第106代 正親町天皇 深草北陵 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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【平成29年10月9日(月)参拝】

 

いよいよ時代は戦国、織豊政権時代に入って来ました。

 

正親町(おおぎまち)天皇陵 御陵名:深草北陵 陵形:方形堂  所在地:京都市伏見区深草坊町

 

               

 

               

 

               

 

               

 

               

 

正親町天皇(おおぎまちてんのう、永正14年5月29日(1517年6月18日) - 文禄2年1月5日(1593年2月6日))は、第106代天皇(在位:弘治3年10月27日(1557年11月17日) - 天正14年11月7日(1586年12月17日))。諱は方仁(みちひと)。

後奈良天皇の第一皇子。母は、参議万里小路賢房の娘、吉徳門院藤原栄子

 

弘治3年(1557年)、後奈良天皇崩御に伴って践祚した。当時、天皇や公家達は貧窮しており、正親町天皇も戦国大名・毛利元就の献上金があるまで、3年間即位の礼を挙げられなかった。

さらに、本願寺法主・顕如も莫大な献金を行っており、天皇から門跡の称号を与えられた。これ以後、本願寺の権勢が増した。永禄8年(1565年)には、キリスト教宣教師の京都追放を命じた。

朝廷の財政は逼迫し、権威も地に落ちかけていた。永禄11年(1568年)、織田信長は、正親町天皇を保護するという大義名分により、京都を制圧した。 この上洛によって、皇室の危機的状況に変化が訪れていた。信長は、逼迫していた朝廷の財政を様々な政策や自身の援助により回復させた。一方で、天皇の権威を用い、信長の敵対勢力に対する度重なる講和の勅命を実現させた。元亀元年(1570年)の朝倉義景浅井長政との戦い、天正元年(1573年)の足利義昭との戦い、天正8年(1580年)の石山本願寺との戦いにおける講和は、いずれも正親町天皇の勅命によるものである(ただし、本願寺との和議は本願寺側からの依頼という説もある)。その間の天正2年(1574年)には、信長に蘭奢待の切り取りを許可し、天正5年(1577年)には信長の生前の極官となる右大臣を宣下した。

豊臣氏へ政権が移った後も、豊臣秀吉は御料地や黄金を献上し、正親町天皇を政権の後ろ楯とした。当時、秀吉は中国・朝鮮や東南アジアへの進出という壮大な野望を抱いていた(文禄の役)。明を征服した暁には「叡慮」を明に移し、その後の「日本帝位の儀」をはじめとした朝廷人事についても構想していたとされる。この計画は朝鮮出兵での失敗によって頓挫したものの、その後も皇室と織豊政権の相互関係は続き、結果的に皇室の権威は高まった。

天正14年(1586年)、孫の和仁(かずひと)親王(後陽成天皇)に譲位して仙洞御所に隠退した。文禄2年(1593年)1月5日に崩御した。

【系譜】

典侍藤原(万里小路)房子(清光院)(?-1580) - 万里小路秀房

 ・第一皇子:誠仁親王陽光院)(1552-1586) - 父に先立って死去

 

 (参考文献:2017年8月15日付ウィキ参照)