第87代 四條天皇 月輪陵 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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3年半かけて天皇陵、皇后陵を歴代順に廻りました。
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【平成29年4月3日(月)参拝】

 

後堀河天皇陵のあとは、第一皇子である四條天皇陵へ。

 

そして巡礼を始めて2年と8ヶ月…ようやく皇室御寺である月輪陵に到達しました。

ここ月輪陵、後月輪陵には天皇、皇后、親王等、25陵、5灰塚、9御墓あり、まさに皇室最大の陵墓です。

 

四條(しじょう)天皇陵 御陵名:月輪陵  陵形:九重塔  所在地:京都市東山区今熊野泉山町泉涌寺町 泉涌寺内

 

月輪陵は霊明殿の奥にあります。

               

 

               

                                        39名の御名前が整然と並ぶ制札

 

               

壮観!この長~い制札を早く見たかったのです。

 

               

 

               

                                        重厚感半端ない。

 

               

春の陽射しで唐門の黄金が一段と輝いています。

 

               

 

               

入口右手にある手水舎は菊の御紋

 

 

四条天皇(しじょうてんのう)は、鎌倉時代の第87代天皇(在位:貞永元年10月4日(1232年11月17日) - 仁治3年1月9日(1242年2月10日))。諱は秀仁(みつひと)。

後堀河天皇の第一皇子。母は、九条道家の娘、中宮九条(藻璧門院、は「立尊」)。

 

寛喜3年(1231年)2月12日に一条室町邸で誕生。同年4月11日に親王となり、10月28日に後堀河天皇の皇太子に立てられる。貞永元年(1232年)10月4日父天皇の譲位に伴って2歳で践祚、12月5日に即位。仁治2年(1241年)1月5日に元服し、12月13日九条彦子を納れて女御としたが、翌仁治3年(1242年)1月9日不慮の事故が原因でにわかに崩御。享年12。同月19日に四条院と追号された。12歳で崩御したため、皇子女はない。

天皇は幼少であり、初めは父である後堀河上皇が院政を敷いた。だが、2年後に上皇が崩御したため、外祖父の九条道家とその舅の西園寺公経が事実上の政務を行っていた。彗星に祟られるが、備中国宝福寺鈍菴慧聡祈祷により快癒し、同寺は勅願寺となる。崩御については、幼い天皇が近習の人や女房たちを転ばせて楽しもうと試みて御所の廊下に滑石を撒いたところ、誤って自ら転倒したことが直接の原因になったという。突然の崩御を不可思議に思う者が少なくなかったようで、巷では後鳥羽上皇の怨霊とか慈円の祟りによるものとの噂が立った。死因を脳挫傷とする憶説もある。右大臣であった九条忠家とは同年配で、騒々しいほどの遊びばかりで朝夕をともに過ごしていた。

父・後堀河天皇の兄はいずれも出家しており、自身には男兄弟がなく、皇子もいなかった四条天皇の死により、守貞親王(後高倉院)の血統から皇位継承が可能な皇子は絶えた。やむなく後鳥羽上皇の血統から次代を選ぶこととなり、九条道家ら有力公卿は順徳上皇の皇子・忠成王を推したのに対し、幕府は土御門上皇の皇子・邦仁王(後嵯峨天皇)を推し、このやりとりの末、11日間の空位期間が発生した。

なお、泉涌寺を再興した俊を天皇の前生とする説があり、その理由の一つとして、天皇が俊と同じく大根を好んで食べたということが伝えられている。

【系譜】

女御藤原(九条)彦子(宣仁門院、1227-1262) - 九条教実

 

(参考文献:2016年11月11日ウィキ抜粋)

 

あと何回この月輪陵に来ることになるのでしょうか…。

 

 

 

【6月26日雲龍院参拝時に撮影】