本能寺前町532

(本能寺)

 

最寄り駅は京都地下鉄「京都市役所前」ですが、自分は「出町柳」からなので京阪「三条」下車。

               

                                         総門は寺町通り側にあります。

 

               

本堂                                      織田信長公廟

 

               

 

そしてこの信長公廟の左手に五条庸子墓があります。

               

                                        真ん中のが五条庸子の石塔

 

               

 

 

五条庸子(ごじょう ようこ、1660年5月27日(万治3年4月19日) - 1683年9月25日(天和3年8月5日)は、江戸時代前期の女官である。霊元天皇掌侍正二位権大納言五条為庸の娘。母は右衛門尉南部宣行の娘。見性院宮(三宮、円満院)・一品尭延法親王(六宮周慶親王、後に天台座主)・台嶺院宮の母。五条家菅原氏であるため、菅原庸子とも表記される。

幼名屋津子。十代半ばで出仕した当初(1675年8月25日(延宝3年7月5日)以前)は新内侍と呼ばれ、菅内侍あるいは菅内侍局を経て、1677年9月3日(延宝5年8月7日)以降は少将内侍と呼ばれた。3皇子を産むが尭延法親王以外は夭逝。1683年死去。享年24。本能寺に葬られる。号宝樹院浄心。

(参考文献:2014年8月8日付ウィキ参照)