【平成29年6月10日(土)参拝】
十津川の南帝陵から、車で1時間20分。となりの野迫川村にも伝承陵があるので、行って来ました。
地図上ではとなり村なのですが、横断出来る道が無く、廻って廻ってやっとたどり着きました。
野迫川村弓手原主要部にナビ設定すると最後はR371から脇道に入り三叉路付近で音声案内が終わります。その三叉路を左(北)に500m程行くと、左手に突然綺麗な御陵が現れます。
長慶天皇陵 所在地:奈良県吉野郡野迫川村弓手原
宮内庁治定を思わせる立派な御陵
長 慶 天 皇 陵
長慶天皇は、後村上天皇の第一皇子で南北朝時代の第98代(南朝第3代)天皇であった。謎の多い天皇で、明治に南朝が正統とされた後も三代天皇(後醍醐=後村上=後亀山)が認定されたが、長慶天皇の在位認定はされていなかった、大正の時代になり数々の研究の結果学術的な正当性をもって在位が確認され、南朝4帝(後醍醐=後村上=長慶=後亀山)が正式に認められました。
歴代の南朝天皇が北朝との和睦を模索した中、長慶天皇は北朝に対して強硬派であったこともあり、天皇の仮住まいである行宮(あんぐう)が足利幕府の軍勢などに何度も攻撃をしかれられ、その度に逃避行を繰り返しました。弟の後亀山天皇に譲位された後も南朝に味方する武将を訪ね回り、協力を求め勢力の回復を図られたこともあり、全国各地に長慶天皇潜幸伝説が多く残されています。
又、数々の伝説が残されるとともに墓所が設けられており、その数は20ヶ所にも及ぶほどです。
数ある潜幸伝説の中に、紀伊半島説がありその中で、西吉野から新宮まで山間を抜けるルートを辿ったとされる説が伝えられています。
ここ野迫川村の弓手原(いではら)では、長慶天皇が険しい山々を歩いて下向を続ける途中、この地に辿り着いたとされその時の天皇の様子は、長旅により疲れ果て口もきけない程空腹となり、杖にしていた弓で腹を叩いて空腹を告げられたそうです。その事に由来してこの地が「弓手原(いではら)」と名付けられたとの伝説が語り継がれています。
その後、この弓手原の地で終焉を迎えられたとされ、長慶天皇陵として言い伝えられ地区の方々に祀られてきました。 野迫川村
伝承陵の中でもこれだけ立派な御陵は他に無かったかと思われます。(皇子皇女の治定墓より立派)