【平成29年10月26日(木)参拝】
後水尾天皇典侍 四辻与津子 一乗院墓所 所在地:奈良県奈良市山町(円照寺宮墓西隣)
後水尾帝にはたくさんの側室(後宮、典侍)がいたようで、ここ奈良の地にも側室の墓があります。
場所はJR「帯解」から更に東に入った山の中にある「円照寺宮墓」。地図上では「霊元天皇皇女墓」を拡大して初めてその右に「後水尾天皇皇女墓」(円照寺宮墓)が出てくるので、少々判りにくいかも知れません。(帯解駅から東に約2.3km)
この登り口から登っていきます。
制札の前は広場になっています。
この石段を上がります。
こちらは円照寺宮墓
で、今回目的の四辻与津子の墓はこの円照寺宮墓の西隣の一乗院墓所なので一旦ちょっと降りて左にある石段を登ります。
すぐ左手にも墓所がありますが、更に上へ
ここが、一乗院墓所(全部で15基あります。)
左から4つ目が与津子の墓で、明鏡院と刻まれています。
ちなみに先ほどのこのお堂は与津子と後水尾帝との娘、文智女王の墓だそうです。
四辻 与津子(よつつじ よつこ、生年不詳 - 寛永15年12月6日(1639年1月9日))は、江戸時代初期の女性。後水尾天皇の典侍。父は正二位権大納言四辻公遠。女房名、出仕名は御よつ御寮人、大納言典侍、また一位局。院号は明鏡院。姉に上杉景勝側室(定勝生母)桂岩院。
はじめ新上東門院に仕え綾小路と称したが、元和4年(1618年)ごろに後水尾天皇に出仕し典侍となり、賀茂宮(夭逝)、文智女王(梅宮)の1男1女を生む。
東福門院徳川和子が後水尾天皇の中宮として入内するに当たり、幕府から圧力を受けて天皇から遠ざけられ内裏より追放され(およつ御寮人事件)、程なく落飾して明鏡院と称し嵯峨に隠棲したといわれる。墓所は四辻家菩提寺の京都興聖寺および円照寺。法号は明鏡院殿一物素有無大姉。甥の上杉定勝は、志駄義繁(志駄義秀嫡男)を使者として、高野山清浄心院で追福供養を行っている。